セクハラについて考えておきたいこと

最近セクハラ関係のニュースが多いですね。いわゆる #MeToo 案件とでも言いますか。中にはパワハラとハイブリッドになっていたり、本当はそれセクハラ案件ですか?みたいな話もあったり、時に「過去の自分がやってしまったそれ」をどう考えていますかと投げ返される人がいたり、様々です。私もいろいろ言ってきているのでやらかしてしまったことは少なからずあると思いますので、反省すべきは反省したいと思います。私自身のことはいったん置いておくとして、けっこう忘れられている気がするので原則論の再確認をしておきたいと思います。

男女雇用機会均等法第十一条では「事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。」と定められています。セクシャルマイノリティ関係も法令条例上「男女~」という名称の中で対策がカテゴライズされることも多いので、そのあたりも当然に視野に入れておくべきかと思います。

さて、この法令の「職場」とはどこかと言うと、法務省の見解としては相当広い範囲を網羅していて、事業所内はもちろん接待の場や営業車の中、取引先や顧客の自宅なども含まれます。顧客の自宅というのは一見すると奇妙な感じもしますが、確かに訪問営業や引越や建築・改装関係で顧客の自宅に行くこともあるでしょうから、そこまで含めて示されているのはおよそ「仕事している時間にいるあらゆる場」がこの法令での「職場」という理解で良いと思います。何がセクハラに該当するのかといった定義論やこの職場がどこまでかといった内容は「セクシュアルハラスメント(セクハラ)とは|主な行為と対策(労働問題弁護士ナビ)」に簡潔にまとめられています。

上記紹介の「主な行為と対策」の中にも記載がありますが、「男女問わず結婚に関しての話を聞くこと」や「性的表現を含む話、ファッションセンス、身体的特徴について話すこと」「「男のくせに」という言葉をかけること」もセクハラになるということが書かれています。つまりセクハラは概念上も法令上も運用上も本来は「男性→女性」だけでなく「女性→男性」も存在するわけです。立場の上下は関係ありませんし、実際の性別どうこうも関係ありません。定義上はそういうことになっています。

確かに「男性→女性」のパターンは過去からずっと多かったでしょうし、「男性→男性」や「女性→女性」だとセクハラよりはパワハラの方が認識されやすいなどはあるでしょう。だからこそ「#MeToo」ということになるのだと思いますが、セクハラの概念上それを行う側が必ずしも「男性」や「上司」ではないという点は踏まえておきたいところです。部下→上司、女性→男性も概念上は同じです。

私が見聞きしてきた中でも該当するだろうパターンとしては、女性→男性、男性→男性の「子ども作らないんですか?」の質問。「女性に出産に関しての話を聞くこと」は前述の労働問題弁護士ナビの記事内でも言及されていますが、本質的にこの質問は男性に投げるのも同様に立派なハラスメント行為だと思います。理由の如何はどうあれ、この質問は職場・仕事で平然と投げられています(女性に対して出産云々は皆様の抗議や認識の広がりもあり多少減ったかもしれませんが、こちらは相変わらずです)。他にも服装や仕草から「ホモっぽい」という揶揄が飛ぶこともまだまだ少なくないように思います(特に女性発信)。ほぼ侮蔑と興味本位同然の質問ですし、奇異の目で見ているわけですから、同性愛の人であってもそうでなかったとしてもハラスメント該当のはずです(ついでに揶揄と好奇でそのような問いが出ているわけですから、少数者差別にも該当しかねない問いでもあります)。

私自身まだまだ身を律していかなければならないことは多々あるわけですが、同時に「セクハラは男性がする行為」「セクハラは上司がする行為」という認識は基本原則としては間違っているわけです。せっかく「ハラスメント行為を無くしていきましょう」と動き始めたのですから、是非この点は押さえておいて欲しいと思います。

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街に詩人は必要か?/文月悠光著「臆病な詩人、街へ出る。」

 現代詩 ― ほぼ絶滅しかけているジャンルだ。街場の書店に行ってもコーナーがあるところは少ないだろうし、あるとしても谷川俊太郎その他で短歌・俳句の半分も棚が有れば良いほうだ。大型書店は別としても、街場から現代詩はほぼ淘汰されてしまっていると言っても良い。現代詩手帖は辛うじて配本されているところもまだまだあるが、どの程度捌けているのか甚だ怪しいところがある。
 
 現代詩人(not 近代詩人)として名を挙げることができる人がどれだけいるだろうか。片手ほどの数も名が挙がれば、それだけで相当な物好きの部類かもしれない。谷川俊太郎は名が出てくるかもしれないが、その次は?大岡信か吉岡実か、そのあたりはまだ1冊くらいは街場の書店にも単著が置いてある場合もあるから名前を思い出すかもしれない。あとは鮎川信夫だろうか。逝去した際に一瞬だけ平積みされたような瞬間風速であれば、茨木のり子を思い出す人も或いはいるだろう。しかし、これらの名前、30年50年といった単位で、恐らくは挙がる名前が変わってこなかったのではないだろうか。そもそも現代詩に触れる機会が極端に少ない日本で、この新陳代謝の無さはそれを象徴しているようだ。
 
 このような状況にあっても、現代詩では社会への問題提起や崇高なテーマ(と思い込んでいるだろう)、そういったものを取り上げては、やれそこにポエジーがあるだの無いだのということを延々とやっているわけだ。ポエジーという言葉を理解する必要はない。こういった議論をしている当事者でさえこの曖昧で捉えようがない概念を持て余しているように見えるし、そういう概念を弄っていることがさも「現代詩の当事者である人の使命」であったり「現代詩の理解者」であるように振る舞う作法のようなものだ。相変わらず哲学寄りのテーマも多い。
 
