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総選挙には役立たないかもしれない本10選

#総選挙に役立つ本 出版社員が火付け役

 ということで、どうもタグをサーチするとなんとも党派の主張合戦の様相も見えますので、党派・主義主張関係なく、また選挙だけでなく「政治」という領域に関心を持つ方に薦めたい本を何冊かピックアップしてみたいと思います。
 
1:世界憲法集(岩波文庫)

基本中の基本ということで、延々と版を重ねて刊行が続いている本書。「憲法改正に賛成?反対?」みたいな短絡な設問が設定されることも多い昨今ですが、そもそも日本国憲法だけを見ていても気付かない分野も多いですし、それぞれの国が何を規定して何を規定していなかったのか、それらを一冊で比較しながら読めるという点では今でもお薦めです。

 
2:人権宣言集(岩波文庫)

憲法集と合わせて一家に一冊くらいお薦めしたい、こちらも基本中の基本。法や宣言の中で「人権」というものがどのように謳われてきたのか、その成立の過程でそれぞれの時代、場所での文言を参照することができます。「新しい人権」という表現もある昨今ですが、「人権」という概念そのものは、その対象の拡張がされてきた一方で、基本原則は大きくは変わっていないので、手軽に参照できるという点ではこちらもまだまだ色あせません。
 
3:法哲学入門(講談社学術文庫)

「法」ではなく「法哲学」。西洋だけではなく、東洋も含めた「古代からの法体系の構築過程の背後に存在してきた法の精神の支柱となってきた哲学」の入門書。新規立法、法改正から法に基づいた行政運用まで、それらは本来は「いかにしてその法(法理)が構築されてきたのか」を視野に入れなければ、なかなか理解できない部分もあります。個々の法律論ではなく、「法の背景となる哲学」を理解することで、法理念の有り様や法体系へのアプローチをその根底の部分で捉えることもできるのではないでしょうか。入門書なので内容も平易でお薦めです。
 
4:法における常識(岩波文庫)

こちらも古典中の古典です。法学の入門書とも言われるほどの入門書ですが、何故法が必要とされ、その運用はどうあるべきか、という法思想の入門書。法哲学よりももう少しだけ実践寄りですが、こちらは前掲の法哲学入門と違ってイギリスにフォーカスを当てた内容となっています。コモン・ロー中心の言及であり、そこだけを考慮するとあまり日本には関係ないような印象になるかもしれませんが、判例の積み重ねと法運用の在り方を学ぶ上では十分に役立つ一冊と言えましょう。著者のヴィノグラドフは1800年代の人ですが、法と歴史を紐解くスタイルの本書は、前掲の法哲学入門と合わせて「現代に至るまで」の間に英米でどのように法運用がされてきたのかを知るだけでも、大いに参考になる一冊だと思います。
 
5:権利のための闘争(岩波文庫)

法哲学は解ったとして、さて、何故人は権利のために「闘争」という手段に訴える必要があるのか(逆説的に言えば何故法と権利の闘争が社会・国家にとって必要であり不可欠であり永続的なのか)を説いた一冊。著者のイェーリングはこちらも1800年代の人なので、やはり現代からすると随分と前の人ではあるのですが、内容は現代でも十分通用する部分があるほど、根源的且つ本質的でありながら、これも平易な一冊です。こうしてみると1800年代の著者を取り上げることが多いなぁ、私。
 
6:植木枝盛選集(岩波文庫)

あまり欧米の大家ばかりを取り上げてもね、ということで、日本の民権運動勃興期の大家の一人、植木枝盛の論文集。当時にあってはかなり急進的意見と言える内容も多いですが、当時において急進的であったということが「今では」当たり前のことだったりもするので、日本国憲法に何処までその精神が反映されているのか(あるいは反映されなかったのか)、歴史に思いを馳せながら読んでみるのも良いかもしれません。
 
7:石橋湛山評論集(岩波文庫)

戦前と戦後をブリッジする所謂日本のオールドリベラリストの一人として最重要な論客の一人、石橋湛山の評論集。この評論集や戦後に半ば美化されたような同氏の言動だけを見ると立派な論客であったことは間違いないのですが、この人を以てしても1930年代には雑誌東洋経済の巻頭文に満州国領有の妥当性を(半ば苦虫をかみ砕いたような表現とはいえ)叙述しなければならかった、戦前1930年代というものが何であったのか、非常に考えさせられます。というかそういう背景がこの評論集の「間」に挟まっているのだな、ということを念頭に置いて読むと、いろいろと見えるものがあるような気がします。
 
8:アメリカは恐怖に踊る(草思社)

一気に現代に飛んできましたが、現代において、政治の動向や世論構成にいかにマスメディアや言論が(負の面で)寄与し、半ばマッチポンプのような機能を果たしているのかを詳述したアメリカ政治分析の良書。政治家だけではなく、マスメディア、日本では識者と呼んでいるような言論の枢要にいる知識人(としておきます)が、現実を歪め、煽ることそのものを機能としてしまっているのかを批判しつつ紹介しています。著者は「ボウリング・フォー・コロンバイン」にも出演しているバリー・グラスナー氏ですが、その批判している先の識者界隈からも高い評価を受けている本書は一読の価値があるでしょう(というこれもマッチポンプかもね、と)。
 
9:ファシズムへの道(日評選書)

「戦前が」とか「軍靴が」とか「ファシズムみたい」とかカジュアルに使われるファシズムですが、第一次大戦後最も先進的と考えられていたワイマール憲法下で、いかにファシズムが形成されていったのかを解説している本は多いと思います(私の所蔵書にも何冊もあります)。その中で、敢えて一冊を取り上げるとしたら、ということで悩んでこれをご紹介。ワイマール共和制において、司法の場ではその発足の当初から共和制の根幹を破壊するような司法判例がいくつも積み重なっていく過程が実際の司法の場でのやりとりや、それを取り上げる報道の果たした役割などに焦点を当てて、具体的に叙述されています。法と社会と政治という点で、とかくその分析から漏れがちな実際の司法判例の役割を考える上で、示唆的です。最高裁判所裁判官国民審査というと、今の日本ではほぼ機能していないくらいに軽視されていますが、「本当に」ファシズムを警戒するならマスメディアと並んで司法ですよ、ということを忘れないようにしたいものです。勿論ファシズムに限らず、ですけどね。
 
