失う者、失わせる者は誰か

福島原発事故の収束は未だ先が見通せず、恐らくはかなりのロングレンジで居住不可エリアができるであろうことは想像に難くない。
ここにきていくつか気になることがある。
それは「避難するべき」という問題と、「避難できない」という問題をどう考えるか、である。
※ここで言う避難とは中長期の「転居」もしくは「移住」という意味合いで考えて頂きたい。

一方では「被曝リスクの見積もりがどうしても精緻にできない以上、避難すべき」であり、もう一方は「被曝リスクの見積もりは一定以下では判断不能なのだから、避難するかどうかは自主判断であるべき」である。
さて、ここで問題になるのは基本的には以下の点になるだろう。

1:果たして避難の必要があるとして、それを強制することはできるか
2:避難するリスク、避難しないリスク
3:避難しなかった場合、それがどのような意味を持つか
4:このことから派生して考えるべきことは何か

■終わらない夢、覚めない夜
果たして中長期に転居・移住を強制することができるのか。
まずこの問題の場合、「災害対策基本法」がベースとなるであろう。
極めて多岐に渡る条文の中で、居住に関する部分は下記である。

    第三節 事前措置及び避難

    (市町村長の避難の指示等)
    第六十条  災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、人の生命又は身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者、滞在者その他の者に対し、避難のための立退きを勧告し、及び急を要すると認めるときは、これらの者に対し、避難のための立退きを指示することができる。
    2  前項の規定により避難のための立退きを勧告し、又は指示する場合において、必要があると認めるときは、市町村長は、その立退き先を指示することができる。
    3  市町村長は、第一項の規定により避難のための立退きを勧告し、若しくは指示し、又は立退き先を指示したときは、すみやかに、その旨を都道府県知事に報告しなければならない。
    4  市町村長は、避難の必要がなくなつたときは、直ちに、その旨を公示しなければならない。前項の規定は、この場合について準用する。
    5 都道府県知事は、当該都道府県の地域に係る災害が発生した場合において、当該災害の発生により市町村がその全部又は大部分の事務を行うことができなくなつたときは、当該市町村の市町村長が第一項、第二項及び前項前段の規定により実施すべき措置の全部又は一部を当該市町村長に代わつて実施しなければならない。

    第四節 応急措置

    (市町村長の警戒区域設定権等)
    第六十三条  災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、人の生命又は身体に対する危険を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、警戒区域を設定し、災害応急対策に従事する者以外の者に対して当該区域への立入りを制限し、若しくは禁止し、又は当該区域からの退去を命ずることができる。

    (応急公用負担等)
    第六十四条  市町村長は、当該市町村の地域に係る災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、応急措置を実施するため緊急の必要があると認めるときは、政令で定めるところにより、当該市町村の区域内の他人の土地、建物その他の工作物を一時使用し、又は土石、竹木その他の物件を使用し、若しくは収用することができる。

言うまでもなく、これは第四節は緊急措置であるため、永続的とも言える中長期の措置としてこれを援用することは拡大解釈に過ぎるだろう。
では第三節はどうか。これはどちらかと言えば事前措置であり、これもまた中長期の措置として援用することは難しいだろう。

もうひとつの関連法として「原子力災害対策特別措置法」がある。

    第三章 原子力緊急事態宣言の発出及び原子力災害対策本部の設置等

    (原子力緊急事態宣言等)
    第十五条  主務大臣は、次のいずれかに該当する場合において、原子力緊急事態が発生したと認めるときは、直ちに、内閣総理大臣に対し、その状況に関する必要な情報の報告を行うとともに、次項の規定による公示及び第三項の規定による指示の案を提出しなければならない。
    一  第十条第一項前段の規定により主務大臣が受けた通報に係る検出された放射線量又は政令で定める放射線測定設備及び測定方法により検出された放射線量が、異常な水準の放射線量の基準として政令で定めるもの以上である場合
    二  前号に掲げるもののほか、原子力緊急事態の発生を示す事象として政令で定めるものが生じた場合
    2  内閣総理大臣は、前項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、原子力緊急事態が発生した旨及び次に掲げる事項の公示(以下「原子力緊急事態宣言」という。)をするものとする。
    一  緊急事態応急対策を実施すべき区域
    二  原子力緊急事態の概要
    三  前二号に掲げるもののほか、第一号に掲げる区域内の居住者、滞在者その他の者及び公私の団体(以下「居住者等」という。)に対し周知させるべき事項
    3  内閣総理大臣は、第一項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、前項第一号に掲げる区域を管轄する市町村長及び都道府県知事に対し、第二十八条第二項の規定により読み替えて適用される災害対策基本法第六十条第一項 及び第五項 の規定による避難のための立退き又は屋内への退避の勧告又は指示を行うべきことその他の緊急事態応急対策に関する事項を指示するものとする。