 敢えて言うならば、そのようなハイソ・インテリの内輪サークルのようなものは「誰」が読むのだろうか。売れない、書店にも置かれない、名前さえ覚えられることもなければ思い出すこともない、その「詩」は誰が読むのか。少なくとも「現代詩人でございます」といった自覚のある人でもなければ、まず読むどころか存在すら知られないだろう。稀に文化趣味な朝日新聞やら毎日新聞やらがエッセイやコラムを依頼してくることはあるだろうが、そんなものはほぼ翌日には名前ごと忘れ去られていくだろう。恐らくは、30年後50年後も挙がる名前は谷川俊太郎が第一だろうし、次点の名前さえ出てこない可能性さえある。100年の停滞だ。どれだけ真剣に社会問題や社会課題にアプローチし、或いは思索的哲学的テーマを扱った作品であったとしても、読み手が内輪だけであれば、さながら絶滅危惧種のように引き続き衰退し忘れ去られていくだろう。
 
 一時「ポエム」がちょっとした流行りになったことがある。「思ったことをそのまま書けば、それがポエム(詩)です」といった具合に、散文にも日記にもなれないような書き散らしたものが「それで良し」とばかりに流布した。恐らく当時にちょっとした流行りになったそれは、名前も作品もほぼ誰一人として覚えていないだろう。しかし世には出た。そして現代詩人の側はそれにどう反応したかと言えば、「ポエムは詩なのか/詩ではないだろう」といった強力な拒否反応であったように思う(一部異なる反応を示した人が居たとはいえ)。確かに「思ったことをそのまま大して考えもせずに書き付けただけ」のものが「現代詩」と同等か、同等とは言わないまでも同類と扱われることは不本意ではあったろうし、感情的な反発は理解はできる。その流行りはすぐに廃れはしたが、同時に現代詩というサークルの中での不協和音はあったものの、現代詩に対する影響はその程度でもあったろう。所詮内輪の揉め事でしかなく、「詩人だからポエムの人と一緒にしないで」と訴える名前も知らない作品も知られない人達のそれは、ほとんどの場合「そのような議論があったことでさえ」知られてもいまい。或いはあっという間に忘却の彼方だ。
 
 2000年代は文学界ではちょっとした流行りがあった。もう忘れている人も多いかもしれないが、綿矢りささん・金原ひとみさんといった「若い女性」に賞を与えるという流行りだ。作品の良し悪しは言及しないとして、過去にも近い年齢の受賞者は居たとはいえ、立て続けでしかも記録更新でもあり、新聞を始め大いに紙面や映画を賑わせた。そして消費されていった。現代詩でもこの流れに乗ったか、2010年に文月悠光さんが中原中也賞を受賞することになる。その直前に受賞している川上三映子さんや最果タヒさん、水無田気流さんといったあたりだが、文月さんはそれと比較してもさらに若い。そして同様のことが生じることになったわけだ。「最年少中原中也賞受賞の女子大生/女子高生時代でありながら活躍中」となれば、メディアにとっては手っ取り早いネタではあったろうし、当時のインタビュー記事は何本か読んだ記憶はあるが、どれもこれも取材側は作品を読んだかどうかすら怪しいようなものが多く、いかにも「消費してます」といった印象しか残らなかった。最近は文学界では芸人に賞を与えるというのがちょっとした流行りのように感じるが、作品の良し悪しは別として、いかにも「手っ取り早く売る」「賞の存在感を示すためにメディアに受ける」ことを狙っているような印象を受ける。賞を与える以上、作品としての水準は当然一定程度をクリアしているのは当然であろうから、酷い作品ということはさすがに無いだろうが、中原中也賞については文月さんの次に受賞しているのは辺見庸さんであり、しかも最初の詩集で受賞し、翌年に申し訳程度にもう一つ詩集を出して以後詩集としては途絶えている次第である。
 
 そんな「大人」の思惑に振り回された「若い」表現者は、その後とても大変だったろうと思う。最近、文月さんがこのたび「臆病な詩人、街へ出る。」を刊行した。そこに書かれている内容は、控えめに言ってもこの「大人」たちに(セクハラパワハラを含めて)弄ばれる若き表現者でしかない。しかし、それは一面的見方なのかもしれない。内容の中には読むに堪えないような酷い言葉や状況に直面してその度に自身を振り返る文月さんの姿も描かれている。それを些末な物事だと断じることは決してできないだろう。同時に、そこに描き出されている一部は、間違いなく読者である「私/私達」の意識・無意識に抱いている「常識」や「当然」が如何に人として生きることそのものを型枠のようにはめているかの象徴的事例でもあるだろう。
 
 都市ではあらゆる物事が効率化・数値化され、或は評価されレーティングされていく。それでは、その様々な比較と相対の基準は何だろうか。都市は、成長と熱の中で、しばしば「常識」や「当然」といった、些細でありながら強力な定規を持ち、「そうでないもの」を無理矢理その型にはめ込んでいくような力場を持つことがある。そのような「普通」への際限なく繰り返される日常化があるからこそ、街はその中へ非日常「空間」を演出し織り込んでいく。しかし空間だけでは、いずれ都市はそれさえも日常化の尺度へ巻き取っていくだろう。
 
 言葉を詩として身に纏うことは、私達の「普通」のコミュニケーションではないかもしれない。だとして、その「普通でない」「普通である」の間にどの程度の揺らぎや差異があるだろうか。「臆病な詩人が街へ出る」時、「街は詩人を包摂し得るのか」が問い返されよう。この詩人は、それこそ臆病にも詩壇の大御所として振る舞って誰にも届かない言葉を内輪で交換し合っているような「詩人」ではあるまい。そして、そこで生まれる違和と不協和こそ、飽くなき日常化に押しつぶされそうになる街にとって、必要なものでもあろう。その一歩はささやかなものかもしれないが、型にはまって自縄自縛に陥ることを潔しとしない詩人の一歩であればこそ、それは確かに街に刻まれる意味が浮かび上がるはずだ。私の/私たちの街/都市には、確かに詩人の言葉は必要だ。忙殺と麻痺で忘れている「普通」と「当たり前」を問い返すことができる可能性を拓くためにも。そこに言葉として置かれた可能性から問い返し得る何かを見つけられるとしたら、それを見つけるのは私であり私たちであり、街そのものが自身で掴み取るしかない。詩人は確かにそこに言葉を持っているのだから。
 

