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【ネタ】東芝から政権の思惑を考える

 東芝が揺れに揺れている。
 異例とも言える監査法人の意見不表明での決算発表となった。2度の延期に加えて今回の発表であるから、東芝としては刻限もあるので出さざるを得ないという感じであろうか。しかし、ここはもう少し掘り下げた方が良いだろう。
 半導体事業の売却も示唆されているが、先日アメリカでフラッシュメモリの特許侵害疑義が指摘された直後でもあるし、それを受けて、わざわざ世耕経産相が「間に入ることはない」とステートメントを加えている点は留意点である。アメリカファーストを掲げるトランプ政権との間で無用の摩擦を生じることが無いよう、対米協調路線に変更が無いことや経済摩擦を引き起こさないよう、米政権に向けたメッセージと考えるべきだろう。
 
 ここから一つの視点として、東芝が政権の観測気球になっているという見方も出来よう。意見不表明での決算レポートは、そのレポート自体に重大な瑕疵を抱えている。客観的検証に欠くレポートだからだ。そのような根拠に欠くレポートを市場に出すということは、それだけで一つの政権のベンチマークの役割を果たしていることが解る。
 もし東芝が政権のベンチマークとしての役割を果たしているならば、このような再三に渡る延期の末に出されたレポートが何のベンチマークになっているかは、自ずと明らかだろう。つまり「根拠や客観性を欠くレポートがどの程度まで許容され得るか」という点である。上場廃止が線上にある東芝はその点で優秀なベンチマークとなる。根拠不明な話が流布している、いわゆる「森友問題」である。
 本件において、財務省は繰り返し破棄した、消去したという抗弁を行い、あろうことか「自動的に消去されて復元できないシステムになっている」とまで言いながら、昨日になって一転して「データは復元できるかもしれない」と示唆したのは、決して偶然ではない。東芝の客観性が担保されない決算レポートがどの程度市場で容認されるか次第で、「どの程度までデータ復元と称して虚実を混ぜた内容を出せるか」という点で、非常に優秀なベンチマークである。「出せない」「延期」と決算レポートを先延ばしにした挙句に何等の客観性もないレポートを出してきた東芝と、「消去した」「復元不能」と繰り返してきた財務省の『データ復旧』は、「どの程度まで信頼性に欠くレポートが許容され得るか」という点ではベンチマークである。都合の良いことにデータ復旧可能かどうかは6月というシステム更新の刻限があり、刻限になったら「ではここまで出せますので」というレポートを出せば済む話であり、その受容の度合を東芝で試しているとも言える。ここにおいて、「自動消去システム」という謎の仕様は、些末な問題である。東芝が圧力を掛けて損失を過少評価させようとしてきたことが意見不表明レポートという点で雲散霧消してより大きな上場維持問題に収斂されたように、自動データ消去システムなる謎仕様の抗弁は今や大した問題ではない。
 客観的に見れば証拠とするには著しくその妥当性が怪しい振込票や(そしてそれをやったところで贈収賄にさえならないそれや)、比較的容易に改竄可能なメールのやりとりなどを考慮すれば、「どの程度客観性が無い情報で通せるか」は政権側にとっても重要なテーマである。手仕舞いを急ぎたいとなれば猶更だ。
 
 思えば、東芝を巡って政権がベンチマークとしてきたのは今回に限らない。経産相が社外取締役の機能強化を模索し始めたのも、東芝が発端とさえ言える。改めて思い返せば、そもそも東芝の役員は原発を巡って相当にキナ臭い布陣だったではないか。
 今回の件に限らず、東芝はそれ自体、常に政権のベンチマークの観測気球として、世論の反応を探り、都合の良い「程度」を探るための役割を果たしてきたのだ。数多の国策に順応してきた企業同様、東芝もそうであるに過ぎないだろう。そして、そう見ることこそ、政権が何を測りたいのかが見えてくるだろう。そう、今この瞬間、如何に「根拠のない都合の良い情報が受容され、見過ごすかが試されているのだ。フェイクニュースなどと言ってリテラシーを試している場合ではない。最早国を挙げてそれが試されているのだから。

 本稿は以下のツイートを元に書いた、全編ネタ記事です。
作品の解釈、製作年代、各種の関連性や企業方針等、一切事実かどうかは関係なく、また曲解とあからさまな誤認、そして論旨に都合の悪い部分の一切の無視を行ったうえで、ネタとして書いております。ご了承ください。

