日別アーカイブ: 03/26/2012

表面的愛国心に拘る狭量 ~国旗・国歌の問題に寄せて~

国旗・国歌の強制。
またぞろ阿呆な連中が阿呆なことを画策しているので、再びここで強制に反対の旨を表明しておくことにする。

以前と同じことを書くのも芸が無いので異なる方向で書いてみよう。

第一 強制することで愛国心などは芽生えない

最も重要且つ本質的問題だが、強制されて国歌を歌おうが国旗を掲揚しようが、そんなものでは断じて愛国心など芽生えない。芽生えるはずがない。
もしそれが芽生えると言うのなら、試しにそれを求める人間を何人がピックアップしてインターナショナルを徹底して強制し、それによって共産主義者になるかどうか試してみれば良い。
強制は反発を生む。それは自明のことでさえある。面従腹背の場合もあろう。
形がいかなるものであれ、強制などしても得るものなど一つもない。
教員の口元を観察するなど阿呆の極みである。
口を動かしていれば愛国者なのか?歌っていれば愛国心があるのか?
そんなチンケな愛国心なら便所にでも流してしまえば良いのだ。
その程度のものであれば、その程度で消えてしまうだろう。

第二 国旗・国歌に対して「反日」などの文言を持ち出すことは最高裁判決の趣旨に反する

現在までのところ、教職の現場における裁判係争では概ね「職務命令は憲法19条(思想・信条の自由)に違反しない」という判断となっている。
その理由は「起立斉唱行為は学校の儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質」を持っている儀礼的行事の一環であり、そこに特段の思想・信条の表明ないし強制を「認めない」からこそ「合憲」、ということでもある。
裏を返せば、そこに現政府(または現国家)への忠誠の踏み絵としての機能を持たせることは、翻って現在までの最高裁判断(合憲判断)に対して重大な疑義を挟む可能性がある。
それこそ思想・信条を以って最高裁の判断を覆すべく裁判に訴えることは自由であり、それを咎める理由はない。
そもそも愛国心とは時の政権の如何に問わず、愛郷心から発展したものであれば尚のこと、そのような行為の有無を以って判断するようなものではないだろう。
逆説的に言えば、「日の丸・君が代」に対し「国を愛するが故に反対する」という立場も当然存在し得るのであり、本質的に国旗・国歌のそれを以って愛国心を云々するなど、仮初の愛国心で上っ面でしかないだろう。
また、伝統を教え、尊重させたいのであれば、尚のこと外形的な式典でのそれよりも、本来的教育の場でこれらをしっかりと教えるべきであろう。教えるべき内容は後述する。

その上で、今ひとつ別の点からの見方を提示しておきたい。

第三 国旗・国歌は成文法により定められたものである。

この点は非常に重要である。
1999年に国旗は日の丸、国歌は君が代として成文法で規定された。
従来は慣習法として用いてきたものであるものが、ここで初めて成文法となった。
逆に言えば、慣習法という極めて変化に対して強固な側面があるそれに対して、成文法では法律の文言を変えることで変更が容易になった側面がある。
当然のことながら日本国憲法はこれらの改廃を議論することを禁止していない。
成文法とすることは法令制定当時の教育現場の影響が大きいのではあるが、これを堅持したい側にとっても当然諸刃の剣となる。
個人的には日の丸は明治期以前より商船旗等で習慣的に用いられてきたものであり、変える理由を特段認めないし(意匠としても極めて優れているため)、君が代についてもいくらかの変遷を経ているとはいえ、古今集に原型を見る賀歌であり、特に「君」についての解釈もそれが「天皇」ないし「王朝」を指すのか、より広く一般的な言葉であるのかは議論を分かつところではあるが、それだけ柔軟な解釈ができるものであり、別段「天皇」を指す必要もなく、それぞれがそれぞれの心の中で思い浮かべる「君」であって良い歌だと考えるので、これも変える理由を特段認めないが、改廃を求める議論についても否定するものではなく、必要であれば成文法を変えれば良かろう。
(卒業式等であれば「君」は「恩師」であっても、育ててくれた「親」や親以外の「育ての人」であっても、一向に構わないだろう)

第四 最高裁判決の中にも補足意見があることに留意すべし

第二で述べたように、基本的には儀礼進行の上での職務命令としてのそれは最高裁において妥当である旨の判決が繰り返されているが、その判決においてもいくつかの意見が付されている。
その一つは「思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」が儀礼進行上必要な制約である、というものであり、いま一つは「処分は抑制的にすべし」というものであり、またもう一つは「国旗・国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要」というものである。
個人としては一番最後のものが最も重要な、国旗・国歌に対するスタンスであろうと考えるが、果たして口元をチェックするなどといった行為がそれを促したり抑制的処分のための行為と言えるだろうか、という点は疑問がある。
また、公行事への参画は、それが生徒にとって半ば義務的なものであったとしても、社会参画の一歩でもあり、その公行事をどうすべきか、という点はある程度生徒の手に委ねても構わないと考えている。
従って、文部省通達や学習指導要領のような一律の形で式典の有り様を規定することが望ましいのか、という点において、疑問があることは表明しておく。その上で、儀礼は儀礼として進行するのが望ましい。
ただし、生徒の自主性に委ねるにあたって、日の丸・君が代がどこまで遡って源流を持つものであり、近代に至るまでにどのような経緯を辿り、また近代において戦前どのように扱われ、また戦後それがどのように扱われてきたか、を教えた上で判断させるべきだと考える(当然1950年代に日教組が新国民歌を選定したがまったく定着しなかったことも教えるべき)。
この点で、文部省通達や学習指導要領の規定は国旗・国歌に対して外形的側面に拘り、それが尊重されるために必要なことを全く規定していないのではないか、とさえ感じるものであり、それこそ上っ面に拘り、これを軽んじるものであるとも考える。

なお、陛下の御心についてはここでは触れないことにする。
付帯事項としては、天皇否定論者の中で、日の丸・君が代よりもより直裁に「天皇」に繋がるであろう菊花紋章を用いているパスポートに対して、より強烈な反対運動が起きないのは全くもって謎である。
また、併せて国旗・国歌が仮に国民の意思に基づき変更された場合も、自分は現在と同程度には尊重するであろうこともここに表明しておく。日本は民主主義国家であるはずであり、成文法の改正にはその過半(と一般に判断されることになる手続き上の議員)の支持によって改廃されるのであろうから。

広告