新潮45コラム雑感 -延長戦(10月号)- 後半(仮)

【警告】無闇に長い上に逐次言及であったりそうでなかったりとまとまりがないので奇特な方以外の閲覧はお勧めしません。

気が重いことこの上無いのですが、前半に引き続き後半です。

◆Part5 八幡和郎氏

「杉田水脈いじめ」は、新聞、テレビなどオールド・メディアが「ネット民主主義」に脅威を感じているからだという指摘がある。LGBT問題はきっかけに過ぎず、ネット言論のスターであるがゆえに、狙われていたというのである。たしかに、真理の一面だと思う。(10月号P.102)

 出だしからこれですかという感じで杉田議員擁護ではあるのだが、ネット言論のスターかどうかは分かりませんが、当初この問題に敏感に反応したのは新聞やテレビではなくむしろウェブ上で、だと思います。従来メディアがそれに追従したということはあるでしょうけれども。

「新潮45」誌上における杉田水脈代議士の記事は、世間のLGBT助成なんでも万歳という風潮に疑問を呈するものだったから、批判的な反論は覚悟の上だったろう。(同P.102)

 まず杉田議員のコラムが批判の対象になったのは根本的事実誤認や認識の甘さ、それによって展開されている論旨の酷さからであって、この批判への反論は妥当だとは思わないものの、批判反論覚悟の上ならば何故杉田議員は批判への再反論を行わず、斯様な特集が組まれたのか理解に苦しむところです。これだけ無茶苦茶な文章を載せられる新潮45ですから、本人にその気があれば今回の特集は良い機会だったでしょうに。

LGBTに対して侮辱的な言葉もなく、抑圧的な政策をとるように提案したわけでもなく、予算配分など政策的な優先順位を論じただけ。杉田氏自身もLGBTに偏見を持っていないと明言しているのだから、差別主義者だと批判する余地などない。少し言葉足らずで揚げ足を取られているだけだ。(同P.102)

 言葉が丁寧であれば侮辱でないということにはならないわけですが、少なくとも「偏見を持っていないと明言している」というだけで差別は無いとする免罪符は差別の問題を論じるにあたって何等の意味も価値もありません。余地がないどころかこのような雑な認識で弁護になると思っているのであれば今少し物事を学んだ方が宜しいかと思います。なお杉田議員のコラムのどこがどのように問題なのかは別稿で言及済みなのでここでは割愛します。

朝日新聞社のAERAオンラインでは、杉田議員を「幸せに縁がない」人相だという観相学の専門家の記事を載せた。さすがに、容貌をもとに人格攻撃をするのはあんまりだと思ったのか。何時間か後に記事を削除した。週刊文春は、居住地と違う地域から総選挙に出馬することになった杉田氏が、中学生の娘を学校に近い実家から通学させることにしたことをもって「育児丸投げ」と書いてつり広告の見出しにした。(同P.102~103)

 この2点については、確かに杉田議員はいわれなき批判ともいうべき状況に晒されたと言え、同情もします。この2点については書いた側に大いに問題があるでしょう。そこに続くNHKと神戸新聞の事例については私は詳細を知りませんので可否適否は保留しますが、本来問題とされた内容以外のところで批判・反論ついて、一部行き過ぎ或いは問題があったろうことは把握しています。これらを「メディア・リンチ」というべきかどうかについても留保したいと思います。また合わせて「報道」とされる番組や紙面がしばしばワイドショー同然の状態であることは事実ではあるので、今回のコラムに記載がないことではありますが、その点を憂慮されているのであれば、その憂慮自体はまっとうなものでしょう。もっともそこが自浄された結果が八幡氏の望むような状態になるとも思えないのですが。

関西では、伝統的に公務員労組が強く、市長自身が保守系であっても、なれあいで左派系の既得権益が守れているし、市民運動と連携して新しい利権が生まれてもいる。しかも、それはしばしば、半島や大陸の国とも結びついている。杉田氏は公務員としての実体験を通じて感じた義憤を原点に戦っている(同P.104)

 具体的にどのような権利に対して利権と呼び、或いは半島や大陸の国と結びついていると仰っているのか分かりませんが、杉田議員が何を背景として言論活動を行うにしろ、それは発言内容の問題性に対して留保する要素にはなりません。問題は問題であり発言は発言です。義憤だから良いというものでもなく、義憤などというものはしばしば独善的視野狭窄な心理からも生じ得るのですから、新潮45の杉田議員のコラムが義憤からであれなんであれ、内容に問題があればそれは糾弾されるだけです。

 この後、杉田議員に加えて足立康史議員と井戸まさえ元議員の三者比較が展開されているのだけれどもここではおおむね割愛。三者に対する個別の評価はそれぞれがすれば良いと思います。だがしかし、以下。

彼らの杉田批判には一理あると思うが、問題提起のスタイルは様々でよいし、生煮えでも問題提起をしたうえで反論を待つというのは、ネット社会において許容される手法ではないかと思う。(同P.106)

 この「生煮えの問題提起」が何を指すかと言えば他らない新潮45の杉田議員のコラムなわけだが、反論を待つのであれば相当程度様々な角度から反論が出ているわけで、ウェブ上の応答を以て問題提起から反論や賛同を得るということであれば、生じた反論に対して次のアクションが取られるべきかと思います。それを是とするのであれば、ですが。何故この特集に杉田議員自身は論考を寄せなかったのか、寄せられない事情があるのか(後者だと思いますが)。なお再三ですが杉田議員のコラムは「生煮えの問題提起」以前にそもそも複数の問題をそれ自体が抱えている故に大きな批判を生んでいるという点は理解された方が良いかと思います。

 この後延々と山口二郎氏他を引き合いに出して杉田議員が怖いのだろうという話が繰り返されているけれどもそこは本筋ではないので割愛。山口二郎氏はそれとして問題がある人だとは思いますが、本論には関係ありませんし、相手が仮に酷いものであってそれを指摘したからという別の問題を出して本論の問題に正当性を付与することはできません。AはA、BはBです。

 長い上に本論から外れまくっているので最後のパートまで飛ばします。

それに、これはとても大事なことだと思うが、杉田氏の問題提起は、偽リベラルともネトウヨとも違って、汚い言葉遣い、個人への人格攻撃というようなものとは無縁なのである。(同P.107)

 正直、政策論として問題提起をしたいのであれば(あれが問題提起であれば、ですが)、このあたりは当然の話であって、それが出来ていれば何を言っても免罪されるのだというわけではありません。30点は10点よりも凄いみたいな話で、当然のことですので。

◆Part6 KAZUYA氏

 これもまた短い割に頭を抱える内容ではありますが、他者コラムで重複する部分もあるのでショートカットしつつザクザクっと。

あまりにも「生産性」部分だけに注目が集まり、全体の論旨を無視してLGBT自体が「生産性がない」かのようにミスリードされ、「差別だ!」と過剰すぎるほど糾弾されていると感じます。(P.108~109)

 私も生産性という言葉だけにフォーカスがあたるのはあまり良くない傾向だとは思いますが、杉田議員のコラムにおける「生産性」は間違いなく子どもを産む/産まないという点に充てられており、またそれを以て「彼ら彼女らは子供を作らない。つまり『生産性』がないのです。」(8月号P.58~59)と記載されているのであり、全体の論旨は文字通り子どもを持つことが生産性がある状態として指し示しているのであり、この点でのミスリードはありません。ちょうど同じ新潮45の10月号、つまり今号の特集トップの藤岡氏がreproductive rightsに言及して「生産性とは人口の再生産のことでありそれを指しているのだ」というニュアンスの言及をされていますが、この点について杉田議員がコラムに書いたことはこの藤岡氏の認識に限りなく近いものでしょう。

今回の騒動で懸念するのは、当事者ではない外野が騒ぎまくって、LGBTが腫れ物扱いされることです。デモ活動なども行われましたが、LGBT当事者のためなのかと疑問なのです。例えばLGBTについて語るなら、同性婚についても議題になるでしょうが、婚姻について規定した憲法24条改正の議論に繋がるため触れなかったり、左翼的な要素を含んだ人たちがLGBTを利用している構図も見え隠れします。(P.109)

 本当に懸念されているのか分かりませんが(そうは見えませんがそう書いてあるので今回は額面通り受け取っておきます)、同性婚の問題は杉田議員のコラムとは無関係にずっと以前から様々な議論が為されており、憲法24条改正が必要だとする立場も改正せずとも立法措置で可能だとする立場もあります。私自身は最終的に改正の上、憲法上の確固たる保証を与えるべきだとは思いますが、同性婚の導入に憲法24条改正必須というのはあくまで一部の立場であり、また改正不要の立場であっても改正不要の旨として言及しているわけですから、おおむね同性婚の立法措置を巡る議論をまともに参照されていないのだと思います。良い機会ですから参照してみてください。

 なお、その後のパートではLGBT当事者であっても必ずしも特別扱いを求めていない人も多く、そうすることが却って偏見を招き得る旨の記載があり、その部分に限っては同意できる文言はありますが、杉田議員のコラムの最終行がいみじくも「「常識」や「普通であること」を見失っていく社会」(8月号P.60)と言及しているように、同性婚の容認は常識や普通を破壊する一端であるとの認識は杉田議員自身が示しているのであり、そういった認識のされ方は「普通に静かに過ごしたい」(10月号P.109)という当事者にとっても望ましい状態ではないでしょう。この「普通」の用語がどれだけ大きな認識の差異を所与に内包して用いられているのか、ごくありふれた言葉であるだけに慎重さが求められるはずです。

◆Part7 潮匡人氏

 冒頭からNHK批判全開なのだが端的に要旨だけ引用しつつまず冒頭部を整理しよう。NHKの八月三日の放送で杉田議員のコラムへの批判が取り上げられた際、いわゆる相模原事件の被疑者と根っ子は同じだとする難病患者支援団体の見解がテロップ付きで放送されたことを踏まえて以下。

主権者たる国民に選ばれ憲法上、不逮捕特権も与えられている国会議員を、わが国の犯罪史上でも稀な重大凶悪殺人犯と同視し、同根と断じたわけである。(中略)これではNHKら多数派が(杉田議員ら)少数派(マイノリティ)を差別している構図ではないか。(10月号P.111)

 なかなか凄まじいロジックなのだが、いつからNHKが多数派であったり、政治的少数派に対してマイノリティの用語を充てるようになったのだろうか、我が国。

たとえ反発や嫌悪感を覚える人が少なくない「浅はか」な言葉であろうと、表現の自由は最大限保障されなければならない。それを公共放送たるNHKがすすんで踏みにじるなど、決して許されない。NHKこそ尊重すべき多様性を自ら蹂躙している。(同P.111)

 表現の自由が何であるか根本的に誤解しているとしか思えないのだが、そもそも杉田議員はその自由を以て意思を紙面に出し、それは何ら検閲されたわけでもなんでもない。そしてNHKが報じたのはそれに対する批判であったとしても、最初に表現の自由市場に焦点となるコラムを投じたの杉田議員に他ならないわけで、この点で表現の自由は現状最大限保障されている。そこで検閲が入るようならそもそも今回の10月号のこの一連のコラム群の相当程度は世に出なかったであろうが、今のところ世に出ている。表現の自由とは批判されない自由ではないという大前提を認識されるべきかと思います。

プライム枠の1/6を費やして誹謗中傷すべき過失ではあるまい。(同P.111)