炎上商法が焼却する果てに

 昨今、いわゆる「炎上」することが一つのマーケティングの「成功」事例になりつつある。「アンチ」が扇動することで、結果として反対する人の思惑とは裏腹に、その批判対象が「売れる」という現象である。例を挙げるまでもなく、いくらでも思い当たることは身近にあるだろう。良し悪しを別とすれば、大統領の座を射止めたトランプ氏のグッズが早々に大量に企画・販売されている現状を挙げられるかもしれない。差別/反差別界隈も同様だろう。「こんな酷い本がある」と流布されるたびにその本はAmazonのランキングを上げ、書店では入荷待ちとなることも一つならずある。
 
 直近で最大の炎上商法の事例を挙げるとするならば、間違いなく「えんとつ町のプペル」を挙げることができる。今年2017年の五本の指に入るくらいの事例かもしれない(まだ1月だが)。私はこの書籍の制作にあたって、相当数に上るだろうイラストレーター他との間でどのような契約が結ばれているか、預かり知る立場にはない。「それにしても、「クリエイターの不当労働」まで絡めてくる輩まで現れた。
いやいや、インターネット上で無料公開した方が本が売れる(結果的に売れた)んだったら、むしろ逆じゃん。クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」(声優・明坂聡美の危うさ。)もしかしたら、契約次第ではその通りなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしながら、この言葉は賛否の生じた段階での「これから、無料化できるところから無料化していって、『お金』なんて、そもそも存在しなかった時代や、地域で、おこなわれていた『恩で回す』ということをやってみます。」(お金の奴隷解放宣言。)とは相反する。前者は「売れて還元できれば問題ない」かもしれないが、後者はそんな話ではない。端的に言って開き直っているとしか感じられないだろうし、あくまで結果論でしかない。ついでに言えば、「お金の奴隷解放宣言」なるエントリーの最後の「…てなワケで俺は無料にするけど、その代わり他のクリエイターに「西野はタダにしたんだからおまえもしろ」なんて絶対言っちゃダメよ。」は「カッコイイから」という理由で後から追加された文言であるし、「「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ?
糞ダセー。……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。しかし、はたして全てのモノが『お金』を介さないといけないのでしょうか?」という文言がある種の免罪符になるのかもしれない(お金の奴隷解放宣言エントリー内)。一方で「ここを絶対に押さえておかないといけないのだけれど、『えんとつ町のプペル』は″情報は無料だけれど、物質は有料”という点。」という言及が後から追加されている(声優・明坂聡美の危うさ。エントリー内)。ここから透けて見えるのは、「モノ」と「物質」という使い分けなのだ。「情報」が如何にマネタイズされづらいか、その問題については情報媒体(紙)の衰退を見れば自明とも言える現象だが、その帰結はあまり好ましいとは言えないだろう。なにより、2,000円の絵本が買えない層はどのような層が想定し得るだろうか。一回だけの2,000円を支払うのが困難な層であると仮定した場合、そもそもオンラインを安易容易に使える層ではないのではないか?いわゆるデジタルデバイドの問題である。確かに書籍という媒体は、「全体を見て手元に置いておきたいと思えるかどうか」は極めて大きな要素ではある(実際私も少なからずそれに該当するだろう)。
 しかしながら、一方のエントリーでは「糞ダセー」とまで言い切って、片や後日のエントリーでは「結果的に売れた」ので還元できるから良いではないかとばかりに書くのである。しかも児童書としては相当に売った後で、の話だ。児童書の増刷可否は3,000部とか5,000部といた、極めて小ロットでの販売可否にかかっている中で、万の単位を大きく超えて売り切った後での話である。当初から斯様な姿勢を見せてやっていれば、さぞかし「カッコイイ」だろうが、クラウドファンドで製作費を賄って相応に売った後でのこれである。懐が何一つ痛まない状態で、エエカッコシイをやったところで、それこそ「糞ダセ―」話でしかないかもしれない。斟酌する内容としては、「クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」という文言が文字通り、関係した制作段階で関わった様々なクリエイターに還元されるような契約であれば、それは確かにそうだろうとは思う。それでも炎上商法が良いか悪いかは別の話だが。
 極めて残念なことながら、貨幣経済というものはそれとして機能をしていて、「お金がそもそも存在しなかった時代」などと言われても、とてもそこまで戻れるとは考えられない(或はボランタリーの対価としての様々な「ポイント」みたいなものはあるかもしれないが、地域貨幣含めてそれさえ「お金」の信用の根本が何処にあるかの差異でしかなく、「恩」よりは遥かに「金」に近いだろう)。
 マッチポンプの如く炎上の燃料を投下し続けている訳なので、是非関係したクリエイターにより大きな還元をして頂きたいものである。まさかそこで「売れた分だけ要求するなんて糞ダセ―」とか「そもそも売上比例配分契約になっていない」などということはないと願いたいものだ(結果クリエイターの収入が増えれば良いということであれば、そうなるだろう)。デジタルツールの進展に伴い、クリエイティブ界隈の「正当な対価要求」はなかなか通り辛いものがある。プログラマー然りである。時給換算何時間等の「作業換算清算」以上のことを求めるのはなかなか難しい時代なのだ(それこそ知名度があれば有名料で取れるだろうが、大多数はそんな知名度など無いわけで、このクリエイティブへの支払いのダンピングは上場企業だろうが平気でやってくる)。死屍累々のそれらの上に、或は「恩」で回すことで関係者が結果「得られるものが多い」こともあるのかもしれない。そうだとしても炎上商法は関心しないが、まあ得られるものが皆無よりはまだ良いだろう。
 私は糞ダセ―ことに、こういった駄文を書いても一銭にもならないし、結果として炎上商法の加担にもなるだろうが、それでも参加した各クリエイターに還元されれば駄文を書く意味もあろうというものだ。参加したクリエイター諸氏は、手元の契約書を確認して、正当な対価を受け取れるよう、必要な対応をするべきかと思う。炎上商法の果てにあるものは、恐らくクリエイター諸氏が如何にその「マーケティング」とやらで得た収益を回収できるか、でしょう。別に私がどうこう言う話でも無いのかもしれませんし、「お前がお金の奴隷だ」と言われるかもしれませんが、「不当労働」のニュースに胸を痛めているらしい西野氏には、「正当な対価の要求」がいかに不当労働の中で締める値が大きいものであるか、恐らく自覚頂いていると思いますので、その点は遠慮も配慮も必要ないかと思います。一銭にもならないお金の奴隷ながら、奴隷根性を発揮して是非そのように対応し、得るべきものを得られるよう、祈るくらしいかできませんが、お祈りしております。

