個人としての人間宣言

 「今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。」
 この一節から始まる有名な演説があります。誰もがその名は知っているであろうマーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」と呼ばれる演説です。
 「われわれの共和国の建築家たちが合衆国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる米国民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、白人と同じく黒人も、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。」と指摘されたその約束手形は、演説の中で残高不足の小切手と称された上で、「だがわれわれは、正義の銀行が破産しているなどと思いたくない。この国の可能性を納めた大きな金庫が資金不足であるなどと信じたくない。だからわれわれは、この小切手を換金するために来ているのである。自由という財産と正義という保障を、請求に応じて受け取ることができるこの小切手を換金するために、ここにやって来たのだ。」と続きます。
 
 残念ながら、私は高潔な人物でもなければ、賢慮を持ち合わせているわけでもありません。それでもなお、キング牧師の言葉と同じものを、見出さなければならない一節があります。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
 これは日本国憲法前文に掲げられた、有名な一節です。キング牧師が「白人と同じく黒人も」と問うたそれと同じように、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを「日本国民は、国家の名誉にかけ」宣誓しました。日本国憲法のこの宣言文は、その原稿において、或は日本国民の総意ではなかったかもしれません。しかし、それはキング牧師が必ずしも全黒人の代表者であったわけではないことと同様に、そこに大きな意味はありません。
 
 或は、日本国憲法以前にも、次のような一節がありました。
 「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」
 水平社宣言と呼ばれる宣言の一節です。この一節の崇高なる点は「かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ」という点に、或は集約しても良いかもしれません。
 
 確かに昨今の人種差別言動や、或はジェンダー規範や、或は性的少数者や、或は障碍者、数えればきりがないほどの社会的不公平が存在し、そこには「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」が日々、朝に昼に夕に、浴びせられるか、存在そのものが無かったかのように切断処理されていく現状は、依然根強く残っています。しかし、「正義の銀行が破綻している」などと思いたいわけもなく、また「政治道徳の法則」は普遍的なものであり、また「人間を冒涜してはならなぬ」という言葉は、今なお色褪せているわけではないでしょう。
 だからこそ、大久保で、名古屋で、鶴橋で、抗議の声を上げることは妥当であり、それらの諸理念の実現を求める運動の一つとすることができるでしょう。しかしながら、その中において、「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」と呼んで差支えないようなものも、存在する事実を認めなければなりません。「キチガイ」「知恵遅れ」「ゴキブリ」「ニート」「社会不適応者」「アニオタ」「ロリコン」といった言葉がそれです。残念ながら、これはたまたまその日に目に入ったので、有田和生氏にそれを問うと、返答は「人の心にナイフを刺す人間を人間扱いできるか!」であり、また「在日の友人たちが殴られれば体を張り守るし戦う。お前のようにみてるだけの卑怯な生き方はしない。」とのものでした。確かに差別主義者は心にナイフを刺し続け、平和と安寧を破壊し続けてきました。それは事実です。しかし、同時に私は「人間扱いできるか」という言葉に対して「人を人として扱うべきだ」ということを主張したにも関わらず、「在日の友人」といった、瞬間的に範囲が極端に狭められた問題だけに焦点をスライドしたわけです。理解に苦しみます。ヘイトスピーチが向けられるのは在日諸民族だけではないし、可視化されずらい社会的差別など、差別する側も或は善意として行うだけに一層厄介であるにも関わらず。
 