10:全検証ピンクチラシ裁判―言論・表現の自由はこうして侵害された(一葉社)

ちょっと変化球ですが、「表現の自由と言いながらエロ守りたいだけだろ」という方々に是非一読頂きたい一冊でもあります。3年前にも取り上げた一冊ですが、思想・表現の自由に対して恣意的な既存法の運用を判例ベースで認めてしまい、また報道もその問題点を取り上げるのではなく、却ってそれを悪化させる方向で作用するとどのようなハレーションを生み出し得るのかを、その摘発、起訴、裁判に至るまで、ほぼ全記録としてまとめられている一冊。第一審での判決を憂慮した一大弁護団が結成される過程や、それを以てしても限界があるのだということをウンザリするほど教えてくれる一冊でもあります。そしてこの裁判の進行直後に「有害コミック一斉摘発」となり、実に(大手出版社をスルーして)零細出版社等を集中して70名以上を送検するなどが進展していったのだから、「私には関係ない」だけで終わらせたくはないところです。法を精緻にすれば漏れるものも多くなり、緩くすればこのような運用もでき得るのだという、過去の話ではなく実に1990年代の日本の実例なのだから、是非一読頂きたいところです。
 
 
 他にもいくらでもお薦めしたい本はあるのですが、ちょっと変化球を交えつつ、ざっと十冊ほど古典から現代まで拾ってみました。岩波文庫多いですね、改めて見ると。それだけ古典も含めて、確かに必要な文化の一翼なのですよね、岩波文庫。批判的に言及されることもある「岩波文化」ではなく岩波文庫。最近「文庫本「図書館貸し出し中止を」 文芸春秋社長が要請へ」といった報道もありましたが、文春文庫はどちらかといえば文藝方面の刊行が多いこともあり、一冊も入りませんでした(書きながら報道を思い出しました)。文春さんが悪いのではなく、古典分野はやはり岩波さんが抜群に分野も広く数も揃っている歴史がある、ということですかね。
 ちょっと前までは毎年「その年に読んだ本の中でセレクト10冊」というのもやっていましたが、こういうエントリーも久しぶりですね(エントリー自体が久しぶりなのですが)。それではまた。

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炎上商法が焼却する果てに

 昨今、いわゆる「炎上」することが一つのマーケティングの「成功」事例になりつつある。「アンチ」が扇動することで、結果として反対する人の思惑とは裏腹に、その批判対象が「売れる」という現象である。例を挙げるまでもなく、いくらでも思い当たることは身近にあるだろう。良し悪しを別とすれば、大統領の座を射止めたトランプ氏のグッズが早々に大量に企画・販売されている現状を挙げられるかもしれない。差別/反差別界隈も同様だろう。「こんな酷い本がある」と流布されるたびにその本はAmazonのランキングを上げ、書店では入荷待ちとなることも一つならずある。
 
 直近で最大の炎上商法の事例を挙げるとするならば、間違いなく「えんとつ町のプペル」を挙げることができる。今年2017年の五本の指に入るくらいの事例かもしれない(まだ1月だが)。私はこの書籍の制作にあたって、相当数に上るだろうイラストレーター他との間でどのような契約が結ばれているか、預かり知る立場にはない。「それにしても、「クリエイターの不当労働」まで絡めてくる輩まで現れた。
いやいや、インターネット上で無料公開した方が本が売れる(結果的に売れた)んだったら、むしろ逆じゃん。クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」(声優・明坂聡美の危うさ。)もしかしたら、契約次第ではその通りなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしながら、この言葉は賛否の生じた段階での「これから、無料化できるところから無料化していって、『お金』なんて、そもそも存在しなかった時代や、地域で、おこなわれていた『恩で回す』ということをやってみます。」(お金の奴隷解放宣言。)とは相反する。前者は「売れて還元できれば問題ない」かもしれないが、後者はそんな話ではない。端的に言って開き直っているとしか感じられないだろうし、あくまで結果論でしかない。ついでに言えば、「お金の奴隷解放宣言」なるエントリーの最後の「…てなワケで俺は無料にするけど、その代わり他のクリエイターに「西野はタダにしたんだからおまえもしろ」なんて絶対言っちゃダメよ。」は「カッコイイから」という理由で後から追加された文言であるし、「「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ?
糞ダセー。……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。しかし、はたして全てのモノが『お金』を介さないといけないのでしょうか?」という文言がある種の免罪符になるのかもしれない(お金の奴隷解放宣言エントリー内)。一方で「ここを絶対に押さえておかないといけないのだけれど、『えんとつ町のプペル』は″情報は無料だけれど、物質は有料”という点。」という言及が後から追加されている(声優・明坂聡美の危うさ。エントリー内)。ここから透けて見えるのは、「モノ」と「物質」という使い分けなのだ。「情報」が如何にマネタイズされづらいか、その問題については情報媒体(紙)の衰退を見れば自明とも言える現象だが、その帰結はあまり好ましいとは言えないだろう。なにより、2,000円の絵本が買えない層はどのような層が想定し得るだろうか。一回だけの2,000円を支払うのが困難な層であると仮定した場合、そもそもオンラインを安易容易に使える層ではないのではないか?いわゆるデジタルデバイドの問題である。確かに書籍という媒体は、「全体を見て手元に置いておきたいと思えるかどうか」は極めて大きな要素ではある(実際私も少なからずそれに該当するだろう)。
 しかしながら、一方のエントリーでは「糞ダセー」とまで言い切って、片や後日のエントリーでは「結果的に売れた」ので還元できるから良いではないかとばかりに書くのである。しかも児童書としては相当に売った後で、の話だ。児童書の増刷可否は3,000部とか5,000部といた、極めて小ロットでの販売可否にかかっている中で、万の単位を大きく超えて売り切った後での話である。当初から斯様な姿勢を見せてやっていれば、さぞかし「カッコイイ」だろうが、クラウドファンドで製作費を賄って相応に売った後でのこれである。懐が何一つ痛まない状態で、エエカッコシイをやったところで、それこそ「糞ダセ―」話でしかないかもしれない。斟酌する内容としては、「クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」という文言が文字通り、関係した制作段階で関わった様々なクリエイターに還元されるような契約であれば、それは確かにそうだろうとは思う。それでも炎上商法が良いか悪いかは別の話だが。
 極めて残念なことながら、貨幣経済というものはそれとして機能をしていて、「お金がそもそも存在しなかった時代」などと言われても、とてもそこまで戻れるとは考えられない(或はボランタリーの対価としての様々な「ポイント」みたいなものはあるかもしれないが、地域貨幣含めてそれさえ「お金」の信用の根本が何処にあるかの差異でしかなく、「恩」よりは遥かに「金」に近いだろう)。
 マッチポンプの如く炎上の燃料を投下し続けている訳なので、是非関係したクリエイターにより大きな還元をして頂きたいものである。まさかそこで「売れた分だけ要求するなんて糞ダセ―」とか「そもそも売上比例配分契約になっていない」などということはないと願いたいものだ(結果クリエイターの収入が増えれば良いということであれば、そうなるだろう)。デジタルツールの進展に伴い、クリエイティブ界隈の「正当な対価要求」はなかなか通り辛いものがある。プログラマー然りである。時給換算何時間等の「作業換算清算」以上のことを求めるのはなかなか難しい時代なのだ(それこそ知名度があれば有名料で取れるだろうが、大多数はそんな知名度など無いわけで、このクリエイティブへの支払いのダンピングは上場企業だろうが平気でやってくる)。死屍累々のそれらの上に、或は「恩」で回すことで関係者が結果「得られるものが多い」こともあるのかもしれない。そうだとしても炎上商法は関心しないが、まあ得られるものが皆無よりはまだ良いだろう。
 私は糞ダセ―ことに、こういった駄文を書いても一銭にもならないし、結果として炎上商法の加担にもなるだろうが、それでも参加した各クリエイターに還元されれば駄文を書く意味もあろうというものだ。参加したクリエイター諸氏は、手元の契約書を確認して、正当な対価を受け取れるよう、必要な対応をするべきかと思う。炎上商法の果てにあるものは、恐らくクリエイター諸氏が如何にその「マーケティング」とやらで得た収益を回収できるか、でしょう。別に私がどうこう言う話でも無いのかもしれませんし、「お前がお金の奴隷だ」と言われるかもしれませんが、「不当労働」のニュースに胸を痛めているらしい西野氏には、「正当な対価の要求」がいかに不当労働の中で締める値が大きいものであるか、恐らく自覚頂いていると思いますので、その点は遠慮も配慮も必要ないかと思います。一銭にもならないお金の奴隷ながら、奴隷根性を発揮して是非そのように対応し、得るべきものを得られるよう、祈るくらしいかできませんが、お祈りしております。

