排外主義反対に対する賛同表明

20130217排外主義反対デモ
2月17日予定の新大久保「反韓デモ」に対し、差別反対の意思表示をしませんか。

という次第であります。
昨今排斥運動(差別運動)も公然堂々と、あろうことか一般市民を標的として展開されるようになり、その言動も「殺せ」「殺される」といった憎悪のインフレーションを起こしている有様で、醜悪にして心やすからぬ状況であります。
その主義主張そのものは、あるいは政治主張のつもりでありましょうし、あるいは実際にはそのつもりがなく憤懣晴らす標的として選び易いものを選んだだけなのかもしれず、またその場にいる高揚感こそがそれを一層過激へと追いやっているのかもしれません。
しかしながら、あまりに見るに堪えないそれは、愛国の美名の下に許されるものではないと考えます。
その意味において、上記の動きについては全面的にではないにしても、その趣旨において賛同を表明しておきます(全面的に、でない点については割愛しますが)。

さて、過去にも散々いろいろなことを書いてきましたが、改めて下記にいくつかの点において排外主義に与し得ない理由を挙げておくことにします。

壱:隣国との係争
遺憾ながら本邦は隣国との間に少なからぬ摩擦を抱えている状況ではありますが、それは「何処の国であってさえ」生じ得るものであり、特にその領域が歴史的に行き来、重複するような場合には、時に深刻にさえなり得ます。独仏、波露などの例を引く必要さえないでしょう。
それに加え、本邦は時に「スパイ天国」と称されるほどにそれらが跋扈していることも、また既にいくつもの指摘がなされていることではあります。そしてそれに(特に過去において)総連等の組織の一部が関与していたと考え得る事例もあります。
しかしながら、十把一絡げに「朝鮮人」だの「中国人」だのといって、その出自を以ってすべてそれに該当する、と考えるのは滑稽も良いところであり、更に言えば実態としてのそれを騒々しい声によって覆い隠す偽装にさえ成り得ることを理解すべきです。
自分は栄光ある第442連隊戦闘団に、格別の敬意を示すものでありますが、それはその部隊創設がいかにアメリカ政府の思惑と在米日本人の状況とによる偶然的経緯が作用したものであったにしても、彼らがその持てる信念と、生まれた地、アメリカという祖国のために全力を尽くしたことに対して、であり、「日本民族」「日系人」として、先の大戦では本邦の同盟国たる独伊を主とした戦場にし、「敵国」アメリカのために尽くした彼等を非難するような格別な理由などないからでもあります。
しかしながら、現下において万一隣国との係争が深刻且つのっぴきならない状況になった際、排外主義が蔓延し、常日頃から敵視して止まない状況を推移させた場合、果たして彼等のような存在が本邦に現れるでしょうか。
もちろん当時アメリカにおいて、彼等が差別的待遇であったことは事実であり、結局彼等の活躍があってなお、その解消は公民権運動期まで待たねばならなかった、という歴史はあります。
しかし、現在は時代背景が全く異なることを理解せねばならないでしょう。当時のように優生思想や帝国主義が最盛期であった状況とは大きく異なるのであり、また同時に彼等は「アメリカ」という国に生きる者として、戦ったのであります。
国籍などの相違はあるでしょう。しかし、排外主義の蔓延によって「日本」という国に生きる者として、同様の状況になった際に手を取り立ち上がるのか、というと甚だ疑問であります。
もちろん共に戦う必要などない、という意見もありましょう。それに対しては一言、「そうであるなら尚のこと有事に利敵行為を行なうに足る動機と土壌を積極的に醸成するそれは、一体何の益があるのか」と考えます(もちろん大多数はそのどちらにも与さない可能性、ということも考慮の上で、ですが)

弐:国籍論において
彼等排外主義集団がしばしば口にする「住みたいなら国籍を変えろ」論については、それ単体として多少の理解がないわけではありません。しかしながら、同時に展開される「帰化人が」といった蔑視が同一言論として抱き合わされているうちは、それに一片の理解を示す必要も感じません。結局のところ国籍がどうあれ、その「血」によって断罪されるのであれば、国籍相違などは問題ではないはずであり、都合よく切り貼りしながら相矛盾する言動を展開し、あまつさえそういった言動をさせる要因が「被攻撃側」にあるかのような話を、一体誰がよく理解を示すものでありましょうか。
加えて、しばしば悪意を以って混同される「朝鮮籍」は「朝鮮人民民主主義共和国国籍」を意味しないのであり、ニアリーイコールの実態が仮にあったとしても尚、そのような排撃の方法を認めるわけにはいかないでしょう。
朝鮮籍はあくまで「出身地」を現す大日本帝国統治下における「朝鮮戸籍」の延長であり、もし彼等に対して「国に帰れ」などと言うのであれば、彼等にとっての「国」は本来は「大日本帝国」であり、その「領域下としての半島」であるはずです。朝鮮籍の人がそれを求めるか望むかは別問題として、経緯と過程を踏まえ、尚且つ当該放棄地域に成立した別国家への帰属転換を行なわない場合、引き続き「縮小した領域下における後継国家」へと移るのは、自然なことでもあり、帰るも何も「此処だ」と主張するに足る背景を抱えている、という事実は厳然と存在します(繰り返しますが、その当事者の意向は別問題です)。
それを頭から否定する場合、それは他でもない、排外主義者が肯定的に捉える「大日本帝国」という国家領域における「半島統治」ということの意味と歴史を、頭から否定することでもあり、もしその当時においてなお半島は国家領域としては認めず植民地であった、というのであればそれは「対等な“併合”」を否定するものであり、逆に対等な併合であり大日本帝国の領域下における臣民であった、という立場を取るのであれば、彼等が国籍を変えない以上、帰る国は「日本国」をおいて他にはないことになるでしょう(あくまで筋論の上では)。
さて、では韓国籍はどうか。中国籍はどうか。はたまた他の国籍は。
大日本帝国という国家において、領土として組み込んだか、あるいは一時的占拠・占領を行なったか、という点でいくつかの背景相違はあるでしょう。しかし、共通するのは過去の本邦前身国家の政策遂行過程において、本邦とは少なからぬ関係を望む望まないに関わらず有した地域であり(これは移民排出先となった南北米大陸なども含めて)、その歴史的関係性故に、その系譜を引く諸民族が本邦へ定住することは、これもまた自然なことでありましょう。定住から帰化に至るかどうか、という点については別の問題となるでしょうが、そもそも排外主義者が国籍を上記の理由により都合の良い場面でしか行使しない要素としている以上、ここで深く議論するのはあまり意味もないと考えます。