という指摘がどの程度妥当かはさておき、それほど大きな過失であったのかどうなのかを判断するのは放送側に委ねられているわけで、このパートは潮氏の個人的な見解表明としてそういう意見だと承っておくことにする。実のところこのことには潮氏は酷く拘っておられて福田恆存氏の「進歩主義の自己欺瞞」まで引用されているわけですが、そこにNHKの集金システムまで引き合いに出して批判しているわけです。NHKの集金システムとその予算の有り様に異存があるのであれば他ならない現与党(そしてそれは55年体制下でそれを堅持してきた政党が今もって他の追随を許さない第一党であるそれ)に異議を申し立てれば良いのです。

NHKを敵に回せば多数派の票を失う。そのうえ「彼等の正義感」から「反対の悪」と見なされ、「すっかり消毒し、払拭」されてしまう。げんに杉田議員がそうされたように…。(同P.112)

そうなんですか?杉田議員が現時点で政界から放逐されるとは思えませんし、その生殺与奪をNHKが握っていてそこまで絶大な影響力があるのであれば、少なくとも現在時点で杉田議員が引き続き議員の資格を維持し、政治活動に勤しんでいることの説明は到底つきそうにありませんが。強いて言えば当面多少の「表立ったウェブ上の言動を控え目にする」とか「党が一定程度保護する」といった話でしかなく、消毒、払拭とは穏やかではないですね。

彼らは容赦しない。「彼等は一人の例外もなく不寛容である」。自らの「善意」や「正義」を疑うことがない。だから平気で他人を裁く。「彼等の正義感」で「反対の悪」を断罪する。「正義」の名の下に「すっかり消毒し、払拭」する。恐るべきファシストではないか。(同P.112)

 正義の暴走、思い込みの正義、そういったものが総じてろくでもない結果を生み出すことについては私も異論は無いのですが、これNHKに対しての言葉ですので、相当程度留保したいと思います。控え目に言ってもNHKに対して過大評価でしかありませんし、少なくともNHKから杉田議員を比例で相応に優遇して処したことそのものを問題視するような見解が出たとは寡聞にして知りません。「一方的に非難し誹謗しただけ(同P.113)」と仰っていますが、プライム枠の相当程度の時間を費やすほど話題性に富み公共性が高いと判断したのであれば、当人が弁明する機会を設けようと思えばNHKであれなんであれ、喜んで(それが仮にワイドショー的な報道であったとしても)取材なり出演なりを引き受けるところはありましょう。本件については杉田議員は一方の当事者なのですから。それを掣肘しているのは決してNHKではありますまい。私はファシストだのレイシストだのという言葉を(或いはヘイトだの差別主義者だのという言葉を)安易適当に使うことには一貫してネガティブな立場ですが、論敵を批判するにあたって潮氏も同様にそのような言葉を安易適当に動員なさっている。自らが書いた言葉にもう一度向き合うべきでありましょう。
 
 この後、放送法第四条を引き合いに出しNHKのスタンスに関して異議を申し立てている。もうこのあたり杉田議員の本論とまったく関係がないので別稿にしたいくらいなのだが、この際なので言及しておくことにする。

なにが善良で、なにが公平で、なにが真実で正義なのか、それはNHKが勝手に決める。いや「自主的に」決める。けっして「政府からの干渉」は受けない。主権者が選んだ内閣なのに、無視して敵視している。NHKにとって第四条より、自身の自主性を定めた関連条文のほうが重要らしい。(同P.113)

 呆れ果てて言葉もないことなのだが、敢えて国営放送でなく公共放送という体裁を取っているのは大本営発表垂れ流しだった戦前の欺瞞と虚偽に満ちた報道支配と統制に対するアンチテーゼの一つであり、主権者が選んだ内閣はその内閣自身が発信する手段をいくらでも持っている。内閣のステートメントよりもNHKの報道のニュアンスの程度が公衆に影響し得ると仮定した場合(実はこの仮定自体はあながち間違いではない)、この提起は再び国営放送、つまるところ政府広報をメディアとして用意しろということに他ならない。少なくとも代議員選挙制民主主義国家の有権者の末端として、斯様な話を是とするわけにはいかない。NHKの番組や放送にはいくつもの過ちや誤謬はある。それだからと言って「主権者が選んだ内閣」だから無謬ということは無いのだし、そもそも杉田議員のコラムは内閣の公式ステートメントでさえない。その後の展開を見れば内閣(というよりも最大与党)そのものが多少距離を取り始めている状況にありつつあるとは言えるとは思う。そして他の諸問題含めて内閣が発表することをそのまま留保も疑念もなく報ずることのリスクさえ顕著になりつつある昨今、主権者が選んだ政府だからといって無条件に受け入れることそのものがむしろファッショの前提でもある。ファシズムについてどの程度知見があるかは想像の及ぶところではないが、ファシズムの成立要因の一つは紛れもなく公衆の支持であり、それは報道のそれが主導を握るところではない(維持については別)。市井の凡俗なれどファシズム関連の研究文献は恐らく刊行レベルでは相当程度押さえているつもりではいるので、このような安直なファシスト批判にはいくらでも批判を重ねたいところではあるが、それにしても酷い言い様だとは思う。

 その後に続く論旨展開については最早言及すること自体辟易するのだが、NHKをパリサイ人に比して自衛隊への(そもそもNHKから出ている批判でさえない)批判を引き合いに出し、そこへNHK批判をかぶせた上であたかも批判に窮している(政治的)マイノリティでございという姿勢を貫くのであれば、私はパリサイ人でなく羊飼いの理路を以て対峙することになるし、そもそも杉田議員のコラムそのものがそういう性質を帯びているのだということを共感できなくとも理解して頂きたい。聖書や福音書を引き合いに出すような敬虔な信仰などというものは持ち合わせていないのでそこはあまり引き合いに出したくはない。だから代わりに小川氏の(自称)論文というやつを引かせて貰うことにする。人類の叡智として性あるいは性行為に付随する「暗い」物事から逆説的に解放するのが婚姻制度であるならば(これは仮定であり小川氏の論に同意するわけではないが)、いったいパリサイ人と称されるべきは誰なのか。そのような祝福を、たかだか性指向の対象がそうであるというだけで社会制度的に排除し、「はいろうとする人もはいらせもしない(同P.114)」のは誰なのか。貴方達ではないか。

LGBTをめぐる議論に唯一の「正解」はあるまい。そう構えるのが正統的な保守思想であろう。(同P.114)

 この点について異論があるわけではないし、漸進改良主義と伝統改良主義こそ保守主義の根底にあるべきそれだろうと考える私のような人からすればこの一文だけ見ればむしろ賛同さえするかもしれない。そのうえで、「現代のパリサイ人」探しをするのであれば、一見「正義」の盾を講じて大衆理解の名の下にさしたる額でもない税支出に疑義を呈した杉田議員にこそ帰されるべき、この論点の根本に回帰するだろうと思う。杉田議員が多分に内輪に向けたパフォーマンスを含め、そこを勘案して尚それとして「正義」と信じて論考しただろう、論文というにも値しない程度の8月号のコラムそのものが「偽善な律法学者」とまで言われるパリサイ人でないなら何であるのか。

 人は総じて矛盾を持ち、時に自身の立ち位置により振る舞いを変え、或いはもっと即物的に当面の選挙で通るために内輪の支持者(であろう存在)を固める、その行為自体を即座に否定する理路を私は持たない。特に国政において議席の一角を占めるということの重要性、答弁その他あらゆる側面で生じる党派による傾斜について、現状がそうであることを否定する理路を持ってもいない(それが妥当かどうかは別の話だ)。少なくともその矛盾を以て少数派(=マイノリティ)という表現を用いるのであれば、現状最大にしてほぼ絶対な与党の一角を占め、比例で相応に優遇され、結果議決権の一角を占め議員に与えられる諸般の権利を保持している杉田議員とそれに異議申し立てをする市井のそれと、どちらがどのような存在であるのか。サイレントマジョリティという用語は使い古されていまや死語に入りつつあるが、同時にウェブ上の、ましてや媒体やTLといった閲読対象が一定程度コントロールし得るだろうそれが、パリサイ人でないという論拠は残念ながら(当然ながら)潮氏の理路の中には見出せない。

◆まとめというか全体の感想

 新潮45の10月号については松浦氏が唯一まだ読む価値や意味がある内容で、相当差をつけて藤岡氏の論考、それ以外は正直正視に堪えるか怪しいどころか小川氏のそれは小学生作文ですかという程度のそれで、本著の発刊に付随して新潮社という社への編集・校閲の程度の疑義はかなり深刻に、場合によっては原稿引き上げ等の動きが出ても誰も批判し得ないような、控え目に言ってもろくでもないものでしかないと思う。減り続ける販売部数に対する回答がこれであるのであれば、恐らくは今後もっと減るだろうし、そのビジネスモデルが果たして短期であれ成立し得るのか、その側面だけを考えても真剣に考慮して欲しいと思う。
 新潮社が、岩波が拾うでもない、講談社が学術文庫に入れるでもない、グレーであれ意味はあるだろう著作を相当キャッチアップして送り出してきた実績を考慮しても、仮にブランドという概念があるのであれば間違いなく新潮45のそれは「紙面を埋めるために止む無く出てきた原稿を全部出した」としても、その留保を以てしても補い得ない、論文とか論考の名に値しないものを大量に掲載してしまっている事実について、真剣に考えるべき局面に差し掛かっていると思って頂きたい。同性愛に反対、性嗜好の悉くに反対、そういったスタンスの問題ではなく、その程度の論拠すらろくにない作文をあたかもまっとうに書かれた論考であるかのように特集に組み込んでしまっていることそれ自体、相応に批判も批難もされるでしょうし、原稿引き上げなどがあっても驚かない程度には酷いですよ、今号。
 新潮の中の人がこういう垂れ流しな文章を読むとも思えないですし期待もしませんが(期待しないのは私の文章力が酷過ぎる故で新潮の人には罪はないです)、政治的立ち位置による反対論や理路整然とした排除論であればまだいくらでも検討もしたいところですが、その程度の価値がほとんどないようなものを、8月号に対するリアクションを見て取って尚やったのであれば、無能ですよ。このような特集が組まれたということはリアクションに対して相応の再リアクションが必要だろうという判断はあったのでしょうけど、その結果がこれでは、到底杉田議員の雑文にも至らない、あれがかなりマシな作文だったのだなと思える程度の代物でしかないので、立ち位置の差異以前のところでお話にならない特集でしかないです。出版他がビジネスモデルとして収益を生みづらい状況であり、買ってくれるターゲットがいれば何でも良いのだという、至ってビジネスライクな判断があったとしても、それと引き換えに失う新潮社が担ってきた硬派過ぎず軟派過ぎずのラインの教養書の類を総じて失う覚悟を持ってその判断だというのであれば、それはそういう道なのでしょう。その結果は現状の規模すらママならないどころかシュリンクして一番低いところで均衡できれば恩の字といった結果にはなるでしょうけど、その選択をしたいのであれば会社の判断ですから止めはしません。せいぜい版権整理と過去刊行物著者への信義則くらいを守った上でその道を選べば良かろうとも思います。私は残念ですが、私は株主でもないので、せいぜい嫌味と展望予測を述べる程度に留めておくことにします。

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新潮45コラム雑感 -延長戦(10月号)- 前半(仮)

【警告】無闇に長い上に逐次言及であったりそうでなかったりとまとまりがないので奇特な方以外の閲覧はお勧めしません。

 新潮45が8月号の杉田議員のコラム(「LGBT」支援の度が過ぎる)に対する批判へのレスポンスとして10月号で再び特集を組んでいる。レスポンスと書いたのは批判に対する再反論になっているのかどうかかなり怪しい部分もあり、場合によっては相当程度本題から話がズレてしまっているからである。10月号特集のタイトルは「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」となっている。あれ論文だったんだ… という印象はさておき、10月号は総勢7名体制でいろいろな話が書かれている。以下にざっと再び雑感をまとめておこうと思う。以下は新潮45掲載順に沿ったものでありそれ以上の他意はない。

