夏場を迎えつつある今だからこそ考えたいこと

大阪では産業界のみならず議会も阿鼻叫喚になりつつあるようだ。
もちろん「節電」に対して、である。
今更維新連中が散々煽った「足りてる」「関電の需要予測は嘘だ」「隠している電源があるはずだ」というのは無視するに足る話として、「足りないのが分かっていて関電は何をやっているんだ」という批判は、さらに今更感が拭えない。そもそも何も対策をしてこなかった、と思い込んでいるとしたら、それこそおかしな話ではあろう。供給側も努力はしているのだ。老朽火力の復旧及びメンテナンス延期(!)までやっているのだから。
現状では大飯原発を動かしたところで、それでも「足りない」様相を呈しているが、とはいえそれでもあそこは関電保有の中でも一番有力な発電施設であることには違いがない。
では大飯原発を動かせば良いのか?
正直な話、今年の夏だけ考えれば、それで窮状は緩和されるだろうが、そういう問題は応急措置と場当たり対応に類するものではあろう。少なくともこの5月も半ばに差し掛かろうかというタイミングである。真夏日は7月には始まるのだから。
そして、この割と破局的状況に至っている原因としては、いくつかの原因は上げられよう。
再稼働を求める側は、明らかに世論醸成に失敗し続けてきた、とは言える。福島原発事故が大きくは運用と設計思想の問題があり(設計面での安全措置そのものは、当初は当時としては妥当なものだったろう、しかし、その後の対応はどうか?)、それに対して毅然と、それでいて誠実に事後の方策を訴えてきたとは到底言い難い。
また、稼働するのが基本的には全基を対象として検討するのか、それとも必要最低限を目途として行うのか、はたまた新しいものに絞って行うのか、それさえもいまだ判然とせず、現状でさえ不十分との指摘もある規制庁でさえ、法案すらロクロク通っていない。
概ね見通しの甘さと、政策の優先順位の問題、何より政策設計そのものの不在が、それぞれに影響し、悪化のスパイラルをもたらしているとも言える。
再稼働を阻止したい側としても、明らかに立地自治体での世論醸成には成功しているとは言い難いし、何より「足りなかった場合にどうする」という、根本的且つ根源的問題に対して、机上の空論以下(時間軸の無視)であったり、そもそも昨夏の状況が「企業が利益・生産そのものを犠牲として達成した数字」であることを漫然と当然のこととして、またより一層の対応が可能なものとして今年に当て嵌めようとしている人さえもいる。
加えて、原発を廃止した後の廃炉をどこがどのように行うのか、それを電力会社に求めた場合、最悪は経営破綻を招きかねないという現実、そして電力政策が大きくは国策によって進められてきたにも関わらず、停止「要請」や賠償法などを見てもわかるように、責任と応能が最終的にどこに所在し、どこがそれを成し遂げるのか、といった、有事の際にもっとも最悪な問題を、半ば検討放棄してきたこともある。
他者の犠牲を「自らの主張に必要なもの」として当然の如く求めるのは、このどちらの場合でも当て嵌まり、且つ互いが「相手のみがそれをやっている」とさえ言わんがばかりの話が罷り通ってもいる。都合のよいときに相手の主張が悪い、理あるものさえ相手の主張に耳を傾けない、これはウェブ上での目立つそれに限らないだろう。

さて、その上で、自分として改めて原発の問題を考えてみたとき、いくつかの論点はあるように思える。
(1) 電力供給量の問題
(2) 電源開発の問題
(3) 資源政策の問題
(4) 人権としての問題
(5) 経済としての問題
(6) 思想としての問題
大別すればこのようなグルーピングになるだろうか。
投げやりで申し訳ないが、今年の夏については既に諦めているところもあるので、そうであればこそ、この1年場当たり的対応と地に足のつかない空中戦に終始してきた現状を踏まえ、多角的に「今後どうあるべきか」を検討すべきではないのだろうか。
問題の(1)については、基本的に過去最大供給量を現状では必要量として計算し、その上で中長期的には人口動態変化、産業構造変化を見据え、環境要因を加味してモデル設計すべきではないかと考える。そして、その上で短期的措置として必要な設計を加えていく。短期的措置を積み上げて中長期的モデルを作り上げるのは本末転倒に思えてならない。
次に(2)の問題としては、基本的な政策要件として、新規電源開発が必要なのは疑う余地がない。それがLNG火力であれ太陽光であれ地熱であれ、何であれ、だ。それは大規模電源が失われた際のリスクヘッジも加味しなければならないだろうし、当然災害リスクを低減できる場所を求めることも重要になろう。その上で、安易な開発に陥らないためにも環境アセスメントは厳に行うべきだろうし、その後の用地取得なども考えれば、短めに見積もっても5年~10年スパンの話にはなるだろう。「原発は自然を破壊し人間の生存を脅かす」からといって、別の電源で「自然を破壊し人間の生存を脅かす」事態を招いては、身も蓋も無い。