参:大日本帝国後継国家として
本邦は紛れも無い帝国主義国家として、また亜細亜の覇権を争う国家として、大日本帝国としての短い期間を経て今に至っています。そのことに異論はないでしょう。
当然のことながら、実態として植民地であった半島・台湾など、対等平等な国家領域としての存在であったわけではないこともまた事実です(何より大日本帝国憲法が適用されず、総督府体制が布かれたことからもそれは明らかです)。
一方で、自分は大日本帝国統治下における周辺諸地域の施策、また大日本帝国という存在そのものについて、全否定するつもりも全肯定するつもりもありません。
支配地域に対して大々的資本投下を行い近代化を進めたことも事実ですし、様々な旧弊を、時に強権的に、時には親切心から行なったであろうことも、また否定しません。
同時に、それらに対して「感謝がない」だのといったあさましい言動も「感謝もできない民度の低い存在」だのといった言説については足下に否定します。
果たして我等の先達が為したそれは、「感謝されるためにやった」ことなのか。そんなことはないでしょう。
時に自己のために(自国のために)、時に利他のために(現地のために)やったこととして、殊更に「感謝しろ」などと言う必要も感じません。
同時に負の政策があったために、それらを全て無視して全否定しろ、ということにも意味を感じません。
片方に与さないからといって、もう片方の極論に走ることにまるで意味も価値も感じませんし、それは結局どちらの立場にしろ歴史的事実の一部を切り捨てることになると考えるからです。
また、先の大戦が果たして「亜細亜開放の聖戦」であったというのであれば、真っ先に為されなければならなかったのは他ならない「大日本帝国領域下における外地の独立」であるはずであり、対中政策などにおいてもその要求において厚顔無恥もいいところの内容であり、加えて戦中支配した地域の一部を政府内において本邦領域へ併合しようと画策していたことなども指摘すれば十分反論になりましょう。
同時に、半島や台湾においては、支配後期においては純然たる独立運動が比較的低調だった事情もあり、体制内自治、体制内自立、体制内平等を求める傾向が出てきていたこともまた事実であり、その意味において、実際に兵力不足もあり1945年~46年にかけて、徴兵制と選挙権が対として施行される方向で進んでいたことなどを考え合わせると、それらの地域は「戦勝国」どころか、「文字通りの敗戦国」扱いとなった可能性が厳然と存在していたこともまた事実でしょう。
半島において、また台湾においてそれが望まれたか、という点は論を分かつところでありましょうが、先の大戦を肯定的に捉えるのであれば、本邦があと1年戦争を続けていれば、志願兵どころか「徴兵=国民兵」としてそれら地域の人が「共に前線に立つ」兵士であった可能性について、より真剣に、また深刻に考えるべきだと考えます。
本邦は大日本帝国の後継国家として、それらの進行していた、また実際に遂行された政策の、その意味合いもまた引き継いで成立している国家なのであり、社会なのであります。同時にそれは、その内包する限界によって破綻した亜細亜主義、脱亜主義において、果たしてどこを正に、どこを負として評価すべきか、という問題もまた内在すると考えます。
それらの諸要素をすっ飛ばして、「真実はネットにある」だのあからさまな捏造デマを、時にそれと分かっていながらプロパガンダとして活用する(朝鮮進駐軍)など、歴史に対する冒涜でさえあり、何が「保守」だ、という話でしかありません。歴史への洞察、考察、自省、展開なくして、保守の成立する余地などどこにありましょう。

とまぁ長々書いてきましたが、総じて「考え方が間違ってる」と判断しているからこそ、排外主義に与しない、という以上でも以下でもないわけで、理由はいくらでも出てきますし、それを説明すればグダグダながながと、時に論旨がまとまっていないことを書く羽目になるので、恥晒しはこの辺りで。

さて、とはいえ冒頭にリンクを貼ったそれが、概ね左派の側からの提起であることが気に食わない方には、下をお勧めしたいと思います(ぇ
保守による排外主義反対

なお、冒頭の運動に当日参加するかどうかは目下未定であることを書き添えておきます。

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