新潮45コラム雑感 -延長戦(10月号)- 前半(仮)

【警告】無闇に長い上に逐次言及であったりそうでなかったりとまとまりがないので奇特な方以外の閲覧はお勧めしません。

 新潮45が8月号の杉田議員のコラム(「LGBT」支援の度が過ぎる)に対する批判へのレスポンスとして10月号で再び特集を組んでいる。レスポンスと書いたのは批判に対する再反論になっているのかどうかかなり怪しい部分もあり、場合によっては相当程度本題から話がズレてしまっているからである。10月号特集のタイトルは「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」となっている。あれ論文だったんだ… という印象はさておき、10月号は総勢7名体制でいろいろな話が書かれている。以下にざっと再び雑感をまとめておこうと思う。以下は新潮45掲載順に沿ったものでありそれ以上の他意はない。

◆Part1 藤岡信勝氏
 まず冒頭は8月号の要旨まとめなのでそのまとめが適切かどうかは各自判断するとして(おおむね要旨自体は8月号のママではあると思うが作為的引用による要旨である)、そこから先の展開がまず強引。
 尾辻議員のツイートを枕に置いた上で散々誤読と言及しているのだが、果たしてどちらがどのように誤読しているだろうか。

 杉田氏は、「子どもを持たない、持てない人間は『生産性』がない」などとはどこにも書いてない。常識的に考えて、杉田氏がそんなことを言うはずがない。(10月号P.78)

と述べられているのだが、8月号の杉田議員の言及は以下である。

しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。(8月号P.58)

確かに「持たない、持てない」という言葉ではない。しかし「作らない」という表現が「子どもを持たない」を含意しないと相当割り引いて好意的に解釈する必然性もどこにも存在しない。実はこの点について、続く藤岡氏の文章が示唆的ではある。藤岡氏が解釈するところの杉田議員の言いたかったことは以下となっている。

①税金という公的資金を投入するかという社会的決定の文脈の中で、②公的資金を少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性に関して判断する基準として、③LGBTの人たちについて、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と位置づけられる、というだけのことだ。(10月号P.78)

まずこの3点で展開される解釈そのものは8月号の杉田議員のコラムからは推察不能なのだ。というより②以降はほぼ作為的に8月号で書かれていた内容を瞞着している。

例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うために賛同が得られるものでしょうか。(8月号P.58)

 太字は私が付しているのだが、藤岡氏の展開する3点展開のうち杉田議員が言及しているのは①のみで、②については「例えば」として例で出された少子化対策費の大義名分論の話であり、LGBTに対する支援を公的資金の少子化対策費の枠の中での支出などという話は一切無い。つまり②でそもそも元のコラムに無い論旨展開を行うことで③を正当化しているわけだ。最初に作為的引用による要旨だと書いたが、この要旨の部分でも間違いなく論点上重要な「例えば」の用語が省かれている。このたった3文字を削除することで、8月号を振り返り参照できない/しない人にとってはあたかも「少子化対策費の枠」の中の話であるかのように印象操作できるわけだが、気付かずやっていれば(本当にそのように解釈しているのであれば)どうしようもない読み方だし、意図してやっているのであれば相当悪質と感じる。

他人の文章を正確に読み取り、正しく要約するという能力は、日本の国会議員には求められていないのだろうか。尾辻氏の誤読は、単純な国語的読解力の欠如の問題であるのかもしれない。(10月号P.79)

3点展開の直後にこの文章が続いているわけだが、元のコラムにない「少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性」といった新たな論点を挿入してしまう読解力が如何ほどのものなのか。とても同じ編集が関与している同じ刊行物で書かれているものだということ自体が怪しいレベルではある。少なくとも杉田氏のコラム前半(8月号P.57~58)において「LGBTに対する支援」の「公的資金」を「少子化対策費」の枠で行うといった言及はされていない。少子化対策はあくまで「公的資金」を投入することへ大義名分を得られる一つの例として挙げられているに過ぎないし、同時に大義名分を得られる例として挙げられているものが少子化対策であり、続く展開が「子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」という言及であったればこそ、「子どもを持たない/持てない」が「生産性」という言葉にかかる形となり、そこが批判の一つの収斂点だったわけだ。①~③と連なる藤岡氏の論旨展開は確かにその通りに杉田議員のコラムが書かれていたのであれば議論の余地は大いにあるだろうが、②を藤岡氏が勝手に挿入して別のストーリーに仕立て上げている。杉田議員のコラムは①の次が③で②は無い。