 最後に。
 
 声優の明坂聡美さんへ。
 クリエイターとして、表現者として、「無料化の波に抗えない」などというそれに、異を唱えるだけの根拠も主張もあるだろうし、「自分の首を絞める」などという言葉に抗するなら、恐らくその声を支える人は一人二人ではないだろうと思います。相手は「ロボットがどんな風に人間の仕事を奪っていくかに興味があるんです。どの職業から、ロボットに奪われてなくなっていくのか。ロボットを知れば、人間が分かるんじゃないか、と思う部分があって」という理由で、株式会社サビーボの「へんてこロボット博士」に就任するような人です。「最近では「芸人を引退して絵本作家に転身する宣言」で世間を驚かせたかと思えば、なんとその翌日、絵本作家も早々に引退。今度はパインアメ(ご存じない方は検索してください)の「特命配布主任」に転身するなど、めまぐるしいペースで肩書きが変わっていることが話題です(ご本人曰く「いろんな人に怒られている」そう)。」(キングコング西野亮廣さんがロボットノートの『へんてこロボット博士』に就任!)。
 少なくとも2016年7月の段階で芸人も引退し、その翌日には絵本作家も引退したということになっている相手ですので、今回の「絵本」がどのような経緯で制作されたにしろ、名指しで斯様なことを指摘されたことに対して、いくらでも反論する権利も自由もあると思いますし、別に喧嘩しろとか戦争しろとか言いませんが、言いたいことを遠慮なく言うだけの「御指名」だったと思います。

<企画>戦後70年にあたっての内閣総理大臣談話を皆で作ってみよう

 この度無事テクストバーラウンジ「梟の社」を開店する運びとなりました。
 また、戦後70年の区切りでもあります。所謂村山談話小泉談話と、10年置きに談話が発表される中、今年は安倍談話(仮)が出されるものと予測されています。
 果たして今年の談話はどのような内容になるべきでしょうか。恐らくこれといって正解があるものでもありませんので、出されると予測される談話には事後賛否両論いろいろな意見が出ることでしょう。そこで、折角なので皆で戦後70年の総理大臣談話を考えてみませんか?
 