さて、ここでは根拠法は「災害対策基本法第六十条」となっているように、実際のところ基本的には「中長期」のそれは「想定されていない」というよりも「欠落している」と言っても良い可能性がある。
原発立地自治体における緊急時対応や訓練が概ね原発事故(もしくは緊急事態)が1日から数日で落ち着くことを想定していたことを考えれば、これは何も不思議なことではない。

そもそも我が国において、災害であろうとも「住居」は「私有財産」として「極力国が関与せざるもの」であり、復旧・復興にあたっても「自立再建」を求められる性質がある以上、逆説的に言えば「恒久的にそれを取り上げる」に等しい「居所の強制的かつ永続的立ち退き」は法的には極めて難しく、また「考えたくもない」事項であったに違いない。
そうであったからこそ、一坪地主のような抵抗運動が一定の効果を上げた側面がある。
ここで日本国憲法の下記条文が思い浮かぶ方もいるだろう。

    第三章 国民の権利及び義務

    第二十二条  何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

基地や空港といった公共インフラは確かにこの条項に関連するものであり、ある程度の制約も止むを得ない側面はあるだろう。
しかし、逆に今回の場合は「公共の福祉に反しない」どころか、「個人の福祉」である。

このように「強制的に転居させる」ことは「法的には難しい」と言わざるを得ないように思える。
いかにそれが「放射線」「放射能」による影響があろうとも、短期・緊急避難であれば別として、中長期または半永続的にそれを行うことは、憲法に規定される国民の権利を損なう可能性がある。

また、何より災害対策基本法は「市町村長」が主導でこれらの指示を出すことになっている。今回のように「市町村全域」をそう指定せざるを得ない事態である場合、短期間ならまだしも中長期に渡る場合、市町村自体の自死とも言うべき強制避難指示などをその当該首長が出せるだろうか。
恐らくは出せまい。そして出しても出さなくても非難の嵐となるだろう。
一方では「生命に対する重大な危険」という見解での非難となり、もう一方では「永久に故郷を捨てろということか」という見解での非難となる。
住民にとって悪夢であると同時に、どちらを選んでも苦渋となる覚めない夜である。
希望という陽が昇るのがいつになるのか、それは誰にも分からないのだから。
明けない夜はない、とは言うが、いつ明けるか分からない夜、というものは確かに存在する。

