先の大戦とは何であったのか

■開戦の詔書より

「中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ」
「重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ」
「米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ」
「帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ」
「經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス」
「帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ」

詔書自体は長々書かれているものの、根本は対支戦の泥沼に対する恨み辛みと、その現況と「看做した」米英への不満、結果として引き起こした経済制裁の打破であって、まさしく「自存自衛」のためであって、東亜解放などというものはここでは一言も触れられていない。
詔書に見る「東亜の平和と安寧」とは、日本の対支政策において英米が介入ないし相手方を支援しないことを指すのであって、それ以外は悉く付随的事項に過ぎないとさえ言える。

このことは開戦後の数日、この戦争に対する呼称が「決まらなかった」ことを見ても明らかであって、「大東亜戦争」のほかにも「太平洋戦争」「対米英戦争」といった呼称が提案されていた。
戦争呼称の決定は12月12日だが、それにおいても内閣情報局の発表においては「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず。」であって、12月8日に開戦したものがまさしく「対米英戦」であってことを示唆している。
この呼称決定までの間の経過的呼称は「対米英蘭蔣戦争」が仮称となっている。

なお「大東亜共栄圏」の呼称については、公文書上は1941年2月1日上奏の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされているが、そもそもこの要綱は止むを得ない場合の仏印への武力行使や泰が日本の要求を拒否する場合は協定や威圧により英米につかないように圧力をかけるといった内容であり、そもそもここで「大東亜共栄圏」の呼称は、杉山メモを主として理解する限り、1940年7月の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」から「帝国の現状は「大東亜共栄圏」建設の途上」にあるとの指摘においてであり、この時局処理要綱自体が「支那事変の解決」「南方(仏印、泰)への施策」「対英米戦を辞せず」「情勢が有利になれば対ソ戦」であって、大東亜共栄圏なんてものがいかなるものかがわかろうと言うものである。

そもそも開戦の詔書における経済関係においては、米の経済制裁を含め、たとえばそれまでにおいての仏印政策や蘭印との貿易について、相手方が「自国と干戈を交えている国の同盟国(英・仏・蘭と対峙する独とその同盟国日本)」に対して重要資源を(たとえそれが地勢的に直接は現在交戦国の利にならなかったとしても)易々と喜んで売るわけもないのであって、そんなことを理由にして「資源を輸出しないのが悪い」などというは外交も政治もわからぬものの逆切れに近いものがある。

■大戦中の動向

1943年の大東亜政略指導大綱においては、独立を促進(ないし設定)する相手はあくまで「対緬」「対比」であって、逆に「「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム」であった。どこが解放と独立のための戦争なのか。
また、対緬方策についても、一部地域を「民族・風土が異なる」と理由を付けて「日本領」へ編入しようと画策しビルマ側の抵抗で断念するといった一幕もあり、これまた独立という名のそれがいかに「日本側の都合の良し悪しだけで領域から政体から指導者に至るまでの与奪を決定されかねないか」ということを示している。
また、大東亜共栄圏の建設という名分は公文書に正式に記載されていなかったにしても、1939年~40年頃には一般化されていた用語ではあった。しかし、その具体的内容・企図が日本政府の政策として立案を検討されるのは1942年の大東亜建設審議会からである。
そのように中身もなく方策もロクにないものを「戦争目的」として開戦したというのは到底考え難いものであり、帝国主義国家間の闘争における「自存自衛」の方がはるかに理解も納得もできようというものである。実際にそういう時代ではあったのだから。

ちなみに、1942年11月に設置された大東亜省は拓務省や興亜院などを統合したものであるが、前者は「植民地の統治」と「海外移民行政」の統括でり、後者は主として大陸における「占領地行政」を統括するものであり、実際に大東亜省の顧問には大量にそれら組織から人間が送り込まれている。
二代目以降原則として外務大臣兼務の役職となったものの、省設置時において東郷が二元外交懸念と合わせて「植民地支配を画策していると受け取られかねない」といった理由を挙げて外務省を辞任していることは自然と頷けるものではある。東郷自身外務省の省益を代弁する故の抗議であったことは疑いようもないが、後者の理由については省の母体となった組織が何を主任務とする組織かを見れば自ずと明らかになろうというものである。