 本企画は本Blog並びに上記「梟の社」及び「日本語一次史料研究会」(最近サボり気味ですいません)の合同企画として、皆様から広く「自分ならこう書く」という内閣総理大臣談話を集めてみたいと思います。

■趣旨
戦後70年にあたっての総理大臣談話を自分なりに考えて書いてみる

■ルール
1:過去の村山談話、小泉談話同様、「終戦70年」という節目であることに触れること
2:過去の談話の全否定になるような内容としないこと(外交上の齟齬を生じる内容ではないこと)
3:タイトルは「内閣総理大臣談話」とすること(文字数に含まず)
4:末尾は必ず「平成二十七年二月十一日」とし、「内閣総理大臣 ○○」で締めること(ご自身のHN等で構いません)
5:本分文字数を1200字以上1600字以内で収めること
※締切りが建国記念日ですが、せっかくなので戦後の歩みと併せて今の本邦を振り返りつつ書いてみたら良いのでは?という意図もございます。
 
■期日
2月11日を締切とします。
 
■送付方法
テキストファイルまたはワードファイルをメール添付にて送付ください。
メールタイトルは「内閣総理大臣談話」としてください。
なお、本名・住所等の記載は不要ですが、メール連絡等をする場合がありますので、メールアドレスのみは受信可能なアドレスにて送付頂きますようお願い致します。
 
■送付先
sionsuzukazeあっとまーくgmail.com
 
■補足1
応募頂いた「内閣総理大臣談話」については、二月十四日「梟の社」にて輪読の上、名文投票を行います。
ただし、内容があまりに手酷いと判断したものは、勝手ながら対象外と致します。
 
■補足2
著作権は各内閣総理大臣(笑)に帰属します。
ただし、私が運営しているBlogや店舗での公開は、勝手ながら独断で行わせて頂きます。

 
 
さぁ、皆様是非内閣総理大臣になった気分で談話を書いてみましょう。
たくさん参加応募が来るといいな、と心待ちにしております。
言い出しっぺなので当然私も書き上げます。
 
皆様も是非是非考えて書いてみてください。

平成27年 年頭所感

 新年あけましておめでとうございます。

 中性的ニュアンスを持たせたこの名前を名乗り始めてから約18年が経ちました。この間、過剰適応による思想・信条的踏み外しからの軌道修正をはじめ、事実に基づかない歴史解釈や都合良いだけの弱者探しへの指摘、そもそも正義や人権とは何かなど、各般の重要課題をエントリーとして書く形式で当たってまいりました。さらには、愛国という名の横暴や、反差別の名を借りた侮蔑罵倒といった新たな課題にも、ここ数年比較的積極的に取り組んできました。

 そして昨年某所では、御縁のあった皆様から力強いご支援を頂き、この度新たに場を構築する重責を勝手に背負うこととなりました。

 いずれも人生における大変化であり、前途多難な道のりです。しかし、多少の己惚れと過信といういささか無鉄砲な力を得て、今年は、さらに大胆に、さらに重厚さを持って、己の信じる道を推し進める。将来を見据えたテクスト構築の年にしたい、と考えております。

 レイシズム問題では全国各地で様々な事案が発生し、当事者の皆様の司法での勝利もあり、一方でカウンター行動の一部存在に対する疑問の声を、伺う機会を得ました。こうした今まさに正義の名で成されつつあること、淘汰されつつある声に、自分なりの回答を出していくことで、差別とは何か、ただ反レイシズムを騙れば良いのか、或は愛国を唱えれば済むのかをさらに深化して考えてまいります。

 本来の人権、市民権とは何かを継続的に思考し、信念・哲学を不断に昇華する。今年も、己の信ずるやり方で問題提起或は回答提示にあたり、本邦抱える様々な問題を、陰に陽に提起してまいります。

 今年は、戦後70年の節目であります。

 本邦は、先の大戦の深い検証と内省を表面的に行うままに留め、戦後、自由で民主的な国家として、ひたすら平和国家としての道を歩み、世界の戦争と貧困、差別などに対峙せずに済ませてきました。その来し方を振り返りながら、次なる80年、90年、さらには100年に向けて、自己が、どういう哲学を目指し、社会にどのような貢献をしていくのか。

 己が信じる社会公正の姿を、この機会に、或は狭すぎて届かない範囲にしても発信し、あるべき社会づくりへの細やかな、そして確固たる軸線を構築する。そんな一年にしたいと考えています。

 「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」
 「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。」

 キング牧師のこの言葉を、その剽窃者達は、好んで使い、その理念を実践するという行為ではなく、ただ旗や記号或はファッションとしました。半世紀前、ワシントン大行進の最後の演説で語られた一節です。