 最後に。
 
 声優の明坂聡美さんへ。
 クリエイターとして、表現者として、「無料化の波に抗えない」などというそれに、異を唱えるだけの根拠も主張もあるだろうし、「自分の首を絞める」などという言葉に抗するなら、恐らくその声を支える人は一人二人ではないだろうと思います。相手は「ロボットがどんな風に人間の仕事を奪っていくかに興味があるんです。どの職業から、ロボットに奪われてなくなっていくのか。ロボットを知れば、人間が分かるんじゃないか、と思う部分があって」という理由で、株式会社サビーボの「へんてこロボット博士」に就任するような人です。「最近では「芸人を引退して絵本作家に転身する宣言」で世間を驚かせたかと思えば、なんとその翌日、絵本作家も早々に引退。今度はパインアメ(ご存じない方は検索してください)の「特命配布主任」に転身するなど、めまぐるしいペースで肩書きが変わっていることが話題です(ご本人曰く「いろんな人に怒られている」そう)。」(キングコング西野亮廣さんがロボットノートの『へんてこロボット博士』に就任!)。
 少なくとも2016年7月の段階で芸人も引退し、その翌日には絵本作家も引退したということになっている相手ですので、今回の「絵本」がどのような経緯で制作されたにしろ、名指しで斯様なことを指摘されたことに対して、いくらでも反論する権利も自由もあると思いますし、別に喧嘩しろとか戦争しろとか言いませんが、言いたいことを遠慮なく言うだけの「御指名」だったと思います。

諸外国の労働関連法制はどうなっているの?

 前回のエントリーが案外と読んで頂いているようで、まず乱筆乱文悪文申し訳なく(備忘録的に飲みながら書いたものなのでろくに推敲等しておりませんでした…)

 さて、それはそれとして、「日本の労働関連法制を遵守していたら国際競争力が」という提起もいくつかされているようなので、厚生労働省が調べた各国の法規がどのようになっているかの図表を見てみることにする。

 諸外国の労働時間制度の概要

 ここにはアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの法制の概要がまとめられている。法定時間外労働時間についての規制や上限など各国で様々な差異があるものの、日または週または特定の期間において、原則として労働時間は定められており、適用除外の職業も定められている。当然違反行為には様々な制裁や罰則が設けられており、救済の方法や内容も様々であるが、これが現実である。しかし、どの国の法制も労働時間を把握していることが前提で設計されていることは、至極当然のことである(そうしないと法定時間外の測定が不能であり、フランスのように換算労働時間制度を定めているような例もあるし、これは変形労働の場合の適用となるのだが、それでも合計での労働時間の定めはある)。
 また、アメリカのように法定時間外労働の上限や休日等の定めがない国もあるが、同国は法を破った場合の措置は日本よりも恐らく厳しいと言えるだろう。法定時間を故意に破って労働させた場合、禁固刑も有り得るし、場合によっては労働長官が労働者に代わって民訴を起こすこともでき、未払金に対しては同額の賠償金加算を定めるなど、破った場合の措置は非常に重いものとなっている。

 クリエイティブな仕事は労働時間が定められていたとしても、その中で納まる性質のものではない、というのは指摘として尤もであり、これでも広告代理店に居たこともあるし、レコード会社などに知己も居る。デザイナーの知己も少なくない。しかしながら、それであっても雇用契約は雇用契約であって、それは法の定める規定に(形式上であれ)拘束されたものでなければならず、実態上それを破る事例が多々あるのも事実である(朝礼時間は勤務時間に含めない、残業時間を故意に計上しない等)。転職系のクチコミサイトではエイベックスという会社が部署によって非常に大きな労働時間の差があり、またそもそも労働時間の把握をしていなかったか、或は故意に法を破ったと受け取られても仕方がないものが少なくない。過去にタイムカードが存在しない=労務時間を把握していない、250時間の月間残業のうち40時間しか計上されていない(裁量労働というわけでもない)、といったケースが書き込まれている。花形部署では相応に給与も高かった面もあるだろうが、少なくとも労働法制がそれなりに敷かれている国であれば、労務時間の把握が為されていない、故意に残業時間を計上しないというのは、どの国の法であってもやはり違法となるのではないだろうか。