◆Part1 藤岡信勝氏
 まず冒頭は8月号の要旨まとめなのでそのまとめが適切かどうかは各自判断するとして(おおむね要旨自体は8月号のママではあると思うが作為的引用による要旨である)、そこから先の展開がまず強引。
 尾辻議員のツイートを枕に置いた上で散々誤読と言及しているのだが、果たしてどちらがどのように誤読しているだろうか。

 杉田氏は、「子どもを持たない、持てない人間は『生産性』がない」などとはどこにも書いてない。常識的に考えて、杉田氏がそんなことを言うはずがない。(10月号P.78)

と述べられているのだが、8月号の杉田議員の言及は以下である。

しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。(8月号P.58)

確かに「持たない、持てない」という言葉ではない。しかし「作らない」という表現が「子どもを持たない」を含意しないと相当割り引いて好意的に解釈する必然性もどこにも存在しない。実はこの点について、続く藤岡氏の文章が示唆的ではある。藤岡氏が解釈するところの杉田議員の言いたかったことは以下となっている。

①税金という公的資金を投入するかという社会的決定の文脈の中で、②公的資金を少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性に関して判断する基準として、③LGBTの人たちについて、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と位置づけられる、というだけのことだ。(10月号P.78)

まずこの3点で展開される解釈そのものは8月号の杉田議員のコラムからは推察不能なのだ。というより②以降はほぼ作為的に8月号で書かれていた内容を瞞着している。

例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うために賛同が得られるものでしょうか。(8月号P.58)

 太字は私が付しているのだが、藤岡氏の展開する3点展開のうち杉田議員が言及しているのは①のみで、②については「例えば」として例で出された少子化対策費の大義名分論の話であり、LGBTに対する支援を公的資金の少子化対策費の枠の中での支出などという話は一切無い。つまり②でそもそも元のコラムに無い論旨展開を行うことで③を正当化しているわけだ。最初に作為的引用による要旨だと書いたが、この要旨の部分でも間違いなく論点上重要な「例えば」の用語が省かれている。このたった3文字を削除することで、8月号を振り返り参照できない/しない人にとってはあたかも「少子化対策費の枠」の中の話であるかのように印象操作できるわけだが、気付かずやっていれば(本当にそのように解釈しているのであれば)どうしようもない読み方だし、意図してやっているのであれば相当悪質と感じる。

他人の文章を正確に読み取り、正しく要約するという能力は、日本の国会議員には求められていないのだろうか。尾辻氏の誤読は、単純な国語的読解力の欠如の問題であるのかもしれない。(10月号P.79)

3点展開の直後にこの文章が続いているわけだが、元のコラムにない「少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性」といった新たな論点を挿入してしまう読解力が如何ほどのものなのか。とても同じ編集が関与している同じ刊行物で書かれているものだということ自体が怪しいレベルではある。少なくとも杉田氏のコラム前半(8月号P.57~58)において「LGBTに対する支援」の「公的資金」を「少子化対策費」の枠で行うといった言及はされていない。少子化対策はあくまで「公的資金」を投入することへ大義名分を得られる一つの例として挙げられているに過ぎないし、同時に大義名分を得られる例として挙げられているものが少子化対策であり、続く展開が「子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」という言及であったればこそ、「子どもを持たない/持てない」が「生産性」という言葉にかかる形となり、そこが批判の一つの収斂点だったわけだ。①~③と連なる藤岡氏の論旨展開は確かにその通りに杉田議員のコラムが書かれていたのであれば議論の余地は大いにあるだろうが、②を藤岡氏が勝手に挿入して別のストーリーに仕立て上げている。杉田議員のコラムは①の次が③で②は無い。

もしこれが意図的な「誤読」なら、尾辻氏は優秀なデマゴークということになる。(10月号P.79)

そっくりそのまま藤岡氏の尾辻氏批判の中で展開されている3点展開の②の挿入行為がそれなので、意図的な「誤読」なら優秀なデマゴークという言葉はそのまま自身に跳ね返ることでしょう。

続いて竹内久美子氏の産経新聞「正論」論のコラムを引いて持論が展開されている。これについては正直産経新聞の編集サイドのタイトルの付し方の問題であり、且つ竹内氏は杉田議員が言及した意味における「生産性」と相違する意味合いで使っているわけで、恐らくその点については藤岡氏も認識は同様だろうから、この点はザクっと割愛する。強いて言えば以下は異論の余地はある。

子供を作るという意味での「生産性」がLGBTの人たちにないこと自体は自明で、これに対する批判はまさかあり得ないだろうと思っていた。(10月号P.79)

 この部分については必ずしも自明ではない。ここを自明として考えることは適切さを欠くものがある。それは別の話として、竹内氏の産経新聞掲載のコラムは「子供を作る」という意味で生産性という用語を用いていない。同性愛は一定数反復して現出するという意味で用いているのであり、強いて言えば「異性愛者の子どもの中に同性愛者が生じる一定の確率が存在する」ということでしかなく、その意味において「そのようなわけで「LGBTは生産性がない」というのは生物学的に大間違いである。」と書かれているだけでしかない。竹内氏のコラムはLGBTと括られる存在が「子どもを作る」という意味での反論でも批判でもないし、藤岡氏の指摘する通り杉田議員のコラムに対応するものでもない。対応する内容でない以上、藤岡氏はわざわざ引用して言及する必要はなかったはずだが、産経新聞の編集によほど頭にきたのだろうか?「論説のタイトルは牽強付会というべきもので、論説の内容は杉田論の批判になっていない」(10月号P.80)と認識されているのだから、編集に怒ってるのかな?と思っておくことにする。

 さて、ここからまたややこしい話が展開されるのだが、P.80からはマルクス・エンゲルス選集を引き、続いて上野千鶴子氏を引き、いわゆるマルクス主義内でも生殖行為を生産と記述していたじゃないかという話が展開されている。ここのあたりについてはマルクスの考察が広汎に当時の資本主義(あるいは資本の論理)に向けられたものであり、マルクス主義フェミニズムがその影響を色濃く受けている前提を置くのであれば、用語として確かに「生産」という言葉を用いてきた(というかそう訳されて頒布してきた)わけだ。この点を批判することは多いにして良いだろうと思う。

意外に思うかもしれないが、「生殖」を「生産」に置き換える用語法は、マルクス主義に親近性がある。(10月号P.80)<1ページ以上略>以上の上野氏の例についてみたように、社会科学の理論では人間の「生産」「再生産」などの言葉が分析概念として普通に使われているのであり、杉田氏が公共的空間での議論のツールとしてカップルの「生産性」を論じても、何ら非難に値するものではない。(同P.82)

 だいぶ途中をザックリ省略してしまっているのだが、マルクス主義に親近性があることと分析概念として普通に使われていることとはだいぶ価値判断に相違があるように思うのだが、どうなのだろうか。藤岡氏は共産党を始めマルクス主義を信奉するかそれに親近を覚える人は同じように訳語から頒布した「生殖」を「生産」という用語で置くことに抗議しないのはおかしい、そこが問題ならマルクスも差別主義者だったことになる、ということも言及しているのだが、「問題ないとする立場こそマルクス主義と信奉者たちがやってきたことじゃないか」ということであれば、杉田議員もその近親値にいると捉えて良いのか(そうではないだろうが)、もはや一般に普及定着している言葉だから問題無しということを言いたいのだろうか(こちらだと思うが)。それにしてもさすがにマルクスと上野千鶴子だけ引いて社会科学の理論では普通に使われているというのはいささか例が偏り過ぎているとは思うので、追加でいくつかその系譜以外の用例を出しておいた方が良かったのでは?と要らぬお節介を感じた次第。批判するなら同じ表現は批判しようね、という話については「そうだね」と思いますので、「もはや」問題ではないなのか「批判するならそっちも批判しようぜ」なのかどちらでまとめたいのだろうか、藤岡氏。

 さて、藤岡氏のコラムもいよいよ大詰め。

杉田論を仮に英訳するとしたら、その中の「生産性」はどう訳されるべきだろうか。その訳語はproductivityではなくthe ability to reproduceとしなければならない。(中略)「人の生産」とは世代継承という意味では必ず「再生産」でもある。例えば女性の「産む権利」は英語ではreproductive rightsと言う。英語という言語が、人の生産とは再生産であるという論理を、単語のレベルで意味的に内包していることは大変興味深いことである。(10月号P.82)

 うん、残念。reproductive rights(あるいはhealth and rights)は「産む/産まない」を含む一切の身体の自己選択決定権を含む概念であるし、「産まない」を含むということは「再生産」ということを意味的レベルで前提に内包して「いない」のですよ。そしてその権利は「すべて」のカップルと個人が持つ権利として規定されているわけだ。このあたりは国連の行動計画などに記載されている定義を見れば分かる話なのだが。適切な邦訳が無いために説明を挟まないとこういう凡ミスが出るのだが、reproductive rightsは便宜的には「性と生殖に関する権利」という訳が充てられることが多く、何故そういう訳になるかと言えば「産む権利」みたいな狭い解釈で規定されている用語ではないから。つまり藤岡氏はreproductive rightsがどのように国際上規定されているかという根本のところで解釈を誤解している可能性は否めない。この点について多少留保しておく要素があるとすると、日本政府が公開している行動計画の邦訳はそのまま「リプロダクティブ・ライツ」とされていて間違っても「産む権利」とは訳していないわけで、直訳理解だと誤解の余地はあるとは思うので、ぜひ良い機会なので行動計画を参照されると良いかと思います。

なるほど、同性愛のカップルが部屋を借りることが困難だとか、病院で家族として認定されない、などのことはお気の毒で改善する必要があるだろう。ただ、それはそれ自体として技術的に解決すればよく、そのことのために婚姻制度にまで手を付けるのはスジ違いである。(10月号P.82)

このあたりがいよいよ本音といったところだが、そういった民間レベルあるいは準公共空間レベルのそれだけでなく、このたびめでたく民法改正により配偶者居住権などが新設されたわけで、法定婚姻制度はその制度の利用者にとってより一層社会的保護が手厚くなっている。この法改正は妥当なものであろう。

同性愛者などに対する差別や不利益で、社会の側で改善すべきことがあれば取り組むことは否定すべきではない。しかし問題は、それを利用して、社会の持続の根幹をなす婚姻制度に手を付け、その突破口として同性の婚姻を認めさせることを目標にする社会的勢力がすでに形成されていることである。(10月号P.82)

まさしくその不利益、つまり異性愛間では法定婚姻制度の利用有無を選択可能であるのに対して、同性愛間ではそもそも選択肢が存在しないという状態こそ、社会の側で改善すべきことの一つそのものであるわけだ。現状の法体系において二者で共有される権利のうちの強固な一つは間違いなく法定婚姻制度の利用有無を自由意思で選択できるという「社会の根幹(≠社会の持続の根幹)」にある制度であり、不利益解消を目指す動きとして制度利用を求めるのは至って当然のことでもある。気持ち「お気の毒」だけど明確に利便が設定されている制度は利用させないというのは社会的不正義であるという認識が出てきても仕方ないでしょう。

藤岡氏が言及するところの話も理解できる部分はある。

結局、この問題の最終的解決は、婚姻制度の廃止ということに行き着く。それは論理的にもそうなるし、運動の究極の目標としても婚姻制度の廃止が目指されることは必然である。(10月号P.83)