総選挙には役立たないかもしれない本10選

#総選挙に役立つ本 出版社員が火付け役

 ということで、どうもタグをサーチするとなんとも党派の主張合戦の様相も見えますので、党派・主義主張関係なく、また選挙だけでなく「政治」という領域に関心を持つ方に薦めたい本を何冊かピックアップしてみたいと思います。
 
1:世界憲法集(岩波文庫)

基本中の基本ということで、延々と版を重ねて刊行が続いている本書。「憲法改正に賛成?反対?」みたいな短絡な設問が設定されることも多い昨今ですが、そもそも日本国憲法だけを見ていても気付かない分野も多いですし、それぞれの国が何を規定して何を規定していなかったのか、それらを一冊で比較しながら読めるという点では今でもお薦めです。

 
2:人権宣言集(岩波文庫)

憲法集と合わせて一家に一冊くらいお薦めしたい、こちらも基本中の基本。法や宣言の中で「人権」というものがどのように謳われてきたのか、その成立の過程でそれぞれの時代、場所での文言を参照することができます。「新しい人権」という表現もある昨今ですが、「人権」という概念そのものは、その対象の拡張がされてきた一方で、基本原則は大きくは変わっていないので、手軽に参照できるという点ではこちらもまだまだ色あせません。
 
3:法哲学入門(講談社学術文庫)

「法」ではなく「法哲学」。西洋だけではなく、東洋も含めた「古代からの法体系の構築過程の背後に存在してきた法の精神の支柱となってきた哲学」の入門書。新規立法、法改正から法に基づいた行政運用まで、それらは本来は「いかにしてその法(法理)が構築されてきたのか」を視野に入れなければ、なかなか理解できない部分もあります。個々の法律論ではなく、「法の背景となる哲学」を理解することで、法理念の有り様や法体系へのアプローチをその根底の部分で捉えることもできるのではないでしょうか。入門書なので内容も平易でお薦めです。
 
4:法における常識(岩波文庫)

こちらも古典中の古典です。法学の入門書とも言われるほどの入門書ですが、何故法が必要とされ、その運用はどうあるべきか、という法思想の入門書。法哲学よりももう少しだけ実践寄りですが、こちらは前掲の法哲学入門と違ってイギリスにフォーカスを当てた内容となっています。コモン・ロー中心の言及であり、そこだけを考慮するとあまり日本には関係ないような印象になるかもしれませんが、判例の積み重ねと法運用の在り方を学ぶ上では十分に役立つ一冊と言えましょう。著者のヴィノグラドフは1800年代の人ですが、法と歴史を紐解くスタイルの本書は、前掲の法哲学入門と合わせて「現代に至るまで」の間に英米でどのように法運用がされてきたのかを知るだけでも、大いに参考になる一冊だと思います。
 
5:権利のための闘争(岩波文庫)

法哲学は解ったとして、さて、何故人は権利のために「闘争」という手段に訴える必要があるのか(逆説的に言えば何故法と権利の闘争が社会・国家にとって必要であり不可欠であり永続的なのか)を説いた一冊。著者のイェーリングはこちらも1800年代の人なので、やはり現代からすると随分と前の人ではあるのですが、内容は現代でも十分通用する部分があるほど、根源的且つ本質的でありながら、これも平易な一冊です。こうしてみると1800年代の著者を取り上げることが多いなぁ、私。
 
6:植木枝盛選集(岩波文庫)

あまり欧米の大家ばかりを取り上げてもね、ということで、日本の民権運動勃興期の大家の一人、植木枝盛の論文集。当時にあってはかなり急進的意見と言える内容も多いですが、当時において急進的であったということが「今では」当たり前のことだったりもするので、日本国憲法に何処までその精神が反映されているのか(あるいは反映されなかったのか)、歴史に思いを馳せながら読んでみるのも良いかもしれません。
 
7:石橋湛山評論集(岩波文庫)

戦前と戦後をブリッジする所謂日本のオールドリベラリストの一人として最重要な論客の一人、石橋湛山の評論集。この評論集や戦後に半ば美化されたような同氏の言動だけを見ると立派な論客であったことは間違いないのですが、この人を以てしても1930年代には雑誌東洋経済の巻頭文に満州国領有の妥当性を(半ば苦虫をかみ砕いたような表現とはいえ)叙述しなければならかった、戦前1930年代というものが何であったのか、非常に考えさせられます。というかそういう背景がこの評論集の「間」に挟まっているのだな、ということを念頭に置いて読むと、いろいろと見えるものがあるような気がします。
 
8:アメリカは恐怖に踊る(草思社)

一気に現代に飛んできましたが、現代において、政治の動向や世論構成にいかにマスメディアや言論が(負の面で)寄与し、半ばマッチポンプのような機能を果たしているのかを詳述したアメリカ政治分析の良書。政治家だけではなく、マスメディア、日本では識者と呼んでいるような言論の枢要にいる知識人(としておきます)が、現実を歪め、煽ることそのものを機能としてしまっているのかを批判しつつ紹介しています。著者は「ボウリング・フォー・コロンバイン」にも出演しているバリー・グラスナー氏ですが、その批判している先の識者界隈からも高い評価を受けている本書は一読の価値があるでしょう(というこれもマッチポンプかもね、と)。
 
9:ファシズムへの道(日評選書)

「戦前が」とか「軍靴が」とか「ファシズムみたい」とかカジュアルに使われるファシズムですが、第一次大戦後最も先進的と考えられていたワイマール憲法下で、いかにファシズムが形成されていったのかを解説している本は多いと思います(私の所蔵書にも何冊もあります)。その中で、敢えて一冊を取り上げるとしたら、ということで悩んでこれをご紹介。ワイマール共和制において、司法の場ではその発足の当初から共和制の根幹を破壊するような司法判例がいくつも積み重なっていく過程が実際の司法の場でのやりとりや、それを取り上げる報道の果たした役割などに焦点を当てて、具体的に叙述されています。法と社会と政治という点で、とかくその分析から漏れがちな実際の司法判例の役割を考える上で、示唆的です。最高裁判所裁判官国民審査というと、今の日本ではほぼ機能していないくらいに軽視されていますが、「本当に」ファシズムを警戒するならマスメディアと並んで司法ですよ、ということを忘れないようにしたいものです。勿論ファシズムに限らず、ですけどね。
 