 これは、デイトレフ・ポイカートが「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」において、「50年代の世論の意識が、ユダヤ人虐殺の「比類なさ」に集中したことで、ほかの犠牲者の多くは忘れられた。戦後のドイツの世論はそれをあっさりと片づけてしまった。世論は犠牲者の特定のグループには贖罪の意を表明したが、このグループこそ、ナチズムの犯罪によって、ドイツ人の視野から消えてしまった人々であった。それに反して、NATOの公敵の一部であるロシア人、ポーランド人、共産主義者にたいする犯罪や、引きつづき烙印を押された集団であった、ジプシー、同性愛者、身体的・精神的障害者、強制的断種者、社会に適応しない者への犯罪は「忘れられた」。」(同著P411)と指摘された状況と、酷似している側面があると指摘したい。自分は在日問題だけを指摘したかったわけではありません。あの差別主義者は或は部落へも差別言動を行い、或は左翼と看做せば攻撃的言動を行ってきた事実があります。しかし、「在日」にフォーカスをあてることで、あたかも「視野から消えてしまった」集団もいます。
 確かに、或はLGBTとの連携をして「見せたり」することもあるのは知っています。しかしそれは、何らの免罪符にもならないでしょう。差別主義者の中に在日の存在がいるのと同様に、そのようなことは、欠片もその言動の正統性を担保しません。
 「なら虐げられている人を守ってみろよ。傍観者!」とも言われましたが、自分は確かに日本国籍者という意味においてはマジョリティであり、この社会の構成者の一員であり、有権者である限り、どのような政府であれ統治であれ、その責任を負うべき立場にあります。同時に、両性愛者であり、異性装趣味もあります。それらのアイデンティティをそれとして自己に引き受けるまでに、多くの自己欺瞞と葛藤と過ちを重ね、またそれを公表すれば好奇の目で珍しい玩具を手に入れたかのように扱われ、或は嘲笑され、或は要らぬ同情をされたこともありました。その意味では、他の少数属性者の人と同等・同質と言うつもりは毛頭ありませんが、傍観者であるつもりもなく、虐げられてこなかった、とも言いません(同時に自分の過去の過ちについても、過去自ら言及の通り、虐げる側であったことも事実です)。
 周知の通り、ナチスがガス室に送ったのは、ユダヤだけではなく、性的少数者や障碍者、或は社会不適応者だった事実があります。このことの意味は、特に差別の問題を扱うにあたり、極めて多くの示唆を与えてくれます。
 
 「今日はゴキブリがたくさん来るな。コックローチで追い払うかな。」という表現の妥当性はそこにあるでしょうか。「朝鮮人をガス室に送れ」と叫ぶ差別主義者に対して、「ゴキブリをコックローチで追い払う」或はより直裁に「ファシストや歴史修正主義者は死ね」と返すことが、どこまで妥当と言えるでしょうか。有田和生氏の言う「ゴキブリ」に私も含まれるでありましょう。「意見を異とする」だけで見てるだけの卑怯者として決めつけて、「人間扱いできるか」どうかを裁定することができるのですから。「人間扱い」すべきかどうかの裁定、人間扱いすべきでない存在の非人間化、非人間を殺傷することに躊躇ないことを意味しかねない表現、コックローチが殺虫剤としての意味しか持たないことが明白な表現を、そこに重ねることができるでしょう。勿論、今のところ、ガス室のように計画的実行が為されている訳ではありません。同時に、あと100年程度前に、当時のドイツに生まれていたら、或はガス室送りになっていたかもしれません。その事実に突き当たったこともあり、自分は過去の過ちから、自らのアイデンティティの肯定とともに、脱却できました。
 その内容から騒然となったアドルフ・アイヒマンは、とても凡庸で、知性が高いわけでもなく、高官になれるような学歴があるわけでもなく、「陳腐な人間」で「凡庸な悪」と評されました。だからこそ、「誰もがアイヒマンになり得る可能性がある」として指摘されもしたわけです。欧州で未だ根強い反ユダヤ主義、或は米国で未だ根強い白人至上主義を持ち出すまでもなく、ある一つの正義は、時として第二、第三のアイヒマンを生むことを、一体誰が否定できるでしょうか。
 
