「普通」という病

 ここ一両日の事件報道を見ていて、ぼんやりと考えていたことに少し焦点が当たったようにも思えたので備忘録的に。
「頭が良すぎて特殊な子」
「カントを愛している」
この2つはいずれも交友関係から出てきた証言である。
或は
「からあげ弁当ばかり買っていくので気持ち悪い」
でも良いし、
「少女漫画を持っている不審者」
でも良いかもしれない。
 

 個別の事件・事案への言及はこれ以上ここでは行わないが、これらは全て犯罪報道で取り上げられている「証言」である。中にはある種の「病んでいる」人も居たのかもしれないし、或はただ「そうであった」だけかもしれない。その事実性はここでは問わない。
 昨今の「普通の日本人」といった表現や、それに対抗するに「普通は人として赦さないだろう」といった表現でも良い。或は「ネトウヨはキモオタ」でも良いし、「デモに行くのは暇人」でも良いかもしれない。それらの個別の事実性もここでは問わない。
 しかし、これらの言及において「普通」或は「普通でない」とされる、その「普通」という基準は一体何であろうか。「頭が良すぎる」ことは「普通ではない」のだろうか。或は「カントを愛して」しまっては普通ではないのだろうか。「からあげ弁当ばかり」を買っていては普通ではなく、「少女漫画を持っている」ことも普通ではないのだろうか。これらは「犯罪報道」において明らかに「普通ではない」存在を暗示する文脈で為されている言及である。「普通の日本人」を称するそれがしばしば自覚的少数派である振る舞いをし(だから日本が支配されているだなんだの言説が飛び交うことになる)、或は「デモに行くのは暇人だけ」でも良いが、それらは明らかに「対象以外のものに普通という基準を置いた上で、対象を普通でないと看做す」ことによる異化と排除の作用を齎す。
 
 「普通の家庭」「普通の親」「普通の教育」等、どのようなものでも構わないが、果たしてそれらが言及する「普通」とはいったいどのようなものだろうか。飛び交う「普通」の言説を組み合わせていくと、どうにも架空の明らかに人ではない存在しか出来上がらないのではないだろうか。「普通の人」とはどのような存在なのだろうか。
 「普通ではない」ということを言外に、或は直裁でない形で暗示・明示することで、「それは自分とは異なる存在」であり「理解の範疇を超える(或は理解する必要さえない)存在」であり、また「社会として許容せず排除すべき存在」として立ち現れるそれは、一体どのようなものであろうか。「本当の」「真実の」といった修飾が掛かる言説も同様であるかもしれない。
 
 
 もちろん、社会規範として一定の範囲を求められるのは致し方ない点があるとはいえ(最低限法は守る等)、およそありとあらゆる事象・行動を、その対象者を異化し、或は「普通ではない存在」とすることで、自身を「普通である」と確認するためだけに記号化していないだろうか。
 新卒で職に就けないのは「なんらかの問題があるはずだ」といったものでも良いし、或は「欧米では」と言った言動もそこに含めても良いかもしれない。何等かの基準がそこには存在するはずだが、その基準を「普通」として自明に捉えて良いものだろうか。よく言及される「アニメ好き」は「犯罪予備軍(≒ロリコン)」といった安易な言及や、或は「フェミニスト」は「過激(≒常軌を逸している)」でも良いかもしれない。そこに置かれる基準としての「普通」とは一体何なのか。
 
 
 概ね「普通ではない」は排除・攻撃を正当化する作用を齎す。そう「定義する」ことで、自身を安全圏の内に置き、対象を無制限に叩きのめす「普遍性」の権威を獲得できる。しかし果たして本当にそうなのだろうか。私も、或はこれを読んでいる貴方でも構わないのだが、自身の内に「普通」として規定し得るものと、そうではない(「普通」ではない)部分は折り重なるように混在し、共存しているのではないだろうか。趣味や交友関係、食や嗜好、或は何等かの自認や思想は、ある側面だけを切り出せば、およそ「普通ではない」ことにすることができるのではないか。そして、同時に「普通」と括ることができる部分も少なくないのではないか。
 自分もしばしば用いる言葉なので、よくよく考えておくべきだろうと思うが、昨今「正義」と並んでこの「普通」は、均質な社会の上澄みだけを寄せ集めた、異化の作用を補強するための、実際には「どうとでも定義可能」なものなのではないか、と感じることが多い。果たして「普通」と切り出されるそれは、「何を基準に何を規範としてどの程度までの範囲を以て」定義されたものなのか。寧ろ、確信的言動として、対象を「普通ではない存在」として規定するために逆算して「普通」を定義してはいないだろうか。
 それは、「普通という病」なのかもしれない。主観的普通は、「普通」なのだろうか。言及されるあらゆる「普通」を重ね合わせた時、その存在は最早「普通」とは到底言い難い得体のしれない異形に成り果てるのではないだろうか。あらゆる物事を「マニュアル」化し、「これが普通」として流行らせたのは80~90年代のマニュアルブームの一つの形だが、それが生み出した極致が「完全自殺マニュアル」だったことを思い出している。確かにそれは公称100万部以上が売れた。そして、その「放置」が問題視された。しかし、同書は「自殺するのは心が弱いからだ(=普通ではない)」と流布される言動を批判し、「自殺もせずになんとか楽に生きていくための実用書」として、自殺を推奨も批判もしないよう配慮されて書かれたものではなかったか。「皆がこうしている」「これがスタンダード」というマニュアルブームの果てに、敢えてその流布される「普通(=自殺しない強い心)」とされる言動を批判する文脈で書かれた同書は、しかしながらそのタイトルを以て後に「青少年の健全な育成」にそぐわない「有害図書」扱いになった。1990年代後半のことである。そして報道は、それをそのまま「有害図書」として新聞もテレビメディアもそのまま報じていった(なお有害図書指定「しない」よう嘆願も出されたがあまり効果はなかったようだ)。
 「普通という病」はこのようにして、表層だけで内実を伴わないままに広がり、言説そのものを蝕んでいくのではないか。

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