陰謀論とエア御用論

東北・東日本大震災以降、あちらこちらで陰謀論が出回っている。中には荒唐無稽なものも多いが、中にはそうではない「かもしれない」ものもある。
陰謀論の多くは「政府が」というものであって、中には「東電が」または「電通が」といったものもあり、また複合的にそれらを組み合わせているものもある。
では、それらの多くが「聞く価値があるものなのか」というと、それもまた別問題であることは言うまでもない。

■何故陰謀論がダメなのか

まず、陰謀論とは何か、という点。
陰謀論の本質は、その「非証明性」にある。
陰謀論は当たり前のことながら「証明」されなければ、そもそもその存在自体が「非存在」であり続ける。
そして、多くの場合、その証明は「成されない」ままに、その陰謀論のみが独り歩きすることになる。
それは、「~であるのは、~の陰謀であるからだ」という形を取る(「陰謀」という呼称を使うかどうかは別として、そのようなニュアンスの言説を取る)。
このとき、ほぼ例外なく言えるのは、それが「証明されていない」という「現在」の状況が存在することにある。
この言説の問題点は、「陰謀論が無いことを証明するのは事実上不可能に近い」という悪魔の証明的内容であり、逆に言えば、それが証明されてしまえば、殊更に「陰謀論」などという形態を取らずとも非難可能である点にある。
というのは、陰謀というのは「隠されてこそ」陰謀なのであって、証明されてしまえば、それは「犯罪」なり「詐欺」なり「欺瞞」なりの言説は妥当だとしても、「証明後になお陰謀」と言うだけの意味を持たないからだ(罪状がはっきりとすればそれで追求可能であり、それがたとえ道義的問題であったとしても、また同様だ)。
加えて、「陰謀論」の取る形態の問題は、それが「肝心な批判先との共存関係を生む」ことにある。
その一つは、陰謀論がそれとして成り立つためには「陰謀」でなければならず、「陰謀」であるためには「明かされていない」ことが重要であるからである。
というのは、「陰謀」それ自体が「明らか」になってしまえば、そこには「陰謀論」の根幹とも言うべき「想像力」の働く余地がなくなってしまうからだ。
それは流布され扇動されるべき「陰謀論」としての魅力を大きく減じることになる。
しかし、さらに問題なのは、下記の言葉が端的に表しているだろう。

つぎに、破棄されてしまったり、長期にわたり公開されない公文書と陰謀論の関連をみると、たがいに助け合っているようなところがある。想像力豊かな著述家たちには都合良く、そうした文書にこそ秘密が隠されているということができる。そうでなければ、なんで破棄されたり、非公開だったりするのかというわけだ。その一方で、センセーショナルな説が出てくると、役所の側ではますます「微妙な」文書は公開しない方が身のためだと考えるようだ。陰謀論者と公文書管理者らとは敵対関係にあるようにいわれるが、実は両者の間には相互依存の要素も見られる。また、陰謀論では政策決定者は常に事態をコントロールしているのだという幻想を抱かせてくれ、安心できるという面もある。政府は思いがけない出来事に右往左往すると考えるよりも、そちらに引き付けられがちだ。
(「日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争」著:リチャード・オルドリッチ、訳:会田弘継、P.145~146)

これに加えて日本では「公文書」そのものの「保管」についての大きな問題があるのだが、それはここでは触れない。
しかし、この最後の部分における「常に事態をコントロールしている」という前提がなければ、そもそも「陰謀論」の生まれる余地はない、とさえ言える。
なぜなら、陰謀論の多くは「このように~を無視(または軽視)しているのは、~があるからだ」という形を取るからだ。
簡単に言えば、そこが「無能で右往左往しているからだ」となってしまえば、そもそもそこに「陰謀論」など介在する余地がなくなってしまう。