 なお、クリエイターのような職種はこういった時間拘束ではその本意の仕事が出来ないという言い方にも一理あるのだが、ハリウッドには俳優その他の一般雇用契約とは異なる個別契約による俳優等のためにSAG-AFTRAという組織が存在し、これに加入することで制作サイドの一方的な搾取的条件や不利益条件に対しての補償や労働環境改善のための活動をしている(この団体の前身団体となるSAG自体は早くも1930年代に組織されている)。ハリウッドはクリエイティブな仕事が出来ないところなのだろうか?それともこういった団体組織がクリエイティブな仕事を阻害しているのだろうか?個人的にはそう思えない(駄作が多い等は別の話だ)。雇用・契約関係の対等にして適切な状態を構築することこそ、仕事の質と生産性を上げていく為の前提であり、その基盤となるのが労働関連法制なのだからこそ、重要な法制なのだという理解は、もっとしっかりと受け止められるべきであろう。

時代に合わない企業なんて早く潰れて欲しい

 エイベックス松浦氏が労基署の是正勧告に対して挑戦状と言うべき性質のことを公言しているようだ。

労働基準法 是正勧告とは

 少なくとも是正勧告に対する報道を見る限り、「残業代を適正に払っていない、実労働時間を管理していないなどの指摘を9日に受けた。」とのことなので、そもそもまともに労務管理を行っていたのかも怪しい限りではある。エイベックス、長時間労働で労基署が是正勧告

 松浦氏の公言している内容を読む限り「望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。」との意識はあるらしいのだが、そもそも「実労働時間を管理していない」と指摘されている状態で「長時間労働を抑制する」ような措置がどこまで取られていたのか疑問が残る。
 加えて、「労働基準監督署は昔の法律のまま、今の働き方を無視する様な取り締まりを行っていると言わざるを得ない。」とも公言しているが、そもそも「残業代を適正に払っていない」ということは、取り締まり以前にそもそも現在の法制をまともに守ってさえいないのだ。五十歩百歩譲って「36協定があってもそれへ残業上限のキャップをかけよう」とする現在の労働法制関連の改定への方向性を批判するならまだ解る。しかし、それであってもそもそも労働基準法では法定労働時間を超える範囲について割増して賃金を支払うことを規定している(労働基準法第37条)。労働時間の管理がそもそも出来ていないようであれば、同法の定める深夜業務の割増賃金の規定も守られていたかどうか怪しいところである。
 少なくとも様々な情報を勘案すると、同社が多少なり労務環境の改善に努めつつあったことは理解できる(真偽の程は社員や元社員の様々なクチコミの信頼の度合に拠るだろうが、悪化する一方だった訳ではないようだ。スタート地点がマイナス過ぎたかどうかは別であるが)。
 とはいえ、だ。

病院で働いている人は労働時間と治療とどちらを優先するべきか。美容師の人達、学校の先生、、、自分の夢を持ってその業界に好きで入った人たちは好きで働いているのに仕事を切り上げて帰らなければならないようなことになる。

 そもそも病院の特に看護業務等は過重労働が問題視されている業種の一つではあるし、美容師も薄給と過重労働が横行している業種の一つでもある(だから美容師は皆独立して自身の店を構えるか体を壊して退職を余儀なくされる事例が少なくない)。教師に至っては雑務の多さ等でそもそもその労務環境が問題視されている最たるものであるし、松浦氏が他に例示している官公庁も同様だ。中央官庁の国会会期中の対応に伴う深夜問わずの環境はそもそも問題視されざるを得ない問題でもある。

望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。ただ、好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれる。それを否定して欲しくない。

 実労働時間の管理も出来ていない状態で抑制も何も無いし、そもそも超過労働時間に対して適正な残業に伴う賃金清算をしていないことが指摘されているのだから、論外でしかない。私も経験上クリエイティブに関わる人達の、時として尊敬にさえ値する集中力や心身を消耗しつつ物凄い物事をやってしまう才能などは理解も出来るつもりではいる(実際そういう人はいるのだし、事実その通りなのだから)。しかし、そういった人に対して労務管理をしなくて良いかと言えばそんなことは無い。雇用関係とは契約であり、契約は法に則って行われるものである。尾ひれがついて悪評になっていると言うのであれば、そもそも最低限「法を守っていれば是正勧告など受けずに済んだ」のであり、その上で裁量労働等の対象について苦言なり諫言なりを呈するなら話を聞く道理もあるかもしれない。

好きで仕事をやっている人の制限をし、日本企業の海外競争力を弱める事にもつながる。

などと書いているが、至極当たり前の話として、「その国の法律を破らない」というのは当然であり、だからこそ様々な企業が真っ先にやることと言えば進出先の国の法規制や場合によっては宗教文化や慣習等の調査なのであって、それが出来ない企業は進出に失敗する(実際小売業の他国への進出は日本で通用したやり方をやろうとして失敗し、日本へ入ってこようとした小売業も同様の理由で失敗している)。

 多様性という言葉がいたくお気に入りのようだが、多様性とは無理や無茶或は少なくとも現行法上の法制を破る理由にはならないのであって、以下は論外と言う外にない。

今はとにかく矛盾だらけだ。
僕の法律知識なんて乏しいから間違っていることを書いているかもしれない。しかし、納得できないことに納得するつもりはない。
戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ。

 間違っていることを書いている以前にそもそも「違法行為」として是正勧告を受けている状態で、よくこのようなことを書けたものである。私も現行の様々な法体制や法規制に様々な疑問や問題を提起することに吝かではないが、同時に「納得できなから破って構わない」という話では済まないのが法律である。戦うべき時は相手が誰であろうと戦うのは大いに結構だろう。法律も万全十全ではないし、時代に合わないものもあるだろう。しかし、そもそもそれを私企業の、株主の胸算用で破って開き直って良いということには、当然ならないのだ。

