大臣の椅子の耐えられない軽さ

かつてマキャベリは「われわれが常に心しておかねばならないことは、どうすれば実害が少なくて済むか、ということだ」と述べた。
昨今の極めて軽い首相・大臣職の椅子が、今日また一段と軽くなった。
鉢呂氏が大臣を辞任したそうである。

失言とされたのは下記の2点。
「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」
「やっぱり、ひどいと感じた。放射能をつけたぞ。いろいろ回ったけど、除染をしないと始まらないな。除染をしっかりしないといけないと思った。」
というものである。
本人の弁明はどうでも良いとして、前者については修辞的意味として、現状では確かにそう譬えてもおかしくない状況ではあるが、帰郷を願う声が高まる中(それの実現可能性は別問題として)、デリカシーが無い発言とされても仕方がないように思える。
後者についてはもはや子どもレベルの問題であるが、この表現が本質的には「放射能への無理解」や、それが「嫌がられる行為だ」と考えての行動であれば、場合によっては被災者差別を助長しかねない言動でもあり、問題と言えよう。はっきり言って前後の言葉が極めてまともなだけに(その後の予算措置と、それでも不足するだろうという当然の認識さえ示しているのに)、何故このような言葉を挟んだのか。
農協・社会党系と、旧社会党系の中ではそれなりの地位を占め、国対畑が長いと言われる割には「野党の質問があまりにも低俗だ。答弁者は質疑者の低劣さに合わせなければ答えようがない」と発言するなど、基本的に「考えて話す」タイプの人間ではなく、品性とか品格といった言葉が発言の前に頭を過るタイプでもない。
言わんとすることがまともであろうとも、表現方法のどうしようもない稚拙さは、本来であればとても「表に出して働かせる」タイプではなく、才覚だけを活用するならそういったポジションに据えるべきだったのであろうが、結果としては今回のような顛末となった。
さて、果たして鉢呂氏は辞めるべきだったのであろうか。

発言そのものは、表現はどうしようもないが、少なくとも前後の言葉はまともなのである。「死の町」にしても、「残念ながら」という留保もあり、それを面白おかしく発言した内容とは思えない。寧ろ気を利かせたつもりで自爆した形でもある。
決して自分は鉢呂氏が経産相として妥当な人事だとは思わないが、さりとて「発言」傾向を除けばそれほど不適当と言えるかどうかもまた分からない(発言傾向は「政治家」として不適格であるようには思えるが)。
どうしようもないデリカシーの無さというのはあるのだろうが、過去の言動からして民主党内でそれを認識していないはずがないのだから、野田首相は当面これを護るだろうと考えていたのだが、蓋を開けてみれば辞任である。
「真意を聞く」というのが事後対応の協議であったとすれば、「これ以上本人に釈明させるのは危険だから、首相ないし官房長官が対応する」ということで口裏を合わせにきたとばかり思っていたのだが、そうではなかった。
もちろん大臣の席に据え続けることはそれなりに苦労するであろうが(今後も同様のデリカシーの無さを発揮する可能性は極めて高い)、任命責任と言うことを考えれば、あまりにも安易に首を切りすぎたのではないだろうか。

復旧・復興へ向けて、また今後の電力政策策定へ向けて、そして山積みの外交問題を動かすために(就任早々馬鹿な管制官が問題を一つ増やしはしたが)、少なくとも「安定した政権」が必要であるはずで、「安定した政権」というのは少なくとも「人事が一定程度固定的である」必要があるはずだ。
普天間で問題を拗らせるだけ拗らせて首相を変え、復旧・復興は道半ばどころか端緒の段階でまた首相を変えた。その度に大臣もころころと代わり、マニフェストを護るか破棄するかなど、政策も右往左往している。
しかし、それは一方では捻れ国会とも言われる与野党の稚拙な攻防がありはするが、さらにはそれを「叩く側」でしか書けないマスコミの存在も影響しているだろう。
大臣クラスが辞めれば「一面が埋まる」とでも言うような、「果たしてそれは本当に成すべき報道なのか」ということをまるで考えているようには思えない記事の山は問題視されてもおかしくないだろう。
発言はその発言として批判したとしても、それが「辞任圧力」となったとき、「権力のチェック機関」を自認するならば、果たして「辞めるほどのものなのか」という点は精査すべきだろうし、「与野党の中から辞任圧力が高まっている」とただ書けば良いというものではない。