陰謀論の最悪なところは、ここに集約されると言っても良い。普段罵倒してやまない「無能な政治家」が、自身にとって(これは国民にとって、でも良い)都合の悪い(または結果として被害を拡大する)判断・政策を決定したとして、それを「陰謀論」に帰することは、それが「政治家の常に事態をコントロールする」という、本質的「有能さ」を自ら「投影」することになる点にある。
この時、政治家は、その「右往左往」という実態を「暴露することなく」、逆に陰謀論によって「事態をコントロールすることができる」という「(その評価の正負は別としても)有能さ」を印象付けることさえできる。要するに「あからさまな過大評価」であるが、過大評価は「ある意味での」政治的有能さでもあり、そこから「実は右往左往していたんですよ」という実態を「覆い隠す」点において、「その陰謀論を黙認すること自体が『(ありもしない)有能さ』を間接証明する」意味合いさえ持ち得てしまう。

自分にはこの種のもたれあいは、「あのときは精いっぱいがんばったのだから」という「根性論(これは日本の悪しき評価の一つでもあり、肯定すべき評価の一側面でもあると考える)の、半ば「間接肯定」にもなり得る。
加えて「無能」であるが故に「失敗」したことを、あたかも「陰謀」という「有能故に成し得る判断」という、「放逐すべき人間に対しての『ある種の肯定評価』」をも生み出し得るし、実際問題として「何が問題の本質なのか」という点を覆い隠す効果さえ生み出し得る、という点で、何重にも問題があるだろう。

■問題の焦点をどこに据えるのか

当然人間である以上、必ずしも「合理的」判断に拠るものが最適かどうかは「政治的判断に拠る」側面が多いわけだが、それをどこまで「是」とすべきかどうか、という問題は当然「別の政治的問題」に関わる。
自分が広告代理店勤務であった過去の経験と知見という極めて狭い範囲で言えば、日本で「比較広告がないのは、大手2社(ないし3社)が、広告出稿の大半を押さえているからだ」という話はよくあった。
これは、例えば「電通」(これは博報堂でもADKでも良いのだが)が、「部署ごとに同業(競業)他社」をクライアントにもっている場合、片方を「貶める(比較広告の大半はこれである)」ことは、結局トータルで「自社」の利益を損なうことであるので「行わない」という暗黙のルールがある、というものである。
逆に言えば、他国ではそういった「ナショナル」規模で出稿枠を押さえ、競合をも含めて1社で抱える、ということが「あまりない」という認識の裏返しでもある。
しかしながら、この問題というのは、実際のところ、テレビ局・新聞(加えて一部は出版も)が系列として「ナショナル」である、という問題への追及に至ることは、あまり無い。
加えて、読売と朝日のような、いわゆる「ライバル」関係と目され、時として相手方への批難と推定可能な記事が載ることはあるが、これとて尻すぼみで終わることが多いのは「どちらの側へも1社の代理店が広告枠をある程度押さえているからだ」と言われることがある。
では、これが「電通」(度々引き合いに出して申し訳ないが業界ダントツトップということで許されたい)の問題か、というと、話はそう簡単ではないのである。
そこには「電波の問題」(いわゆる電波オークション方式を取るべきか否か)があり、また「タスキ掛け」(いわゆる電波・新聞の両メディアを抱える企業形態が是か否か)があり、これは簡単に言えば「国民の知る権利」の問題にも関わる問題で、政界の疑惑が少なからず「タブロイド系週刊誌(この場合のタブロイド系、というのは資本家関係の有無ではなく、「売れればセンセーショナルな方が良い、と判断できる雑誌を指す」)の「執拗」な連載がきっかけであることも少なくないことからも、問題の本質は「メディアと広告費の関係」であり、「メディアそのものの『たすき掛け』の問題」をも孕む問題であることは容易に指摘可能であるが、そこに「陰謀論」を加えた瞬間に、それは「タブロイド誌」の面白可笑しい話の延長線上でしか、その問題が指摘できなくなることにある。
残念ながら日本のメディアは極めて「企業的」であって、その「使命感」というものには「無縁」であり(過去の朝日の「ジャーナリスト宣言」などは滑稽極まる自社広告なわけだが)、その一つの(あくまで一つの、という点は留意されたい)要因は「無記名記事だらけ」という、「文責・編集責任の曖昧な責任体制」にあると言わざるを得ない。
これを「匿名・実名論争」につなげるのもまた一面での誤った捉え方なのではあるが、もし本質的に「陰謀」が隠されているのであれば、それを暴くのが「メディア」の一つの役割であるだろうし(役割であろう、と考えるが)、それを執拗に取材し連載し暴くのは「メディア」の一つの役割であろうし、もっと言えば、それが「陰謀論などではなくただの無能無策」であったとしても、それを露呈させるのもまた「メディア」の役割であろう。
少なくとも「第○の権力」を自覚するのであれば、そうでなければならないだろうし、仮にそれが「期待過剰」であったとしても、それを「求め続ける」ことは、決して国民の「負」にはならないだろう。