10:全検証ピンクチラシ裁判―言論・表現の自由はこうして侵害された(一葉社)

ちょっと変化球ですが、「表現の自由と言いながらエロ守りたいだけだろ」という方々に是非一読頂きたい一冊でもあります。3年前にも取り上げた一冊ですが、思想・表現の自由に対して恣意的な既存法の運用を判例ベースで認めてしまい、また報道もその問題点を取り上げるのではなく、却ってそれを悪化させる方向で作用するとどのようなハレーションを生み出し得るのかを、その摘発、起訴、裁判に至るまで、ほぼ全記録としてまとめられている一冊。第一審での判決を憂慮した一大弁護団が結成される過程や、それを以てしても限界があるのだということをウンザリするほど教えてくれる一冊でもあります。そしてこの裁判の進行直後に「有害コミック一斉摘発」となり、実に(大手出版社をスルーして)零細出版社等を集中して70名以上を送検するなどが進展していったのだから、「私には関係ない」だけで終わらせたくはないところです。法を精緻にすれば漏れるものも多くなり、緩くすればこのような運用もでき得るのだという、過去の話ではなく実に1990年代の日本の実例なのだから、是非一読頂きたいところです。
 
 
 他にもいくらでもお薦めしたい本はあるのですが、ちょっと変化球を交えつつ、ざっと十冊ほど古典から現代まで拾ってみました。岩波文庫多いですね、改めて見ると。それだけ古典も含めて、確かに必要な文化の一翼なのですよね、岩波文庫。批判的に言及されることもある「岩波文化」ではなく岩波文庫。最近「文庫本「図書館貸し出し中止を」 文芸春秋社長が要請へ」といった報道もありましたが、文春文庫はどちらかといえば文藝方面の刊行が多いこともあり、一冊も入りませんでした(書きながら報道を思い出しました)。文春さんが悪いのではなく、古典分野はやはり岩波さんが抜群に分野も広く数も揃っている歴史がある、ということですかね。
 ちょっと前までは毎年「その年に読んだ本の中でセレクト10冊」というのもやっていましたが、こういうエントリーも久しぶりですね(エントリー自体が久しぶりなのですが)。それではまた。

【ネタ】東芝から政権の思惑を考える

 東芝が揺れに揺れている。
 異例とも言える監査法人の意見不表明での決算発表となった。2度の延期に加えて今回の発表であるから、東芝としては刻限もあるので出さざるを得ないという感じであろうか。しかし、ここはもう少し掘り下げた方が良いだろう。
 半導体事業の売却も示唆されているが、先日アメリカでフラッシュメモリの特許侵害疑義が指摘された直後でもあるし、それを受けて、わざわざ世耕経産相が「間に入ることはない」とステートメントを加えている点は留意点である。アメリカファーストを掲げるトランプ政権との間で無用の摩擦を生じることが無いよう、対米協調路線に変更が無いことや経済摩擦を引き起こさないよう、米政権に向けたメッセージと考えるべきだろう。
 
 ここから一つの視点として、東芝が政権の観測気球になっているという見方も出来よう。意見不表明での決算レポートは、そのレポート自体に重大な瑕疵を抱えている。客観的検証に欠くレポートだからだ。そのような根拠に欠くレポートを市場に出すということは、それだけで一つの政権のベンチマークの役割を果たしていることが解る。
 もし東芝が政権のベンチマークとしての役割を果たしているならば、このような再三に渡る延期の末に出されたレポートが何のベンチマークになっているかは、自ずと明らかだろう。つまり「根拠や客観性を欠くレポートがどの程度まで許容され得るか」という点である。上場廃止が線上にある東芝はその点で優秀なベンチマークとなる。根拠不明な話が流布している、いわゆる「森友問題」である。
 本件において、財務省は繰り返し破棄した、消去したという抗弁を行い、あろうことか「自動的に消去されて復元できないシステムになっている」とまで言いながら、昨日になって一転して「データは復元できるかもしれない」と示唆したのは、決して偶然ではない。東芝の客観性が担保されない決算レポートがどの程度市場で容認されるか次第で、「どの程度までデータ復元と称して虚実を混ぜた内容を出せるか」という点で、非常に優秀なベンチマークである。「出せない」「延期」と決算レポートを先延ばしにした挙句に何等の客観性もないレポートを出してきた東芝と、「消去した」「復元不能」と繰り返してきた財務省の『データ復旧』は、「どの程度まで信頼性に欠くレポートが許容され得るか」という点ではベンチマークである。都合の良いことにデータ復旧可能かどうかは6月というシステム更新の刻限があり、刻限になったら「ではここまで出せますので」というレポートを出せば済む話であり、その受容の度合を東芝で試しているとも言える。ここにおいて、「自動消去システム」という謎の仕様は、些末な問題である。東芝が圧力を掛けて損失を過少評価させようとしてきたことが意見不表明レポートという点で雲散霧消してより大きな上場維持問題に収斂されたように、自動データ消去システムなる謎仕様の抗弁は今や大した問題ではない。
 客観的に見れば証拠とするには著しくその妥当性が怪しい振込票や(そしてそれをやったところで贈収賄にさえならないそれや)、比較的容易に改竄可能なメールのやりとりなどを考慮すれば、「どの程度客観性が無い情報で通せるか」は政権側にとっても重要なテーマである。手仕舞いを急ぎたいとなれば猶更だ。
 
 思えば、東芝を巡って政権がベンチマークとしてきたのは今回に限らない。経産相が社外取締役の機能強化を模索し始めたのも、東芝が発端とさえ言える。改めて思い返せば、そもそも東芝の役員は原発を巡って相当にキナ臭い布陣だったではないか。
 今回の件に限らず、東芝はそれ自体、常に政権のベンチマークの観測気球として、世論の反応を探り、都合の良い「程度」を探るための役割を果たしてきたのだ。数多の国策に順応してきた企業同様、東芝もそうであるに過ぎないだろう。そして、そう見ることこそ、政権が何を測りたいのかが見えてくるだろう。そう、今この瞬間、如何に「根拠のない都合の良い情報が受容され、見過ごすかが試されているのだ。フェイクニュースなどと言ってリテラシーを試している場合ではない。最早国を挙げてそれが試されているのだから。