■郷里を失う者、郷里を求める者は誰なのか
まず考えなくてはならないのは、果たして強制できない場合(それでも何らかの根拠法ないしは行政命令により最低限の区画は強制退去・侵入制限区域になるであろうが)、それでも相当程度の被爆リスクが残るであろう地域の住人にとって、避難することも残ることも、どちらを選んでも茨の道となることである。
前段で述べたように、恐らくは首長に突き付けられる市町村自体の自死に近い決断を、今度は個人レベルで突き付けられることになるからだ。
低線量被曝について、どの程度ならば問題がないのか、という点についてはICRP(国際放射線防護委員会)においての近年の議論でも度々勧告が延期されるほど、多くの点で議論が紛糾する問題でもあり、単純に「危険だ」とも「安全だ」とも言い切れない側面がある。
少なくとも2001年の段階でも閾値があるとも無いとも言えるような報告書はNRCP(アメリカ放射線防護測定委員会)から出ていたりもする。1999年のICRP委員長ロジャー・クラーク氏の論文では、そもそも「生物学的リスクを評価するためには、発がんに関わる細胞機構を明らかにすることがいっそう重要」というところまで原点に戻るような状況だったのである。加えて言うならば、「たった1個あるいは数個程度の放射線の飛跡でも、人間にがんを起こす」というようなジョン・ゴフマン氏のような極端な発言は、NLTモデル(=「閾値なし直線モデル」)を採用するにしても、いささか過剰であるようにも思える。
例えば、医療用放射線の使用に対するリスクとしては「医療上のメリットが放射線使用のデメリットを上回る」といった見方もある。
そもそもNLTモデルは広島・長崎のデータをモデルとして組み立てているが、それに対しても「あれは高線量被曝であり低線量被曝には適用できない」という見解から、「広島・長崎では生き残った“じょうぶ”な人しか統計対象になっていない」という見解まで、リスクを高くも低くも見る見解がある。
また、HBRA(高自然放射線地域)の30年以上に及ぶ長期調査(主として中国政府)においては、自然放射線レベルの3~5倍といった高自然放射線地域においても疫学的に健康への優位差は無い、とする結果が出ている。
もっとも、リスクを高く評価するものも低く評価するものも、それぞれに評価を出す側の意図・意識があり、全てが全てを信頼できるかと言えばそうではない、ということも考えねばならない。

これらを踏まえた上で、今回人為的に高放射線地域を現出してしまった状況において、最低限の退去エリア“外”であるが、日本で平均して見られる自然放射線よりは遥かに高くなるであろう地域において(その地域をどのように設定し得るかは今後の政府判断により変わるだろうが)、「それでも避難する」人と「それでも避難しない」人に分かれることになるだろう。
もちろん妊婦・児童においては可能な限りリスクを避けるべき、という観点から避難を推奨すべき、という考えはあるだろう。
一方で、では少なくとも平均余命で見た場合折り返しを過ぎている人(普通に生活していても疾病リスクが高まる人)や、若いとはいえ自らの意思で残ることを選択した場合、果たしてそれらの「自主判断」はどう考えるべきであろうか。
一つだけ言えるのは、全国的に景気の停滞・減速があるため、恐らくは残っても残らなくても仕事・収入には「困るだろう」という点があるだろう。
全国的に就業すること自体が困難を極める時代において、東北諸地域は原発事故だけではなく震災そのものによって経済に大きな影響(そして確実に一部では回復不能な経済の空洞)が出ている。
この時、「移住リスク」「残留リスク」という問題は難しいいくつかの問題を孕むことになる。まずいずれにしても経済的困窮に見舞われる可能性が高い、ということである。そして、「慣れない環境」と「慣れてはいるが心理的不安を抱えざるを得ない環境」という二つの選択しか「残されていない」ということもある。
長期且つ広汎な健康調査が行われることは良いとして、低線量被曝の影響・リスクを考えたとしても「それでもなお郷里を再建したい」「最後まで郷土に残りたい」と選択する人を、「被曝リスクを考えない馬鹿」と罵ることは簡単だが、そうでなくとも「リスクを踏まえて戻る、残る」という選択自体が心理的葛藤であるにも関わらず、そこに追い打ちをかけるようなものでもある。もちろん避難したところで、慣れない環境において体調を崩すといったことは容易に表れることでもあるし、血圧・血糖値のようなものはそういったことに敏感に反応するものでもある。
譬え戻る・残り郷里を再建するという選択それ自体が絶望的なまでに困難であり、また負荷があるものであったとしても、簡単にそれを否定することもまたできないだろう。
少なくとも、どう考えても居住不能という福島原発至近(という言葉が妥当かどうかは分からないが)は残念ながら強制的侵入制限地域になるとしても、それ以外の地域について、郷里への個々人の想いもまた、尊重されねばならないのではないだろうか。
だからこそ制限地域の設定は慎重に成されなければならないだろうし、一方ではその範囲は可能な限り「狭い」方が望ましいだろう。
その上で、少なくとも情報(モニタリングを含む)は最大限継続的に公開されるべきであるし、また低線量被曝に対して賛否・可否両論があるならばそれはいずれもがしっかりと提示されるべきでもあるだろう。
そして、「戻る・残るリスク」「移るリスク」というものは、質の異なる(良し悪しではない)リスクであるのだから、そのいずれのリスクを選択したとしても、それを国・社会全体として支えていかねばならないだろう。「がんばろう日本」という標語がややもすれば気分的にすっきりしない標語であることはあるとしても、本来この「がんばろう」はこのいずれのリスクに対しても最大限支援していこう、という意味での「がんばって支えよう、日本全体で」であるはずだ。
立ち返るべきは「郷里を汚染されて」という現実は第三者ではなく当事者そのものの現実であり、その「郷里」が重みを持つのであればなおのこと、「戻る」という選択に対して十全の支えを行わねばならない、ということでもある。
限界集落が時として、社会インフラが機能不全寸前であってもなお、そこに残る者の意思によって存在するとき、第三者が安易に「無人の郷里」をもたらす選択ということをすべきかどうか、という点にも通じるものがあるようにも感じる。
今回事故に伴う長期リスク評価の難しさはまさにそこにあるわけだが、「安全だ」と言う側も「危険だ」と言う側も、あまりに安易に言葉を持ち出し過ぎるように思えてならない。
かつてアイザック・アシモフ氏は「賢明な決定は、現在と将来の考慮による」と述べたそうだが、これから行われるであろう選択はまさに現在と将来(それは個々人の将来でもあり、地域共同=郷里の将来でもある)との考慮の上に成されなければならないだろう。
危険、安全だけでは測れない部分(グレーゾーンもしくは許容限度をどこに置くか、という部分)は存在するだろうし、その存在それ自体は許容されねばならないのではないだろうか。ゼロリスク思考の危うさは、そのリスク評価故に他者の、そしてその郷里そのものの消滅をも生みかねない、という点にあるように思える。

