「反省」というフィルター/一連の朝日新聞社への雑感

 朝日新聞社の一件以来、何かと謝罪やら反省やらの言葉が紙面・記事を問わず飛び交っている。朝日新聞社の問題は組織問題である要素が強く、それはそれで改善されれば良いだろうし、改善されなければそれまで、というだけの話ではある。
 しかし「反省」や「断腸の思い」の用語ばかりが並び、謝罪することばかりに追われているようにも見える。確かに反省や自省は必要だろう。それを伝えることもまた必要であることは疑いようもない。過去の事実問題に対して(関東大震災における風説流布も媒介した人種差別の発露を記事とした神奈川新聞等も含めて)、「反省しなければならない」との趣旨が記載されていたように思う。では「反省」すれば良いのか。それはまた別の問題であろう。
 
 反省しても、問題の根本が改善・解消されない限り同種の問題は形を変えて、或はまったく同じ形で露呈する。本来反省とは事実と向き合った上で、問題の要因を突き止めそれをどのように変革するのかがあった上で、結果として為されるものではないだろうか。反省の気持ちや感情などいくら持ち合わせたところで、それが無い限りは何等問題は解決されないだろう。
 また、事実と向き合い問題の要因を突き止めたところで、それが反省すべきものなのかどうなのかは別問題にもなろう。教育においてそれらが何もないまま反省文を何枚書かせたところで、書かせる側の自己満足に過ぎず、書かされた側は反省などしないだろうし、表面的にそう繕うことで却って問題の根源がより深く意識下・無意識下に蓄積されるに過ぎない。
 
 報道、或はメディア媒体に公正・中立を求めるといったことはおおよそ的外れで、事実記載であってさえ、事実の一部を意図的に欠落させることで、或は修辞を加えることで、言外に価値規範を持ち込むことは容易であり、そもそも何を記載するかという編集作業はある種の優先順位付けも含んだ価値規範の発露でしかない。そこを自覚的にならない限り、発信者側も受容側も、様々なものを見落とすことになろう。事実と向き合う、という行為は価値規範の他者への押し付けでもなく、或は糾弾や扇動でもなく、先ず以て自己へ向けて自己のために為されるべきものであろう。
 
 意識的価値規範処理を有色のフィルターだとしたら、無意識下の価値規範処理はさながら無色のフィルターになろう。有色のフィルターはいくらでも変えることができる。戦前の新聞メディアが戦争を煽った事実はあり、それが戦後一転してあたかも反戦の牙城のような素振りで振る舞うこともできたし、全共闘運動の報道についても自らの記事が煽り過ぎた結果、手に負えなくなったら論調を変更させてみたり、或は共産党が自主武装・自主憲法路線から転換したことでも良い。事例はいくらでもある。
 しかし、意識的・表面的それに対して、事実と向き合った上で問題の根本をどのように処理したのか、は別問題である。一見正反対、或は真逆に見える論調・政策変更であっても、余程自覚的に一連の処理を行わない限り、有色のフィルターは掛け変えることはできても無色のフィルターは無意識下で何も変わっていないままである。それは心理的にはその正反対・真逆な転換に対して無意識下でそれを論理的整合性を付けるべく、「辻褄合わせ」を自覚無いままに行うことでもある。第三者が見た場合にまるで辻褄が合っていなくても筋が通っていなくても、それは当事者の中では無意識下に既に辻褄が合ってしまっているため、本来正当に為された批判・指摘であっても、ただの誹謗中傷としか受け止めることができない。それは結果として、無意識下で変化がない無色のフィルターの部分により整合性を取ってしまっているためでもある。昨今のレイシズム行動からカウンター行動へと転向した人にも、同種のことは当て嵌まるかもしれない。
 
 この無意識下の無色のフィルターは相当に厄介な代物で、無意識下にあるそれを意識的に掘り出す必要があり、またそれは非常に当人にとって見たくない事実を曝露することになる。それは体面やプライドによって容易に回避しようと意識させる代物でもあり、多大な苦痛を伴う行為でもある。更に、無色のフィルターは一枚とは限らないのであるから、前提としてそれは無制限に蓄積されていると考えるべきものであるから、基本的には際限なく続けることにもなる。当然一朝一夕でできるものではなく、日々重ねられていくものでもあるため、不断の努力が求められる行為でさえある。
 いくら言葉や態度を取り繕ったところで、これが無ければ何も変わらないままに繰り返すし、これを繰り返すことで、言葉や態度で取り繕うことをせずとも、第三者はその変化に気付くこともできよう。物事を見る、考える、感じる、視線の奥には必ず無色のフィルターがあり、視線の手前に有色のフィルターが存在する。第三者、他者を批難するのは容易い。しかし、それは有色のフィルターの上に為されるものであり、自己批判・自己総括は、それが自身の手によって為される場合に於いてのみ、無色のフィルターの上に為されるものであろう。無色のフィルターに触れる行為は、至って思想・哲学的自問の類にもなるが、それ無くして有色のフィルターを変えてみても、それは最大に為されたとしてもただの抗弁と転向にしかならず、弁明・詭弁の類としか受け取られまい。
 
 これは何も朝日新聞社のみを批判する訳ではなく、それを批判する側にも同様に適用される内容であるし、何より自分自身に向けて書いている。本稿もまた、無色のフィルターを探るための、一つの行為に過ぎない。本件は以て他山の石とし、自己の糧としたい。

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