【独白】さようなら、保守

さようなら、「保守」
というわけで、一応は保守を自称してきたわけですが、そろそろの名乗りは終わりにしよう、と考えた次第。
保守主義とは元来は近代化に対するアンチテーゼの一翼を担い、また急進的社会変革を求めず時に合理性の上に偏見を配して非合理であれ因習として培ってきた社会制度の中に伝統の存在を肯定をもしてきた、はずであった。
それは郷里・郷土とともにその地に住まい根付いた人々を同胞として共にそれらを実現するものとし、それ故に閉鎖的社会・村社会・排外主義とも隣接する危うい立ち位置でもあった。
これもまた、回顧趣味でもなく反動主義でもなく、漸進改良をも包含しない限り、ただの守旧と頑迷に留まるべきものをも内包するものでもあった。
然るに昨今の「保守」を名乗る界隈の動きや、またそれとは別にいくつかのやりとりを通じての「世間」とやらの因習の弊害が時にあまりに大きさの存在(同時にそれは「普通」とも称される)、それらを見るにつけ、果たして「保守」を名乗ることの意味をどのように持たせるべきか、を何度も自省させるものであった。
別に率先して「保守主義者」と自らを位置づけることやそれをやめることにどれほどの意味があるか、というのはほぼ自分個人以外には「どうでもいい」ことなのであって、わざわざどうこう言う必要があるかどうかは不明だが、敢えてそう言明する言動を少なからず採ってきたのだから、明示しておくことに意味もあろう。

さようなら、「保守」
だからといって保守主義の思想的それを放棄するわけでもないし、言動のそれ自体の中身は別に変わらないだろう。
もちろん、転向する先などあるわけもない(保守からの転向と言うと革新運動系などを想定する向きもあろうが、それらは総じて自分は批判的に見てきているし、今後も変わらないだろう)。
しかし、「保守」を自称していくことは、その文字の本邦での偏った捉えられ方(と同時に、その偏りを当然としてそれを自称する「保守」)に対して、言動のアプローチとして適切さを欠くように感じこそすれ、求める先にあることを見据えた際に負の作用もあろうと感じる。
自らの過去を振り返り、敢えて選び取り直したものであればこそ、それをまたわざわざ宣言して放棄することにいささかの郷愁も無いわけではない。
個人的郷愁にさほどの意味があるかどうかはまったくの個人的問題である。
時に「お前は保守ではないだろう」と言う指摘は頂戴もしてきたが、それは自分が「保守」を自称するそれに対して、それは「保守主義の思想的根源」と相違することを指摘する程度の、「保守」という言葉にどのような側面を見出して指摘するか、という違いであろうし、これもまたどの程度自分にとって意味のある指摘であったかは不明だ。自分の言動が相手に対して、さほど意味がない程度の意味しか持たなかったやもしれないし、そうではなかったかもしれない。

今後、どのように自らを位置付けていくのか、しばらくは模索することになるだろう。
それで良いのだ。
迷い、その先に何を見出すか。
思索を捨てたら前には進まない。
さようなら、「保守」
保守主義足らんためにこそ、その名は捨てるとしよう。
一周したその先に、敢えて再度その名を選び取ることもあろう。
しかし、今はその名を捨てよう。
「普通」を名乗らねば普通ではない、という程度に安っぽいそれではないはずだ。

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