オタクと性的表現とセクシャルマイノリティと反差別とレイシズムと

「オタク差別」とは何か。

そもそも「おたく」という用語そのものは、定説としては1983年の中森明夫のコラムとされている。そこでは徹底的にアニメ「ファン」が揶揄され、ステレオタイプな「おたく像」がこれでもかと記載されていた。「非コミュでファッションセンスがなく運動音痴のデブでロリコン(ショタコン)のメガネをかけたネクラ」といった「十代」の中高生である(実際はもっと手ひどく書かれている)。
このことが意味するのは、「おたく」という表現は、その誕生の当初より徹底的に「侮蔑的用語」として誕生している、ということでもある。
この用語に至る過程では、基本的には「ファン」という呼称が用いられているが、同時にそれは漫画・アニメだけではなく、そのコラムの中ではアイドルタレントのファンや今でいう鉄オタ、SFファンやオーディオマニア、果ては「有名進学塾に通って勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」なんてものまでも、その射程に入れた上で「おたく」と命名されている(「以後そう呼び伝えることにしたのだ」と記載されている)。
 実際のところ、この用語が「発明」される前は「アニメファン」「アニメマニア」といった用語が「アニメオタク」を指す用語であった。中森明夫がそれを「発明」する以前の、1970年代後半である。スターウォーズや宇宙戦艦ヤマトといった作品が次々と送り出された時代であった(なお、宇宙戦艦ヤマトは1974年初放送だが低視聴率で打ち切り→再放送→映画化という、典型的な流れで1970年代後半に「社会現象」とまで言われる展開を示した)。※1

 1970年代後半に「発明」されたその言葉は、1989年の宮崎事件を象徴として、その「発明」当初の侮蔑的意味合いからさらにその指し示すそれを臨界点にまで達する。それと平行して、1980年代はコミケや二次創作なども定着し、それを後押ししたのはビデオデッキの普及であった。同年代は、いわゆる「おたく」が消費媒体の普及と平行して広く展開していったことと、それと平行して一般には「危ない」存在とされていった過程とが同時に進行していったことを示している。なお、中森明夫がコラムを書いた時のコミケ参加者数は10,000人とされているが、1990年には一気に25万人と推定されるまでに拡大している。なお、現在では60万人近くに達しており、「進学塾のボクちゃん」はさておき、SFファンや鉄道ファン、アイドルファンそれらが重なり合うとしてもなお、普及の度合いは相当早いとは言えるだろう。この過程で、「おたく」を代表する象徴としての「アニメオタク」が、中森明夫の揶揄よろしくのイメージで「オタク」として定着していったようには思う。大塚英志が示唆し、東浩紀が指摘した「データベース消費」の下地であり、それがPCやDVDの普及で一層加速していったのが1990年代と言えるだろう。ここでは大塚英志や東浩紀が何を語ったか、という点やその妥当性は考慮の外とするが、同時に1990年代は宮台真司が援助交際やブルセラといった存在を「肯定的」と言うべき評論で描いていたことは忘れるべきではないだろう。宮台は確かにそれらを東浩紀の消費論と関連させ(あるいは関係性を示唆して)展開していた。

 ここでもう一つの流れとして指摘しておくべきなのは、1970年代は「薔薇族」に対して「百合族」という言葉が「発明」され、1980年代の日活ロマンポルノによる用語の普及はあるものの、それらの用語を普及させていったのは、1970年代の少女コミックが相対的には高い年代の読者層をターゲットとして展開し、1990年代の少女革命ウテナへと昇華されるに至った、同性愛文脈のサブカルチャーとしての漫画・アニメによる普及が平行して展開されてきた、ということであろう。なお、同様に、現代に至るいわゆる「おかま」芸能人のさきがけとも言えるおすぎとピーコがデビューしたのは1975年であり、メディアにおいて「オネエ言葉」が氾濫し消費されるようになるほど普及したのは2000年代になってからである。有名な「電車男」の書籍化が2004年、映画化が2005年であるが、これは2ch「文化」の奔流であると同時に、あくまでそれは「消費される存在」としての「オタク」像でもあった。同性愛タレント、性転換タレントが消費される構造と同様に、それは「あくまで多数が越境者=異端者を消費する祝祭としてのそれ」でしかない(タレント当人にもそれを自覚的に意識している場合が少なくないように見られる)。