僕らの仕事は自己実現や社会貢献みたいな目標を持って好きで働いている人が多い。だから本人は意識してなくても世の中から見ると忙しく働いている人がいるのは事実。

 自己実現や社会貢献といった言葉はしばしば「違法行為」を正当化する際に多用される言葉だ。体罰から洗脳紛いの研修まで、自己実現だの自己啓発だのという言葉で虚飾されてきた。社会貢献という言葉に至っては論外だ。企業は従業員の雇用と生活、それらを契約と法の範囲において守らなければならず、従業員は紛れも無いステークホルダーでもある。企業が社会における重要な位置付けである以上(少なくとも資本主義社会においては非常に重要であろう)、適切な契約の清算(法の下における労働契約上の履行義務)を怠っていたことについて、そういった美辞麗句を駆使して開き直る言動が許されるべきか否か。自ずと明らかだ。

会社の中にすぐ利用できる病院を作ったり、定期的にメンタルチェックをしたり、時間に限らない社員の労働環境をそれなりに考えてきたつもりだ。

 これらは何等の免罪符にならないし、メンタルチェックに至ってはそもそも法でそのように規定されていることでもあるので、胸を張る要素でさえない。ストレスチェックはそもそも従業員50人以上の企業には義務付けられたのだ(H27以降労働安全衛生法改定、施行)。法で定められた「最低限」について、考えるも何も無いのであって、たとえそれが法の義務規定に先駆けて実施したことであったとしても、それが義務になっただけのことであって、それ以上でも以下でもない。

 労基法違反の摘発は、昨今電通を始め大手企業で相次いでいる。それが見せしめ的意味合いがあることを否定は出来ないであろう。しかしながら、

是正勧告を受けたほぼ全ての企業の名前を世の中の人が知ることはないけど、ごく一部の目立つ企業だけは何故か見せしめのような報道をされること。

 に対して苦言を呈するのであれば、そもそも日本の企業の大半は名も知れない中小企業であり、恐らくほぼ間違いなくエイベックスという企業のビジネスを支える提携先や業務委託先或は様々な、それこそライブなどで販売するグッズ制作を請け負う企業やイベント時にアルバイトスタッフを手配する企業などは、名も知られず報道価値の無い企業であろう。それらの企業が仮に公表されたとして、ではそれらの状況を鑑みて「取引条件を改善します」などと言うだろうか。残念ながらそんなことは無い。現実を盾に取るなら、せいぜい株主の手前そういった企業に皺寄せした挙句に公表されたら取引を打ち切る程度で済ませるだろう。そのことに想像も推測も要しない。しかし同時に、そういった企業はそもそも何かを成し遂げたとしても、報道もされず名も知られず、目立つところは全て「名の知れた」企業が持って行くのだ。例えばエイベックスが関与するライブイベントに関与する企業の名を列挙したところで、大半は「何処それ?」という話にしかならない。報道で取り上げられるのは「何処それ?」でなくエイベックスというブランドである。そもそもメディアの使い方、その効果を最大に活かしてきたのがエイベックスという企業そのものではないか。「誤った時だけ報道されるのは不公平だ」というのであれば、そもそもその不公平さを最大に利用してきた企業の一つが他ならないエイベックスであろう。
 同社と契約関係の浜崎あゆみの動向一つが株価の上下に影響し、もっと言えば松浦氏自身がエイベックスという企業の株価の動向に大きな影響を与えてきた。名も知らない町工場が是正勧告を受けることと、どれほどの違いがあるか、身を以て知ってるはずであるし、そこを気にしたこともなければ知りもしなかったというのであれば、論外という外ない。2004年の一連の騒動を皆忘れていると思ったら甚だしい勘違いでしかない。

この状況を見ていると、今検討されている高度プロフェッショナル制度や裁量労働制の範囲拡大案が多様性にきちんと対応できて使いやすい制度になるかも甚だ心配だ。

 私も極めて心配である。このように開き直った挙句に法を守ることを意識もせず、破った挙句に自身の考えと法が合わないからという理由で「法律で決められた時間しか働けなくなる可能性があるようだ。」とそもそも「最低限」として設定されている労基法の規定を欠片も遵守する建前さえ放棄している企業が跋扈することは憂慮に値するだろう。「使いやすい制度」は「手前勝手に都合の良い制度」を意味しないことは、労働法制に限らず当然のことでしかない。

僕らのやってきた事おかまいなしに一気にブラック企業扱いだ。

 法を守る気が欠片も無く実際に守ってもいない企業がそう呼ばれることについて、ここまで開き直ることを是とするほど、社会も法も甘くはない。そもそも横紙破りをやっておいて、「やってきた事」とは何か。目に余る違法行為そのものではないか、やってきた事が。
 時代は国を挙げて、賃上げ、労働生産性向上、余暇の確保と消費である。だからこそ労使協定があっても残業の上限を設けようとしているのであって、過労死ラインの残業時間が明示され、「健康と労働」のバランスを取ろうとしているのだ。過去大目に見られてきたかもしれない脱法違法の類が摘発されたとして、それは適法化の過程であって、間違っても「法を破る企業のために法を変える」ことではない。

75%以上が何かしらの違反とみなされている状況。

 確かに憂慮に値するし実情の酷さに値する事実であろう。それは「法が時代に合っていない」のではない。そもそも「法を守ってさえいない」企業の多さに対して、である。労働基準法はあくまで「最低限」の基準である。ここまで守られていない事実は、いかに酷かった現実が横行していたかを示すことでしかない。労働安全衛生法や労働契約法然りである。「海外競争力」という理由で国内法の最低限をも遵守する気が欠片もないのであれば、そもそも海外に進出して堂々とその国の法を破り、堂々と「法がおかしい」と主張すると良いだろう。恐らく日本の労働法制よりも重い懲罰が飛んでくるであろう。残念ながら日本の労働法制は「破ったところで大して重い懲罰にならない」程度の量刑であって、営業停止処分などそうそう下りないし、その穴埋めを「社会的制裁」とやらで埋め合わせているに過ぎない。
 その点についてだけは、松浦氏に同情もする。そもそも社会的制裁やら報道量に拠らず、懲罰をもっと重くし実態に対して有効なものとすべきなのだから。そこまで法整備が進めば、「法で定める以上の社会的制裁は不当だ」という主張は首肯もしよう。