 ヴォルフガング・ヴィッパーマンの「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」で指摘されているように、「共産主義者たちはかれら(筆主注:トロツキスト及びトロツキストと目された者)と戦うことに全力を挙げ、なんのためらいもなく、相手をゲシュタポに売り渡した。1939年以後、スターリンの指令によって、ソ連に亡命していた共産主義者たちさえもが、直接ゲシュタポに引き渡された」(P.220)にも関わらず、東ドイツでは「かつての抵抗運動が現代政治の道具として利用されただけではなく、その歴史的役割がこのうえなく過大評価されてきたことを指摘しておこう。東ドイツで一般におこなわれていた、一方(筆主注:西ドイツ)にファシズムを、もう一方の側(筆主注:東ドイツ)に反ファシズムを置くという二分法的な見方は―残念ながら!―歴史の現実と合致しない。ドイツの抵抗は個々人の問題で、一口でいえば、国民なき抵抗であった。それは国民の大多数からあからさまに拒否されたのである。」(P.221)といったことは、容易に、残念ながら、容易に出現します。スターリンが、或は東ドイツが築いた社会は、密告と弾圧と抑圧により全体主義的統制を色濃く反映したものでした。だから共産党が、或は共産主義が悪い、というわけではありません。そうではなく、ファッショを否定して見せたところで、同種のことは、形を変えて出現し得る、またその当事者にもなり得る、そしてそれはまさしく「個々人の問題」なのです。
 私たちは、未熟で誤謬は常に犯すでしょう。だからこそ、ある一面の不正義への告発が、同時に別の不正義を齎すことは、根源的問題として拒絶されねばなりません。前者が肯定されるが故に、後者が無条件に許されるわけではないのです。
 
 アマルティア・センが「不平等の再検討 潜在能力と自由」において、エチオピアのかつての皇帝統治とその打倒において、「だが、皇帝も、また飢餓が荒れ狂っている時に流血を伴う政変によってついに皇帝を追放した反対派も、善についての他者の見解に対して寛容であるという原理を受け入れることはなかった。実際、それぞれの陣営は、他者の目的に何の慈悲を施すことなく、自分たちの目的だけを追求し、共に生きることを願って寛容に基づく政治的解決を求めることには全く関心がなかった。寛容を求める正義の政治的構想からすれば、このような状況で正義についてのいかなる判断を下すことも困難であったろう。(中略)こんなに制限の強い政治的構想では、正義はなかなか受け入れられないだろう。」(P.121)と書いたように、公平と正義を求めるそれが、必ずしも寛容と平等を齎すとは限らないのです。「世界中の人目を引くような不正義の多くは、「政治的リベラリズム」や「寛容の原理」を唱えることが容易でもなければ、特に助けとなるわけでもない社会的状況の中で起きている」(P.122)ことを考慮しなければなりません。
 
 もちろん人の集団あるいは個々人の意思や情念は、それとして認めたくない恥部を認める必要性を突きつけることもあるでしょう。石橋湛山が「直訴兵卒の軍法会議と特殊部落問題」と題して書いた論説の中に、「申すまでもなく裁判は最も公正でなければならぬ。勿論今度の軍法会議においても、その結果において何ら公正を欠くことがなかったであろうことは信ずる。が問題はその形式だ。裁判は、ただに判決において公正であるのみならず、またその形式において、何人が見ても、なるほど公正だという感を与えねば権威がない。(中略)而してもし被告にその所懐を思うままに述べしめ、あるいは弁護人を付する事により、不幸にして軍隊内部の面白からざる事情が曝露するとも、おそらく陸軍の信用はこのためかえって厚くせらるるとも、少しも傷つけられなんだろう。」(「石橋湛山評論集」岩波書店P.156~157)とあるように、過ちがあれば過ちとしてそれを率先して是正することを「何人が見ても、なるほど公正だ」という感を与えることは、その判断・結果の妥当性を高めることはあっても、決して損なうことはないでしょう。
 「人間扱いできるか」ではなく、「人間として、その社会の公正さに照らして糾弾する」ことが、求められる公正さであり、或は正義の政治的構想であるべきでしょう。それは、時に長い道程になることでしょう。何が正義であるか、ただその根本でさえ、個々人に相違があります。差別主義者に正義がある、と言うわけではありません。同時に、差別の不当性告発の動機が正義であれ、「なるほど公正だ」という言動を、果たしてできているかどうか、それはまさしく「個々人がそれとして引き受けるべき」ものであります。
 