どこを取っても非の打ちどころが無い人間などというものは存在しないのであって、特に厳しい現状を考えれば「どうすれば実害が少なくて済むか」という点であるはずが、「政治の停滞」「政治不信」と言いながら、結果としてそれを煽り続けているのは「実害をさらに大きくする」ことでしかないように思える。
言葉は過ぎるが有能、という人間もいるのだから、鉢呂氏がそうでない、とも必ずしも言い切れないだろう。
そして大臣となってしまった以上、その「悪い部分」は「辞めるに値するほどの問題」でも無い限りは、安易に首を求めない、というのが現下に必要なことのように思えてならない。
もちろん菅内閣のように、内部で閣僚が公然と首相を批判し、また首相の発言を即日閣僚が否定するような状況というのは決して好ましくないわけだが、そういった行動に対して「政治家の資質」「政治の役割」は報道論調としては問われない。
寧ろ「人望の無さ」「民主党の派閥争い」といった矮小な次元で、あたかもそれが「当然」であるかのように報道されていく。
そういった報道の背景には、当然それを面白可笑しく、または半ば呆れて受け取る国民という存在があるわけだが、だからこそ「政治に何を求めているのか」について真剣に考え、意思表示をしていく必要があるだろう。
「報道」がくだらない政争ばかりに汲々としているとしても、「それはわれわれが求めている報道ではない」と声を上げていく必要はあるだろうし、政治に対しても「それはわれわれが求めている政治ではない」と声を上げていく必要があるだろう。
余談ながら、どうせテレビ局にデモをするなら、こういった問題での報道姿勢を問題視してのデモをすべきなのだろうが、「報道が報道として機能していない」として「韓流ドラマ」への抗議になるようでは、今回の報道も決して嗤えないだろうし、寧ろこういった報道になることは必然であるようにも思える。

野田氏も安易に首を切りすぎたが、与野党とも「果たして政治がどうあるべきか」をどこまで真剣に考えているのか、昨今の状況は極めて残念な回答しかないように思えてならない。このままでは無能を通り越して実害の多い国会とさえ言われかねないのではないだろうか。そして、それはいつか通った道に掲げられた「堕弱な政党政治」という言葉そのものであるようにも思える。
今や日本の政治は世界から「日本化」として機能不全の代名詞のようにさえ言われるが、それを何回証明したいのだろうか、政治家自身の手によって。
今回の辞任は、間違いなく野田政権にとって、首相の権威を軽くする方向で作用しているように思えてならない。
「存在の耐えられない軽さ」と「存在が耐えられない軽さ」は天地ほども差があるが、果たして今回の鉢呂氏は前者だったのか後者だったのか。

「フルーツバスケット」というゲームがあるが、首相・大臣の椅子を座った瞬間に「次に座れるのは誰?」よろしくたらい回しにして辞任させていって、有益なはずがない。

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大臣の椅子の耐えられない軽さ」への1件のフィードバック

  1. タカ派の麻酔科医

     マスコミは郵政民営化選挙の際には、民営化の功罪について論じることなく、また、小泉氏の厚生大臣時代の問題点についてもほとんど扱わなかった。一方において、麻生太郎氏の内閣の時には、私人としての言動の揚げ足取りばかりを行い功績を無視しています。同じ様なことを民主党政権でも行っているだけでしょう。しかし、フジテレビへの5000人前後のデモはマスコミでは報道されることもなく、海外での反捕鯨でもは20人くらいでも報道という、公正とは言えない報道傾向は明らかです。

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