デモの成功を祝しつつ

■果たして大行進の目的は何処にありや
 
今回の東京大行進が成功裏に終わったことを、まずはお喜び申し上げます。
本デモに関わらず、所謂カウンターデモを含めて、一連の動きに支えられた方も少なくないと思います。
その上で、以下を記載することをご了解ください。
 
果たして、今回のデモの目的は如何にあったのか。
「あらゆる差別に反対します」という宣言文の後に、現れるのは「人種差別撤廃条約の誠実な履行」となっています。
このことには公式サイトにも掲載されているので異論はないと思います。
自分は、その主義主張からも前者、後者ともに賛意を示すものです。
「FirstStep」というプラカードも用意されていたことを考慮すれば、確かに「第一歩」かもしれません。そして同時に、所謂「在日特権を許さない市民の会」といった醜悪なレイシズムを体現する団体の行為は非難どころか止めるに値する行動でもあります。そのことに異論もありません。
一方で、「あらゆる差別に反対」としながら、そのひとつの着地点が「人種差別撤廃条約の履行」となるのはどういった理由でしょうか。もちろん、もっとも抑圧されていると言って差し支えないそこに目を向けることに対して、特段の異議はないのです。しかし、その敢えて太文字で強調された前後の文章と、その要請文という目的との間の整合性は、いかにも不釣合いと言えます。
本邦は度々女性の人権などにおいても国連から懸念を示される現状において、そしてアイヌを先住民と認めながらその権利を十分に認めざる現状において、敢えてそこに集約する意味合いはどのようなものでしょうか。
確かに新宿・大久保界隈において、最も被害を呈するのは「在日韓国人・朝鮮人」であり、次いで「在日中国人」でありましょう。百人町界隈に住んでいたこともある自分としては、そのことは十分に理解もしているつもりです(最も在日の気持ちが分かる、といった傲慢なことを言うつもりもありません)。
しかし、「あらゆる差別」に対して、要請が「人種差別撤廃条約の履行」で良いのでしょうか。それは非常に重要な問題でもあり、日本政府の不誠実さの現れでもあります。一方で、それは差別のひとつの区分におけるそれでしかありません。「あらゆる」という題目を掲げるのに対して、果たしてそれで良いのでしょうか。「第一歩」というのであればそれも良いでしょう。しかし、告知文の中にそれは垣間見えないこともまた事実でしょう。もちろん、これは参加者間の合意事項と言われればそれまで、でもありますが。
 
 
■レイシストに対峙するに許される言葉とは何か
 
今回、参加者側に(今回と言わず、反レイシストデモ全般ですが)、「キチガイ」「知恵遅れ」「死ね」と言った文言が飛び交っていたことはすでに指摘されていることです。その発話者が「どのような意図で用いたにしても」、それらの言葉がしばしば障害者の差別的文脈で用いられてきたことは事実です。そのこと自体は否定のしようもない事実だと思います。
たとえ発話者にそのような意図が無かったにしても、それらの言葉が差別的に作用する機会というのは間違いなく存在します。果たして、それらの言葉は、発話者の意図が「それを意図していない」からといって、または「それを差別と受け取る人がいるとしたら、その受け取り方が問題だ」として退けられるものでしょうか。
昨今韓国人への攻撃に「キムチくさい」といった表現が珍しくない現状ですが、これは「新たに設定された」言葉であり、「歴史的にそう扱われてきた」言葉の一群に加えるべきかどうかは微妙なところです(その意味では「チョン」といった言葉の方が歴史的にも非難に値する「根付いた表現」とは言えましょう)。
しばしば日本の不正義の弾劾に対して、または日本のマジョリティの不正義に対して「魂が悪い」といった言葉が用いられる一部のWebサービスがありますが、それとどの程度の相違があるでしょうか。
個人的には「まったく相違を感じない」というのが答えです。「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も死ね」というものと、「レイシストは死ね」というものと、確かに言説上(もしくは用語解釈上)、前者はレイシズムと断じて良く、後者はそうではありません。また、前者をそのままに、後者を「知恵遅れ死ね」と言った場合はどうでしょうか。この場合も「レイシズム」という点では、前者はそうであっても後者は必ずしもそうではありません。
しかし、重要なのは、「レイシズム」という点では違っても「あらゆる差別に」となると、大きな相違がある、という点ではないでしょうか。くれぐれも混同を避けなければならないのは「レイシズム」と「差別」とは「絶対にイコールにはならない」という点です。後者は前者を含みますが、その逆ではありません。したがって、そのような発話者を「レイシスト」として糾弾するのは基本的に間違っているわけですが、「差別者」という規定を設けるとすると、必ずしもそれを回避できるものではないと思います。
もっとも、この場合「レイシスト」の強気を挫くに当たって、言葉を選んでいる場合ではなく、彼らのむちゃくちゃなそれに対して最も効果的な言葉と行動をぶつける必要がある、というのは理解できる話ではありますし、「行儀良く」やっていたら、過去の運動同様、大きな成果も何も上げられなかった、かもしれません。というよりは、過去のそれを見る限り、間違いなく大きな成果を上げることもなく、また行政が「デモルートを変更させる」といった圧力を実質的にかけられたかどうか、についても怪しいものがあります。
その上でなお、「必要悪」として規定するのであれば、それもまたひとつの選択ではありましょう。同時に「だからと言って、別の文脈で差別として機能する用語を用いるべきなのか」といった問いや、「死ねというのは人に対して発話すべき言葉なのか」という問いについては、誠実に応える必要はあるように思います。同時に「必要悪」であるならば、それが別の差別を生み得るという点について、批判は甘んじて受ける必要があるように思います。それができないのであれば、「敢えて」そのような言葉を用いる理由について、「問われる側」がしっかりと説明を行う必要はあるでしょう。当たり前ですが、「奇麗事」で問題は解決しない場合は多々あるのであって、今回の「在日」に対するそれが、奇麗事で済まないレベルであることは十分に承知している、という前提がなければその問いそのものがどうなのか、という問題は当然に惹起されますが。
 