(参考)
最近の低線量被曝の影響に関する話題
ICRP新勧告の発効は2007年に?線量拘束値の導入に日本が強く抵抗
低線量放射線被曝とその発がんリスク

■失われるもう一つのもの
郷里、という言葉で捉えた際、原発に限らず太陽光・地熱・風力・水力・火力いずれもが何らかの形でその風景を一変させるのは間違いないだろう。
代替電源開発を進める、ということはその選択を行う、ということでもある。それがどれだけ過疎地だろうが、そこには人が住んでいるのであり、現状では原発の稼働を止めていけば、別の郷里を改変・消失させていく可能性は決して低くはないだろう。
だから「現状の原発を残せ」と言うわけではないが、少なくともそこのところには自覚的でありたいものである。
「自分のところは関係ない」という話ではない。もちろん、いわゆる都市部に住む自分は(郷里もここであるわけだが)、電力は消費する側であり、恐らく大規模な電源プラントの立地にはなり得ない、ということは十分に理解している。
だからこそ、そこに自覚的ではありたい。今回の事故とその後の経過を見て、それは「失われる郷里」とともに「失われゆく郷里」として眼前に突き付けられている課題でもある。
電力が無ければ経済も回らず、生活も立ち行かないほどに、十分に電化されてしまった生活において、それもまた何らかの選択をせねばならない課題なのだ。
この課題は「危険」「安全」とは違う、もう一つの選択なのである。
その喪失が風景であれ、地理的意味での居住する土地そのものであれ、そこには必ず「郷里を失う者」が存在するのだ。

最後に、敢えて「生存の意味への意思」という点で下記を御紹介しておくことにする。

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失う者、失わせる者は誰か」への1件のフィードバック

  1. タカ派の麻酔科医

     十津川村と北海道の新十津川市のことが、テレビで扱われていましたが、自然災害で居住不可能となれば当然のこと、そこには住めません。海岸地域の場合にも沈降し海面下となれば居住できません。
     放射性物質による汚染の場合には、土地は存在しますが、人が安全かつ健康に生活できる場所ではありません。
     閾値の問題を上げていますが、放射線による影響は、生物の多様性の問題もあり、確率的な直線的な問題も存在するので、自然放射線の量を超える場所を永久的避難対象地域とすることもやむを得ないでしょうし、除染作業中には、大気中に放射性物質が飛散する可能性が否定できませんから、強制的な避難を合法的に行う方便が必要でしょう。

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