 エスニシティの問題、カルチャーの問題、それらはこの数年で確固として立ち現れました。日本国憲法を公布し、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と前文で宣言した時代、当時に平和と平等への希求を大いに奮い立たせたに違いありません。この「国家」「自国」「他国」を「人」「自己」「他者」に置き換えた時、この前文の誓約は初めて、個々人の理念・哲学と誠意・理解の下に、初めてその精神を実践し得ると考えます。

 そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、本邦は経済的には世界に冠たる国となりました。当時の本邦に欠けていて、今の本邦こそ、成し遂げるべき課題があります。その課題を考える場として、新たに店を構える運びとなりました。

 個々の叡智とともに、本邦を、真に、世界の中心で輝く社会としていく。その課題を、新年にあたって、強く意識しております。

 最後に、閲読頂いている皆様の個々の実践と理念の実現を希求するとともに、本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

平成27年1月1日
梟の社店主(予) 涼風紫音

(注)今年の安倍首相年頭所感のパクリです

チョコミン党宣言

1.我々は、民族の自決権を根拠として、全ての人民の1つのチョコミントへの合同を要求する。
2.我々は、チョコミントに対する不当な風味評価の廃止を要求する。
3.我々は、我が人民を扶養し、チョコミント風味を拡大させるための売場を要求する。
4.チョコミント同胞のみが人民たりうる。宗派にかかわらずチョコミントの味を求める者のみが同胞たりうる。
5.チョコミント同胞でない者は、メーカー売上の貢献者としてのみ生活することができる。
6.チョコミントの風味と食感によって支えられた権利は、同胞のみがこれを有する。ゆえに我々は、いかなる公職も、それが国家のものであるか州のものであるか市町村のものであるかを問わず、同胞のみによって占められることができるようにすることを要求する。
7.我々は、国家がまず第一に人民のチョコミント入手手段に配慮することを約束することを要求する。
8.非チョコミントの今以上の売場拡大は阻止される。
9.チョコミント同胞は全て同等の権利と義務を持たねばならない。
10.人民の第一の義務は、チョコミントを欲することであらねばならない。各人の活動はチョコミント供給メーカーの利益に反してはならず、全て全体の枠において利益をもたらさねばならない。ゆえに我々は、以下のことを要求する:
11.チョコとミントの分離の撤廃、反チョコミント主義の打倒。
12.あらゆる売場において人民が払わされた財産や莫大な犠牲を考慮すれば、非チョコミントによる個人的な利得は人民に対する犯罪とみなされねばならない:ゆえに我々は、全ての非チョコミント利得の回収を要求する。
13.我々は、すでに社会のものとなったチョコミント企業全ての国有化を要求する。
14.我々は、チョコミント企業の利益の分配を要求する。
15.我々は、老齢保障制度の大幅なチョコミント配給増を要求する。
16.我々は、健全なチョコミント階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価な賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対するチョコミント納品を要求する。
17.我々は、我が人民の要求に適したチョコミント風味のさらなる改革を要求する。
18.我々は、公共の利益を害する反チョコミント活動に対する容赦ない闘争を要求する。
19.我々は、唯物主義的な世界秩序に奉仕するアイスクリームに代わるチョコミント一般法を要求する。
20.我々は、貧しい両親の特に素質のある子弟に対する、その地位や職業にかかわらず国費で賄われるチョコミントを要求する。
21.国家は、同胞の健康を向上させるために、チョコミント啓蒙団体による最大の援助を行わねばならない。
22.我々は、チョコミント消費軍の形成を要求する。
23.我々は、故意の政治的虚言およびその報道による反チョコミント風味の流布に対する法的な闘争を要求する。
24.我々は、それが国家の存続を危うくせず、または同胞の公序良俗および道徳に反しない限りにおいて、国家における全ての風味の自由を要求する。
25.我々の要求をすべて実行するために公布された国家のチョコミント的風味を連邦各州において拡充するための階級・職業別の団体の形成。

