言動と人格に対する認識の陥穽

「Aという人の発言(B)をRTして共感するのはどういうことか理解できない。それ以外はわかるのに」
という問いが立てられるとする。
問う人をC、問われる人をDとしよう。
この場合、冒頭の問いを発した人がC、問われた人がDとなる。

さて、この問いの立て方にはいくつかの問題が内在している。
前提として、CはDを評価していて、Aを評価していない。
この場合、問題としては以下が提示できるだろう。
1:CはAの評価とB(発言)を同等に扱っている
2:CはAの評価を低く見積もっているため、Bも同時に評価を低く看做している
ここから、A=Bとなっているため、CにとってはDがBをRTすることがAを評価することと等価になっている。
それと同時に以下も問題として提示できる。
3:CはDをB以外の点では評価している
4:CはDに対してA=Bを以てDがAに対してくだしている判断への同意を求めている
ここにおいて4はそれとして「そう判断したC自身の価値基準」への同意を求めていることになる。
問いの形で発せられるそれは、実際のところ問いではなく、C自身の価値基準への承認を求めていると言える。

この問題は、本来CがいかにDを評価していようとも、決してD自身の価値基準や判断はCと全く同じであるわけがないにも関わらず、Bの一点を以てそう発している点に収斂される。CはDを「自己と同様に物を見て同様の判断を下す」という見方になってしまっている。日常におけるコミュニケーションにおいて、しばしばDがCが同意し得る言動を行っていたとしても、そういったことは有り得ない。人は物事を観察・思考した際、そもそもそれに向ける眼差しそのものから既に異なっているからだ。
そうである以上、本来立てられるべき問いは以下であるはずである。
「Aという人の発言(B)をRTして共感する判断は何によって為されているのか」
ただその一点である。それ以外の問いの立てようがない。
況して、出会って日も浅い関係の内に冒頭の問いをぶつけるのは、気心が知れているならいざ知らず、その問いの形で発せられるそれそのものが、価値判断への同調・同意を求める行為にもなる。
同調圧力とまで言うと言い過ぎではあるが、少なくともそれが「Dの見解」を考慮することなく「Cがそう判断している」ことを所与の前提としている以上、Cの問いの立て方自体がDを尊重していない行為でもある。
討議或はコミュニケーションの有り方としては非常に問題が多い。

もう一つの問題はA=Bになってしまっている点にある。
B(発言)はAの何らかの価値判断によって行われているのは当然である。
同時にBに含まれる価値・意味或は事実関係は、Aがどのような認識によってフレームアップしたかはその内容次第ということになる。
しかしながら、冒頭の問いはA=Bであるため、発信元がAであるならいかなる内容であれBは低い評価となる、という内容を無視したCの価値判断を既に前提として織り込んでしまっている。
如何にDがAを評価していても、或はAのBを評価していたとしても、それはCのものとは異なるはずである。
それ以外の部分でCがDを評価していたとしても、それはたまたまDが行う発信がCの価値判断に合致しているだけに過ぎず、決して同等でも同様でもない、ということが抜け落ちている。
極端に言えば、CはCの価値判断によってDをフレームアップしているだけにも拘わらず、CはDと同じ視点・ロジックによって同様の結論を下すはずだ、が前提になってしまっている。
言動と人格とが不可分に結びついている状態と言える。この状態でDがCに対して冒頭の問いへの異論を唱えた場合、Cにとっては織り込まれた前提としての「CはDと同じ視点・ロジックによって同様の結論をくだすはずだ」が正面から否定される形にならざるを得ない。
これはフレームの問題としては非常に危険なものとなる。Cにとっては、Bを契機に所与に前提であるはずのC=Dが崩されるため、C≠DがそのままCの価値判断の否定に繋がることになる。
そもそも言動と人格が不可分になってしまっている状態でそうなると、次に訪れるのは呆気ない破局と断絶、或は敵対である。

このような、認識体系を人格と等価で結んでしまう状態での陥穽はいくつもある。
「在日批判をしていたが戸籍を調べたら自分自身が在日だった」といった2ちゃんねるあたりで稀に出てくる、自己認識の崩壊であったり、或は「そういった言動である以上、その時点を以て敵と看做す」というそれだ。
これが激しく表面化するのがラベリングによるフレームで、いわゆる「党派性の論理」となる。
ある一つの集団において、言動と人格が不可分として認識されていた場合、たった一つの言動が集団の中での敵としてフレームアップされることになる。集団の外部、つまり第三者からはしばしば内ゲバと呼ばれるそれである。
逆説的表現をするならば、言動と人格が不可分として認識されている場では、異論の挟まる余地が存在としての人格そのものから有り得なくなるため、集団そのものが一種の同質化をはじめ、強力な同調圧力として作用する。村社会と揶揄される閉鎖空間の相互監視に近い状態での価値判断への同調圧力だ。
集団がその傾向を帯びると、それは必然に自律運動をはじめ、次第に熱狂へも転化する。
しばしば扇動家のそれが強力に作用するのは、ここである。
扇動家に煽られないためには、常に言動と人格とを予め腑分けしておく必要がある。A=BやC=Dといった認識は、この点に於いて、大袈裟に言えばその認識体系そのものが社会リスクになる(もちろん自己リスクでもある)。
そして、一度熱狂の同調に染まると、それは扇動家にさえ手に負えない代物になる。集団心理が作用し、コントロール不能になるからだ。戦争の自律運動や組織の自律運動とは、しばしばその状態を指す。

多様性や民主主義というのは非常に厄介な代物で、常に言動と人格とを腑分けしておかないとならない制度設計である。
そうでなければ、些細な契機が必ず許容できない存在としてフレームアップされざるを得ないからだ。百人百様とはよく言ったもので、百人一様では多様性や民主主義は不要となる。
民主主義の名における独裁や、党中央独裁・民主集中制、あるいは指導者原理といったそれは、必然にそういった要素を含んでいる。
そうならないためには、究極的には常に孤独である必要があり、それはC≠Dであることを所与の前提とすることを意味している。
その上で、人は一人では生きられない社会的存在であり、A=B或はC=Dの錯誤はしばしば犯す過ちでもある。
完全にそれを可能とすることは、感情が介在する以上不可能でさえあるのだが、その不可能性を認識すること・意識することから、はじめて多様性や民主主義がそれとして「本来求められたはずの」制度として機能する可能性が見出せるのではないだろうか。

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