 まったく個人的見解としては、僅か10日ほど前に「真摯に受け止め、社内調査を含め是正に着手している」とステートメントを出していた関連部署は今頃大層頭を抱えた挙句に善後策の奔走に「より大きな業務負担」を背負わされているであろうことが想像できる点であろうか。広報担当は胃に穴が開くかもしれないし、コールセンターやその窓口は自身に責の無いクレームや罵倒の嵐に晒されるかもしれないし、イベントやライブ担当者は施設利用のキャンセルのリスクを勝手に負わされることになるかもしれず、株主や出資・融資元は今後の価値毀損に対しての試算をせなばならなくなるかもしれない。巻き込まれた人には同情もしよう。

 いずれにしろ、

戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ。

 この点は同感である。労働者の権利と従業員の得るべき報酬、そして現時点で有効であるところの労働関連法制の履行に奔走しているであろう労基署の職員にとって、業界と国の未来のために、戦うべき相手は自明過ぎる。

セクシャリティを巡る情報と適切さの問題 ~成宮氏からマクドナルドCMまで~

 少し気が重たいのだが、久しぶりに記事を書いておくことにする。

 ここのところセクシャリティ関係の話題が立て続けに出ている。
アッコ 成宮の芸能界引退に釈然とせず「自筆で書いたってことは…」
元フィギュア村主がヌードになったワケ 極貧生活をTV告白
ホリエモン“新恋人”はカリスマ「女装男子」
マクドナルドがキャンペーン動画削除「罰ゲームは男性同士のキス」に疑問の声

 まことにウンザリするような情報量であるが、これは全て今月に入ってからの情報だ。

最初の記事は成宮氏の引退に関するものだが、薬物疑惑についてはここでは触れないことにする。とはいえ

「この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい」と記載されていることについても言及。「今は(世の中の人は)気にしないんじゃないか。そんなことで事務所、芸能界をやめるのは…」と不思議そうに語った。

 という部分はやはり引っ掛かる。過去まったく否定され問答無用で病理や社会悪扱いだった時代と比べれば、セクシャリティ関連については確かに受け入れられつつあるようには思う。しかし、「他者が暴く」ことと「自身で公言する」こととは、天と地ほどの差がある。「気にしない」かどうかという点については、その人の置かれた環境で判断するしかない。身近な周囲に理解が無ければ真っ先にその一番身近なコミュニティから排除されるのだし、セクシャルマイノリティにとって最大の課題は自身の身内の無理解であることがしばしばだ。本人が知られたくない(クローゼットでいたい)と求めるプライバシーに対して、「別に大したことではない」かのように扱える性質の情報ではないはずだ。この発言は一見理解あるように受け取れそうだが、実際のところは無神経の極致でしかない。「そんなこと」どころか「自身の最もクリティカル」な場合でさえあるというのは、推測でもなんでもなく現実でしかない。 

 次の村主氏の記事についてはこのように書かれている。

恋愛の話になり、男性と付き合ったのは大学1年の頃だけで、それ以降は無いと語った。レズビアン疑惑があることを問われると、「別に相手が女性だからダメということは全然ないです」と認めた。(中略)こうした番組内容にネット上では、「好きだったのに何があったんだよ…」「落ちぶれすぎやろ」「この人は引き際を完全に誤った」などといった驚きが広がった。

 相変わらず異性交際の話が出てこないと「疑惑」として同性愛が扱われるメディアの無神経さは今更驚くには値しない。そこに続けて書かれている拾われたネットのコメントが、このセクシャリティ関係に対して向けられたものなのか、それともそれ以前の部分で言及されている貧しい生活を指しているのか、或は仕事としてヌード撮影等を引き受けていることを指しているのかは判然としない部分ではある。とはいえ、成宮氏の引退に関して「ゲイであることが分かればイメージダウンになるのは当然」といったコメントが付されている点を考慮すれば、まったくセクシャリティの部分と無関係にこれらのコメントが出ているとも思えない。全部とは言わないが一部はセクシャリティの部分に向けられているように思われる。
 
 その次の堀江氏の記事では以下のやりとりが記載されている。

――堀江さんとはどのような関係ですか?
「曖昧な関係というか……。この前会ったときは、彼も好意を示してくれました」
――男性同士の愛情ということですか?
「同性でも愛情はあります。そこでセックス出来るか、出来ないかの違いだと思います」
――ホテルに入って行かれましたが、セックスはしているのですか?
「……そうですね」

 異性関係であれば、相手が回答している内容に対してわざわざ「セックスはしているのですか?」という念押しの質問が出たかは疑問も残る。もしかしたら「男女の関係だということですか?」という質問になったのかもしれない。とはいえ、そこで念押しせずともその前段の回答でほぼ答えは出ているのに、わざわざセックスしているのかどうかをダメ押しして聞くことにさほど意味があるとは思えない。また、成宮氏の件では異議を唱えている人の一部は、堀江氏のこちらの情報に関しては寧ろ楽しんでいたように感じられる(或は堀江氏の時には好奇の目で言及し、成宮氏の時には言及しないといったようなケースもあるだろう)。堀江氏は以前から性やセックスに関してはおおらかな印象があるが、セックスしたかしていなかを露悪的に聞いてくるような記者や媒体からの電話が名乗った瞬間に切られるのは、当然といえば当然でもあろう。「人のセックスを笑うな」である。同タイトルの作品は男女関係を描いているが、作者自身はこのタイトルを「同性愛の本の棚の前でクスクス笑っている人を見たときに思ったことばである」と述べている。
 
 最後のマクドナルドのCMの件での反応もいささか気になるものであった。いろいろな批判はあるが、「同性同士のキスを罰ゲームとして表現している」ことが問題かと言うと、私は少し違う印象を受けている。そもそもこのCMに出てくるカズレーサー氏はバイセクシャルであることを公言しているので、それを知っている人にとっては同性同士であることそれ自体は大きな問題ではないかもしれない。

諸外国のCMのように、LGBTはとにかくポジティブ!素晴らしい!なんていうCMは今の日本には似合わないし受けいれられないとは思います。しかし、情報発信の最先端である広告業界であれば、「この演出は、知らないところで誰かを傷つけるかもしれない」ということを敏感に察知してもらいたかったと思います。

とコメントされているが、これは至ってポリティカルコレクトネスに配慮されたコメントである。しかし、このCMは本当にそこが問題なのだろうか?殊更に同性同士を表現したものであることからLGBTに関連させた言及ばかりがされている。

ゲームに負けたナゲッツは突如「罰ゲーム」を受けることになり、両脇を漫才コンビ、メイプル超合金の安藤なつさんに羽交い締めにされる。そして、安藤さんの相方のカズレーザーさんがナゲッツの頬にキスをし、その写真が撮影されるという内容になっている。