割と引き合いに出される問題として(3)の問題がある。過去の大東亜戦争が帝国主義的資源(これは消費人口としての人口パイの問題をも含めて)の争奪戦であったこと、最終的なトリガーとなったのが石油禁輸措置であったこと、またオイルショック時の狂騒が持ち出されることもある。これにはいくつか論点で省かれることがあるので補足が必要だが、現状では電源資源として石油が致命的な傷になるかどうか、というと、そこには疑問も残る。短期的問題は別としても、過去には存在しなかったかまたはあまりに効率が悪くて使い物にならなかった新電源(主として「次世代エネ」または「エコ発電」などとも呼ばれる)が、実用段階に入ってきていることである。太陽光・太陽熱・地熱・風力などがそれに該当するだろう。それらは過去にはない「国内調達可能資源」であり、一方で「安定供給源としては変動幅が大きい」という問題をも抱えている。しかし、100%の解ではないとしても、「国内調達可能」という点では活用するに値する資源ではあり、これを頭ごなしに「安定供給源として心もとない」という理由だけで投資を怠る必要はないだろう。ただし、安定しない、ということは逆に言えば、それだけ余力バッファを大きくとる必要があるし、また恒常的に供給不能に陥るリスクを抱えることにもなる。万能でもなければ万全にもなり得ない点は考慮すべきだろう。
また、石油・ガス資源問題とウラン・プルトニウムによる発電が、ある種の共犯的リスクヘッジの関係にあったことは、少なくとも政策的意図とは別として大義名分の一つだったわけではあるが、仮に車両などのガソリン消費への対応として電気自動車などの普及を促進した場合、爆発的に電力消費が「伸びる」可能性は否定できない。これは(3)の問題が(1)の問題とも密接にリンクし、また(2)の問題とも複合的に考え合わせなければならない問題であることを意味するだろう。
問題の(4)については、原発作業従事労働者の待遇の劣悪さ、下請け・孫請けの問題は指摘されている問題でもあり、それが事故を通じてより苛烈な状況をもたらしていることは事実なのであるから、廃炉にしようが稼働しようが、この問題には早急の対応を必要とするだろう。また、そもそもの従事労働者の数の確保が今後困難になる(放射線被曝量制限)可能性も視野にいれておくべきだろうし、それは稼働の有無とは関係なく、福島の現状、稼働しようが廃炉にしようが生じる核燃料処理の問題などがあるわけだから、それを放置するのはいずれの立場にしろ「他者の犠牲」を求めることに他ならないとは言える。綺麗事ではあるが、綺麗事を建前にするのであれば、それに応じた綺麗事の現実化を求めていくべきであろう。
同時に、いまだに蔓延る被災地住民差別の問題や、半ば置き去りにされ忘却されている外国人被曝者の問題など、根本的に「何もなされていないのではないか」とさえ思える問題が存在することも抜け落ちてはなるまい。
問題の(5)は、供給量の不足に企業を対応させるのであれば、それもまた国政のみならず想定される自治体レベルでも企業への補助(補助金か免税か、いろいろ手段はあろう)を通じた緊急時電源の確保促進は可能であろうが、大阪の例を見るまでもなく、そこまで考えているとは思えない。また、緊急時電源については広く利用されているディーゼル発電は基本的に環境負荷が大きく効率が悪い(低出力発電効率は酷い)などの問題があり、ガスタービン型だと給排気がディーゼルよりもネックとなり、価格も高い、という問題があるため、どちらの場合にしても新規設置には設備の設計見直しが必要となったり、またそもそもそれを「夏場3カ月フルに」といった使い方には到底向いていな現状を無視すべきではないだろう(それをやるなら非常用電源ではなく正規の電源を作った方が格段にマシ)。また、非常用電源については法令上の特例が適用されることも多く、環境面での基準ははるかに「ゆるやか」であることについては十分に留意する必要があるだろう。これは(2)の問題とも密接に関連する事項ではある(例:東京都公害防止条例において、非常用電源は騒音規制対象外となっている)。
同時に、これらの措置はどう考えても1カ月などという短いスパンでできるものでは到底ない。また、本質的に電力供給の安定性が経済活動の基本要因であることを考えれば、その責任の一端を企業の「自助努力」に求めざるを得ない、ということも意味するだろう。
加えて、(4)の問題とも関連する部分もあるが、「節電」による「操業維持困難」を理由とした工場の閉鎖・海外移転は促進される可能性もあるし、また町工場レベルだと2年続けての節電要請はそれこそ企業体としての致命傷(すなわち倒産、廃業)を生むだろう、というのは予言を要しない予測でもあり、その場合に波及する損失及び雇用喪失、連鎖倒産などに対して応分の措置はとられるべきだろう。もっとも、この「犠牲」を緩和すべく、短期・中期において新電源開発の目途がつき、稼働に入るまで一定数の原発稼働を認めるべきだ、という考えは、その点で大きな説得力を持つだろう。原発を廃止して国民が飢えた、では内戦のようなものだ。
同時に、それを理由として全ての原発稼働を求めるのもまた、他の問題を置き去りにした論点であるとは言える。
いずれにせよ、犠牲の対象をどうするか、またその犠牲にどう対応するか、というのは原発の存廃に関わらず生じる問題であることは、十分に留意すべきであるだろうし、それは落とすべきではない課題となるだろう。
問題の(6)については、いくつかの提示が既にされていると考える。