もちろんイデオロギーの立脚点や属性の立ち位置がどうあれ、「最終的解決」としてその方向を目指している人/考え方は一定数存在する。もし仮にその点を最優先で懸念するのであれば、同性法定婚の容認はそれらの運動に対しては打撃になるわけで突破口にはならないのですよ。(もちろん同性愛者も含む)そういった人たちの主張としては「同性婚を認めるのは現状の家族制度の延命を助けるだけ」という話になるわけで、まったく認識逆です。超長期的課題として現状の家族制度に代わる何事かが設計されたり、あるいは家族制度そのものが必要なくなる時代が訪れる可能性というはあるにしても、短期的には明瞭に利便が設定されている制度に同性婚を含めたところで、家族制度廃止論者にとっては唾棄すべき延命につながりこそすれ、突破口にはならないわけです。従って、仮に「婚姻制度の廃止は社会の解体と同義である(P.83)」と仮定した場合、そこに包摂する対象を拡大することは制度存続に資するものでしかなく、包摂しない対象を放置し続けることは却って制度の存続そのものへの反発を増やす可能性はあるでしょう。

結婚が保護されるのは、社会の存立の根幹をなす次世代の「生産=再生産」という重要な機能に関わっているからなのだ。(10月号P.83)

もしこの機能の点を以てこそ「結婚」が保護され得るのだという理屈を正とするのであれば、それこそ杉田議員のコラムで散々蒸し返された「子どもいない(現に家族である存在を含む)存在は保護に値しないのか?」という批判がダイレクトに却ってくるわけですが、大丈夫ですか?その考え方、少なくともreproductive rightsの規定とはだいぶ離れているとは思いますが。

◆Part2 小川榮太郎氏

 Part1が無茶苦茶長くなったのだが、実は一番酷いのはたぶんこれ。まず何故嗜好と指向がグラデーションはあれども一定程度セパレートして議論されているのかについて一切の理解も知識も認識もない。そういう状態だから、全編「性的嗜好」の用語で統一されている。よく載せたな、新潮(褒めてない)。小川氏にとっては指向のカムアウトは性行為を公道で晒けるのと等価らしい。物凄い理解の仕方だ。全部まとめて「嗜好」という雑認識なので、そりゃ公道目の前でいきなりSMプレイとか始められたら引くだろ。というかそんなことして行為に及べば即警察のご厄介になること間違いないわけだが、その程度の暴論ですね(10月号P.84全般)。黙ってろ、言うな、喋るな、以上。これが「書くべきことは、本当は以上で尽きる(P.85)」らしいのだが、よく没原稿にしなかったなこれ…

LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい。(10月号P.86)

いや、本当よく載せましたね、新潮… この後はもっと酷いんですけど…

性の不一致が心的事実として一定の確率で存在する事を私は否定しない。だが、それを言うなら、時代との不一致、社会体制との不一致、会社との不一致、家族との不一致も、人生の致命傷となり得る。(10月号P.86)<中略>性概念が個々人の中で揺らぐものだからこそ、Tという概念規定で性意識を縛ることは人性への冒涜と言うべきなのだ。こんなものは医学的、科学的な概念でもなく、ましてや国家や政治が反応すべき主題などではない。文学的な、つまり個人的、人生的な主題である。(P.87)

いやいや、本当よく載せましたね、新潮… 
挙句に痴漢再犯者の習性からくる困苦を引き合いに出して「触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというのか。(P.88)」と書いた後に続くのがこれ。

それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。(P.88)

よく知りもしないし知るつもりもないのに巨額の賠償請求をしたくなるくらい精神的苦痛を受けるって一体どの論壇のどんな光景なのか、想像力が試されますね。真面目に仕事して良い本を作っている新潮の中の方に「新潮だから」で延焼しないことを祈りたいところです。いやいや、よく載せましたね…

結婚の仕組みは、暴力と隠匿に付き纏われる性という暗い欲望を、逆に社会の最も明るい祝福の灯のもとに照らし出し、秩序化による安定と幸福の基盤となす、人類の生み出した最も偉大な逆説的叡智である。「結婚」は、性の対象同士が、「夫婦」という単位の諸々の「権利」を受ける現代国家の人権保障システムでは、根本的にないのである。それは「人権」ではなく、伝統社会が共通して生み出した「叡智」である。(10月号P.88)

凄いですね。近代法制における法定婚姻制度全否定。法的保護要らなくないですか、これ。そしてここまで法的規定の価値を希釈しておいて、同性婚については以下である。

これは全く論外であり、私は頭ごなしに全面否定しておく。(10月号P.88)

よく知らない物事(LGBT他)によくここまで片っ端から否定できるものだと言うべきなのか、それとも知らないから言いたい放題言えると言うべきなのか。

政治は個人の「生きづらさ」「直面する困難」という名の「主観」を救えない。いや、救ってはならないのである。個人の生―性―の暗がりを、私たちはあくまで個人として引き受けねばならない。(P.89)

誰もセックスに介入してくれとか言ってないと思うんですけどね。どうもこの人の思考回路は諸個人の性行為と性嗜好と性という要素に対する認識が酷いのでこういう結論になるのでしょうけど。

性に関する自意識など、所詮全て後ろめたいものではないか。古来秘め事という。性行為に関する後ろめたさと快楽の強烈さは比例する。同性愛の禁断、その怪しさは、快楽の源泉でもあるだろう。(10月号P.87)

いやいや、よく載せましたね、新潮。
そしてこんな無茶苦茶な話を延々と連ねた次が松浦大悟氏なわけですが、完全に嫌がらせでしょ…

◆Part3 松浦大悟氏

 一番安心して読める唯一のコラムと言うべきか。この一連のコラム群の中では異彩ではあるのですが。
認識や考え方には相違する部分はあれど、とにかく「まだ十分読むに堪える」だけのコラムがあるとしたら松浦氏のこれだけですね。
 LGBTへの税金投入はほとんど予算が割かれておらず、またLGBTツーリズムといったものに復興予算が流用されていることへの疑義も当然ですし、杉田議員も税投入批判するならそちらでは?という点についてはまったくもってごもっとも。
 ILGAがNAMBLAをパージしたことに対する批判についても頷ける点はあり、政治的戦略論の話としてではなく原則論の話としてはその批判も妥当なところでしょう。「人権の線引きは、常に恣意的であり政治的(P.91)」であるわけなので、戦略戦術論としてはそういった方針はしばしばマジョリティ側の要請として、あるいは分断として、どこまでを許容すべきかという線引きのリスクに晒されながら進めざるを得ないのは悩ましい問題ではあります。
 いわゆる高齢層(性的少数者の存在がおおむね不可視とされていた時代)の常識との認知不協和についてはそこの手当こそ政治の仕事だろうとは思いますので、正直そこまで当事者側が負うのは(優先の問題として)難しいだろうとは思いますが、杉田議員のコラムの背景にそこまでのものが透けて見えたかといえば、その点については個人的にはネガティブであり、この部分は松浦氏との相違点になります。

 いわゆる杉田議員辞めろデモについては、その適否は当事者の中にももちろんあるでしょうし、その一部は松浦氏の言及する通りのところではあるとも思います。また、LGBT=リベラルという虚像(幻想?)は必ずしもマスコミが作り上げたとは言い難いようには思いますが、一般にそのように誤解されているだろう認識のズレについては松浦氏の指摘のような状況はあり、LGBT(その他)であったとしても必ずリベラル或は左派になるとは限りません(というかリベラル左派という表現はかなり語義矛盾なところもある気がしますが)。ただ「むしろ多くのLGBTは保守です(P.92)」と言い切ってしまうのもいささか微妙な気はします。課題、問題への関心度や位相、立ち位置によって保守的であったり革新的であったり、或はその「保守」もまた広く認識されているような保守とは相違することもある気がしますので、このあたりはLGBTだからといって一つの党派であったり当事者だからといって一致団結異論無しなんてことはない、程度のニュアンスにしておくべきだったようには思います。

 いわゆるLGBT法案とされる与野党案の差異や米国の事例については、この一連のコラムの中で本当に文字通り唯一、ちゃんと読んでおいて損は無いだろう部分なので、引用は差し控えます。そこくらいは実際の文章に目を通して欲しいところです。具体的にはP.93~96に渡るパートで、異論もあるとは思いますが、一つの参考にはなるはずです。関心がある人/ない人いずれであっても。

 松浦氏のパートの最後の部分(P.96)は松浦氏の今までの経緯と政治スタンス表明といって差し支えないように思いますが、小川氏の物凄く酷い内容の後に松浦氏が配されたことが良かったのか、それとも松浦氏のこれを読んだ後に小川氏のコラムを読んだらより一層壊滅的印象になるから敢えてこういう配置になったのか。小川氏のコラムを通してしまう編集なのであまり考えていないかもしれませんが。

◆Part4 かずと氏

 ほぼ全編尾辻かな子議員への批判なのであまり付言する必要も無い内容ですね。尾辻議員は以前から当事者間でも毀誉褒貶ある人なので、その点ではこういう話を拾おうと思えば拾えると思います。
 個人としては諸問題がかずと氏の言うように大した問題ではなく、些末な問題ばかりだとは思いませんが、LGBに対して支援がまったく不要なのかと言えばそこに関してはネガティブですね。啓発等は引き続き必要でしょうし、教育課程における教材の整備や教育内容の見直しにはそれほど大金は必要としないにしても公的資金は必要になるでしょうし。それが尾辻氏が関連する団体に流れるかどうかは別問題ですし、魑魅魍魎な諸団体の中でこの種の運動を「ビジネス」としてやっているところがあるのはそれとして事実でしょうが、LGBだからといってビジネスに地道を上げるというケースばかりではないとも思います(尾辻氏がそのどちらに見えているかは人によって違うでしょう)。
 杉田議員のコラムについてはほとんど言及が無いので(強いて言えばLGBは支援不要でしょという論点への賛同くらいなので)、そこについての雑感は簡単ではありますが上記に書いた通りです。
 なお、尾辻議員が必ずしも杉田議員について直接リプライが飛んできてもまともに回答していない(とされる)件についてはそこまでトラッキングしていないので、そうであれば尾辻議員はしっかり回答すべきでしょう。その杉田議員からのリプライ自体「税金を投入する人=福祉を活用する人=社会的弱者です。」といった内容のようなので、いくらでも返信のしようはあるとは思いますので。公的に整備されている福祉を活用するのは社会的弱者とイコールでは結ばれない、追加で支援が必要な存在と万人に開かれている福祉とが存在するので杉田議員のリプライ自体が酷く雑、というツッコミどころ満載なそれに回答しない理由は何なのでしょうかね。せっかく杉田議員から直接リプライ来たのに。という部分に関しては、そういう状況で放置されていたのであれば、私も同様の感想は抱くでしょう。それは杉田議員のコラムが適切かどうかに関わらず、少なくともその部分に関しての認識そのものが誤っているわけなので、議員同士そのくらいは指摘してあげても良かったでしょうに。

雑感だからとだらだら書いてしまいましたが、まだこれ半分です…
残り後半は明日以降書きます(たぶん)
後半も後半で結構重量級なので、力尽きなければですが…

「名前のない生きづらさ」から考える言葉と輪郭

 8月末で1冊の書が断裁される予定となっているようなのだが、断裁してしまうには惜しい内容でもあり、紹介しておこうと思う。最初に断っておくと本稿はいわゆる書評としての体裁は取らないのでその点は了解頂きたい。また、付随していくつか追加して触れておきたいこともあるので、前半/後半に分けて書くことにする。断裁予定の書については前半だけ読んで頂ければと思う。

 

==前半「名前がある/名前のない」ということ==

 

「名前のない生きづらさ」野田彩花・山下耕平著/子どもの風出版会/2017

 