 さて、このように書くと、確かに性的マイノリティとオタクというのは関係しているように見えないでもない。しかし、ここには錯誤があろう。両者は関連しているようで、単に事象の異なる位相を重層配置しているに過ぎないのであって、それは重なり合い共通する部分はあるものの、同一同列に語ることの容易な問題ではない。
 そもそも論として、オタクはその用語の「発明」された当初から周縁の疎外される「べき」存在であった。それ故にサブカルチャーでありハイカルチャー「ではなかった」からだ。その文字通りの意味において、確かに「マイノリティ」ではあろう(少数という意味で)して、そうであるからこそ、オタクはオタクとして成立しているのであり、そうでなければ寧ろ「マニア」としての意味におけるオタクの存在を規定するものは何なのであるか、揺らぐだろう。蛸壺と揶揄され、それであってもなおそうであることを続けるのは、オタクがオタクであるが故の根幹でもあるからだ。
 一方で、そこから「クールジャパン」といったものも生みだされた。これは、あたかもオリエンタリズムの記号を消費するようなもので、決してそれは「市民権を得た」わけでもなんでもない。オタクとは元来、それが「おたく」であった頃に規定されたように、社会的には「持たざる者」とされる。これは金銭的それではなく、「非コミュ」「非モテ」といった文脈で、である。だからこそ、「ファッション」や「クラシック」といったハイカルチャーではなく、あくまで「鉄道」や「アイドル」といった引き合いが出されるのだ。それをそれとして卑下する必要はさらさら無い。が、同時に、それが過去の悪書追放運動や日活ロマンポルノ裁判などにみられるように、「表現の自由」を以て争われてきたそれそのものでもある。

 性的マイノリティの場合、確かにそれは「消費される存在」としてのみ受容されてきた存在ではあったが、同時にそれが「ファンタジー」であればこそそうなのであり、宮崎事件以前に、もっと根本のところで社会的(場合によっては生物学的にさえ)否定されてきた。それは「表現の自由」ではなく、人権の平等を巡って争われてきたものである。問題の位相が全くことなるのだ。両方を兼ね備えた存在は、それ故に何重苦にもなるだろうが、さりとてそれは決して等質なものではない。ただし、これは性的マイノリティのアメリカの、或はヨーロッパのそれにおける闘争では「まったく」ない。あくまで本邦における話である(或は百合は宝塚まで遡っても良いだろうし、同性愛そのものはいくらでも過去にも遡り得るが)。
 それを「性的マイノリティへの人権侵害のように」というのは根本的に誤った理解であるとしか言い様がない。謂わば「性的指向」を「性的嗜好」或は「性的趣向」とでも捉えるような過ちである。ヘイトスピーチは確かに一般には所与のあるいは生来の「属性」またはそれに準ずる(宗教等)に対して、それ故にそれを憎悪する言説とされる。しかし、「オタク」とは今のところその地平ではない別の位相に規定されている。「指向」ではなく「嗜好」であり、或は「趣向」でもある。それは矯正できる、ということではなく、根本の位相が異なるのであり、従って闘争するにしても、その根本が異なるはずである。性的指向はある種の「越境者」ではあるが、同時に本来はオタクは越境者「ではなく」、「周縁者」であったはずなのだ。社会の外周に存在するものであり、メインストリームから取り残されたか乗れなかったものでもある。「持たざる者」ではあるが、同時に性的指向のように「欠落者」として扱われてきた訳では、ない。逆説的に言うならば、オタクとはその用語が「おたく」と規定されたその当初より、社会的存在を「認められ」同時に「外縁に置かれる」存在であった。存在は「認められていた」とも言える。