■だがしかし・・・

今回も半年の間に、「地震兵器」やら「質量兵器」やらが飛び出し、はたまた「わざと爆発させた」だの「モサド」だの「CIA」だの、ありとあらゆる「陰謀の主役」が飛び交ったといっても過言ではないだろう。
加えて、放射線測定におけるホットスポット探しでは、「測定方法の間違い」から「全く別の放射線源の問題」まで、その報道の当初は必ずといって良いほど「政府は実態を隠している」と主張する人間が現れ、その多くは事実上の問題が何処にあったかが明らかになっても撤回はしないか、または「こっそりと主張を書き換える」といったことを平然と行っている。
こういった事態を招くのは、その種の「~の陰謀」に類する主張がそれなりの一定の共感ルな内容」を発信しよう、という心理もまた働いているだろう。
しかしながら、そういった心理的土壌に付け込んで、まったく証明もできなければ根拠もない陰謀論を説くのは「厚顔無恥な扇動」の類であって、議論を行い、より好ましい方向へと政策を誘導していきたいと望むのであれば、そのような言動は厳として慎むべきであろう。
ましてや自分がそれを立証できないことを「陰謀」だの「陰謀論と受け取られても構わない」などと公言することは、自身の言論への大きな棄損になるのだから、止めた方が良いだろう。

また、その種の「陰謀論」に対して、個人的趣味として「SF小説を読むかのように」楽しむのは一向に構わないが、それを真に受けて行動するのは慎んだ方が良いだろう。もちろん放射線被害に対する警戒、またそれを避けようとする姿勢は問題があるわけではない。しかし、それ故にこそ、その種の陰謀論を盲信していけば、次にはよりセンセーショナルな陰謀論や全く別の陰謀論が登場し、際限なく疑心暗鬼が膨らむことになるのであって、それはより「適切」な判断からは遠ざかる可能性が高まることになるだろう。

■エア御用論と陰謀論

日本では「空気」と呼ばれるある種の同調要素が「強い」とされているので、必ずしも明文化・明確化されない「緩やかなシステム」的要素が無いわけではないのだが、「エア御用論」も陰謀論に似たある種の「証明不要性(または非証明性)」を帯びていると言えるだろう。
「エア御用」というのは、簡単に言えば「政府を利する主張を述べる存在」であり、本来であればそれ自体は「正負の評価を持ち得ない」はずのものである。
というのは、政府の判断が正しい(もしくは適切である)とされる場合、その存在は肯定されるのだろうし、そうでなければ否定されることになるからだ。
ここで問題になるのは、「御用」という言葉の持つ極めて「否定的」ニュアンスになるわけだが、それが問題なのは要するに「正負の判断が正しいか誤っているのか」ということとは「無関係」に「御用」という言葉が「負の評価」をもたらす点にある。
学問的に係争ないしは論争のある問題に対して、自身の研究や実績から何かを主張する場合、その評価は当然「政府を利するかどうか」という判断「では評価し得ない」はずであって、結果として「政府の誤った判断を助長した」場合であっても、その見解を採用した(またはそのような主張を出すよう求めた)政治の側の問題の方が本質的には大きい問題であるはずである。
例えば、政府の各種諮問会や委員会における「民間委員」と呼ばれるものは、多くの場合「まるでお飾り」であることは過去にも度々指摘されていたが(だからこそその形骸故に報酬が批判されていたはずだ)、その影響の軽さと比べても「エア御用」はさらに政府との関係は薄く、場合によっては何らの関係も持ち得ないことがある。それにも関らず「エア御用」と呼び、「政府を利する」と糾弾する場合、それは「政府を利する意図」と「純粋に自身の見解に基づく主張」とは「本質的に区別不能」なのであって(そもそもどのような弁明を加えても「主張故に糾弾される」のであれば、意図は無関係となってしまう)、それは「陰謀論」にも似た「答え在りき、証明不要(または不能)」の言説と極めて似た構図となってくるだろう。