もしこれが意図的な「誤読」なら、尾辻氏は優秀なデマゴークということになる。(10月号P.79)

そっくりそのまま藤岡氏の尾辻氏批判の中で展開されている3点展開の②の挿入行為がそれなので、意図的な「誤読」なら優秀なデマゴークという言葉はそのまま自身に跳ね返ることでしょう。

続いて竹内久美子氏の産経新聞「正論」論のコラムを引いて持論が展開されている。これについては正直産経新聞の編集サイドのタイトルの付し方の問題であり、且つ竹内氏は杉田議員が言及した意味における「生産性」と相違する意味合いで使っているわけで、恐らくその点については藤岡氏も認識は同様だろうから、この点はザクっと割愛する。強いて言えば以下は異論の余地はある。

子供を作るという意味での「生産性」がLGBTの人たちにないこと自体は自明で、これに対する批判はまさかあり得ないだろうと思っていた。(10月号P.79)

 この部分については必ずしも自明ではない。ここを自明として考えることは適切さを欠くものがある。それは別の話として、竹内氏の産経新聞掲載のコラムは「子供を作る」という意味で生産性という用語を用いていない。同性愛は一定数反復して現出するという意味で用いているのであり、強いて言えば「異性愛者の子どもの中に同性愛者が生じる一定の確率が存在する」ということでしかなく、その意味において「そのようなわけで「LGBTは生産性がない」というのは生物学的に大間違いである。」と書かれているだけでしかない。竹内氏のコラムはLGBTと括られる存在が「子どもを作る」という意味での反論でも批判でもないし、藤岡氏の指摘する通り杉田議員のコラムに対応するものでもない。対応する内容でない以上、藤岡氏はわざわざ引用して言及する必要はなかったはずだが、産経新聞の編集によほど頭にきたのだろうか?「論説のタイトルは牽強付会というべきもので、論説の内容は杉田論の批判になっていない」(10月号P.80)と認識されているのだから、編集に怒ってるのかな?と思っておくことにする。

 さて、ここからまたややこしい話が展開されるのだが、P.80からはマルクス・エンゲルス選集を引き、続いて上野千鶴子氏を引き、いわゆるマルクス主義内でも生殖行為を生産と記述していたじゃないかという話が展開されている。ここのあたりについてはマルクスの考察が広汎に当時の資本主義(あるいは資本の論理)に向けられたものであり、マルクス主義フェミニズムがその影響を色濃く受けている前提を置くのであれば、用語として確かに「生産」という言葉を用いてきた(というかそう訳されて頒布してきた)わけだ。この点を批判することは多いにして良いだろうと思う。

意外に思うかもしれないが、「生殖」を「生産」に置き換える用語法は、マルクス主義に親近性がある。(10月号P.80)<1ページ以上略>以上の上野氏の例についてみたように、社会科学の理論では人間の「生産」「再生産」などの言葉が分析概念として普通に使われているのであり、杉田氏が公共的空間での議論のツールとしてカップルの「生産性」を論じても、何ら非難に値するものではない。(同P.82)

