性表現/性視線に対する疑義

というツイートにちょいとばかりちっちゃな反響がありましたので少しばかり。
これ「女性差別」でなく「異性愛者男性」も「同性愛者」もごっちゃにする歴然とした「性差別」ですからね。
このツイートの前にRTしてる某氏のツイートの「女だから」「言えない雰囲気」とかで収斂させちゃいけないんですよ。
(だから繰り返し「女性議員」の抗議という報道にも疑義を呈してきたし、男性議員も反対していたよね、党利党略はそれとして)
「結婚しろ」「結婚してるの?」というそれは、それが経済事由から縁がないからとか主義信条からとかする必然性がないとかそもそも異性愛者でもないとかいろんな理由があり、それは個別個人の自由なんですよ。
で、同時に「子供」の有無は、それとして価値観の問題から病理的理由まで、さらにいろいろあるんですよ。
「だから」女性差別だけにとどまるものではなく「社会全体の問題」ということを繰り返し言ってきたわけです。
同時に「結婚=子供」等の概念も破砕すべき固定概念ではあるし、同時にそう考える人が居ても別にそれは「他者に押し付けない限り」において自由でもあります。この「他者」には配偶者、扶養者だろうがなんだろうが、パートナー全てです。法定婚だろうが事実婚だろうが関係ありません。
そもそも「女性への差別」という命題に収斂することそのものが「異性愛至上主義且つ婚姻=出産至上主義」でしかなく、これは同性愛者や養子縁組者、シングルファザー・マザーへの蔑視も透けて見えるわけです(敢えてファザーを先に書きます)。
そもそも何ら関係のない、もしくは忖度する必要のない私的生活の事情の結果を、公的場に持ちだした挙句にそれそのものが批難に値するかのような言動がクソッタレな代物なのです。
真剣に少子化を懸念するのであれば、同性婚の養子縁組だろうがシングル親だろうが(敢えて性別を指定しませんが)、関係ありません。
今もって「同性愛の親に育てられる子供は不幸に違いない」と決めつけてかかるそれ自体が児童虐待に値するし、同性愛差別にも値するということは、まったくもって理解されておりません。そのあたりは「「同性愛が感染して増える」的言動見てつらつらと思う」にもちらっと触れております。性自認の確立は生まれたその瞬間に意識されるわけではないのですから。
同時に異性愛者の同性愛嫌悪と同様に同性愛者の異性愛嫌悪もまた、このような自認確立前の児童にとっては不幸をもたらすでしょうから、そういった固定概念の偏見化そのものが掣肘されるべき代物であります。

これは同時に、そういった固定概念的それが批判されるに値することであることを示唆するとともに、そういった価値観が表出されるものそれ自体を否定することを意味するわけではありません。
性愛表現の規制を訴える側はしばしば「性表現」そのものを批判の対象に挙げるわけですが、そこで列挙されるものは少なからず批判されるものがあります。
そして同時に、そういった規制の文脈から「外れた」ところに位置する漫画等のそれが幼少期の同性愛者にとっていかに「救い」として作用してきたかは十分に考慮される必要があるでしょう。少女漫画における同性間性愛暗示・明示(それが女性同士であれ男性同士であれ)が、異性愛表現に溢れる社会において、その存在の救いになってきたことを、自主規制を含めて規制すべきとする論者はいかに考慮してきたでしょうか(この一行については空論ではなく、見聞きした実体験を含めて、そう断言しておきます)。
個人的には「まったく考慮されてきたとは思いません」が回答です。
障碍者性教育を「過激」として断罪してしまった事例は記憶に新しいところですが、社会における「多数者の規範」や「多数者の当然のモラール」は、少数者にとっては等価ではありません。
だからこそ、下記のようなことも言うわけです。

当たり前ですが、少数者の権利のために多数者が犠牲を強いられる「べき」ということではありません。
強いて言えば、解放の文学と規制の文学とでも言いましょうか。
性規範というものが極めて「政治的社会的規範」に直結する道徳律そのものであることを認識した上で、「どうしても伝えたいメッセージなのか否か」を「読者」が恣意的に作家を判断し断罪するのは自由ですが、その自由を行使する故に「自主規制」を促すことそのものに、自分は反対します。
「結婚しろ」「子供をつくれ(敢えて産めとは言いません)」の言動がいかに暴力的言動かを考慮すれば、そういった道徳律そのものが「自由社会」と「任意選択」に対して、自明として「空気としての同調圧力を生む」結果になるのは、例を引くまでもないことです。

個々の表現されるそれそのものには当然に批難されるものもあるでしょうし、批難して然るべきものも決して少ないとは言えないでしょう。同時に、その批難が「自分以外の属性を踏みにじっていないか」については寧ろ批難する側そのものが考慮するべきでしょうし、そうであるからこそ「表現規制に反対する」道理も理論だって武装されることもありましょう。
表現規制反対の声が「しずかちゃんの入浴」あるいは「のび太さんのエッチ」にだけ収斂されて、「のび太のブリーフ/ボクサーパンツ」を指摘し得ないのであるとすれば、それこそセクシズムの再生産に過ぎないのであって、所与の前提条件がまったく異なります。

と書いたのはそういった前提があってこそであって、「平等に性表現を規制する」ということを「自主的」であったとしても現状で求めることは、それが「異性愛者以外」に対して社会において存在が「平等に許される」存在であることの認知回路の一つを遮ることにもなります。
規制する側はそもそも「同性愛表現そのものが不道徳」といった理路でそれの制限を「当然に正当化する」ことは、過去の都条例や国会審議を見ても自明すぎるほど自明であって、いかにヘイトスピーチが溢れようが、特定の思想を以て「自明に断罪する」ことに異議を唱える理由でもあります。気分でつけたり外したりするレインボーアイコンに異議を唱えるのと同程度に。いかにそれが現場で連携していようが、です。同性愛者団体の権利運動に同性愛者自身が批判を出すことは、総連や民団の運動に在日半島出身者の系譜が異議申し立てを行うのと同程度に、当事者の間では普遍的に存在するものです(同時にそれらが権利獲得に寄与した役割を否定するわけではありません、とわざわざ注釈を書かないとそういったことすら読めない人が多数存在することそのものが差別なんですよ)。

その上で、敢えて以下のことを述べたいのです。

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