 そもそもこの問題は「突如」の罰ゲームとして「羽交い絞め」にして「キスをし、その写真が撮影される」という点ではないだろうか。同性だろうが異性だろうが、不意打ち的に嫌がる相手に無理矢理キスをするというのは、どちらかと言えばセクハラや強制猥褻の類の話である。つまるところ、同性同士であろうが異性であろうが、罰ゲームとしてこういった行為を「相手が嫌がっている」表現の下で行うことを気軽に奨めてしまうような表現になってしまっていることの方が問題ではないだろうか。同性での表現だったためにそこばかりがクローズアップされているが、「嫌がる相手に無理矢理そういった行為を行う」ということそれ自体が問題の本質であるように思われてならない。

 セクシャルマイノリティの置かれている立場は決して強いものではないが、同時に私自身は「政治的に正しいセクシャルマイノリティ」のようなものも「イロモノとしてのセクシャルマイノリティ」と同様にどうでも良いとも考えている。異性であれ同性であれ、人間関係でしかない以上、個人個人に落とし込まれればさして大きな違いはない。特にマクドナルドのCMでは、これが異性間でのそれであったら批難されたろうか?されなかったのではないだろうか?公平さ、公正さと特権化とは異なるはずだ。これは異性間の表現であったとしても、やはり相応に批難されるべき性質は含んでいたように思えてならない。

 性を巡る表現や、それがどのように扱われるべきかは、デリケートな問題である反面、モラルの問題については特にその属性の種類によって批判される基準がしばしば異なり、それが妥当であるかのように自明視されることさえある。難しい問題ではある。言及される個人の問題、当事者としての属性集団としての問題、個の全集合としての社会の問題、様々な側面があり、「知らないところで知らない誰かが傷つくかもしれない」といった曖昧な話でまとめてしまっては、結局「誰も傷つかないようにあたりさわりなく、社会・道徳・倫理的に正しいとされる表現」だけしか残らなくなってしまう。報道と表現とでの差異は当然にあるとしても、性表現を巡る「正しさ」の問題を考えた時に、この問題はそう簡単には答えは出ないだろう。BL=差別表現だと言う人もいれば、何かある度に異性愛規範の押し付けのように感じられるような様々な「多数にとっての当たり前」の表現もあり、またあれも差別これも差別とやっていって挙句に「正しい少数者」や「保護されるべき少数者」という、逆説的には「そうではない少数者」を区別していくような論考もまた数多存在する。
 
 性を巡る表現、報道の問題は、異性愛・同性愛・両性愛に関係なく、多義的問題を孕んでいる。下劣な情報に下劣だと憤ることは容易いし、成宮氏のように人生そのものを壊されてしまうケースさえある。最善という選択は無いとしても、常によりマシな社会であるためには適切な批判と適切な許容が必要であるようには思う。そしてその適切さの線引きこそ、社会における倫理規範という極めて厄介な代物と対峙することを余儀なくされることでもある。個人個人が尊重され、また自身の意思によってその生き方を決めていくためにも、この問題は恐らく継続的永続的に考えていかなければならない問題でもあるのだろう。

 まとまりもなくとりとめない文章を書いてしまっているが、ここのところあまりに立て続けにこの種の話題が氾濫し、またそれに対して様々な意見が交わされているのを見て、思いつくままに書いているので、結論らしき結論もないことはご容赦頂きたい。

大統領予備選に見るアメリカ社会の変化の兆し

とてもお久しぶりです。アメリカの大統領選挙予備選が大変混沌とした状況になっています。現時点での雑感をまとめてみたいと思います。

共和党はトランプ氏が圧勝、ブッシュ氏惨敗で撤退決定となりました。ブッシュ氏支持層は今後はルビオ氏に流れるでしょうからトランプ氏vsルビオ氏という枠が基本的枠組みとなるでしょう。クルーズ氏は本命にはならないでしょうし福音派の票が少なからずトランプ氏へ流れているのでこれ以上の浮上は無いでしょう。共和党は党としてはトランプ氏を避けたいでしょうからルビオ氏にどこまで集中できるかが問われるでしょう。
共和党主流派はもう選択肢はルビオ氏しか残っていないので、次の予備選でルビオ氏が何処までトランプ氏の勢いを抑えられるかが注目です。クリスティ氏、ブッシュ氏、ケーシック氏あたりが本来の共和党主流派だったはずなのですが、クリスティ氏がルビオ氏への攻撃へ注力した結果トランプ氏を利する形となり既に撤退、今回ブッシュ氏が撤退となりました。
ルビオ氏は以前の討論会の醜態をある程度挽回した形とはなりましたが、ブッシュ氏も討論会でのパフォーマンスは下手な印象で、主流派と目された候補が軒並みトランプ氏のパフォーマンスに押されている印象です(ブッシュ氏の撤退決断が早かったことからもしかしたらルビオ氏大統領、ブッシュ氏副大統領という線での主流派集約が図られる可能性はあります)。

一方の民主党はヒラリー氏が薄氷の勝利といった感じでサンダース氏の善戦が際立ちました。半月くらいで一気に追い上げた印象です。ヒラリー氏は本来黒人層の支持が厚いと言われていたにも関わらず、前回のニューハンプシャーに続いて接戦となりました。というよりサンダース氏への支持は恐らく当初のヒラリー氏の予想をはるかに超えるものになっていることが改めて示されたと言えるかもしれません。
実際、ニューハンプシャー戦の後に行われた調査では黒人層でも若年・中年層の相当の比率がサンダース氏支持へ流れていることが明らかになっていました。サンダース氏の今回の僅差の敗北は実質的には「ニューハンプシャーの接戦はまぐれではない」ということを如実に表している結果であり、ヒラリー氏と対等に勝負できる候補であることを見せたという点で敗北とは言い切れないものがあります。
次の予備選はヒラリー氏の勝利は手堅いところですが、サンダース氏の追い上げ方次第ではスーパーチューズデーでも候補が確定できない可能性が出てきました。サンダース氏はそもそも大統領候補になるなど有り得ないとされてきた中での出馬でここまで票を集めており、トランプ氏の地滑り的集票と合わせてアメリカの政治基盤の変化が表れているように感じます。