党の指導者は、上記の条項が各人のチョコミント生活に必要であるならこれを実行することを約束する。

性表現/性視線に対する疑義

というツイートにちょいとばかりちっちゃな反響がありましたので少しばかり。
これ「女性差別」でなく「異性愛者男性」も「同性愛者」もごっちゃにする歴然とした「性差別」ですからね。
このツイートの前にRTしてる某氏のツイートの「女だから」「言えない雰囲気」とかで収斂させちゃいけないんですよ。
(だから繰り返し「女性議員」の抗議という報道にも疑義を呈してきたし、男性議員も反対していたよね、党利党略はそれとして)
「結婚しろ」「結婚してるの?」というそれは、それが経済事由から縁がないからとか主義信条からとかする必然性がないとかそもそも異性愛者でもないとかいろんな理由があり、それは個別個人の自由なんですよ。
で、同時に「子供」の有無は、それとして価値観の問題から病理的理由まで、さらにいろいろあるんですよ。
「だから」女性差別だけにとどまるものではなく「社会全体の問題」ということを繰り返し言ってきたわけです。
同時に「結婚=子供」等の概念も破砕すべき固定概念ではあるし、同時にそう考える人が居ても別にそれは「他者に押し付けない限り」において自由でもあります。この「他者」には配偶者、扶養者だろうがなんだろうが、パートナー全てです。法定婚だろうが事実婚だろうが関係ありません。
そもそも「女性への差別」という命題に収斂することそのものが「異性愛至上主義且つ婚姻=出産至上主義」でしかなく、これは同性愛者や養子縁組者、シングルファザー・マザーへの蔑視も透けて見えるわけです(敢えてファザーを先に書きます)。
そもそも何ら関係のない、もしくは忖度する必要のない私的生活の事情の結果を、公的場に持ちだした挙句にそれそのものが批難に値するかのような言動がクソッタレな代物なのです。
真剣に少子化を懸念するのであれば、同性婚の養子縁組だろうがシングル親だろうが(敢えて性別を指定しませんが)、関係ありません。
今もって「同性愛の親に育てられる子供は不幸に違いない」と決めつけてかかるそれ自体が児童虐待に値するし、同性愛差別にも値するということは、まったくもって理解されておりません。そのあたりは「「同性愛が感染して増える」的言動見てつらつらと思う」にもちらっと触れております。性自認の確立は生まれたその瞬間に意識されるわけではないのですから。
同時に異性愛者の同性愛嫌悪と同様に同性愛者の異性愛嫌悪もまた、このような自認確立前の児童にとっては不幸をもたらすでしょうから、そういった固定概念の偏見化そのものが掣肘されるべき代物であります。

これは同時に、そういった固定概念的それが批判されるに値することであることを示唆するとともに、そういった価値観が表出されるものそれ自体を否定することを意味するわけではありません。
性愛表現の規制を訴える側はしばしば「性表現」そのものを批判の対象に挙げるわけですが、そこで列挙されるものは少なからず批判されるものがあります。
そして同時に、そういった規制の文脈から「外れた」ところに位置する漫画等のそれが幼少期の同性愛者にとっていかに「救い」として作用してきたかは十分に考慮される必要があるでしょう。少女漫画における同性間性愛暗示・明示(それが女性同士であれ男性同士であれ)が、異性愛表現に溢れる社会において、その存在の救いになってきたことを、自主規制を含めて規制すべきとする論者はいかに考慮してきたでしょうか(この一行については空論ではなく、見聞きした実体験を含めて、そう断言しておきます)。
個人的には「まったく考慮されてきたとは思いません」が回答です。
障碍者性教育を「過激」として断罪してしまった事例は記憶に新しいところですが、社会における「多数者の規範」や「多数者の当然のモラール」は、少数者にとっては等価ではありません。
だからこそ、下記のようなことも言うわけです。

当たり前ですが、少数者の権利のために多数者が犠牲を強いられる「べき」ということではありません。
強いて言えば、解放の文学と規制の文学とでも言いましょうか。
性規範というものが極めて「政治的社会的規範」に直結する道徳律そのものであることを認識した上で、「どうしても伝えたいメッセージなのか否か」を「読者」が恣意的に作家を判断し断罪するのは自由ですが、その自由を行使する故に「自主規制」を促すことそのものに、自分は反対します。
「結婚しろ」「子供をつくれ(敢えて産めとは言いません)」の言動がいかに暴力的言動かを考慮すれば、そういった道徳律そのものが「自由社会」と「任意選択」に対して、自明として「空気としての同調圧力を生む」結果になるのは、例を引くまでもないことです。

個々の表現されるそれそのものには当然に批難されるものもあるでしょうし、批難して然るべきものも決して少ないとは言えないでしょう。同時に、その批難が「自分以外の属性を踏みにじっていないか」については寧ろ批難する側そのものが考慮するべきでしょうし、そうであるからこそ「表現規制に反対する」道理も理論だって武装されることもありましょう。
表現規制反対の声が「しずかちゃんの入浴」あるいは「のび太さんのエッチ」にだけ収斂されて、「のび太のブリーフ/ボクサーパンツ」を指摘し得ないのであるとすれば、それこそセクシズムの再生産に過ぎないのであって、所与の前提条件がまったく異なります。