 だいぶ途中をザックリ省略してしまっているのだが、マルクス主義に親近性があることと分析概念として普通に使われていることとはだいぶ価値判断に相違があるように思うのだが、どうなのだろうか。藤岡氏は共産党を始めマルクス主義を信奉するかそれに親近を覚える人は同じように訳語から頒布した「生殖」を「生産」という用語で置くことに抗議しないのはおかしい、そこが問題ならマルクスも差別主義者だったことになる、ということも言及しているのだが、「問題ないとする立場こそマルクス主義と信奉者たちがやってきたことじゃないか」ということであれば、杉田議員もその近親値にいると捉えて良いのか(そうではないだろうが)、もはや一般に普及定着している言葉だから問題無しということを言いたいのだろうか(こちらだと思うが)。それにしてもさすがにマルクスと上野千鶴子だけ引いて社会科学の理論では普通に使われているというのはいささか例が偏り過ぎているとは思うので、追加でいくつかその系譜以外の用例を出しておいた方が良かったのでは?と要らぬお節介を感じた次第。批判するなら同じ表現は批判しようね、という話については「そうだね」と思いますので、「もはや」問題ではないなのか「批判するならそっちも批判しようぜ」なのかどちらでまとめたいのだろうか、藤岡氏。

 さて、藤岡氏のコラムもいよいよ大詰め。

杉田論を仮に英訳するとしたら、その中の「生産性」はどう訳されるべきだろうか。その訳語はproductivityではなくthe ability to reproduceとしなければならない。(中略)「人の生産」とは世代継承という意味では必ず「再生産」でもある。例えば女性の「産む権利」は英語ではreproductive rightsと言う。英語という言語が、人の生産とは再生産であるという論理を、単語のレベルで意味的に内包していることは大変興味深いことである。(10月号P.82)

 うん、残念。reproductive rights(あるいはhealth and rights)は「産む/産まない」を含む一切の身体の自己選択決定権を含む概念であるし、「産まない」を含むということは「再生産」ということを意味的レベルで前提に内包して「いない」のですよ。そしてその権利は「すべて」のカップルと個人が持つ権利として規定されているわけだ。このあたりは国連の行動計画などに記載されている定義を見れば分かる話なのだが。適切な邦訳が無いために説明を挟まないとこういう凡ミスが出るのだが、reproductive rightsは便宜的には「性と生殖に関する権利」という訳が充てられることが多く、何故そういう訳になるかと言えば「産む権利」みたいな狭い解釈で規定されている用語ではないから。つまり藤岡氏はreproductive rightsがどのように国際上規定されているかという根本のところで解釈を誤解している可能性は否めない。この点について多少留保しておく要素があるとすると、日本政府が公開している行動計画の邦訳はそのまま「リプロダクティブ・ライツ」とされていて間違っても「産む権利」とは訳していないわけで、直訳理解だと誤解の余地はあるとは思うので、ぜひ良い機会なので行動計画を参照されると良いかと思います。

なるほど、同性愛のカップルが部屋を借りることが困難だとか、病院で家族として認定されない、などのことはお気の毒で改善する必要があるだろう。ただ、それはそれ自体として技術的に解決すればよく、そのことのために婚姻制度にまで手を付けるのはスジ違いである。(10月号P.82)

このあたりがいよいよ本音といったところだが、そういった民間レベルあるいは準公共空間レベルのそれだけでなく、このたびめでたく民法改正により配偶者居住権などが新設されたわけで、法定婚姻制度はその制度の利用者にとってより一層社会的保護が手厚くなっている。この法改正は妥当なものであろう。

同性愛者などに対する差別や不利益で、社会の側で改善すべきことがあれば取り組むことは否定すべきではない。しかし問題は、それを利用して、社会の持続の根幹をなす婚姻制度に手を付け、その突破口として同性の婚姻を認めさせることを目標にする社会的勢力がすでに形成されていることである。(10月号P.82)

まさしくその不利益、つまり異性愛間では法定婚姻制度の利用有無を選択可能であるのに対して、同性愛間ではそもそも選択肢が存在しないという状態こそ、社会の側で改善すべきことの一つそのものであるわけだ。現状の法体系において二者で共有される権利のうちの強固な一つは間違いなく法定婚姻制度の利用有無を自由意思で選択できるという「社会の根幹(≠社会の持続の根幹)」にある制度であり、不利益解消を目指す動きとして制度利用を求めるのは至って当然のことでもある。気持ち「お気の毒」だけど明確に利便が設定されている制度は利用させないというのは社会的不正義であるという認識が出てきても仕方ないでしょう。