 書名の通り、「生きづらさ」というテーマを取り上げつつ、そこへの「名づけ」への疑問を呈してもいる。「不登校」「ひきこもり」「ニート」なんでも良いのだが、「生きづらい」と感じている当事者性に対しての外部ネーミング及びそこに付随する「まなざし」そのものへの適切さの問題提起の書でもある。〇〇という用語で括られることで対象の輪郭が浮かび上がると同時に、その用語の設定から「ズレ」てしまう(あるいは削ぎ落されてしまう)問題も生起する。その問題を「名前のない」(≒用語規定に納まらない、不一致でも一致でもないグラデーション)として取り上げている。しかし、この問題提起はそもそも「生きづらさ」を感じている人に留まらないだろうことは想像に難く無く、実際本書もそこを射程にしながら二人の著者によって言及されている。

 

 名前・用語を付す、カテゴライズするという行為は必然その対象を一定の枠として捉える輪郭を(どれだけ曖昧であろうと)設定することであり、輪郭が設けられるということは必ずしもそこに「ハマらない」人/事象が新たに周縁化されることでもある。これを切り捨ててしまえば排除/拒絶ということにも繋がるだろう。そして同時にその行為自体をまったく行わないという選択は酷く困難でもある。確かに本書ではそのあたりは野田氏が「名状しがたきもの」として言及しているところでもあるグレーゾーン、ボーダーゾーンの領域をどう扱うのかということにも繋がる(そのように表現される感情/感覚/感性その他であって間違っても「ハスター」とかではない)。

 

 このことは何も「(社会的に)なんらかの困難を抱えている人」に限った話でもなく、その点も野田氏がいわゆる「肩書/名刺」の話として冒頭で触れている点にも接続するだろう。この問題は人が人を認識する際にどれだけわかりやすくイメージできる用語あるいは認識を求めているかの問題でもあり、現代社会が地位、出身、属性、所属など様々な肩書/名乗りによって関係性を構築しているかを考えればわかるだろう。本書が扱っているテーマは「生きづらさ」ではあるのだが、同時に「名前のない」問題は「名前がある」問題と表裏である以上、現代社会の抱えている問題の一側面そのものでもある。そのあたりは本書後半で同じく著者の山下氏が言及している「流動化する社会」とその社会において新たに規定されていく用語あるいは時代により輪郭が移ろいゆく用語の問題として具体例を挙げて言及している。

 

 多くの情報と価値観が溢れ、これといったわかりやすいレールとしてのロールモデルが消滅してしまっている現代において、この問題から逃れ得る人がいるかどうかは怪しいが、この問題に「正解」は恐らく無いのであろうし、本書も必ずしも「これが正解だ」という話をしているわけではない(むしろそう言い切ることを積極的に拒否する傾向がある)。名前・用語がわかりやすいラベルとして機能する一方、それを引き受けることで特定の輪郭あるいは枠に外部からはめこまれてしまう問題は、リスクではなく実際にほぼ例外なく機能してしまっている言語と認識の関係上の問題に収斂するだろう。だからこそ積極的、消極的を問わず「敢えてその言葉を引き受けない/引き受ける」という姿勢が問われもするし、それはどちらも恐らくは塩梅の問題でもあるのではないだろうか。

 

 「生きづらさ」とそれが必ずしも何等かの特定の用語や概念に規定「されない」ものであるという現実を解きほぐす中で浮かび上がるのは、その問題が「生きづらさ」だけでなく根源的に「現代社会そのものに内在している問題ではないか」というもう一つの提起であり、本書はその点において生きづらさを感じていない人(自覚がない人)であっても読む価値があるだろう。

 

=後半「言葉と輪郭を巡るボーダー」=

 

 さて、「どの言葉も少しずつ自分とは違う」場合に、「そのどれも引き受けない」ことと「ズレを承知でどれも引き受けていく」ことは本質的には同じことだと、個人的には思う。そしてどちらであれ(あるいはそのどちらか/両方かを無自覚であってさえ)葛藤は付きまとう。様態に対して様々な用語を開発していくことは英知でもあり同時に細分化していくことで「またズレた言葉が生まれた」状態が生じることは不可避でさえある。このあたりはいささか違う文脈の別著の言及であるが、「フレーム憑き」(斎藤環著/青土社/2004)で「言葉の多義性、曖昧性、間接性などは、いっけんコミュニケーションを豊かにするかに見えて、その実われわれの意思疎通から確実さを奪ってしまう」(P.79)という言語と関係性における根源的問題そのものでもある。

 

 例えば、LGBTという用語まではある程度曖昧であっても理解できるかもしれないがLGBTTQQIAAPまで行くともはや何を規定している用語なのか理解不能な領域に達してしまっているのではないかという例を挙げることもできるだろう(同時にここまで細分化してもまだ「そこでもない」存在があり、その存在のためにさらなる別の用語も生まれている)。わかりやすい輪郭を設定するということは必ずその輪郭に納まらない部分を切断するかあるいは無理やりその輪郭にはめていくかという行為が付随してしまう。

 

 言葉による規定の問題とそれでも言葉が持つ決定的意味合いが「ズレ」を抱える個人そのものにとって相当程度不可分であり、それはプラスとマイナスのどちらの要素も持ち得る。「<ほんもの>という倫理」(チャールズ・テイラー著/田中智彦訳/産業図書/2004)で言及されているように「アイデンティティを定義できるようになるのは、人間のもつ表現力豊かな言語を身につけることによって」(P.45)であり、同時にこのようにして近代化と平行して「ほんもの」と「アイデンティティ」を巡る展開の中で生まれていった様々な名前/用語は紛れもなく、より適切に表せるように新たな用語を生み出してきたことに他ならない。同著で展開されている文脈とは異なる文脈で強引に引用することを承知で重ねあわせると、同著後半で触れられている「断片化」の問題はこの流れと不可分に生起してきたとも言えると思える。同著で言及されている「断片化と無力〔感〕とを克服することが必要になる」(P.163)状況は、そのまま「名前のない生きづらさ」における問題提起(あるいは可能性)とも密接で表裏だと思える。

 

 言葉が持つ輪郭は相当程度強力なもので、特にそれが個人を指し示す用語であればなおさらである。「臆病な詩人、街へ出る」(文月悠光著/立東社/2018)でも著者の様々なズレの話が展開されているが、その中でも他者が投影する言葉が作用する極端な例が「私は詩人じゃなかったら「娼婦」になっていたのか?」(P.97~)のコラムである。とある大学の講義に招聘された著者に対して、講義の教授がその紹介のはじめから就職という方向とは違う生き方を選んだことに「その道からあえて外れた『異端者』が存在する」(P.102)と言い、「詩人と娼婦は似た部分があると思うんだ。ふづきさんも詩を書いていなかったら、風俗嬢になっていたんじゃないか。」(P.104)とまで言い放たれるシーンが描かれている。本コラムでは「乱暴な質問で答え合わせする人々」と題して言及されている。他者が投影する言葉が人の輪郭をどのように規定するかを象徴するエピソードであるが、この発言をした教授の中では就職して社会に出る(あるいは一般に社会的に地位が高いとされる職につく、まさしく「教授」のように)という選択を「しない」存在を指し示す言葉がこれなのだ。人を指し示す言葉は当事者の名乗りだけでなく、しばしば外部の存在がそれを生み出し動員することは文脈は全く異なるが前掲「名前のない生きづらさ」の中でも言及されているところではあるが、安易に他者が認識している規定」として「ごくありふれた場面」で「ごくありふれた言葉」を持ち出すだけでどれだけ安易に他者を認識してしまうか。それがどれほど的外れであっても一度その言葉でラベルを貼られた結果どのようなことになるのか、「名前のない」様態だけでなくごく日常にある「勝手に規定され用語をはめられていく」関係性の問題をも考える必要はあるだろう。

 

 名前をつける、用語を当てはめるという行為は、物事や様態あるいは人物の理解を平易にする作用があるが、同時にそれは用いた用語に対する発話者の認識の範囲を超えないそれでもあり、物事を手っ取り早く理解したいという欲求の中で、時にそれが酷く誤った方向になり得る。ラベリングの問題はカテゴライズの問題に限らず意識しておかなければならないだろうし、それは私も含めて誰もが陥る可能性が常に存在する、言語の持つ効用に内在するトラップだ。そしてそれでも用語が規定されることでアイデンティティの確立を助ける一面も確かにあり、単純に功罪で分けることができないこともまた事実だろう。そこに絶えずボーダーが存在するとしても、あるいは安易に言語化できないからこそ、またそれに対応する言葉は生み出されるだろう。より適切な言葉を生み出す/見出すことが同時にそこからズレる存在を常に設定し直すことである以上、細分化と定義は常にそこに「含まれない」存在/様態があることに自覚的でなければならないのだと思う。

杉田議員の新潮45コラムについての雑感

物議を醸している新潮45の2018年8月号「「LGBT」支援の度が過ぎる」と題されたコラム(P.57~60)。だいぶ批判もされているし抗議も入っているようではありますが、ざっと読んだ感想と所感をまとめておこうと思います。

結論から言えば、杉田議員は「支援の度が過ぎる」どころか持論の中で少なくともなんらかの支援が必要であろう理由を自身で展開しておられるので、そのあたりを踏まえて考察していくことにしたい。

 最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です(P.57~58)

まず大前提として、この考え方は報道のスタンスだけではなく、自民党や現政権の提言の中にも見られる考え方であり、今一度自身が属する党が建前、表向きどのようなことを述べているのかを参照されると良いでしょう。

(7)社会生活を円滑に営む上での困難を有する子供・若者等の活躍支援

社会生活を円滑に営む上での困難を有する子供・若者(発達障害者など)等に対して、個々人の特性に応じて将来の目指すべき姿を描きながら、医療、福祉、教育、進路選択、中退からの再チャレンジ、就労などについて、専門機関が連携して伴走型の支援に取り組む。若年無業者等についても、ハローワーク、地域若者サポートステーション、自治体、NPO 等の関係機関が連携して、就労・自立に向けた支援に取り組む。さらに、性的指向、性自認に関する正しい理解を促進するとともに、社会全体が多様性を受け入れる環境づくりを進める。(※太字は私が付与)

この文言は平成28年6月の「ニッポン一億総活躍プラン(案)」の中に盛り込まれた文言です。若者対策という限られた文脈での文言ではありますが、閣議決定案としてこのような文言が盛り込まれる必要があるという現状認識は閣議決定レベルで存在していたことになります。なお、この文言が盛り込まれた経緯については、他ならない与党自民党自身が「わが党からの申し入れを踏まえつつ、(略)多様性を受容する社会を目指す旨が盛り込まれました。」と仰っておられるわけです。少なくとも現状において「十分に受容されているわけではない」との認識が無ければこのような文言を敢えて入れることは必要なかったでありましょう。限定的文脈であるとはいえ、このような提言は少なくとも2年前には自民党を通じて閣議の場に持ち込まれる程度の大前提の認識であると考えた方が宜しいのではないかと考えます。

 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して「非国民だ!」という風潮はありません。(略)日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ寛容な社会だったことが窺えます。(P.58 )

この点については前掲の自民党の認識とほぼ同一のものであるため、党の見解から大きく外れるものではないでしょう。確かに明治初期の一時数年ほど事実上の男性同性性交を対象とした刑法罰が設定されましたが一時のものであり、杉田議員の指摘にあるように宗教文脈的ベースとして同性愛や異性装が歴史的に統治側の要請として積極的禁止を受けた直接的な事例は多くはありません。あくまで表面的に見ればですが。