と書いたのはそういった前提があってこそであって、「平等に性表現を規制する」ということを「自主的」であったとしても現状で求めることは、それが「異性愛者以外」に対して社会において存在が「平等に許される」存在であることの認知回路の一つを遮ることにもなります。
規制する側はそもそも「同性愛表現そのものが不道徳」といった理路でそれの制限を「当然に正当化する」ことは、過去の都条例や国会審議を見ても自明すぎるほど自明であって、いかにヘイトスピーチが溢れようが、特定の思想を以て「自明に断罪する」ことに異議を唱える理由でもあります。気分でつけたり外したりするレインボーアイコンに異議を唱えるのと同程度に。いかにそれが現場で連携していようが、です。同性愛者団体の権利運動に同性愛者自身が批判を出すことは、総連や民団の運動に在日半島出身者の系譜が異議申し立てを行うのと同程度に、当事者の間では普遍的に存在するものです(同時にそれらが権利獲得に寄与した役割を否定するわけではありません、とわざわざ注釈を書かないとそういったことすら読めない人が多数存在することそのものが差別なんですよ)。

その上で、敢えて以下のことを述べたいのです。

2013年を振り返りつつ、改めて読んでおきたい10冊

2013年もいろいろありました。
毎年年末は月次ごとに出来事、訃報を列挙して振り返るようなことをしているのですが、敢えて再読書も含めて、今年を踏まえて改めて読んでおきたい10冊、ということで選定してみたいと思います。

■1位「中国化する日本」

與那覇先生は本年多作ではありましたが、敢えて選ぶならこれを。
日頃伝統や文化、「日本」とは何か、について考えることも多いだろう本Blog閲読の諸氏にも得られるものは多いだろうと思います。
自明だと考えていたこと、思い込んで済ませているもの、それらについて旧来のテンプレートからでは得られない視点を得られることもあるでしょう。歴史学の専門家でないならばなおのこと。

■2位「集団的自衛権の深層」

日米安保や積極的平和主義など、国際社会の中での本邦の位置づけが変化を求められ、また変化を志向していく中で、果たして「集団的自衛権」また「集団的安全保障」とは本来はどのような概念から成り立ち、過去国連を中心にどのように議論され、またそれが認められ、認められなかったのか。コンパクトに概略を掴むのにお勧め。本邦内の表で議論されているそれがいかに周回遅れの議論なのかがよくわかります。

■3位「詳録・皇室をめぐる国会論議」

ちょいと古い本ですが、国会の中で皇室がいかに論じられ、また政府答弁が如何様なものであったのか。膨大な国会議事録を追うのは大変ですが、要所のみを書き出してくれているのでとても助かる一冊。
皇室の有り様が、今上陛下の昨今の踏み込んだ発言の是非や後継問題、また園遊会での一件などもあり、改めて押さえておきたい憲法との兼ね合いや政府見解などをテーマごとに追える良書。
かれこれ10年以上前の本なので、是非直近のそれを加えて加筆・改訂版の出版が望まれます。

■4位「日露戦争と新聞」

とかく「マスゴミ」や「記者クラブ」批判などが飛び交う昨今。また、戦争とメディアの有り様が改めて問われる中、読んでおきたい一冊。
個人的には前大戦へと至る種は概ね日露戦争までに蒔き終わったと考えているので、尚更のターニングポイント。
新聞の独立性、また大衆新聞化する過程で論者の幾人かは新聞に留まらず雑誌をもその論壇の舞台としていった背景が簡潔に分かります。
報道と政治、戦争とメディアを考える際、メディアの多様化が成された今でも決して根幹は変わっていないはずなので、把握しておくべきテーマでもあります。

■5位「選挙演説の言語学」

2009年衆院選における、自民党・民主党を中心とした党首、候補の選挙演説とは果たしてどのような意味合いを持っていたのか(公約の内容ではない)。それを選挙演説の表現の有り様、演説空間から捉えなおした一冊。
民主党が酷い政党であったにしろ、また本人たちに自覚があったにしろなかったにしろ、09年衆院選は本邦の形骸化しつつあった選挙に一石を投じたはずの選挙でした(政権交代、という意味に非ず)。
簡潔ではありますがオバマ大統領の演説も補足的解説があります。
民主党に「騙された」と言う人、また民主党は「二度と御免」と言う人のいずれにも、改めて09年選挙で行われた「選挙演説」を考えてみても良いのではないでしょうか。