 個々人の集合体として、社会が構成され、国家が形成されている以上、それを避けて通ることなど、できようもありません。有田和生氏は私に「傍観者の卑怯者」と決めて返答しましたが、仮に私が氏が守りたいとして例示した在日であり、声挙げられぬ者であり、その表現だけはどうしても看過し得ないとして問いを立てていたとしたら、同じ回答を氏は返したでしょうか。それとも利敵行為を働く「守る必要のないゴキブリ」として処理するのでしょうか。
 公正と平等を求める声は、本来「社会の不寛容に対する告発」であり、「寛容の要求」であるはずではないのでしょうか。自分のツイッタープロフィールはほぼすべて現実のそれとは無関係な記載をしてあるので、一体自分がどのような存在か確認もせず、或はその必要さえ感じず、「反差別言動の些末な表現に異を唱えるネトウヨのゴキブリ」として判断したのではないでしょうか。勿論自分も決して品行方正で綺麗な言葉遣いをしたわけではありません。寧ろ挑発さえ含めた表現だったことは事実です。しかし、内容については撤回の必要は認めません。一方で、しばしば指摘される「寛容の不寛容」を実践してはいない、と言えるでしょうか。
 「これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれは、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。」
 このキング牧師の言葉は、差別言動という不協和音に対して、それを「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」を以て応酬することを求めた言葉でしょうか。いつの日か、今は差別をしている白人とも、共に手を取って歩めることを、それこそが合衆国が約束した「自由」であり「平等」である、それはきっと実現する、という「この信念」が「差別の告発」としてこの言葉に結実したのではないでしょうか。
 
 確かに差別主義者の言動は看過できないものでしょう。同時に、そうであるが故に、その不協和音に対置するものが、果たしてそれで良いのか、個々人の問題として常に問われているのではないのでしょうか。
 「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」という、高邁にして高貴な理想に対して、一体どれほど差別を糾弾する側は心中に居るアイヒマンを意識しているでしょうか。私も人間です。恨み辛みもあれば、赦せない人も居ます。だからこそ、いかにそれが「人として」駄目であるか、問いたいとも思います。「人間扱いしない」ことではなく「人間扱いすること」によって、如何に個々人という人間の総体としての「社会」において、それが不正義であるかを問いましょう。
 何等の組織があるわけでもなく、決して学があるわけでもなく、非才無力な個人として、この愚かな人間という存在が、明日にはもう少しだけその愚かさが無くなると、それを希望としましょう。「赦さない」ことと「人間として認めない」こととの間には、エリコの城塞の如く、巨大な隔たりがあります。そしてそれは心中のアイヒマンのラッパの一吹きで容易に崩れ、超えてしまう一線でもあります。安易なラベリング、スローガンの多用は有田芳生議員が2007年に書かれた「何か悪政があればすぐに「ファシズム」という言葉を使うことは、知的怠慢であるだけでなく、画一主義(コンフォーミズ厶)へ陥ることだ。日本の政党は「マニフェスト」などを強調しながら、そこに政治哲学がない。いつまでも是正されない最大の欠陥だろう。アーレントはフランツ•カフカが述べたことを引用している。
 真理を語ることは難しい。真理はなるほど一つしかない。だがそれは生きており、それゆえ生き生きと変化する表情を持っているからだ。」(有田芳生の『酔醒漫録』2007年2月18日)と言う言葉の通り、知的怠慢に陥っていないでしょうか。
 私は、私たちは、或は不正義を糾弾するという正義のために、もっと本質的根源的存在として、人間は愚劣であれ何であれ、人間であり血が通い、心を持ち、生きているのだ、という事実を、しばしば忘れたがるものです。しかし、近代的人権思想が国や制度を超えて、人類の普遍的価値である、と規定されているその普遍性は、私や、私たちが決して神ではなく、任意勝手に裁定者であることを認めません。不正義の告発は社会に対して為されるものであり、裁きは司法によって行われる、その支えがあればこそ、自由と公正、政治的正義の実現が為されるのではないのでしょうか。人間は、神にもなれません。そして英雄も殉教者も、民主主義にとって必要ではありません。
 