 本稿は以下のツイートを元に書いた、全編ネタ記事です。
作品の解釈、製作年代、各種の関連性や企業方針等、一切事実かどうかは関係なく、また曲解とあからさまな誤認、そして論旨に都合の悪い部分の一切の無視を行ったうえで、ネタとして書いております。ご了承ください。

炎上商法が焼却する果てに

 昨今、いわゆる「炎上」することが一つのマーケティングの「成功」事例になりつつある。「アンチ」が扇動することで、結果として反対する人の思惑とは裏腹に、その批判対象が「売れる」という現象である。例を挙げるまでもなく、いくらでも思い当たることは身近にあるだろう。良し悪しを別とすれば、大統領の座を射止めたトランプ氏のグッズが早々に大量に企画・販売されている現状を挙げられるかもしれない。差別/反差別界隈も同様だろう。「こんな酷い本がある」と流布されるたびにその本はAmazonのランキングを上げ、書店では入荷待ちとなることも一つならずある。
 
 直近で最大の炎上商法の事例を挙げるとするならば、間違いなく「えんとつ町のプペル」を挙げることができる。今年2017年の五本の指に入るくらいの事例かもしれない(まだ1月だが)。私はこの書籍の制作にあたって、相当数に上るだろうイラストレーター他との間でどのような契約が結ばれているか、預かり知る立場にはない。「それにしても、「クリエイターの不当労働」まで絡めてくる輩まで現れた。
いやいや、インターネット上で無料公開した方が本が売れる(結果的に売れた)んだったら、むしろ逆じゃん。クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」(声優・明坂聡美の危うさ。)もしかしたら、契約次第ではその通りなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしながら、この言葉は賛否の生じた段階での「これから、無料化できるところから無料化していって、『お金』なんて、そもそも存在しなかった時代や、地域で、おこなわれていた『恩で回す』ということをやってみます。」(お金の奴隷解放宣言。)とは相反する。前者は「売れて還元できれば問題ない」かもしれないが、後者はそんな話ではない。端的に言って開き直っているとしか感じられないだろうし、あくまで結果論でしかない。ついでに言えば、「お金の奴隷解放宣言」なるエントリーの最後の「…てなワケで俺は無料にするけど、その代わり他のクリエイターに「西野はタダにしたんだからおまえもしろ」なんて絶対言っちゃダメよ。」は「カッコイイから」という理由で後から追加された文言であるし、「「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ?
糞ダセー。……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。しかし、はたして全てのモノが『お金』を介さないといけないのでしょうか?」という文言がある種の免罪符になるのかもしれない(お金の奴隷解放宣言エントリー内)。一方で「ここを絶対に押さえておかないといけないのだけれど、『えんとつ町のプペル』は″情報は無料だけれど、物質は有料”という点。」という言及が後から追加されている(声優・明坂聡美の危うさ。エントリー内)。ここから透けて見えるのは、「モノ」と「物質」という使い分けなのだ。「情報」が如何にマネタイズされづらいか、その問題については情報媒体(紙)の衰退を見れば自明とも言える現象だが、その帰結はあまり好ましいとは言えないだろう。なにより、2,000円の絵本が買えない層はどのような層が想定し得るだろうか。一回だけの2,000円を支払うのが困難な層であると仮定した場合、そもそもオンラインを安易容易に使える層ではないのではないか?いわゆるデジタルデバイドの問題である。確かに書籍という媒体は、「全体を見て手元に置いておきたいと思えるかどうか」は極めて大きな要素ではある(実際私も少なからずそれに該当するだろう)。
 しかしながら、一方のエントリーでは「糞ダセー」とまで言い切って、片や後日のエントリーでは「結果的に売れた」ので還元できるから良いではないかとばかりに書くのである。しかも児童書としては相当に売った後で、の話だ。児童書の増刷可否は3,000部とか5,000部といた、極めて小ロットでの販売可否にかかっている中で、万の単位を大きく超えて売り切った後での話である。当初から斯様な姿勢を見せてやっていれば、さぞかし「カッコイイ」だろうが、クラウドファンドで製作費を賄って相応に売った後でのこれである。懐が何一つ痛まない状態で、エエカッコシイをやったところで、それこそ「糞ダセ―」話でしかないかもしれない。斟酌する内容としては、「クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」という文言が文字通り、関係した制作段階で関わった様々なクリエイターに還元されるような契約であれば、それは確かにそうだろうとは思う。それでも炎上商法が良いか悪いかは別の話だが。
 極めて残念なことながら、貨幣経済というものはそれとして機能をしていて、「お金がそもそも存在しなかった時代」などと言われても、とてもそこまで戻れるとは考えられない(或はボランタリーの対価としての様々な「ポイント」みたいなものはあるかもしれないが、地域貨幣含めてそれさえ「お金」の信用の根本が何処にあるかの差異でしかなく、「恩」よりは遥かに「金」に近いだろう)。
 マッチポンプの如く炎上の燃料を投下し続けている訳なので、是非関係したクリエイターにより大きな還元をして頂きたいものである。まさかそこで「売れた分だけ要求するなんて糞ダセ―」とか「そもそも売上比例配分契約になっていない」などということはないと願いたいものだ(結果クリエイターの収入が増えれば良いということであれば、そうなるだろう)。デジタルツールの進展に伴い、クリエイティブ界隈の「正当な対価要求」はなかなか通り辛いものがある。プログラマー然りである。時給換算何時間等の「作業換算清算」以上のことを求めるのはなかなか難しい時代なのだ(それこそ知名度があれば有名料で取れるだろうが、大多数はそんな知名度など無いわけで、このクリエイティブへの支払いのダンピングは上場企業だろうが平気でやってくる)。死屍累々のそれらの上に、或は「恩」で回すことで関係者が結果「得られるものが多い」こともあるのかもしれない。そうだとしても炎上商法は関心しないが、まあ得られるものが皆無よりはまだ良いだろう。
 私は糞ダセ―ことに、こういった駄文を書いても一銭にもならないし、結果として炎上商法の加担にもなるだろうが、それでも参加した各クリエイターに還元されれば駄文を書く意味もあろうというものだ。参加したクリエイター諸氏は、手元の契約書を確認して、正当な対価を受け取れるよう、必要な対応をするべきかと思う。炎上商法の果てにあるものは、恐らくクリエイター諸氏が如何にその「マーケティング」とやらで得た収益を回収できるか、でしょう。別に私がどうこう言う話でも無いのかもしれませんし、「お前がお金の奴隷だ」と言われるかもしれませんが、「不当労働」のニュースに胸を痛めているらしい西野氏には、「正当な対価の要求」がいかに不当労働の中で締める値が大きいものであるか、恐らく自覚頂いていると思いますので、その点は遠慮も配慮も必要ないかと思います。一銭にもならないお金の奴隷ながら、奴隷根性を発揮して是非そのように対応し、得るべきものを得られるよう、祈るくらしいかできませんが、お祈りしております。