まず第一に「植民地的政策」として原発を批難するものがある。これは一定の理を備えている半面、都市と地方という対立構図をより先鋭化させるのみならず、そもそも立地が地方にあるのは本質的問題として都市部にあらゆるものを完備するのはあまりにもそれだけで過剰リスクとなることに加えて、地方の貧困の問題が根底としてあったことは事実だろうし、また地方の財政などを支えているのが少なくない都市での収益であるという事実を踏まえれば、そこの視点を抜きにしてこれを唱えるのはいささか無理があるようにも感じる。この批判は主としてレフトウィングを中心として唱えられているように思える。
また、「国土の喪失」という点において、事故リスクの過大さ故に原発に反対する、という考えもある。これは主としてライトウィングからの視点である場合が多いように思える。ただし過激なエコロジストとハイブリットしたレフトウィングという存在もあるにはあるので、必ずしもライトウィングに限られる話でもない、とは言える。
自分としては「郷里の喪失」というものが、戦争占領や国境線変更などと異なり、より物理的、意味論的問題として具現化したのが原発事故による「土地」の問題だと考えているので、どちらかと言えば後者に近い。そして同時に原発を廃止し、何も手当をしないことで立地自治体が緩慢に死を迎え、破綻による行政サービスが打ち切られ崩壊していく、という構図は、既に先行して破綻した自治体例があることからも望ましいとは思えず、またそれまでの財政措置が半ば以上国策として行われてきた以上、急激なその廃止は、結局は国策の都合による自治体の切り捨てに他ならないと考える。従って一方的に「原発ムラに群がる利権集団とそのお零れに預かる浅ましい金の亡者」のような言い方で地元住民もろともを批難し、またその経済苦境を理由に稼働再開を求める声があることを批難して回ることは、それもまた「犠牲の論理」に他ならないだろうとも思える。
これは同胞をどう守るか、またその郷里をどう守るか、という問題において、事故後の数十年から百年に渡ろうとしている制限区域の問題が、同時に経済としての問題をも包摂するものとして扱われるべきだろう、とも考えられる。そして、その場合、稼働しようが廃炉にしようが、いずれにしても避けて通れない問題であり、究極的には「どちらの立場であれ不満だろう」と思われるものになる可能性は高いと思われる。しかしながら、思想のために人を切り捨てていくのであれば、思想を歪めてでも人を護るべき方向へと向かうべきだろう、と考える。
そして、同時に原発を現状のままにしておくことは、問題を先送りにするだけではなく、電力会社の経営破綻やアウトソーシングの推進による新たな下請け労働問題の生起が有り得る点で、早急に結論を出すべき問題でもあり、また必要な財政措置は、それが税金であれ何であれ投入されるべきだろう。
「血税を電力会社に投入するなんて」という感情的反発はそれを感情的なものとして理解はするとしても(そして同時に電力会社の経営責任としての問題は別に問われるとしても)、破綻されてメンテナンス不能、操業不能に陥れば、直撃を受けるのは間違いなく一般市民そのものであり、それによる波及的損失は試算を待つにしても、数千億単位の赤字を何年も垂れ流して持ち堪えられる会社などそうあるわけではなく、原発を稼働して利益を出し、そこで廃炉作業や賠償に必要な費用また資源価格高騰に対する費用を捻出してもらうか、そうでなければ切り離して国の管理に移行し、赤字を数十年に渡って垂れ流すであろう不良資産を電力会社の管理から外すかしないと、どうしようもないだろう。
そしてそれは「税金を国民のためにどう使うか」という国策上、また国家運営上の思想の問題でもある。そして、稼働の是非いずれの場合にしても、それらには「人と土地」という問題に対する確固たる思想が求められるだろう。また、そうでなければ、中長期政策はもちろん、短期的場当たり的対応に終始し、「誰もが望まない」社会を漫然と続ける羽目にも成りかねないだろう。

それぞれの立場で、それぞれの主張が、それぞれにおいて理があり、また筋が通っていることは、それをお互いに認めた上で、衆論を重ねるとは、そこに合意を築いていくことではないだろうか。
それ無くしては稼働も廃炉もいずれもがなし崩し、場当たり的であることを免れないだろうし、この1年やってきたことは、まさになし崩し、場当たり的であり、それ故に誰もが納得も理解も満足もしない、という状況に陥っているのではないか。
そして、その合意形成プロセスこそ、今もっとも「忌み嫌われている」とも言える民主主義の迂遠且つ決定に時間がかかるやり方そのものでもある。
直近の電力不足懸念はもちろん重要ではあるし、それによって様々な問題が生じるだろう。しかし、いや、だからこそ、近視眼的に右往左往するだけで終わらず、国民全体の問題としての合意形成プロセスを再度行っていくべきではないだろうか。                     
はっきり言って、簡単に、しかも短期で、また容易に答えを出そう、求めよう、という心情そのものが、最早問題解決の最大の障害になりつつあるように思えてならない。

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