 
■「切り捨てられる」懸念は誰のものか
 
しばしば、「声を上げる」ことが重要であり、「参加し意思を示す」ことが重要であり、「参加せず批判するのは相手を利することだ」との批判(沈黙の加担者)はあります。それはそれで分かります。一方で、例えばしばき隊のように、「被差別側に立った運動ではない」ことを公言している場合もあります。「差別側に立つこと」と「被差別側に立たない」ではまったく意味合いが異なります。一部にはそれを自覚している人がいることも理解しています。前者と後者とでは雲泥の差があります。後者の側では、被差別側を場合によっては「切り捨てる」ことができるからです。それでも目的が変わりませんから。
例えば、自分はカテゴライズの方法によっては容易にマイノリティになり得る立場ではありますが(民族、ではありませんが)、前者で解決できない場合後者を取り得るか、というのは非常に難しい問題であるようには思います。もちろん、毎日暴力を浴びせられる立場にもなれば、その精神的身体的負荷は計り知れず、分かりますなどというのも不遜なものですが、自分は自分で憎悪とは言わないにしても、数住人、百人の単位の集団の中で、孤立し好奇の目に晒され、言葉を以ってそれを向けられたこともあります。そういった際の孤独や傷は、そう簡単に癒えるものではありません。あくまで経験談ですが。たった一瞬、数時間のそれですら、耐え難いものがあることは事実で、それが日々となれば、止めることに躊躇せず、というのは非常によく分かる話です。
一方で「被差別側に立たない」と宣言されることは、しばしば、被差別側を切り捨てる可能性を意味します(というか、それを想定しなければそう明言する必要せいが存在しません)。その際、大手を振って参加できる、というのは、それなりに「強い」人であると思います。集団になれば個の弱さを消せる、ないし緩和できる、というのもまた事実ですが、そうやって「参加した集団」そのものから「切り捨てられる」可能性を考慮せずに参加できるのは、またそれだけのものを持っているのだと思います。
今回しばき隊は「集団」としては参加していないとのことですが、参加者・主導している中に少なくない重複する人が存在することは周知の事実ではあります。もちろん、「目的」の合致によって行動を共にすることもあるでしょう。それはそれで良いと思います。批判している人の大多数が、恐らくはその批判の内容が解消されたからといって、運動に参加することも無いでしょう。それも分かります。
しかし、民族的意味ではマジョリティで、且つセクシャリティではマイノリティと言う立場である場合、あまり無邪気に参加もできないものです。レインボー系の人が今回のデモに参加していることは重々承知していますが(というかそう聞いているだけですが)、セクシャルマイノリティの中でもあの手のイベントに参加できる人は「強い」人です。
その意味では、在日でありセクシャルマイノリティであり、という立場は最も弱いかもしれません(セクシャルマイノリティの中でも、レズビアンやゲイといった立場は相対的には「強い」立場である、ということは念頭に置いておくべきでしょう)。
だからこそ、「あらゆる差別に反対する」行動の要求が「人種差別撤廃条約の履行」であることは、ひとつの懸念ではあります。中には、レイシズム言動を繰り返す相手に「キモヲタ」と言った言動をぶつける人もいます。いわゆる「オタク界隈」の規制に絡んで、都や国の審議会において、しばしば同性愛敵視言動が恥も外聞もなく行われていることを承知で行っているとすれば、それは確信犯なのでしょう。
しかし、そうであれば、到底同調などできるものではありません。そうであればなお、自身の生存の自由に関わることだからです。同時に、知らずにやっているのであれば、批判者の不勉強を非難する前に、自身の言動の持つ意味合いを、もう少し慎重に図るべきではないでしょうか。
これは、一連のカウンター運動に対して、支持をし、また支えられている「マイノリティ」が存在することを承知の上で、です。奇麗事と言われればその通りですが、同時に「あらゆる差別」の中から切り捨てられる、という懸念は、決して無いわけではないでしょう。かつての左翼系市民運動が「同調しない人」を敵視し攻撃して回った歴史的事実もまた、この種の運動では忘れられるべきではありませんし、それを知らないわけでもありません。だからこそ、です。
 
 
 
 
それでもなお、デモの成功を祝します。

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