ただし、各準公的施設や教育委員会といった末端レベルでは「異質/異常である」との認識が大義名分として持ち出される程度には「現場レベルでの差別」の実態は事実つい最近まで存在したわけで、東京都青年の家事件(訴訟)を引き起こしたのが「健全な育成にとって、正しいとはいえない影響」「秩序を乱す恐れがあると認められる者」という施設側、教育委員会側の抗弁であり、それを地裁が「従来同性愛者は社会の偏見の中で孤立を強いられ、自分の性的指向について悩んだり、苦しんだりしてきた」としてその行政措置を否定した結果、都側がさらに高裁へほぼ同様の理由で控訴し、高裁でさらに踏み込んで「行政側の怠慢・無理解」とまで断じられて敗訴した、恐らく本邦で一番有名であろう事例があります。確かに「死刑」に処せられたり「国外追放」されたりといった露骨且つ陰惨で明瞭な弾圧ではなかったかもしれませんが、同時に「そこまで寛容でもなかった」とは言えるとも考えます。この訴訟が結審したのはたかだか20年前のことです。

欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。(P.58)

という指摘は、同性愛を法的に禁止し刑事罰で取り締まってきた国・社会とは確かに歴史的に違う部分もあるでしょうが、同時に積極的に禁止・弾圧してこなかった分、末端レベルでの差別に対してどうしても動きが鈍くなるという事実もあるでしょう。上記訴訟はまさにその一例であります。

 LGBT当時者の方たちから聞いた話によれば、生きづらさの観点でいえば、社会的差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことの方がつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。

これは制度を変えることでどうにかなるものではありません。(P.58)

確かにこれは制度を弄るだけで解決する問題ではありません。同時に一番身近で本来エンパワメントしてくれる(とされている)親から拒絶を受けることがどれだけ心の傷となり、それがネガティブな影響を与え得るか、杉田議員がまったく認識していないことは無いと私は思います。杉田議員の言葉を借りるなら、「子どもはみんなお母さんといたいもの。」という切実な希求を、保育園への託児を否定してまで強く案じておられるわけですから、この親から否定される強烈なインパクトに対して何等の支援も必要としないと認識されているとすると、「子供のことを本当に案じているのか」と心配になります。この親からの拒絶を解消していく一助は間違いなく親世代への啓発でしょう。「子供が安心して家庭にいられる社会」を構築するためには、この点は積極的に啓発する道理さえあります。保育政策に対する杉田議員の姿勢に同意するものではありませんが、可能な限り親から拒絶されたり虐待されるような子供を減らしていくべきだ、社会の基本単位の一つが家族だ、ということであれば、せっかくこのような貴重なヒアリングをされているのですから、ご自身の主張にしっかり落とし込んで頂きたいと思います。

海外では、欧米ではという話を好まれないということですので、本邦の連合が調査した結果の要旨をまとめてみると以下のような結論になります(2016年インターネット調査/全国の20歳~59歳の有職男女1,000名)。

1 「他の人と変わらない」が5割弱、次いで「大変な差別を受けている」認識が4割強
2 年代が上がるにつれ「普通の職場にはいない」「抵抗感がある」との認識が強まる
3 身近にLGBTがいると認識しているほど抵抗感が弱くなる
4 身近にLGBTがいると認識しているほどハラスメント・差別・不利益を得ていると認識している率が高まる
5 男性は女性よりもネガティブな印象を抱きがちである
6 管理職ほどトランスジェンダーへの配慮は必要ないと認識しがちである

これらの結果は、法的禁止といった文字通りの弾圧ではなく、実社会の生活レベルにおいていまだに根強い抵抗感が残っており、それも企業の管理職といった社会に包摂すべく企業を動かす側、そして上司上職になることが多いであろう男性年代高めの側が相対的にマイナスの印象をより強く持っていることを示唆しています。もしこれらの現状に対して「行政が動いて啓発する必要もない」と考えているのであれば、「女性は管理職に向かない」といった歴然とした女性差別も「私企業の行動」であり「行政が動くべきではない」となるはずですが、男女共同参画や一億総活躍という施策目標は勿論「行政が動く」方向で進んでいます。付言するならば自治体レベルのLGBT施策の少なからずはこの「男女共同参画」に付随する形で言及されることがしばしばであることも少し調べればお分かり頂けると思います。これらの諸点を勘案すると、

職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか?(P.58)

という言及については、少なくとも直近の調査では必ずしもそのような傾向は見受けられないと考えます。ご自身の肌感覚でなく、少なくとも統計として取られた数字を見て本当に「多くの人にとっても同じ」なのかどうか、今一度考えて頂ければと思います。

子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。(P.58 ~59)

このようにおっしゃっておりますが、この「生産性」が「人口の再生産」の意味で言及されているのであれば、例えば里親として養子を迎えるなどの点での社会へ資する方法はいくらでもあるわけで、また人口増に寄与しないという点だけを以て「支援の必要はない」ということであれば、冒頭で引用した自民党の提言や政府の閣議レベルでの「多様性を受け入れる環境づくりを進める」ことへ行政が動くことそのものに重大な疑義を挿し込むことになります。逆に言えば、既に「多様性を受け入れる環境づくりを進める」という大義名分は子供の有無とは関係なく「一億総活躍」というもので設定されているわけです。「生産性」という言葉を用いるのであれば、単純に就業するLGBTが増え、結果GDPが増大すれば、労働生産性としては十分寄与することになるでしょうし、企業内での不均衡慣行や不利益といった「法的ではない」差別が解消されていけば、「労働生産性」としてはさらに寄与するでしょうし、「経済全体」を見た際に不均衡・不利益を積極的に解消していくことは男女間の賃金格差や不均衡・不利益を解消するのと基本的には同じ方向となるはずです。子育て支援はそこにアジャストされる支援であり、「子供がいない女性は不均衡・不利益を甘受すべき」というベクトルはそもそも「男女共同参画」の原則趣旨からも外れてくるのではないでしょうか?殊更に子供の有無だけを持ち出して、現状統計としても一定の「なんらかの施策は必要だろう」という認識が共有できる程度の数字が出ているにも関わらず、そこを無視することは、「寛容な社会」なのでしょうか?

 ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすること自体がおかしいと思っています。(略)自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。(P.59)

この点については、LGB(と細分化した他の一部)とT(と細分化した他の一部)については「必要な支援の質や程度」が相違することはあるでしょうし、この点について「分けて考えた方が良い」施策は確かにあるでしょう。この点は当事者の間でも議論になる点でもあります。より一層喫緊な施策としてTを優先するという選択肢もあるでしょうし、政治家として是非考えて頂きたいと思います。

 一方、LGBは、性的嗜好の話です。(略)マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と不幸な人を増やすことにつながりかねません。(P.59)

恋愛において、どの恋愛が「普通」なのかをどのように定義されているのか分かりませんが、同性愛の恋愛を「普通でない」という文脈で用いてしまっているように見受けられます。「性的嗜好」という用語と「性的指向」という用語の指し示す範囲の差異はひとまず言及しないにしても、同性と恋愛することは「不幸」なことなのでしょうか。

LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか?(P.58 )

とも仰っておりますが、「異性と法定婚を結び自身の血を引く子供を持つことが幸福」であり「それ以外は不幸である」という考え方そのものが、いわゆる認識上の差別であり、これは指摘の通り「制度を変えることで、どうにかなるもの」ではないかもしれませんが、「誰と恋愛するか」という点は個人の自由であり、同性と恋愛することは「不幸な人」である可能性があるという言及は、「実際そんなに差別されている」のではないでしょうか?また、「結婚できる人」という言及が「法定婚状態が二者間の関係として社会上望ましい」のであれば、それこそ同性婚を法的に決定さえしてしまえば、当事者にとってはそれは「普通に恋愛して結婚できる人」になります。差異は子供を生むかどうかだけです。もし「恋愛の末に法定婚に落ち着くのが望ましい」とお考えなのであれば、ぜひシビルパートナーシップなり同性婚なりの制度導入を政治家として考えてみては如何でしょうか?少なくともそれを希求しても得られない状態よりは「不幸な人」は減るはずです。

それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。(P.59 )

これがXを指しての表現なのかQを指しての表現なのか分かりませんが、「騒ぐから」出てくるわけではありません。用語として規定されることで、自身がその用語の範囲なのだと理解が進むことはあるでしょう。逆に言えば、用語が設定されるまで、そのような存在は「どの用語にも当てはまらない」存在として自己規定するほかなく、また社会的にも規定された適切な用語がないことで「表に出てきづらい」ということはあるでしょう。「見えなかった」ものが「見えるようになった」ことをメディアが騒ぐから誕生したかのように言及するのはいささか理解が足りないように思います。LGBとTを分けて考えた方が適切な政策がとれると考えているのであれば、もう一歩踏み込んで考えて頂きたいところです。

オバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が”心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。(P.60 )

本邦は欧米とは違う、性の有り様に寛容な社会だったのだ、と仰るのであれば、殊更このように「保守的」と認識されている国の事例を(それ以外の点では欧米とは社会が違うので参考にすべきでないとまで認識されているのに)持ち出してしまうのは、いかがなものでしょうか。確かに多様な有り様を認めていくことは一面でそれを支えるインフラを含めた資本が必要とするでしょうが、欧米のように明示的禁止がされてこなかった国として寛容さがあると認識されているのであれば、斯様な「保守的」な国で生じた混乱を大規模に引き起こすことなく、寛容にやってきた国としてソフトランディングさせるべく施策を打っていくべきでしょうし、寛容さに胸を張るのであれば先例となる「不寛容」な国・社会の事例は反面教師の参考にすべきモデルケースでもありましょう(もっとも寛容であると言い続けてきた結果、施策ベースではもっとも取り組みが遅れているわけですが、欧米との文化比較は意味がないとしても参考にはなるでしょう)。

 最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人とか)、もうわけがわかりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。(P.60)

それぞれの用語に対する認識はざっくりしたものではあるでしょうが、少なくともIが何を指し示すのか多少なり意識があるのであれば、それを「男と女」とざっくり二つにしか分けない社会としてしまうことがIにとって何を意味するのか、Tに対する認識の程度の洞察が働けば理解できると思いますので、「なぜ」は十分理解できる範囲でしょうし、その上でなお「男と女」という「二者択一」のみに拘るのであれば、本邦の「寛容な社会だった」という寛容さはその程度だったという話でしかないわけで、欧米と比較してマシという話はどっちがどっちの五十歩百歩の話にしかなりません。性自認×性指向×性嗜好の掛け合わせは相当数になるのはご指摘の通りですが、それがすべて「性別」なわけではありません。

SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。(P.60)

ことさら驚くことでもないように思いますが、杉田議員もフェイスブックは使われているはずですので、是非プロフィール欄の編集モードを一度開いてみることをお勧めしたいと思います。日本のカントリーコードのままでも性別は「男性/女性/カスタム」で事実上カスタムは「なんでもあり」のようなものです。ご自身の利用されているサービスの設定画面を確認頂ければ分かることでもありますので、是非確認頂ければと思います。

 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけに留まらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが利かなくなります。(P.60)

なかなか射程範囲が広くて想像が膨らむ話ではありますが、同性婚を認めたらそこまで全部認めなければならないのかというとそういう話ではないでしょうし、何より同性「愛」を認めようが認めまいが、一定程度「さらに少数」のそれらは存在するわけですから、「合理的に認めない理由が存在するか」どうかが一定の線引きにはなってくるでしょう。果たして「同性婚」を認めたら際限なく「なんでもあり」まで一直線な社会ができるのかという疑問については、個人としてはあまり賛成しかねるものではありますが、「法的婚姻制度の枠組み」論という点において、「線引きはどこが妥当であるのか」という論点についてはまさしく同性婚が扱っている問題提起そのものでもあり、また同時にLGBその他の中でも法的婚姻制度を要求する声もあれば不要とする声もあるわけです。

