リアリズムとアイディアリズム

「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例 を契機としたリアリズムとアイディアリズムについて拙稿を書く次第。

リアリズムとアイディアリズム(またはユートピアニズム)は国際関係学(国際政治学)において、最もポピュラーな2つの考え方である。
しかし、この2つの考え方は、短絡的にまとめればまとめられなくもないわけだが、一方で時代に合わせた変遷、それぞれの思想が抱える欠陥とその克服の試みにより、あまり短絡的理解をするべきではない状況ではある。

さて、ここで一つ断っておくと、アイディアリズムもユートピアニズムも、いずれも邦訳する際は「理想主義」と訳されるわけだが、これはいろいろと問題もありそうにも思える。確かにいずれも「あるべき理想像」を据え、それへ向けての思想、とはなるのだが、アイディアリズムとユートピアニズムでは程度の差はありそうである。ここでは極端な理想を掲げるものをユートピアニズム、それほど極端ではないが、やはり現状を踏まえれば理想的に過ぎるものをアイディアリズムとしておきたい。

リアリズムもアイディアリズムもいずれも古く古代世界にまで思想的源流を辿ることはできるが、本稿では主として論理体系として一定の確立が成される前後のあたりまでを遡る射程としたい。
この二つの思想体系が概ね学問・論理体系として確立されてくるようになるのは国家体制というものが一定の確立を見てから、という風に捉えても大きな過ちはないように思う。もちろんそれ以前にも、例えばリアリズムの源流をマキャベリに比すようなことは多々行われているのだが、もっと前にも遡ることもできるし、一方でこの二つの思想が「国家」をその主的要素として捉える考え方を機軸として大きな発展を遂げたことから、主にヨーロッパ世界においてキリスト教が国家体制からある程度離れた状況が訪れた後からのものを考えれば十分であろう。

ここで、二つの思想が「国家」をその主的要素として、と書いたことに違和感を感じる方もいるかもしれない。
例えば、アイディアリズムはしばしば「国際社会、国際協調」を基調とし、「汎国家的枠組み」を論じることが多いことから「国家」という概念を思想的に軽視しているように捉える見方も少なくない(これがしばしばユートピアニズムに一括りにされる原因でもある)。しかしながら、この「国際社会、国際協調」の基本となるのがしばしば「国際法」であり、また時に発展して「世界政府論」へと発展することからもわかるように、アイディアリズムは決して「国家」という概念を蔑ろにしているわけではない。むしろ「主権国家」という体制の仕組みを大きく拡張して考える思想と捉えることもできる。いわゆる「法の統治」や「政府」という概念が、基本的には国家体制の中で語られるものであるからだ。
また、アイディアリズム(ユートピアニズム)はしばしば「実際にうまくいったことがない」といった語られ方をするが、これもまた過ちである。確かに理想を追求した(という意味では理想主義的な)実験国家たるソビエト連邦が壮大な失敗に終わったことや、国際連盟の無力さ、また国際連合の脆弱さを引き合いに出せば、それはそれで一面事実ではあるかもしれない。しかし、これは見方としては薄っぺらいものではあろう。その理由は後述する。
同時に、アイディアリズムの影響が少なくないと思われる存在としてEUなどは挙げることができるだろう(最もこれを成功例と見るかどうかは疑問もあるが)。また、政治的枠組みだけではなく、経済的協力体制はいくつも存在するし、それは「国家の枠組みを超えた人・物の移動が協調体制を生むはずだ」というアイディアリズムの素朴な理念の基礎には合致するとも言える。
リアリズムはしばしば「パワーポリティクス」として批判されるわけだが、その意味では「国家」を主的要素として捉えていることは疑いようもない。一方で、その「国家」を主体的プレイヤーと見ることからしばしば非政府組織の役割増大などの現実を踏まえ「論理的欠陥を抱えている」と指摘されることもあるが、1970年代以降このような欠陥に対して、それらの非国家組織をも射程に納めようとする新たな思想的発展を模索し続けているのもまたリアリズムの現状である。
また、この「パワーポリティクス」という用語の持つ「パワー=軍事力」という意味合いのみを過度に誇張し,リアリズムは軍拡と戦争を招来する、と捉える考え方は短絡的である。
有名な「安全保障のジレンマ」(ジョン・ハーツ他)に見られるように、必ずしも「軍備拡張」を志向するわけではなく、リアリズムは十分にその内包する危険性を意識しているのであり、そこから派生的にディフェンシブ・リアリズムという考えが生まれるのである(同時に恐怖の均衡といったオフェンシブ・リアリズムに近い考えもあるが)。