もちろん政府の判断は誤ることも多々あるだろうし、当然のことながら右往左往しているだけのこともあるだろうし、はたまた「事態収拾の目途がつくまで」と後回しにしていただけのこともあるだろうし、その一つ一つは当然批難も批判もできるだろう。
だいたい、政府が方針を180度転換させた場合、それに合致する主張を行う「政府とは必ずしも関係を持たない」言説は、今度は以前批難されていた言説とは真逆の主張が「エア御用」になるはずなのだが、果たしてそういった批判を加えるだろうか?加えないだろう。
それは「エア御用」そのものが「政治的に負のニュアンスを持つ」からに他ならず、そうであるならば、「エア御用」といった批判は本質的問題が何か(政策決定過程、政策決定根拠、それを採用した判断の妥当性・合理性等)から「目を反らし兼ねない」危険性さえあるのであって、陰謀論のより「悪質(これは扇動性という意味ではない)」とさえ言えるだろう。
陰謀論は少なからず荒唐無稽さがあり、それ故の批難・判断も可能だが、「エア御用」なるものはそうではないからだ。
仮に学術分野で全く芽が出ずとも、それが「この主張が世に出ないのは学会のエア御用どもが云々」とやっていれば、少なくともそれだけで「あたかも自身に正当性・妥当性があるかのような」ニュアンスを作りだすこともできるだろう。
当然、金銭関係・役職関係だけで全てが判断できるわけでもないし、人脈で判断が可能なわけでもないが、そのような批判は「合理的」でもなければ「妥当性もない」。

例えば自分の親族には元銀行関係や元医療関係の人間もいるのだが、自分が銀行や医療の問題で現行の(もしくは過去の)何らかの判断を「支持」した場合、そういった人脈(というか親類関係)だけで、その判断根拠があたかも「それを擁護する」目的で書いたかのようなことを批難されれば、当然自分は「否」というだろうが、批判する側はそれだけで十分「根拠」としてしまうだろうし、そのことであたかもその「的外れの批判」が「妥当」であるかのような「空気」を生みだすこともできるだろう。「エア御用」というものがやっていることは、その目的・意図はどうあれ、本質的には「全く同質のこと」だと言えるだろう。

状況証拠のみでそれとして「疑念」「疑惑」を持つことは、それとして一つの判断で、それ自体は批判されるべきものだとも考えないが、もし「状況証拠」のみでそれを主張するならば、それは更なる情報の集約と、その「陰謀論から脱却し得ないレベルの想定」に対して、その「疑念」「疑惑」が「裏付ける」ように努めるべきであるだろう。
それ無しに開き直るのは、言論を扱う人のすべきことではないと考える。

■たった一つだけ「陰謀論」が許される状況

それは陰謀が「暴かれた」場合のみである。陰謀論が本質的に「非証明」であることで大きな欠陥を抱えている以上、実際は「証明」されれば「陰謀論」などを取る必要もなく、事実が明らかになった後、それが批判・批難に値するならば、当然その検証と総括をすれば良いのだが、それは「何故そのような判断をしたのか」という背景と根拠を求め、その誤りを明らかにし、それを今後に活かすためのものであって、「陰謀があったかどうか」という「陰謀の証明」で終わっては何も得るものがないのだが、それでも「証明された陰謀」というのは、それとして「陰謀論」としてはまだ「証明された内容については」妥当性を持つものになるだろう。

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陰謀論とエア御用論」への1件のフィードバック

  1. 陰謀論はダメだという事が結構わかってくれない人って多いんですよね・・・
    明かされた陰謀は陰謀ではなく、事実ですし・・・

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