藤岡氏が言及するところの話も理解できる部分はある。

結局、この問題の最終的解決は、婚姻制度の廃止ということに行き着く。それは論理的にもそうなるし、運動の究極の目標としても婚姻制度の廃止が目指されることは必然である。(10月号P.83)

もちろんイデオロギーの立脚点や属性の立ち位置がどうあれ、「最終的解決」としてその方向を目指している人/考え方は一定数存在する。もし仮にその点を最優先で懸念するのであれば、同性法定婚の容認はそれらの運動に対しては打撃になるわけで突破口にはならないのですよ。(もちろん同性愛者も含む)そういった人たちの主張としては「同性婚を認めるのは現状の家族制度の延命を助けるだけ」という話になるわけで、まったく認識逆です。超長期的課題として現状の家族制度に代わる何事かが設計されたり、あるいは家族制度そのものが必要なくなる時代が訪れる可能性というはあるにしても、短期的には明瞭に利便が設定されている制度に同性婚を含めたところで、家族制度廃止論者にとっては唾棄すべき延命につながりこそすれ、突破口にはならないわけです。従って、仮に「婚姻制度の廃止は社会の解体と同義である(P.83)」と仮定した場合、そこに包摂する対象を拡大することは制度存続に資するものでしかなく、包摂しない対象を放置し続けることは却って制度の存続そのものへの反発を増やす可能性はあるでしょう。

結婚が保護されるのは、社会の存立の根幹をなす次世代の「生産=再生産」という重要な機能に関わっているからなのだ。(10月号P.83)

もしこの機能の点を以てこそ「結婚」が保護され得るのだという理屈を正とするのであれば、それこそ杉田議員のコラムで散々蒸し返された「子どもいない(現に家族である存在を含む)存在は保護に値しないのか?」という批判がダイレクトに却ってくるわけですが、大丈夫ですか?その考え方、少なくともreproductive rightsの規定とはだいぶ離れているとは思いますが。

◆Part2 小川榮太郎氏

 Part1が無茶苦茶長くなったのだが、実は一番酷いのはたぶんこれ。まず何故嗜好と指向がグラデーションはあれども一定程度セパレートして議論されているのかについて一切の理解も知識も認識もない。そういう状態だから、全編「性的嗜好」の用語で統一されている。よく載せたな、新潮(褒めてない)。小川氏にとっては指向のカムアウトは性行為を公道で晒けるのと等価らしい。物凄い理解の仕方だ。全部まとめて「嗜好」という雑認識なので、そりゃ公道目の前でいきなりSMプレイとか始められたら引くだろ。というかそんなことして行為に及べば即警察のご厄介になること間違いないわけだが、その程度の暴論ですね(10月号P.84全般)。黙ってろ、言うな、喋るな、以上。これが「書くべきことは、本当は以上で尽きる(P.85)」らしいのだが、よく没原稿にしなかったなこれ…

LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい。(10月号P.86)

いや、本当よく載せましたね、新潮… この後はもっと酷いんですけど…

性の不一致が心的事実として一定の確率で存在する事を私は否定しない。だが、それを言うなら、時代との不一致、社会体制との不一致、会社との不一致、家族との不一致も、人生の致命傷となり得る。(10月号P.86)<中略>性概念が個々人の中で揺らぐものだからこそ、Tという概念規定で性意識を縛ることは人性への冒涜と言うべきなのだ。こんなものは医学的、科学的な概念でもなく、ましてや国家や政治が反応すべき主題などではない。文学的な、つまり個人的、人生的な主題である。(P.87)

いやいや、本当よく載せましたね、新潮… 
挙句に痴漢再犯者の習性からくる困苦を引き合いに出して「触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというのか。(P.88)」と書いた後に続くのがこれ。

それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。(P.88)

よく知りもしないし知るつもりもないのに巨額の賠償請求をしたくなるくらい精神的苦痛を受けるって一体どの論壇のどんな光景なのか、想像力が試されますね。真面目に仕事して良い本を作っている新潮の中の方に「新潮だから」で延焼しないことを祈りたいところです。いやいや、よく載せましたね…

結婚の仕組みは、暴力と隠匿に付き纏われる性という暗い欲望を、逆に社会の最も明るい祝福の灯のもとに照らし出し、秩序化による安定と幸福の基盤となす、人類の生み出した最も偉大な逆説的叡智である。「結婚」は、性の対象同士が、「夫婦」という単位の諸々の「権利」を受ける現代国家の人権保障システムでは、根本的にないのである。それは「人権」ではなく、伝統社会が共通して生み出した「叡智」である。(10月号P.88)

凄いですね。近代法制における法定婚姻制度全否定。法的保護要らなくないですか、これ。そしてここまで法的規定の価値を希釈しておいて、同性婚については以下である。

これは全く論外であり、私は頭ごなしに全面否定しておく。(10月号P.88)

よく知らない物事(LGBT他)によくここまで片っ端から否定できるものだと言うべきなのか、それとも知らないから言いたい放題言えると言うべきなのか。

政治は個人の「生きづらさ」「直面する困難」という名の「主観」を救えない。いや、救ってはならないのである。個人の生―性―の暗がりを、私たちはあくまで個人として引き受けねばならない。(P.89)

誰もセックスに介入してくれとか言ってないと思うんですけどね。どうもこの人の思考回路は諸個人の性行為と性嗜好と性という要素に対する認識が酷いのでこういう結論になるのでしょうけど。

性に関する自意識など、所詮全て後ろめたいものではないか。古来秘め事という。性行為に関する後ろめたさと快楽の強烈さは比例する。同性愛の禁断、その怪しさは、快楽の源泉でもあるだろう。(10月号P.87)

いやいや、よく載せましたね、新潮。
そしてこんな無茶苦茶な話を延々と連ねた次が松浦大悟氏なわけですが、完全に嫌がらせでしょ…

◆Part3 松浦大悟氏

 一番安心して読める唯一のコラムと言うべきか。この一連のコラム群の中では異彩ではあるのですが。
認識や考え方には相違する部分はあれど、とにかく「まだ十分読むに堪える」だけのコラムがあるとしたら松浦氏のこれだけですね。
 LGBTへの税金投入はほとんど予算が割かれておらず、またLGBTツーリズムといったものに復興予算が流用されていることへの疑義も当然ですし、杉田議員も税投入批判するならそちらでは?という点についてはまったくもってごもっとも。
 ILGAがNAMBLAをパージしたことに対する批判についても頷ける点はあり、政治的戦略論の話としてではなく原則論の話としてはその批判も妥当なところでしょう。「人権の線引きは、常に恣意的であり政治的(P.91)」であるわけなので、戦略戦術論としてはそういった方針はしばしばマジョリティ側の要請として、あるいは分断として、どこまでを許容すべきかという線引きのリスクに晒されながら進めざるを得ないのは悩ましい問題ではあります。
 いわゆる高齢層(性的少数者の存在がおおむね不可視とされていた時代)の常識との認知不協和についてはそこの手当こそ政治の仕事だろうとは思いますので、正直そこまで当事者側が負うのは(優先の問題として)難しいだろうとは思いますが、杉田議員のコラムの背景にそこまでのものが透けて見えたかといえば、その点については個人的にはネガティブであり、この部分は松浦氏との相違点になります。