 「差別」と「区別」とは何か、という水掛け論にもみられるように、「差別」の概念はかなり広範であり、だからこそ「オタク差別」という用語も用いられるのだが、「オタク」という用語はそれとして明らかにその「発見」の当初より「社会的落ちこぼれ」として規定され、「区別」されてきた。そのこと自体に対しての異議申し立ては、当然にして構わない。が、野間氏のツイートに対して批判するところは「オタクだから」ではなく、その用語が生まれて此の方使われてきたその用語が「キモイ」という点に敢えて集約させたからであろう。そこには印象論しかない(少なくとも自分の知る限りファッショナブルでハイカルチャーにも知見の深い、容姿端麗な「オタク」という存在を何人も指折ることができる)。容姿差別はそれがジェンダー規範にも隣接するように、「所与」であるが故に否定されるべきだろう。だからこそそれに対して「お前のファッションの方がヤバい」とか「お前の容姿が醜い」といった反論は、本来それを批判すべき内容に対して、批判者そのものが行う批判行為としてはかなり筋が悪い。

 批判すべきそこを当事者がやっていては異議申し立ても何もないであろう。否定すべきそれを自身でやっているのだから。「反差別を掲げながらオタク差別」というのは、その意味で根本のところで筋論を誤っているのであって、焦点となるのは「反差別を掲げながら容姿差別をするとは何事か」であるべきだろう。だからこそ、自分は反レイシズム運動の場において、容姿の嘲笑や旗が「カッコイイかどうか(≒イケてるかどうか)」といった言動が飛び交った際、そこは批難もした。それは「オタク差別」だからではなく「容姿差別」の発露であるからだ。オタクの外周に配される「区別性」というのは、本来そのような「ドレスコード」に近しい要素のステレオタイプな「強制」に対してこそ「差別」となるのであり、「オタクそのもの」に対して「差別」が存在するわけではない。「オタク」という言葉が含意するニュアンスとしての「ソーシャルコード」に対しての異議申し立てであってのみ、初めてセクシャルマイノリティの「ジェンダー規範」に対しての異議申し立てと接点も持てよう。ただしそれは「マジョリティを敵にする」云々という「手法論」ではない(勿論手法論としての批難は自分も行うが、それはあくまで目的達成に至る道筋であって、本論ではない)。
 
 勿論、「社会規範」としてのそれと、個々の闘争としてのそれは異なる。位相の差異を含めて、それらは常にグラデーションとしてのみ存在し、明瞭に区分できるものでもない。例えば異性装の場合(まさに自分がこれだが)、それは「コスプレイヤー」としての「オタク」でもない代わりに、同時に「異性とは何か」という「記号としてのジェンダー規範」の強化をも促進する存在でもある。スカートや、或は胸の存在や、或は「女性的化粧」であったりする。それは確かにジェンダー規範の強化の補強にもなる。それでもなお(場合によってはセクシャルマイノリティの内部における敵対者とされてもなお)、それは確かに異議申し立てを行うに足る存在でもある。金氏のツイートの主旨とは大いに相違する点があることを承知で言うならば、それは「所与」の「指向」に対してのアイデンティティ・ポリティクスではあろう。同時にそれがその「存在そのもの」故にジェンダー規範への闘争を試みる数多の「マジョリティ」の闘争に抵触していようとも、である。