 最後に。
 
 声優の明坂聡美さんへ。
 クリエイターとして、表現者として、「無料化の波に抗えない」などというそれに、異を唱えるだけの根拠も主張もあるだろうし、「自分の首を絞める」などという言葉に抗するなら、恐らくその声を支える人は一人二人ではないだろうと思います。相手は「ロボットがどんな風に人間の仕事を奪っていくかに興味があるんです。どの職業から、ロボットに奪われてなくなっていくのか。ロボットを知れば、人間が分かるんじゃないか、と思う部分があって」という理由で、株式会社サビーボの「へんてこロボット博士」に就任するような人です。「最近では「芸人を引退して絵本作家に転身する宣言」で世間を驚かせたかと思えば、なんとその翌日、絵本作家も早々に引退。今度はパインアメ(ご存じない方は検索してください)の「特命配布主任」に転身するなど、めまぐるしいペースで肩書きが変わっていることが話題です(ご本人曰く「いろんな人に怒られている」そう)。」(キングコング西野亮廣さんがロボットノートの『へんてこロボット博士』に就任!)。
 少なくとも2016年7月の段階で芸人も引退し、その翌日には絵本作家も引退したということになっている相手ですので、今回の「絵本」がどのような経緯で制作されたにしろ、名指しで斯様なことを指摘されたことに対して、いくらでも反論する権利も自由もあると思いますし、別に喧嘩しろとか戦争しろとか言いませんが、言いたいことを遠慮なく言うだけの「御指名」だったと思います。

諸外国の労働関連法制はどうなっているの?

 前回のエントリーが案外と読んで頂いているようで、まず乱筆乱文悪文申し訳なく(備忘録的に飲みながら書いたものなのでろくに推敲等しておりませんでした…)

 さて、それはそれとして、「日本の労働関連法制を遵守していたら国際競争力が」という提起もいくつかされているようなので、厚生労働省が調べた各国の法規がどのようになっているかの図表を見てみることにする。

 諸外国の労働時間制度の概要

 ここにはアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの法制の概要がまとめられている。法定時間外労働時間についての規制や上限など各国で様々な差異があるものの、日または週または特定の期間において、原則として労働時間は定められており、適用除外の職業も定められている。当然違反行為には様々な制裁や罰則が設けられており、救済の方法や内容も様々であるが、これが現実である。しかし、どの国の法制も労働時間を把握していることが前提で設計されていることは、至極当然のことである(そうしないと法定時間外の測定が不能であり、フランスのように換算労働時間制度を定めているような例もあるし、これは変形労働の場合の適用となるのだが、それでも合計での労働時間の定めはある)。
 また、アメリカのように法定時間外労働の上限や休日等の定めがない国もあるが、同国は法を破った場合の措置は日本よりも恐らく厳しいと言えるだろう。法定時間を故意に破って労働させた場合、禁固刑も有り得るし、場合によっては労働長官が労働者に代わって民訴を起こすこともでき、未払金に対しては同額の賠償金加算を定めるなど、破った場合の措置は非常に重いものとなっている。

 クリエイティブな仕事は労働時間が定められていたとしても、その中で納まる性質のものではない、というのは指摘として尤もであり、これでも広告代理店に居たこともあるし、レコード会社などに知己も居る。デザイナーの知己も少なくない。しかしながら、それであっても雇用契約は雇用契約であって、それは法の定める規定に(形式上であれ)拘束されたものでなければならず、実態上それを破る事例が多々あるのも事実である(朝礼時間は勤務時間に含めない、残業時間を故意に計上しない等)。転職系のクチコミサイトではエイベックスという会社が部署によって非常に大きな労働時間の差があり、またそもそも労働時間の把握をしていなかったか、或は故意に法を破ったと受け取られても仕方がないものが少なくない。過去にタイムカードが存在しない=労務時間を把握していない、250時間の月間残業のうち40時間しか計上されていない(裁量労働というわけでもない)、といったケースが書き込まれている。花形部署では相応に給与も高かった面もあるだろうが、少なくとも労働法制がそれなりに敷かれている国であれば、労務時間の把握が為されていない、故意に残業時間を計上しないというのは、どの国の法であってもやはり違法となるのではないだろうか。

 なお、クリエイターのような職種はこういった時間拘束ではその本意の仕事が出来ないという言い方にも一理あるのだが、ハリウッドには俳優その他の一般雇用契約とは異なる個別契約による俳優等のためにSAG-AFTRAという組織が存在し、これに加入することで制作サイドの一方的な搾取的条件や不利益条件に対しての補償や労働環境改善のための活動をしている(この団体の前身団体となるSAG自体は早くも1930年代に組織されている)。ハリウッドはクリエイティブな仕事が出来ないところなのだろうか?それともこういった団体組織がクリエイティブな仕事を阻害しているのだろうか?個人的にはそう思えない(駄作が多い等は別の話だ)。雇用・契約関係の対等にして適切な状態を構築することこそ、仕事の質と生産性を上げていく為の前提であり、その基盤となるのが労働関連法制なのだからこそ、重要な法制なのだという理解は、もっとしっかりと受け止められるべきであろう。