なお、ビルマに関して言えば、日本は対英開戦前から同地における反英運動を陸軍が主として支援しており、その中にはビルマ建国の父アウンサンもいた。アウンサンらは泰で独立義勇軍を組織すると日本陸軍から装備などを受領し、ビルマ侵攻にも参加させているが、結局のところ独立はすぐには認められず、バー・モウの自治政府を作るとともに、今度は邪魔になりつつあった独立義勇軍を解散させ、1943年8月に形式上ビルマを独立させたものの、新たに編成されたビルマ国民軍は、1945年3月に前線投入が日本要請の元決定されたものの、出陣式から2週間足らずで全面離反の上日本軍へ攻撃を加える有様であった。アウンサンらは義勇軍解散後、抗日闘争に身を投じ、その組織は他ならないイギリスの諜報機関と接触する状態で、「日本の意に沿うよう」「都合よく動くよう」組織を作れば作るだけ、それらは日本支配からの脱却を目指す方向へと動く結果となり、如何に日本が「与えた」独立が価値も意義もないものとして不満を招いたかがよくわかろうというものである。

また、同じく東南アジア方面で著名なインド国民軍に関してはインパール作戦などへの比較的積極的な参加などがあるものの、実際にインドの一角乃至一部でも日本が本格的占領に及んだ場合、それに対する政策がビルマに対するそれを異なるものになった、という確証はどこにもない。なにしろ、インド国民軍からの日本軍と対等の立場に、という要求に対して、日本政府はまともに回答していないのだから(これが結果としてインド国民軍は日本の傀儡である、との宣伝に根拠を与えるものになる)。

■帝国主義戦争の果てに

これらの状況を総論で見る限り、12月8日に始まる一連の戦争は東亜解放などというものは後付、文字だけの感を脱せず、本質的には帝国主義戦争(植民地争奪戦とブロック経済の確立)にあったというのが妥当な判断であろうと考えるし、その結果として敗れたのだ、という方が理に適ってもいる。大東亜戦争の完遂だなんだと言っても、敗戦時の唯一たる条件は「国体護持」であって、東亜解放など考慮もされていない。それは戦争に敗れるということが植民地の喪失を必然意味するものであり、東亜解放などという名分は植民地拡大の算段が立たなくなった状況では、何らの価値も持ち得ないものに過ぎなかったからでもあろう。
結果として民族自決を促し独立を果たしたではないか、というのは結果論としてはそうだが、果たしてそれを促進し育てたのは日本の「占領政策そのもの」であったとさえ言えそうである。当然日本側は「日本に反抗的な独立」など当然として弾圧したわけであるが。
また、人種差別撤廃を謳ったとされる大東亜共同宣言については、そもそもの部分において大西洋憲章の焼き直しともされ、さらには日本が勝手に書いた草案に対しての修正要求は全て拒絶した上での宣言であり、大東亜共栄圏の各国と言っても所詮その程度の扱いに「過ぎなかった」のである。大東亜会議や同宣言において、特に日本を高く評価しているとされるチャンドラ・ボースやバー・モウは、結局のところその独立運動において主導的役割を果たすことはなく、時には日本の傀儡を招くものとして非難もされたのであって、そこを抜きにして親日だの好評価だのを語るのは、これまた幻想の中の一駒に過ぎないだろう。彼らにとって頼るものはたまたま日本だっただけであり、他の政治勢力との抗争(親英派や距離をおく独立派)の関係の上でその軌道を修正する術を持たなかったに過ぎないとさえ言えるかもしれない。

帝国主義戦争の極地という意味での対英米戦は、日露戦争と異なり大国の後ろ盾(資金的意味にしろ陰陽の支援にしろ)なく大国と戦うという、最初にして最後の、そして最も愚劣でもあり挑戦的でもあった戦争であって、その意味で「自存自衛」という言葉はそのまま帝国主義闘争において「敗残すれば脱落する」という限界的意味合いとしては正しいのであって、やったことの結果はそれとして、戦争の意義としてそうであったことについて、卑下する必要があるかどうか、については十分に考える必要はあるだろう。同時にそこに被せる「東亜解放」がいかに都合のよい机上の用語であったか、という点については、ソ連のポーランド侵攻における「国家崩壊が差し迫ったポーランドにおけるウクライナ系・ベラルーシ系住民の保護」「西ウクライナの解放」といった大義名分ほどではないかもしれないが、実態と目的に対しての大義名分の度合いとしてはいい勝負のように思える。なお、ソ連のポーランド侵攻は完全な国際法違反であり、ソ連・ポーランド二国間の不可侵条約の一方的破棄という意味で何重にも名分と実態が異なる点は指摘しておいて良いかもしれない。
敗戦となった以上、大義名分が立派であった、と慰めるのはそれとして、その慰めをいつしか実態そのものであったと取り違える具は犯したくないものである。

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