■6位「植木枝盛選集」

石橋湛山評論集と悩んだ末に敢えてこちらを。昨今の薄っぺらい新聞論説や議員発言と比較して、格調高い論考も過去にはあったのだ、と改めて認識させられる一冊。「人民は政府をして良政府ならしむるの道あれども、政府単に良政府なるものなし。」に始まる「世に良政府なる者なきの説」は冒頭収録の論説ですが、これだけでも是非読んで頂きたいところ。政府批判は簡単ですが、政府を良道に導くのは有権者であり国民です。もちろん前大戦のように逆に導くのも。

■7位「文学者たちの大逆事件と韓国併合」

ヘイトスピーチの公然化に対して、その根源の一端になるであろう部分を簡潔にまとめた一冊。大日本帝国、そしてその臣民の完成と、それが与えた影響、後世における在日朝鮮人、被差別部落、引揚者の位相、それらを文学表現から掬い上げた一冊。新書サイズなので内容も簡潔で論考も深くはなく、また視点もある意味では一面的に過ぎるところはあるものの、「行動する保守」や「在日特権を許さない市民の会」が在日ヘイトに限らず部落や生活保護なども標的とし、「普通の国民」を自称する局面において、本書の内容から得られるものは多いでしょう。

■8位「アメリカの保守とリベラル」

本邦でも「保守」「リベラル」とは何なのか、が問われている昨今において、また民主党の壮大な失敗を経て二大政党制への疑問が生まれ、また「反自民」という極と言えない極を志向する傾向に対して、選挙制度・政治文化の違いはあれど参考になるだろう一冊。内容はクリントン政権まで、ですが。
リベラルと保守の捩れ、保守の分裂と先鋭化、果たしてそれをもたらしたリベラルの経済政策の優位性(現在ではやや否定的側面も指摘されていますが)、それでも「リベラルが勝ち得る可能性」を本邦で探るのであれば、リベラル陣営こそ読んでおくべきかもしれません。

■9位「新しい左翼入門」

戦前からの左翼運動の思想的対立(社共対立)等をまとめた運動史。内ゲバと評されることもあるそれがいかに生じ、またいかなる意味を持っていたのか。一括りで「左翼」としてまとめて片付けてしまうことの暴論も顕になるし、また逆に左翼の中でも時に大勢に、または妥協と抗争の果てにその立ち位置を反転させることさえあった本邦左派運動を簡潔に知ろうと思うなら読んでも損はないでしょう。
もちろんこれも新書サイズなので、個々の運動の内実や政策・思想変化に対する論考や多角的視点については専門書に譲るべきでしょうが、あまりに何も知らずに安易に否定するのであればこそ読んでおきたい一冊(「新左翼」ではなく「左翼」に対する「新しい入門書」であることだけ間違えることのなきよう)。

■10位「ネオナチ」「右に傾くとはどういうことか」
ネオナチ―若き極右リーダーの告白

10位は同列でこの二冊。
前者は東独のネオナチのリーダーがいかに組織内での体制を固め、というと聞こえは良いが、いかにネオナチが愚劣な集まりかがよくわかる一冊。これはそのリーダーであるインゴ・八ッセルバッハのインサイド・レポート。本邦のネトウヨに対する考察も進み始めている昨今、いろいろな意味で参考になると思われる一冊。
後者は左翼から転向した須藤久(日本共産党除名)の著。戦後のありとあらゆる「市民運動」「革命運動」と称されるそれが、いかなることを掲げそれを「成し遂げられなかったのか」についての批判的考察。「右翼とは文字を手にすることができなかった被差別人民の前衛なのである」という前書きに引用される一文は非常に示唆的であしょう。
昨今の右翼批判、左翼批判の少なくない部分は、これらの考察を踏まえて改めてそれ故に批判されるべき点は多々あると思います。それが愛国運動であれ反ヘイト運動、反原発運動であれ。

他にもナチスに準える表現が増えている気がするのでナチス論考の10冊とかでも良かったのですが、それはそれでいささか手に入りづらいものもあるので、一年の終わりにはやはり昨今の動きを踏まえて来年どう考えるべきなのか、の参考になりそうなものを選んでみました。
皆様の読書ライフが来年も素敵な一年になりますよう。