時代に合わない企業なんて早く潰れて欲しい

 エイベックス松浦氏が労基署の是正勧告に対して挑戦状と言うべき性質のことを公言しているようだ。

労働基準法 是正勧告とは

 少なくとも是正勧告に対する報道を見る限り、「残業代を適正に払っていない、実労働時間を管理していないなどの指摘を9日に受けた。」とのことなので、そもそもまともに労務管理を行っていたのかも怪しい限りではある。エイベックス、長時間労働で労基署が是正勧告

 松浦氏の公言している内容を読む限り「望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。」との意識はあるらしいのだが、そもそも「実労働時間を管理していない」と指摘されている状態で「長時間労働を抑制する」ような措置がどこまで取られていたのか疑問が残る。
 加えて、「労働基準監督署は昔の法律のまま、今の働き方を無視する様な取り締まりを行っていると言わざるを得ない。」とも公言しているが、そもそも「残業代を適正に払っていない」ということは、取り締まり以前にそもそも現在の法制をまともに守ってさえいないのだ。五十歩百歩譲って「36協定があってもそれへ残業上限のキャップをかけよう」とする現在の労働法制関連の改定への方向性を批判するならまだ解る。しかし、それであってもそもそも労働基準法では法定労働時間を超える範囲について割増して賃金を支払うことを規定している(労働基準法第37条)。労働時間の管理がそもそも出来ていないようであれば、同法の定める深夜業務の割増賃金の規定も守られていたかどうか怪しいところである。
 少なくとも様々な情報を勘案すると、同社が多少なり労務環境の改善に努めつつあったことは理解できる(真偽の程は社員や元社員の様々なクチコミの信頼の度合に拠るだろうが、悪化する一方だった訳ではないようだ。スタート地点がマイナス過ぎたかどうかは別であるが)。
 とはいえ、だ。

病院で働いている人は労働時間と治療とどちらを優先するべきか。美容師の人達、学校の先生、、、自分の夢を持ってその業界に好きで入った人たちは好きで働いているのに仕事を切り上げて帰らなければならないようなことになる。

 そもそも病院の特に看護業務等は過重労働が問題視されている業種の一つではあるし、美容師も薄給と過重労働が横行している業種の一つでもある(だから美容師は皆独立して自身の店を構えるか体を壊して退職を余儀なくされる事例が少なくない)。教師に至っては雑務の多さ等でそもそもその労務環境が問題視されている最たるものであるし、松浦氏が他に例示している官公庁も同様だ。中央官庁の国会会期中の対応に伴う深夜問わずの環境はそもそも問題視されざるを得ない問題でもある。

望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。ただ、好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれる。それを否定して欲しくない。

 実労働時間の管理も出来ていない状態で抑制も何も無いし、そもそも超過労働時間に対して適正な残業に伴う賃金清算をしていないことが指摘されているのだから、論外でしかない。私も経験上クリエイティブに関わる人達の、時として尊敬にさえ値する集中力や心身を消耗しつつ物凄い物事をやってしまう才能などは理解も出来るつもりではいる(実際そういう人はいるのだし、事実その通りなのだから)。しかし、そういった人に対して労務管理をしなくて良いかと言えばそんなことは無い。雇用関係とは契約であり、契約は法に則って行われるものである。尾ひれがついて悪評になっていると言うのであれば、そもそも最低限「法を守っていれば是正勧告など受けずに済んだ」のであり、その上で裁量労働等の対象について苦言なり諫言なりを呈するなら話を聞く道理もあるかもしれない。

好きで仕事をやっている人の制限をし、日本企業の海外競争力を弱める事にもつながる。

などと書いているが、至極当たり前の話として、「その国の法律を破らない」というのは当然であり、だからこそ様々な企業が真っ先にやることと言えば進出先の国の法規制や場合によっては宗教文化や慣習等の調査なのであって、それが出来ない企業は進出に失敗する(実際小売業の他国への進出は日本で通用したやり方をやろうとして失敗し、日本へ入ってこようとした小売業も同様の理由で失敗している)。

 多様性という言葉がいたくお気に入りのようだが、多様性とは無理や無茶或は少なくとも現行法上の法制を破る理由にはならないのであって、以下は論外と言う外にない。

今はとにかく矛盾だらけだ。
僕の法律知識なんて乏しいから間違っていることを書いているかもしれない。しかし、納得できないことに納得するつもりはない。
戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ。

 間違っていることを書いている以前にそもそも「違法行為」として是正勧告を受けている状態で、よくこのようなことを書けたものである。私も現行の様々な法体制や法規制に様々な疑問や問題を提起することに吝かではないが、同時に「納得できなから破って構わない」という話では済まないのが法律である。戦うべき時は相手が誰であろうと戦うのは大いに結構だろう。法律も万全十全ではないし、時代に合わないものもあるだろう。しかし、そもそもそれを私企業の、株主の胸算用で破って開き直って良いということには、当然ならないのだ。

僕らの仕事は自己実現や社会貢献みたいな目標を持って好きで働いている人が多い。だから本人は意識してなくても世の中から見ると忙しく働いている人がいるのは事実。

 自己実現や社会貢献といった言葉はしばしば「違法行為」を正当化する際に多用される言葉だ。体罰から洗脳紛いの研修まで、自己実現だの自己啓発だのという言葉で虚飾されてきた。社会貢献という言葉に至っては論外だ。企業は従業員の雇用と生活、それらを契約と法の範囲において守らなければならず、従業員は紛れも無いステークホルダーでもある。企業が社会における重要な位置付けである以上(少なくとも資本主義社会においては非常に重要であろう)、適切な契約の清算(法の下における労働契約上の履行義務)を怠っていたことについて、そういった美辞麗句を駆使して開き直る言動が許されるべきか否か。自ずと明らかだ。