児童相手であれば児童虐待、動物相手であれば動物虐待という別の論理から法的に認めない理由は構築できるでしょうが、同性婚はそういった別の側面で禁止する法的論理立ては、それこそ「社会通念」や「普通」という概念上の問題以外は存在しないわけで(現在の行政窓口対応の)、子供を持つ意思の有無を条件にするのであれば男女の法定婚にもそれを適用すべきでしょうし、そのような意思確認の体裁を装った私的領域への公的介入を導入すれば、文字通り違憲訴訟行きで敗訴することになるでしょう。

なお、同性婚の話は最後に出てきていますが、「(最大限大きく取った場合の)性的少数者」への支援の有無と、その支援に「法的婚姻制度」を含めるかどうかは「分けて考えることができる」問題なので、「LGBT」から「T」を分けたように、一つ一つ問題を分けて考えていけば宜しいのではないかと思います。

「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことになりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。(P.60)

「常識」や「普通であること」という言葉が「無批判に」存在する状態の方が社会が硬直化し、硬直化した社会は制度疲労でハードクラッシュしかねないと思いますが、何をもって「崩壊」と呼ぶかは議論があるでしょう。事実上の内戦とも言うべき戊辰戦争をやっても実態上占領下というべき第二次大戦後の主権制限期を経ても、「日本」という社会は「変化」こそあれ「崩壊」はしていないわけですから、「たかが」同性婚の有無や同性愛の許容の有無程度で崩壊などしないでしょう。まして伝統的に同性愛に対して「歴史的に紐解いて」寛容な社会であったことを自負するのであれば、2000年の歴史に対してたかだか100年そこらの近代法下における法的婚姻制度へ同性愛の存在と制度の適用を法的に確定することくらい、寛容さの歴史に自負すべき1ページが増えるだけのことです。そうは思いませんか?

ちなみに、しきりに朝日新聞を取り上げて(掲出回数が多いということも一因とはいえ)批判されておられますが、

〈4〉多様性 LGBT実態調査を(読売新聞2017年10月11日)

LGBTのカミングアウト 身近に存在…環境整備を(産経新聞2018年2月23日)

といったいわゆる「保守系」と呼ばれる新聞でも環境整備の必要性に言及する記事はちゃんと出ておりますので、掲出回数だけでなくそれそれの記事直近1年程度目を通して頂ければとも思います。もちろん同性婚の導入にネガティブなコラムもありますし、それらも含めて、です。現状の行政対応が過剰なのか不足なのか、報道から知るのであればその程度はやっておいて損はないと思います。

セクハラについて考えておきたいこと

最近セクハラ関係のニュースが多いですね。いわゆる #MeToo 案件とでも言いますか。中にはパワハラとハイブリッドになっていたり、本当はそれセクハラ案件ですか?みたいな話もあったり、時に「過去の自分がやってしまったそれ」をどう考えていますかと投げ返される人がいたり、様々です。私もいろいろ言ってきているのでやらかしてしまったことは少なからずあると思いますので、反省すべきは反省したいと思います。私自身のことはいったん置いておくとして、けっこう忘れられている気がするので原則論の再確認をしておきたいと思います。

男女雇用機会均等法第十一条では「事業主は、職場において行われる性的な言動に対するその雇用する労働者の対応により当該労働者がその労働条件につき不利益を受け、又は当該性的な言動により当該労働者の就業環境が害されることのないよう、当該労働者からの相談に応じ、適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置を講じなければならない。」と定められています。セクシャルマイノリティ関係も法令条例上「男女~」という名称の中で対策がカテゴライズされることも多いので、そのあたりも当然に視野に入れておくべきかと思います。

さて、この法令の「職場」とはどこかと言うと、法務省の見解としては相当広い範囲を網羅していて、事業所内はもちろん接待の場や営業車の中、取引先や顧客の自宅なども含まれます。顧客の自宅というのは一見すると奇妙な感じもしますが、確かに訪問営業や引越や建築・改装関係で顧客の自宅に行くこともあるでしょうから、そこまで含めて示されているのはおよそ「仕事している時間にいるあらゆる場」がこの法令での「職場」という理解で良いと思います。何がセクハラに該当するのかといった定義論やこの職場がどこまでかといった内容は「セクシュアルハラスメント(セクハラ)とは|主な行為と対策(労働問題弁護士ナビ)」に簡潔にまとめられています。

上記紹介の「主な行為と対策」の中にも記載がありますが、「男女問わず結婚に関しての話を聞くこと」や「性的表現を含む話、ファッションセンス、身体的特徴について話すこと」「「男のくせに」という言葉をかけること」もセクハラになるということが書かれています。つまりセクハラは概念上も法令上も運用上も本来は「男性→女性」だけでなく「女性→男性」も存在するわけです。立場の上下は関係ありませんし、実際の性別どうこうも関係ありません。定義上はそういうことになっています。

確かに「男性→女性」のパターンは過去からずっと多かったでしょうし、「男性→男性」や「女性→女性」だとセクハラよりはパワハラの方が認識されやすいなどはあるでしょう。だからこそ「#MeToo」ということになるのだと思いますが、セクハラの概念上それを行う側が必ずしも「男性」や「上司」ではないという点は踏まえておきたいところです。部下→上司、女性→男性も概念上は同じです。

私が見聞きしてきた中でも該当するだろうパターンとしては、女性→男性、男性→男性の「子ども作らないんですか?」の質問。「女性に出産に関しての話を聞くこと」は前述の労働問題弁護士ナビの記事内でも言及されていますが、本質的にこの質問は男性に投げるのも同様に立派なハラスメント行為だと思います。理由の如何はどうあれ、この質問は職場・仕事で平然と投げられています(女性に対して出産云々は皆様の抗議や認識の広がりもあり多少減ったかもしれませんが、こちらは相変わらずです)。他にも服装や仕草から「ホモっぽい」という揶揄が飛ぶこともまだまだ少なくないように思います(特に女性発信)。ほぼ侮蔑と興味本位同然の質問ですし、奇異の目で見ているわけですから、同性愛の人であってもそうでなかったとしてもハラスメント該当のはずです(ついでに揶揄と好奇でそのような問いが出ているわけですから、少数者差別にも該当しかねない問いでもあります)。

私自身まだまだ身を律していかなければならないことは多々あるわけですが、同時に「セクハラは男性がする行為」「セクハラは上司がする行為」という認識は基本原則としては間違っているわけです。せっかく「ハラスメント行為を無くしていきましょう」と動き始めたのですから、是非この点は押さえておいて欲しいと思います。

街に詩人は必要か?/文月悠光著「臆病な詩人、街へ出る。」

 現代詩 ― ほぼ絶滅しかけているジャンルだ。街場の書店に行ってもコーナーがあるところは少ないだろうし、あるとしても谷川俊太郎その他で短歌・俳句の半分も棚が有れば良いほうだ。大型書店は別としても、街場から現代詩はほぼ淘汰されてしまっていると言っても良い。現代詩手帖は辛うじて配本されているところもまだまだあるが、どの程度捌けているのか甚だ怪しいところがある。
 
 現代詩人(not 近代詩人)として名を挙げることができる人がどれだけいるだろうか。片手ほどの数も名が挙がれば、それだけで相当な物好きの部類かもしれない。谷川俊太郎は名が出てくるかもしれないが、その次は?大岡信か吉岡実か、そのあたりはまだ1冊くらいは街場の書店にも単著が置いてある場合もあるから名前を思い出すかもしれない。あとは鮎川信夫だろうか。逝去した際に一瞬だけ平積みされたような瞬間風速であれば、茨木のり子を思い出す人も或いはいるだろう。しかし、これらの名前、30年50年といった単位で、恐らくは挙がる名前が変わってこなかったのではないだろうか。そもそも現代詩に触れる機会が極端に少ない日本で、この新陳代謝の無さはそれを象徴しているようだ。
 
 このような状況にあっても、現代詩では社会への問題提起や崇高なテーマ(と思い込んでいるだろう)、そういったものを取り上げては、やれそこにポエジーがあるだの無いだのということを延々とやっているわけだ。ポエジーという言葉を理解する必要はない。こういった議論をしている当事者でさえこの曖昧で捉えようがない概念を持て余しているように見えるし、そういう概念を弄っていることがさも「現代詩の当事者である人の使命」であったり「現代詩の理解者」であるように振る舞う作法のようなものだ。相変わらず哲学寄りのテーマも多い。
 
 敢えて言うならば、そのようなハイソ・インテリの内輪サークルのようなものは「誰」が読むのだろうか。売れない、書店にも置かれない、名前さえ覚えられることもなければ思い出すこともない、その「詩」は誰が読むのか。少なくとも「現代詩人でございます」といった自覚のある人でもなければ、まず読むどころか存在すら知られないだろう。稀に文化趣味な朝日新聞やら毎日新聞やらがエッセイやコラムを依頼してくることはあるだろうが、そんなものはほぼ翌日には名前ごと忘れ去られていくだろう。恐らくは、30年後50年後も挙がる名前は谷川俊太郎が第一だろうし、次点の名前さえ出てこない可能性さえある。100年の停滞だ。どれだけ真剣に社会問題や社会課題にアプローチし、或いは思索的哲学的テーマを扱った作品であったとしても、読み手が内輪だけであれば、さながら絶滅危惧種のように引き続き衰退し忘れ去られていくだろう。
 
 一時「ポエム」がちょっとした流行りになったことがある。「思ったことをそのまま書けば、それがポエム(詩)です」といった具合に、散文にも日記にもなれないような書き散らしたものが「それで良し」とばかりに流布した。恐らく当時にちょっとした流行りになったそれは、名前も作品もほぼ誰一人として覚えていないだろう。しかし世には出た。そして現代詩人の側はそれにどう反応したかと言えば、「ポエムは詩なのか/詩ではないだろう」といった強力な拒否反応であったように思う(一部異なる反応を示した人が居たとはいえ)。確かに「思ったことをそのまま大して考えもせずに書き付けただけ」のものが「現代詩」と同等か、同等とは言わないまでも同類と扱われることは不本意ではあったろうし、感情的な反発は理解はできる。その流行りはすぐに廃れはしたが、同時に現代詩というサークルの中での不協和音はあったものの、現代詩に対する影響はその程度でもあったろう。所詮内輪の揉め事でしかなく、「詩人だからポエムの人と一緒にしないで」と訴える名前も知らない作品も知られない人達のそれは、ほとんどの場合「そのような議論があったことでさえ」知られてもいまい。或いはあっという間に忘却の彼方だ。
 
 2000年代は文学界ではちょっとした流行りがあった。もう忘れている人も多いかもしれないが、綿矢りささん・金原ひとみさんといった「若い女性」に賞を与えるという流行りだ。作品の良し悪しは言及しないとして、過去にも近い年齢の受賞者は居たとはいえ、立て続けでしかも記録更新でもあり、新聞を始め大いに紙面や映画を賑わせた。そして消費されていった。現代詩でもこの流れに乗ったか、2010年に文月悠光さんが中原中也賞を受賞することになる。その直前に受賞している川上三映子さんや最果タヒさん、水無田気流さんといったあたりだが、文月さんはそれと比較してもさらに若い。そして同様のことが生じることになったわけだ。「最年少中原中也賞受賞の女子大生/女子高生時代でありながら活躍中」となれば、メディアにとっては手っ取り早いネタではあったろうし、当時のインタビュー記事は何本か読んだ記憶はあるが、どれもこれも取材側は作品を読んだかどうかすら怪しいようなものが多く、いかにも「消費してます」といった印象しか残らなかった。最近は文学界では芸人に賞を与えるというのがちょっとした流行りのように感じるが、作品の良し悪しは別として、いかにも「手っ取り早く売る」「賞の存在感を示すためにメディアに受ける」ことを狙っているような印象を受ける。賞を与える以上、作品としての水準は当然一定程度をクリアしているのは当然であろうから、酷い作品ということはさすがに無いだろうが、中原中也賞については文月さんの次に受賞しているのは辺見庸さんであり、しかも最初の詩集で受賞し、翌年に申し訳程度にもう一つ詩集を出して以後詩集としては途絶えている次第である。
 