 私がどのような存在か、或はどのような肩書きか、あるいはどのような属性か、そのようなことは、人権の普遍性の前には、あまり意味があるものではありません。名前といった記号でさえも、或は意味がないでしょう。普遍的人権という真理とされるもの、或は正義とされるものが、生き生きと変化する表情として「ゴキブリをコックローチで対処する」ような表現や「人間として扱えない」といった表現も含めるとしたら、普遍的人権はあまりにも哀しいものです。
 私は、或は私たちは、社会的不正義の告発に対して、「私もまた、同様に個として人間であり、人間として生き、人間としての権利を持っている」という言葉を言わねばならないのかもしれません。その時「人間扱いできるか!」というそれは、誰の心中にもある凡庸なアイヒマンの亡霊を、抑制すべきそれとして気付くことができるのではないでしょうか。
 敢えて言葉を選びましょう。人間は人間として、その尊厳は基本的人権とともに守られるべきであり、物のように扱うべきではなく、そしてその尊厳を踏みにじる場合は、人間として対応する、と。そしていつの日か、差別主義者の憎悪のそれを、人類は超克するのだと。そのために、まず自らが人間であらねばならないでしょう。綺麗事では差別は無くせない、ともよく言われます。確かにそうかもしれません。しかし、綺麗事そのものを放棄するして構わないわけではないでしょう。だからこそ、失われかけている綺麗事を問います。差別主義者もまた、人間です。切り離して切り捨ててしまえるものではなく、確かに厳然と存在する社会の一部であり、その愚かな行為は人間であるからこそ行われているのだと。
 確かに、反ヘイトデモで救われた、心の支えになった人も決して少なくないでしょう。そして同時に、その言動故に、そのような人にそのような言葉で代弁されたいと願わない人もいるでしょう。或はそういう人は見捨てて前に進むべき、との判断もあるかもしれません。もしそうであるなら、私はそうやって見捨てられていく、切り取られた後に残ったところで、別の道を模索するとしましょう。その判断を嘲笑して頂いても、無益と謗って頂いても構いません。これは、差別主義者を赦すでも寛容になるでもなく、私個人が人間性を回復し、人間足らんために、そういう選択をします。そして、微力無力であれ、私自身が納得し、是と判断したことを、できる範囲でやっていきます。私のように何等持ち合わせていない存在は、このように様々な先達の言や研究を、引用し理解するよう努めることしかできないかもしれませんし、それも誤っているかもしれません。しかし、これらの先達の到達点が今現在飛び交っているそれであるとは、思いません。愚かな個人として、拒否したいと思います。もっとももともと代弁するつもりも守るつもりも手を取るつもりも会話するつもりもない、無力な個人が拒否したところで、何一つ影響は無いでしょう。心中のアイヒマンを愛でて、反差別言動を続ければ宜しいと思います。その果てに何があるのかわかりませんが、そこが知的怠慢の画一主義でないことを祈りたいとは思います。

― 暫く、或は永久に会えないかもしれない、友人に捧ぐ

◆引用文献
「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」
デートレフ・ポイカート著/木村靖二・山本秀行訳/三元社

「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」
ヴォルフガング・ヴィッパーマン著/林功三・柴田敬二訳/未来社

「不平等の再検討 潜在能力と自由」
アマルティア・セン著/池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳/岩波書店

「石橋湛山評論集」
松尾尊兊編/岩波文庫

※手元にあるものが岩波書店版なので部分改訂が入っているかもしれません

◆参照ツイート

◆傍証先
差別反対でありながら「ゴキブリ」などと連呼、野間タソやきっこおじさんを擁護する有田和生さんとのやりとり
有田ヨシフとその弟、有権者をゴキブリと呼ぶ
あのね有田の弟だけど

◆参考資料
Newsweek 日本語版」2014年6月24日号
世界で増殖する差別と憎悪
社会 寛容さの喪失とSNSで世界にヘイトスピーチが蔓延する
日本 「反ヘイト」という名のヘイト
Newsweek日本語版への抗議」(のりこえネット)
Newsweek批判への紫音さんの反論

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