 同時に、「パスするかどうか(=異性装して異性として社会的に認められるか否か)」という異性装特有の問題も、確かに抱えている。人権や歴史修正主義に厳しいはてなサヨクと称されるアカウントが異性装趣味者の写真へ「グロ」といったニュアンスのタグを貼って、「嘲笑」してきたことを自分はこの目で見ているし、自分を「日本人=マジョリティ」として糾弾しながら、同時に自分のセクシャリティを公言してぶつけたところ、一切の応答を絶ったアカウントも知っている。散々糾弾しておきながら、だ。そういう社会だからこそ自分は「名誉マジョリティ」であることを極度に求め、過剰適応しようとし、それ故に「日本人なら当然」とばかりに「日本人たろう」と、今でいうネトウヨのような言動を繰り返してきた過去はある。それは否定しない。だからこそ、糾弾に汲々とする「パフォーマンス」はどうでも良いし、無価値どころかヘイトの再生産にさえ寄与するだろう、とさえ考える。まさに自分がそうであったのだから、自分のような存在がひとりやふたりで済むはずもなかろう、と。免罪でも贖罪でもなく、まさに告発として、当事者の異議申し立てとして、そう問うだろう。同時にこれは、反ヘイト界隈の言動におけるその内在や、また、行動界隈の非論理的「差別」にも反対する。次の世代がそういったものに、少しでも自身として無用に対峙したりせずに済む社会であってほしいと願うからだ。

 内部でどのような議論があってにせよ、東京大行進と銘打って行われたデモにおける「キング牧師」や「公民権運動」への「連帯」「敬意」を表しての「フォーマルスーツ」といった記号の裏で行われた、それを公然と裏切る容姿への言動の放任は、やはり保守派における行動界隈の放置と同様に批判されるべきだろうし、「消費」としてそれをやってのけたことに対して、その「消費のありよう」としてやはり批判すべきでもあろう。それは民族右派や街宣保守が、一時は行動界隈に手を貸し、場合によってはコスト(資金他)を融通しながら、単にそれを絶つだけで免罪されるわけではない、という点とまったく同様に、である。
 但し、それに対して、「オタクを差別するとは」とか「二次元アイコン使いながら」とか、或は「ファッションセンス云々」といった批判をするのは、まったくもって間違っているし、本末転倒でさえある。

※3

 それこそ社会運動や大衆の合意・黙認という点では「どっちもどっち」でしかない。だから自分はそれにも反対する。無効化と相対化はまったく異なる。「だからこそ」無効化を求めこそすれ、相対化は望まず、同時に相対化が必要な際にはそれが無効化に繋がると確信し支持し納得できる範囲において、のみでしか賛同もしない。況してやその挑発に乗るなど、どうしようもない。それは無効化どころか相対化もできてはいないのだから。

 だからこそこれも違うと感じる。マジョリティの「笑い一つ」を取る取らないいったことでは、ないからだ。そして同時に、以下のことについては同感でもある。同時に、上記のツイートについては、「笑い」そのものが焦点ではない点について、下記を含めて誤解無きよう留意されたい。※2

 もちろんこのような何かを言っているようで何も言っていないようなそれに対して関係各位他から盛大な集中砲火を浴びようが価値無しとして無視されようが、それはそれであり、同時に薄っぺらかろうがなんだろうが、批判されようが、「だからどうした」というものである。それについては何度でも「だからどうした」と言おうと思う。

※1なお、宇宙戦艦ヤマトは明らかに第二次世界大戦フィルムのオマージュが満載の作品でもあったりするのだが、同時に1970年代は戦争映画として著名どころが多数放映された時代でもあった。「パットン大戦車軍団」「戦争と人間」「大空のサムライ」「八甲田山」「はだしのゲン」「遠すぎた橋」「トラ・トラ・トラ!」、果ては「従軍慰安婦」(日本人慰安婦の中国戦線を描いたもの)まである。戦争がエンターテイメントとして消費される一方、ベトナム戦争の影響もあり、戦争自体は決して遠い時代ではなかった。

※2

当初のエントリーについてこの点で誤解を招きかねない表現であったことはこの場で謝します。

※3

このツイートについては上記の通り艦これ云々の文脈とはまったく別にツイートされたものであることを明記しておきます。
 
 
■参照文献

このエントリーでこれもどうかと思うが(苦笑)

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オタクと性的表現とセクシャルマイノリティと反差別とレイシズムと」への1件のフィードバック

  1. 冒頭からこれは拙いのでは?
    >そもそも「おたく」という用語そのものは、定説としては1983年の
    >中森明夫のコラムとされている。

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