 そんな「大人」の思惑に振り回された「若い」表現者は、その後とても大変だったろうと思う。最近、文月さんがこのたび「臆病な詩人、街へ出る。」を刊行した。そこに書かれている内容は、控えめに言ってもこの「大人」たちに(セクハラパワハラを含めて)弄ばれる若き表現者でしかない。しかし、それは一面的見方なのかもしれない。内容の中には読むに堪えないような酷い言葉や状況に直面してその度に自身を振り返る文月さんの姿も描かれている。それを些末な物事だと断じることは決してできないだろう。同時に、そこに描き出されている一部は、間違いなく読者である「私/私達」の意識・無意識に抱いている「常識」や「当然」が如何に人として生きることそのものを型枠のようにはめているかの象徴的事例でもあるだろう。
 
 都市ではあらゆる物事が効率化・数値化され、或は評価されレーティングされていく。それでは、その様々な比較と相対の基準は何だろうか。都市は、成長と熱の中で、しばしば「常識」や「当然」といった、些細でありながら強力な定規を持ち、「そうでないもの」を無理矢理その型にはめ込んでいくような力場を持つことがある。そのような「普通」への際限なく繰り返される日常化があるからこそ、街はその中へ非日常「空間」を演出し織り込んでいく。しかし空間だけでは、いずれ都市はそれさえも日常化の尺度へ巻き取っていくだろう。
 
 言葉を詩として身に纏うことは、私達の「普通」のコミュニケーションではないかもしれない。だとして、その「普通でない」「普通である」の間にどの程度の揺らぎや差異があるだろうか。「臆病な詩人が街へ出る」時、「街は詩人を包摂し得るのか」が問い返されよう。この詩人は、それこそ臆病にも詩壇の大御所として振る舞って誰にも届かない言葉を内輪で交換し合っているような「詩人」ではあるまい。そして、そこで生まれる違和と不協和こそ、飽くなき日常化に押しつぶされそうになる街にとって、必要なものでもあろう。その一歩はささやかなものかもしれないが、型にはまって自縄自縛に陥ることを潔しとしない詩人の一歩であればこそ、それは確かに街に刻まれる意味が浮かび上がるはずだ。私の/私たちの街/都市には、確かに詩人の言葉は必要だ。忙殺と麻痺で忘れている「普通」と「当たり前」を問い返すことができる可能性を拓くためにも。そこに言葉として置かれた可能性から問い返し得る何かを見つけられるとしたら、それを見つけるのは私であり私たちであり、街そのものが自身で掴み取るしかない。詩人は確かにそこに言葉を持っているのだから。
 

総選挙には役立たないかもしれない本10選

#総選挙に役立つ本 出版社員が火付け役

 ということで、どうもタグをサーチするとなんとも党派の主張合戦の様相も見えますので、党派・主義主張関係なく、また選挙だけでなく「政治」という領域に関心を持つ方に薦めたい本を何冊かピックアップしてみたいと思います。
 
1:世界憲法集(岩波文庫)

基本中の基本ということで、延々と版を重ねて刊行が続いている本書。「憲法改正に賛成?反対?」みたいな短絡な設問が設定されることも多い昨今ですが、そもそも日本国憲法だけを見ていても気付かない分野も多いですし、それぞれの国が何を規定して何を規定していなかったのか、それらを一冊で比較しながら読めるという点では今でもお薦めです。

 
2:人権宣言集(岩波文庫)

憲法集と合わせて一家に一冊くらいお薦めしたい、こちらも基本中の基本。法や宣言の中で「人権」というものがどのように謳われてきたのか、その成立の過程でそれぞれの時代、場所での文言を参照することができます。「新しい人権」という表現もある昨今ですが、「人権」という概念そのものは、その対象の拡張がされてきた一方で、基本原則は大きくは変わっていないので、手軽に参照できるという点ではこちらもまだまだ色あせません。
 
3:法哲学入門(講談社学術文庫)

「法」ではなく「法哲学」。西洋だけではなく、東洋も含めた「古代からの法体系の構築過程の背後に存在してきた法の精神の支柱となってきた哲学」の入門書。新規立法、法改正から法に基づいた行政運用まで、それらは本来は「いかにしてその法(法理)が構築されてきたのか」を視野に入れなければ、なかなか理解できない部分もあります。個々の法律論ではなく、「法の背景となる哲学」を理解することで、法理念の有り様や法体系へのアプローチをその根底の部分で捉えることもできるのではないでしょうか。入門書なので内容も平易でお薦めです。
 
4:法における常識(岩波文庫)

こちらも古典中の古典です。法学の入門書とも言われるほどの入門書ですが、何故法が必要とされ、その運用はどうあるべきか、という法思想の入門書。法哲学よりももう少しだけ実践寄りですが、こちらは前掲の法哲学入門と違ってイギリスにフォーカスを当てた内容となっています。コモン・ロー中心の言及であり、そこだけを考慮するとあまり日本には関係ないような印象になるかもしれませんが、判例の積み重ねと法運用の在り方を学ぶ上では十分に役立つ一冊と言えましょう。著者のヴィノグラドフは1800年代の人ですが、法と歴史を紐解くスタイルの本書は、前掲の法哲学入門と合わせて「現代に至るまで」の間に英米でどのように法運用がされてきたのかを知るだけでも、大いに参考になる一冊だと思います。
 
5:権利のための闘争(岩波文庫)

法哲学は解ったとして、さて、何故人は権利のために「闘争」という手段に訴える必要があるのか(逆説的に言えば何故法と権利の闘争が社会・国家にとって必要であり不可欠であり永続的なのか)を説いた一冊。著者のイェーリングはこちらも1800年代の人なので、やはり現代からすると随分と前の人ではあるのですが、内容は現代でも十分通用する部分があるほど、根源的且つ本質的でありながら、これも平易な一冊です。こうしてみると1800年代の著者を取り上げることが多いなぁ、私。
 
6:植木枝盛選集(岩波文庫)

あまり欧米の大家ばかりを取り上げてもね、ということで、日本の民権運動勃興期の大家の一人、植木枝盛の論文集。当時にあってはかなり急進的意見と言える内容も多いですが、当時において急進的であったということが「今では」当たり前のことだったりもするので、日本国憲法に何処までその精神が反映されているのか(あるいは反映されなかったのか)、歴史に思いを馳せながら読んでみるのも良いかもしれません。
 
7:石橋湛山評論集(岩波文庫)

戦前と戦後をブリッジする所謂日本のオールドリベラリストの一人として最重要な論客の一人、石橋湛山の評論集。この評論集や戦後に半ば美化されたような同氏の言動だけを見ると立派な論客であったことは間違いないのですが、この人を以てしても1930年代には雑誌東洋経済の巻頭文に満州国領有の妥当性を(半ば苦虫をかみ砕いたような表現とはいえ)叙述しなければならかった、戦前1930年代というものが何であったのか、非常に考えさせられます。というかそういう背景がこの評論集の「間」に挟まっているのだな、ということを念頭に置いて読むと、いろいろと見えるものがあるような気がします。
 
8:アメリカは恐怖に踊る(草思社)

一気に現代に飛んできましたが、現代において、政治の動向や世論構成にいかにマスメディアや言論が(負の面で)寄与し、半ばマッチポンプのような機能を果たしているのかを詳述したアメリカ政治分析の良書。政治家だけではなく、マスメディア、日本では識者と呼んでいるような言論の枢要にいる知識人(としておきます)が、現実を歪め、煽ることそのものを機能としてしまっているのかを批判しつつ紹介しています。著者は「ボウリング・フォー・コロンバイン」にも出演しているバリー・グラスナー氏ですが、その批判している先の識者界隈からも高い評価を受けている本書は一読の価値があるでしょう(というこれもマッチポンプかもね、と)。
 
9:ファシズムへの道(日評選書)

「戦前が」とか「軍靴が」とか「ファシズムみたい」とかカジュアルに使われるファシズムですが、第一次大戦後最も先進的と考えられていたワイマール憲法下で、いかにファシズムが形成されていったのかを解説している本は多いと思います(私の所蔵書にも何冊もあります)。その中で、敢えて一冊を取り上げるとしたら、ということで悩んでこれをご紹介。ワイマール共和制において、司法の場ではその発足の当初から共和制の根幹を破壊するような司法判例がいくつも積み重なっていく過程が実際の司法の場でのやりとりや、それを取り上げる報道の果たした役割などに焦点を当てて、具体的に叙述されています。法と社会と政治という点で、とかくその分析から漏れがちな実際の司法判例の役割を考える上で、示唆的です。最高裁判所裁判官国民審査というと、今の日本ではほぼ機能していないくらいに軽視されていますが、「本当に」ファシズムを警戒するならマスメディアと並んで司法ですよ、ということを忘れないようにしたいものです。勿論ファシズムに限らず、ですけどね。
 
10:全検証ピンクチラシ裁判―言論・表現の自由はこうして侵害された(一葉社)

ちょっと変化球ですが、「表現の自由と言いながらエロ守りたいだけだろ」という方々に是非一読頂きたい一冊でもあります。3年前にも取り上げた一冊ですが、思想・表現の自由に対して恣意的な既存法の運用を判例ベースで認めてしまい、また報道もその問題点を取り上げるのではなく、却ってそれを悪化させる方向で作用するとどのようなハレーションを生み出し得るのかを、その摘発、起訴、裁判に至るまで、ほぼ全記録としてまとめられている一冊。第一審での判決を憂慮した一大弁護団が結成される過程や、それを以てしても限界があるのだということをウンザリするほど教えてくれる一冊でもあります。そしてこの裁判の進行直後に「有害コミック一斉摘発」となり、実に(大手出版社をスルーして)零細出版社等を集中して70名以上を送検するなどが進展していったのだから、「私には関係ない」だけで終わらせたくはないところです。法を精緻にすれば漏れるものも多くなり、緩くすればこのような運用もでき得るのだという、過去の話ではなく実に1990年代の日本の実例なのだから、是非一読頂きたいところです。
 
 
 他にもいくらでもお薦めしたい本はあるのですが、ちょっと変化球を交えつつ、ざっと十冊ほど古典から現代まで拾ってみました。岩波文庫多いですね、改めて見ると。それだけ古典も含めて、確かに必要な文化の一翼なのですよね、岩波文庫。批判的に言及されることもある「岩波文化」ではなく岩波文庫。最近「文庫本「図書館貸し出し中止を」 文芸春秋社長が要請へ」といった報道もありましたが、文春文庫はどちらかといえば文藝方面の刊行が多いこともあり、一冊も入りませんでした(書きながら報道を思い出しました)。文春さんが悪いのではなく、古典分野はやはり岩波さんが抜群に分野も広く数も揃っている歴史がある、ということですかね。
 ちょっと前までは毎年「その年に読んだ本の中でセレクト10冊」というのもやっていましたが、こういうエントリーも久しぶりですね(エントリー自体が久しぶりなのですが)。それではまた。