草の根、という言葉/@noiehoie 氏とCivil Action Japan

書こうかどうしようか非常に悩んだ末に、一筆。

Civil Action Japan の件。

いろいろ疑問なども出ているようだが、それは個々に解消されるか、納得できなければ寄附しなければ良いだけの話なので、それはそれ。
正直自分にとっては片山さつきもどうでもいいと言えばどうでもいい。どうせ世耕なども乗っかっているし、個人の問題では、当然「ない」。
不正受給問題を語るのに河本氏を持ち出す必要がないように、そこは瑣末な問題でしかない。
たとえば、電力行政全体を括る際、東電の対応、関電の数字、九電のやらせが、それぞれに風化していっているように、そういう個別具体的事例は全体の一部でしかないし、熱し易く冷め易く見たいものしか見ない、という点で、それほど大きな差があるようにも思えない。
個人的には小宮山氏の発言にあるように、社会保障費を抑えたい、という動機があって、それの格好の標的として、たまたまメディアにポッと出た一例をスケープゴートにしたに過ぎないし、片山氏の一連の発言からはどう考えてもマイノリティ排撃としか思えないので、実は彼女にとって生活保護とかどうでもいいんだろ、そこが攻撃できれば、とも思っているので、Twitterやらで生活保護の問題を語ることが、今回の件でどこまで意味を持つかも正直疑問はある(だからと言って黙るわけではないが)。
それらを踏まえた上で、「制度と運用の問題」というのは過去にも度々指摘されてきた問題であり、放置されてきた問題でもある、という点において、不正受給に纏わる生活保護制度の問題や、在日外国人の医療・年金の問題など、今現在新たに浮上した問題など皆無とさえ言える。問題が悪化はするかもしれないが、改善は見込めないだろう。
制度を厳しくすればより狡猾な人間ほどそれをすり抜けるわけで、貧困ビジネスなどをやっている人間からすれば、それは対応してくるだろうし、結果として支給が厳しくなれば構成比としての不正率は上がる可能性さえあるかもしれない。
少なくとも「制度と運用」に手をつけない限り、そこはどうしようもないわけで、制度と運用というのは、現状の仕組みを維持する限り「予算と人」の問題でしかない。受給者の問題ではなく、行政の問題、ということになる。
有史以来一度だって犯罪の消えたところはなく(犯罪の定義はまちまちだが)、それに対してどう対応するか、が依然として、そしてこれらからも法と運用の問題である以上、同様のことは言えるだろう。
ケースワーカーがパンクしてるなんて話はずっと前から出ている話であって、厳しくしようとすれば一人当たりの対象数を減らすしかないわけだが、それをやるには増員するか対象者を放逐・排除していくしかない。
単純な割り算の話で分母(受給者数)を小さくするか分子(ワーカー数)を大きくするか、それだけの話。
で、そんな問題は河本氏を吊るし上げようが片山氏を袋叩きにしようが、何も解決しない。
何故解決しないかは簡単で、どっちも「制度と運用」の問題に目が行っていないから。
就労所得との差分支給だって同様。
でも現実には既に機能不全に近い状態のところも多いし、金の問題に至っては地方負担分の問題で、財政基盤が弱いところで対象者が多ければ、それだけで破綻する。
破綻するから制度を厳しくして、破綻しそうもないところは多少緩くして、というのではそれだけで十分に「不公平」なわけだが、そういう話にはちっともならない。
なるわけがない。個人の行動の問題はそれに対しては瑣末な問題でしかないにも関わらず、あたかもそれが制度の問題ではなく人の問題であるかのように取り扱えば、制度の欠陥など見る必要もない。
「不公平と誤魔化しを許さない」というのであれば、そういうネコ騙し、目晦ましこそ許してはならないわけだが、現状ではそういうネコ騙しが手っ取り早くメディアに出て支持を集めて正義を主張するためのツールになっている。
その現状こそが、今回の行動の原点ではあろう。その意味で、「反片山」といった領域の問題ではない。契機と本質はイコールではない、ということだ。

のいほい氏は面識もあるし、趣意文には自分なりの考えで一か所事前に訂正さえ入れさせてもらったこともあるが、それさえも個人の問題であって、主眼とするところはそこではない。
そもそものいほい氏とだって意見が対立するものもあれば、同意できるものもある。それは当たり前のことであって、だからどうした、という話でもある。
趣意文自体にも疑問やらがある人もいるだろうし、それはそれで問い掛けるなり、反対であれば別のやり方もあろう。
誰もが彼に乗っかれば良い、というわけではないだろうし、乗っかれないから自分なりのやり方を模索する、というのもあるかもしれない。
現状300万円を大きく超えた寄附が集まっているとのことだが、その多くが小口寄附であろうと考えると、一体どれだけの人が寄附したのか想像もつかない。
それぞれが問題にしている点は相違もあるだろうし、総論賛成各論反対、そういうものもあるだろう。
しかし、自分にとってはそれもどうでもいいように思える。
新聞広告に意味があるのか?そう問う人もいるだろう。
しかし、新聞広告には意味がある。
それはネコ騙し、目晦ましをそのまま垂れ流している「不公平と誤魔化し」の片棒がメディアにもあるからであって、それだけでも十分に意味はあろう(実際の広告の表現がどうあれ)。

一方で、自分の中では300万円という数字が出たことで、既に一つの意義は達成したのではないか、とも考えている。
これはまったく個人的なもので、のいほい氏がそう思ってはいないだろう、というのを承知で書くわけだが、300万円という数字、これ衆参の比例を除く、あらゆる選挙の供託金の額をフォローできる数字なのだ。
国会の小選挙区であれ、都道府県知事であれ、この数字があればとりあえず供託金を納めることはでき、納めることができるということは立候補が可能、ということでもある。
もちろん選挙には供託金以外に、いろいろなコストがあり、とてもそれだけで選挙運動などできるものではないのだが、もし仮に真に支援するに足る人間がいた場合、それを既存の何等の仕組みに拠らず、選挙に送り出すことができる、ということの持つ意味は、もっと大きく考えていいものだと思う。
活動家、運動家、いろいろな呼び方もあるだろう。
しかし、今回はのいほい氏に対して普段は反対的立場の人間でさえ、寄附をしている例がある。
イシューの設定さえ賛同されれば、これだけの力がある、という点において、実は今回既に一つの分岐点を超えているのではないか。
そう思えてならない。
市民運動という名の、既存団体による疑似「草の根」運動から、より実態的意味での草の根の運動、というものが生まれるとしたら、この可能性は一つのそれではないか、と。
もちろんこれは重大なポピュリズムの弊害をもたらす可能性さえあるものだが、勝ち取った民主主義というものが存在しない日本において、今回の運動の持つ意味というのは、今回の運動そのものに対しての賛否を問わず、その意味を考えてみても良いのだと思う。
今回の数字は、のいほい氏が自身のネットワーク、人間関係だけに依存したものでは、既になくなっている、という点を忘れない方がいい。

P.S.個人的に寄附先を明らかにすることはしていないので、自分がどうしたか、についてはここでは触れない。それは個々で判断し、したければすればいい、したくなければしなければいい、それだけのことだ。

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