 いわゆる杉田議員辞めろデモについては、その適否は当事者の中にももちろんあるでしょうし、その一部は松浦氏の言及する通りのところではあるとも思います。また、LGBT=リベラルという虚像(幻想?)は必ずしもマスコミが作り上げたとは言い難いようには思いますが、一般にそのように誤解されているだろう認識のズレについては松浦氏の指摘のような状況はあり、LGBT(その他)であったとしても必ずリベラル或は左派になるとは限りません(というかリベラル左派という表現はかなり語義矛盾なところもある気がしますが)。ただ「むしろ多くのLGBTは保守です(P.92)」と言い切ってしまうのもいささか微妙な気はします。課題、問題への関心度や位相、立ち位置によって保守的であったり革新的であったり、或はその「保守」もまた広く認識されているような保守とは相違することもある気がしますので、このあたりはLGBTだからといって一つの党派であったり当事者だからといって一致団結異論無しなんてことはない、程度のニュアンスにしておくべきだったようには思います。

 いわゆるLGBT法案とされる与野党案の差異や米国の事例については、この一連のコラムの中で本当に文字通り唯一、ちゃんと読んでおいて損は無いだろう部分なので、引用は差し控えます。そこくらいは実際の文章に目を通して欲しいところです。具体的にはP.93~96に渡るパートで、異論もあるとは思いますが、一つの参考にはなるはずです。関心がある人/ない人いずれであっても。

 松浦氏のパートの最後の部分(P.96)は松浦氏の今までの経緯と政治スタンス表明といって差し支えないように思いますが、小川氏の物凄く酷い内容の後に松浦氏が配されたことが良かったのか、それとも松浦氏のこれを読んだ後に小川氏のコラムを読んだらより一層壊滅的印象になるから敢えてこういう配置になったのか。小川氏のコラムを通してしまう編集なのであまり考えていないかもしれませんが。

◆Part4 かずと氏

 ほぼ全編尾辻かな子議員への批判なのであまり付言する必要も無い内容ですね。尾辻議員は以前から当事者間でも毀誉褒貶ある人なので、その点ではこういう話を拾おうと思えば拾えると思います。
 個人としては諸問題がかずと氏の言うように大した問題ではなく、些末な問題ばかりだとは思いませんが、LGBに対して支援がまったく不要なのかと言えばそこに関してはネガティブですね。啓発等は引き続き必要でしょうし、教育課程における教材の整備や教育内容の見直しにはそれほど大金は必要としないにしても公的資金は必要になるでしょうし。それが尾辻氏が関連する団体に流れるかどうかは別問題ですし、魑魅魍魎な諸団体の中でこの種の運動を「ビジネス」としてやっているところがあるのはそれとして事実でしょうが、LGBだからといってビジネスに地道を上げるというケースばかりではないとも思います(尾辻氏がそのどちらに見えているかは人によって違うでしょう)。
 杉田議員のコラムについてはほとんど言及が無いので(強いて言えばLGBは支援不要でしょという論点への賛同くらいなので)、そこについての雑感は簡単ではありますが上記に書いた通りです。
 なお、尾辻議員が必ずしも杉田議員について直接リプライが飛んできてもまともに回答していない(とされる)件についてはそこまでトラッキングしていないので、そうであれば尾辻議員はしっかり回答すべきでしょう。その杉田議員からのリプライ自体「税金を投入する人=福祉を活用する人=社会的弱者です。」といった内容のようなので、いくらでも返信のしようはあるとは思いますので。公的に整備されている福祉を活用するのは社会的弱者とイコールでは結ばれない、追加で支援が必要な存在と万人に開かれている福祉とが存在するので杉田議員のリプライ自体が酷く雑、というツッコミどころ満載なそれに回答しない理由は何なのでしょうかね。せっかく杉田議員から直接リプライ来たのに。という部分に関しては、そういう状況で放置されていたのであれば、私も同様の感想は抱くでしょう。それは杉田議員のコラムが適切かどうかに関わらず、少なくともその部分に関しての認識そのものが誤っているわけなので、議員同士そのくらいは指摘してあげても良かったでしょうに。

雑感だからとだらだら書いてしまいましたが、まだこれ半分です…
残り後半は明日以降書きます(たぶん)
後半も後半で結構重量級なので、力尽きなければですが…

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中