可視化されることの正否/或はネットの海に浮かぶ可視化というノアの箱舟

差別反対でありながら「ゴキブリ」連呼し、きっこおじさんを擁護する有田和生さんとのやりとり
こういうものは毎度ながら、「反差別」ならなんでもありかよ、と思うわけです。
自分は「のりこえねっと」のことはそれほど信も置いていないし、「C.R.A.C」のことも別に信を置いていない。
そういう態度だから自分が書く何かにいかほどの何があるのかも皆目見当もつかないし、意味があるのかもわからない。
従って、「Newsweek批判への紫音さんの反論」でまとめて頂いているものも、スルーされようが構わないし、「反差別」の大義名分の下でいろいろな動きがあるのは知っているものもあるし知らないものもあるし、デモに参加するしないが差別に対する意思表示のリトマス試験紙になるとも思わないし、当然に声を上げえない抑圧された存在がいるだろうことも、その存在を理由にして「なんでもやってよい」にはならないとも考えている。
だから、こんなことも書いたりはする。

で、その上で、実際のところ、別に現場に出て行っている人はそれはそれでリスク負ってやっていたりするわけで、自分の知己の範囲は少なくとも暴言暴行とは、寧ろ無縁の人だったりもする。
ここ一両日での都議会のセクハラ野次なんかの一連の流れを見ていても、実際のところ案外長期的にはどうにかなるかなぁ、と思わないでもない。
(あれは誹謗中傷に類するものだとは思うが、一応こう「野次」と呼称しておく)

というわけで、オンラインだろうが街頭だろうが議会だろうが、差別だなんだはそれこそ人が存在する場のどこにだって存在してしまっているのだけど、それはそれとして、可視化されることで得られるものもあると思う。

この記述については、概ね過去はそれとして会社で学校であるいは議会でまたは家庭で葬られて表に出てこなかったか取捨選択により問題視されてこなかったものが、”あの”記者をもってしても触れずには置かせない程度には周知される状況になったことを意味しているのだし、今回の「野次」についても山のように「過去似たようなことを言われた」とか「もっと酷いこと言われた」とか次々出てくるあたり、可視化されることで「アカンものはアカン」と誰かしらが指摘し、またそれが「問題」として取り上げられやすい環境になったことも意味していると思う。
個々の日本人が持っている差別心。それはきっと他のどこの国のどんな人にだって、やはり存在するもので、だからこそ「隠しおおせずに可視化できる」ことの意味と、それに「おかしい」と指摘する存在がいることが、どれだけ距離が離れていようが存在することが可視化されることの安心や心強さ、絶望の回避は、いかに酷い言説が溢れていようとも、やはり重要なことだろうと思う。
もっとも、それ故に差別する側も「同類が居る」と嬉々としてしまうのだが、その負を以てしても、この正の面には到底適わないと思う。

世界はきっと敵ではないし、あなたを見捨てない人もいるのだ、ということの可視化は、過去踏絵を踏みながら自力で探し当てる砂浜の砂金探しだった行為を、即時的に心の支えを見つけることができる、ということなのだから。
そのためにどれだけくそったれな言動を見る羽目になるとしても、そのことだけでも、自分の幼少期とはまったく時代が変わっているし、良くも悪くもその状況がある以上、負の面ばかりを見たりしていては勿体ない。
そう言った意識の上で、敢えてこういうことを言いたい。

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