会社の中にすぐ利用できる病院を作ったり、定期的にメンタルチェックをしたり、時間に限らない社員の労働環境をそれなりに考えてきたつもりだ。

 これらは何等の免罪符にならないし、メンタルチェックに至ってはそもそも法でそのように規定されていることでもあるので、胸を張る要素でさえない。ストレスチェックはそもそも従業員50人以上の企業には義務付けられたのだ(H27以降労働安全衛生法改定、施行)。法で定められた「最低限」について、考えるも何も無いのであって、たとえそれが法の義務規定に先駆けて実施したことであったとしても、それが義務になっただけのことであって、それ以上でも以下でもない。

 労基法違反の摘発は、昨今電通を始め大手企業で相次いでいる。それが見せしめ的意味合いがあることを否定は出来ないであろう。しかしながら、

是正勧告を受けたほぼ全ての企業の名前を世の中の人が知ることはないけど、ごく一部の目立つ企業だけは何故か見せしめのような報道をされること。

 に対して苦言を呈するのであれば、そもそも日本の企業の大半は名も知れない中小企業であり、恐らくほぼ間違いなくエイベックスという企業のビジネスを支える提携先や業務委託先或は様々な、それこそライブなどで販売するグッズ制作を請け負う企業やイベント時にアルバイトスタッフを手配する企業などは、名も知られず報道価値の無い企業であろう。それらの企業が仮に公表されたとして、ではそれらの状況を鑑みて「取引条件を改善します」などと言うだろうか。残念ながらそんなことは無い。現実を盾に取るなら、せいぜい株主の手前そういった企業に皺寄せした挙句に公表されたら取引を打ち切る程度で済ませるだろう。そのことに想像も推測も要しない。しかし同時に、そういった企業はそもそも何かを成し遂げたとしても、報道もされず名も知られず、目立つところは全て「名の知れた」企業が持って行くのだ。例えばエイベックスが関与するライブイベントに関与する企業の名を列挙したところで、大半は「何処それ?」という話にしかならない。報道で取り上げられるのは「何処それ?」でなくエイベックスというブランドである。そもそもメディアの使い方、その効果を最大に活かしてきたのがエイベックスという企業そのものではないか。「誤った時だけ報道されるのは不公平だ」というのであれば、そもそもその不公平さを最大に利用してきた企業の一つが他ならないエイベックスであろう。
 同社と契約関係の浜崎あゆみの動向一つが株価の上下に影響し、もっと言えば松浦氏自身がエイベックスという企業の株価の動向に大きな影響を与えてきた。名も知らない町工場が是正勧告を受けることと、どれほどの違いがあるか、身を以て知ってるはずであるし、そこを気にしたこともなければ知りもしなかったというのであれば、論外という外ない。2004年の一連の騒動を皆忘れていると思ったら甚だしい勘違いでしかない。

この状況を見ていると、今検討されている高度プロフェッショナル制度や裁量労働制の範囲拡大案が多様性にきちんと対応できて使いやすい制度になるかも甚だ心配だ。

 私も極めて心配である。このように開き直った挙句に法を守ることを意識もせず、破った挙句に自身の考えと法が合わないからという理由で「法律で決められた時間しか働けなくなる可能性があるようだ。」とそもそも「最低限」として設定されている労基法の規定を欠片も遵守する建前さえ放棄している企業が跋扈することは憂慮に値するだろう。「使いやすい制度」は「手前勝手に都合の良い制度」を意味しないことは、労働法制に限らず当然のことでしかない。

僕らのやってきた事おかまいなしに一気にブラック企業扱いだ。

 法を守る気が欠片も無く実際に守ってもいない企業がそう呼ばれることについて、ここまで開き直ることを是とするほど、社会も法も甘くはない。そもそも横紙破りをやっておいて、「やってきた事」とは何か。目に余る違法行為そのものではないか、やってきた事が。
 時代は国を挙げて、賃上げ、労働生産性向上、余暇の確保と消費である。だからこそ労使協定があっても残業の上限を設けようとしているのであって、過労死ラインの残業時間が明示され、「健康と労働」のバランスを取ろうとしているのだ。過去大目に見られてきたかもしれない脱法違法の類が摘発されたとして、それは適法化の過程であって、間違っても「法を破る企業のために法を変える」ことではない。

75%以上が何かしらの違反とみなされている状況。

 確かに憂慮に値するし実情の酷さに値する事実であろう。それは「法が時代に合っていない」のではない。そもそも「法を守ってさえいない」企業の多さに対して、である。労働基準法はあくまで「最低限」の基準である。ここまで守られていない事実は、いかに酷かった現実が横行していたかを示すことでしかない。労働安全衛生法や労働契約法然りである。「海外競争力」という理由で国内法の最低限をも遵守する気が欠片もないのであれば、そもそも海外に進出して堂々とその国の法を破り、堂々と「法がおかしい」と主張すると良いだろう。恐らく日本の労働法制よりも重い懲罰が飛んでくるであろう。残念ながら日本の労働法制は「破ったところで大して重い懲罰にならない」程度の量刑であって、営業停止処分などそうそう下りないし、その穴埋めを「社会的制裁」とやらで埋め合わせているに過ぎない。
 その点についてだけは、松浦氏に同情もする。そもそも社会的制裁やら報道量に拠らず、懲罰をもっと重くし実態に対して有効なものとすべきなのだから。そこまで法整備が進めば、「法で定める以上の社会的制裁は不当だ」という主張は首肯もしよう。

 まったく個人的見解としては、僅か10日ほど前に「真摯に受け止め、社内調査を含め是正に着手している」とステートメントを出していた関連部署は今頃大層頭を抱えた挙句に善後策の奔走に「より大きな業務負担」を背負わされているであろうことが想像できる点であろうか。広報担当は胃に穴が開くかもしれないし、コールセンターやその窓口は自身に責の無いクレームや罵倒の嵐に晒されるかもしれないし、イベントやライブ担当者は施設利用のキャンセルのリスクを勝手に負わされることになるかもしれず、株主や出資・融資元は今後の価値毀損に対しての試算をせなばならなくなるかもしれない。巻き込まれた人には同情もしよう。

 いずれにしろ、

戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ。

 この点は同感である。労働者の権利と従業員の得るべき報酬、そして現時点で有効であるところの労働関連法制の履行に奔走しているであろう労基署の職員にとって、業界と国の未来のために、戦うべき相手は自明過ぎる。