この二つの理論であるが、これを単純に二項対立と捉えるのは根本的に誤っている、と言うことはできるだろう。
もちろん歴史的にはこの二つの考えはしばしば対立し、時に相互に激しい攻撃を加えていたわけではあるが、同時に現在の国際社会・国家群を分析・説明する際、いずれか一つの考え方では容易に説明できないどころか、ほぼ不可能とさえ言えるほどである。
ジョン・ハーツが「リアリスト・リベラリズム(リベラリズムはアイディアリズムを内包する、と考えて差し支えない)」という境地に達したことや、1970年代~80年代のイギリス・アメリカの対外政策が、概ね前者はアイディアリズムをベースとして、後者はリアリズムをベースとして分析されることで一定の成果を収めたことなどを見ても、択一的論理でないことは明らかとも言えよう。
同時に、国際連盟・国際連合が時に無力で機能しないのは、逆に言えば国際法を「強制的」に主権国家へと適用するだけの「パワー」を欠くからでもあり、この現状は極めてリアリズム的でさえある。「パワー」が主権国家の「内向き」にも発揮され得るからこそ、その国家の法治が実現するのであり、「国際法」がその強制力を持たないが故にしばしば主権国家の独善により無視され、また都合よく利用される現実もまたそこが一つの大きな要因でもある。
そして、これは裏を返せば一定の成果を挙げているPKO、PKFといった行動が、その「パワー」故に成果を挙げ得たことも例証とすることができよう。
これが意味するところはどういうことか。
一つには、アイディアリズムはその理想を現実へと適用し始めた瞬間、それは現実を基点とするリアリズム的分析を不可避的に受け容れざるを得ず、またリアリズムはその政策を実行へと移すにあたって、ある意味での「現実ではなく漸進的に目指すべき理想」を追求せざるを得ない、と言う点にある。
二つには、アイディアリズムにおいて「戦争なき平和」という概念そのものが、現実に適用した瞬間に「現状固定主義」へと陥りやすい点も挙げることができよう。国際連盟の協調体制が極めて「現状固定主義」的考えであり、その体制下での軍縮条約(というある意味での戦争なき平和への追求)が、その現状固定的であるが故に「持たざる国」の暴発を招いた、という点において、やはりリアリズム的視点の導入は不可避であるようにも思える。「戦争がない」という状況を目指すが故に「現状固定」に成らざるを得なかったことに対して、リアリズムは容易に反駁し得るように思える点は、まさにこの点であるとも言える。
三つには、他ならない協調体制、対談による平和が、ナチスの台頭に対して「小国を大国の犠牲として」成し遂げることを目指し、挙句に破綻したことや、アイディアリズムの基本となる「人、物の交流」や「経済的結びつき」が戦争を回避するという考え方では、大日本帝国の戦争は到底説明できない点も挙げることができるだろう。逆に、裏を返せば、その際に連合国と呼ばれる存在がアイディアリズムを全く考慮せず、多分にリアリズム的覇権体制のみを目指したならば、到底国際連合の成立は見ることができず、またその後の冷戦体制が結果としてリアリズム的要素における平和(と同時にアイディアリズム的第三世界の台頭)を見ることもできなかったであろう。
四つには、ロシアや中国に見られるようなセキュリティマインディットな膨張主義は極めてリアリズム的ではあるのだが、同時にそれを抑止し得るのが「国際世論」といったアイディアリズム的要素を含んでいる(全てとは言えない)点なども挙げることができるだろうし、英仏の中東への介入がアメリカの反対があったとは言え、結果として「国際世論」に屈する形で挫折したことなども挙げられるだろう。同時にこれはイスラエルのように、自国のセキュリティに対して国際世論といったものをある程度「無視」するだけの行動を取る国家に対して、アイディアリズム的国際世論はそれに「パワー」がない限り無力であるといったものも考慮する必要があるだろう。

そもそも現代社会、国際社会において、「どちらかを選択するなら」といった前提がそもそもユートピアニズムであり、アイディアリズムもリアリズムもどちらも不可欠な分析・考察・政策立案のための要素でもある。
その意味において、リアリズム、アイディアリズムのいずれの立場であれ、それは程度の問題であり、「どちらか」という選択を迫るものほど「非現実的」「非論理的」であるという意味においては極めてユートピアニズムと言わざるを得ないだろう。

蛇足ではあるが、このとき日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というアイディアリズムを担保するのが、その公正と信義を担保するためのリアリズムを必要とする、という歴史を思わざるを得ない。日本が戦後戦争に巻き込まれず(朝鮮戦争やベトナム戦争といった間接的関与は別として)、曲がりなりにも「平和国家」を名乗れるのは、他ならないリアリズム的側面がそれを担保し得てこそであった、という現実は、まさに厳然と歴史に刻まれているのである。
それはGDP費で先進国中稀に見る「低軍事費」という「安全保障のジレンマの回避」を元とした周辺国の警戒感の回避と同時に、日米安保というリアリズム的均衡を実現していて「初めて」成り立っていたものであり、決して「憲法九条」というアイディアリズムだけで実現されたものではない。そして同時に、前文や九条というアイディアリズムがあったからこそ、リアリズム的側面があるベトナム戦争や朝鮮戦争に「直接的に参加せずに済ませることができた」という僥倖をも得たのである。
そして、竹島や尖閣諸島における、保守派と称される(自分は認めないが)政治家や団体の、安易に「安全保障のジレンマ」を無視してしまう言説や政策を危惧すると同時に、リアリズムを敵視し軽視するが故に韓国や中国のリアリズム(国権拡張)をも容認してしまうアイディアリスト(とはこれも認めたくないが)のあまりに安直な言動をも危惧するのである。
そして同時にこれはリアリズムとアイディアリズムをうまく包摂することができなかった大日本帝国の過ちや、アイディアリズム的要素を踏まえつつ時にリアリズム的でもあるポストコロニアリズムを否定するものでもないことは明言し、本稿を終えることとする。

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