トランプ氏とサンダース氏の支持は重なっていないとの指摘もありますが、どちらも「既存の民主党共和党のワシントン政治、ウォール街への大きな反発」で支持が集まっていることから、このままトランプ氏が共和党候補として勝ち抜けして民主党が本命ヒラリー氏となった場合「反ワシントン」票として民主党・共和党の枠を超えてトランプ氏へ支持が傾く可能性さえ考慮する必要が出て来た気もします。トランプ氏・サンダース氏が勝ち抜けた場合ブルームバーグ氏の出馬が取り沙汰されていますが、万一にもブルームバーグ氏には勝ち目はないでしょう。
いずれにしても恐らく両党の予備選前の当初の思惑を超えた「反主流派」票が表れてきているのは紛れもない事実で、このことは予備選開始前の選挙予測が悉く外れていることからも理解できます。民主党・共和党という二大政党に特化した政治体制になっているアメリカですが、長期的には第三の政党が組織される可能性が生じてきた印象があります。それくらい反ワシントン、反ウォール街の勢いが強いと感じます。そして民主党・共和党の両党と異なる第三の勢力が実際に組織された場合、それは恐らく民主党的リベラルよりも左派で、また国際的位置付けとしての「世界の警察」アメリカを放棄する政策が打ち出されることになると思われます(実際サンダース氏はそういった主張を頻繁に繰り返しています)。また、従来南部福音派の動向が大統領選を左右するという指摘がしばしばありましたが、今回福音派の票からクルーズ氏ではなくトランプ氏へも票が流れている点、長期的にムスリムがクリスチャンに匹敵する母集団になることが予測されている点を考慮すると、白人系タカ派共和党vs黒人系リベラル民主党といった(ある意味では安直とも言える)枠組みは人口構成の点からも宗派勢力の点からも崩れる可能性を秘めています。加えて白人人口が「少数派」へ転落することも予測されており、第三の左派勢力が組織された場合、福音派・ティーパーティー勢力が一層先鋭化する可能性もあります。

今回の選挙戦はまだまだ予断を許さない状況となっていますが、長期的に視た場合、オバマ氏が初のブラックプレジデントになった選挙以上にアメリカ政治史の中で大きなターニングポイントになった選挙という歴史評価になる可能性もあるように感じます。日本で丸山参議院議員の迂闊な発言がアメリカで報道された際、「アメリカは劇的に政治を変化させることができるが日本の制度は硬直化している」とも指摘されていました。この劇的変化は既に「起きつつある現実」と言えるかもしれません。今回の大統領選がルビオ氏vsヒラリー氏という、現状考慮し得る「従来の枠組みで考えれば妥当」な大統領選になったとしても、変化は確実にアメリカの市民社会で構成されつつあるように感じられます。それは自由主義の後退ではなく、「資本主義」に対する一つのアンチテーゼとして、経済的観点から社会矛盾を突くものと言えるかもしれません。

「日本政府と国民へのメッセージ」について一日本国民より

 我が国の首相はカイロにおいて、人道支援やインフラ整備に25億ドルの経済支援を表明しました。「非軍事的分野」での支援であり、そのうち2億ドルは他ならない「イスラム国」が生み出した難民に対して必要な支援であり、喫緊且つ重要な支援となりましょう。
 或は我が国の政策が、過去から今に至るまで全て正しかったことは無いかもしれません。あなた方が国を持ちたいと願い、或は実現したいと願う社会は、その動機において正しいものもあるかもしれません。しかし、テロルを否定するという一点において、その手段を放棄しない限り、我が国の歴史を振り返って我が国はそれの国家承認という選択をしないでしょう。曾てその横行で自らの国の政策を過ち、世界を相手に戦争するまでに至った狂気への道は、決して褒められたものではないでしょう。同時に、そのテロルが貧困や社会不満を背景とし、正義の実現を願って引き起こされたものであることも、それが独善に過ぎない動機であったことも、我が国の歴史に刻まれています。
 如何に規模を広げても、手段をエスカレートさせても、テロルによって政策を変更する要求は、拒否されるでしょう。如何なる主張であれ、その手段という一点においてのみ、徹頭徹尾否定されるべきです。今現在行われているそれも、過去に行われてきたそれも、そうであるという一点において、否定されるでしょう。
 人質は解放されるべきであり、解放すべきであり、解放することによってのみ、初めて対話の回路も拓けましょう。あなた方が居る場所が、国が不条理に塗れ、その不条理の一端に我が国の政策が関与していたとしても、その告発はテロルによることなく成されるべきであり、原則であり、如何なる正義に拠っても、テロルの横行は決して認めないでしょう。そして認めない政府を、支持するでしょう。
 その上で、その不条理の告発が正しいものであるなら、その調停に政府の政策を傾けることもまた、支持するでしょう。それはテロルを放棄し、紛争を停止し、それが履行されることによってのみ、支持されるものです。その履行は、あなた方を敵視する側にも等しく要請されるべきであり、それを要請するにはその手段を放棄することが大前提となるはずです。
 第二次大戦とその結果として、中東には多くの国が生まれ、それが多くの場合それ以前の都合により出来たものであり、それらの政府が時に自国民をも攻撃し、都合勝手で戦争を引き起こしてきたことも知っています。それらに様々な国や集団が様々な思惑で介入し関与してきたことでしょう。どのような政府であれ無謬ではない以上、その時代、その瞬間に取られた政策は、後日誤りだったとされることもあるでしょう。そうだとしても、人質を取り強迫し、それによって政治的主張どころか身代金という戦闘資金を得ようとする行為は、否定されます。その手段という一点に拠って、絶対に、絶対に、絶対に。
 我が国が「聖戦」という名の「十字軍」に参加することを、望みません。しかし、今やその「十字軍」はどちらが積極的に組織しているのでしょうか。我が国はアメリカでもイギリスでもフランスでも無く、エジプトでもリビアでもイラクでもヨルダンでもありません。必要であれば、曾て中東で戦争の嵐が吹き荒れていた際、アメリカがイスラエルを支持し、我が国が中東に寄ったように、或はそれが思惑と打算の産物であれ、異なる政策も取りましょう。そして、それは平和的手段により国民によって支持された政府により、実行されるでしょう。イスラエルにもパレスチナにも非があればそれとして対峙しましょう。しかし、それはテロルという手段によって果たされるべきものでは、決してないでしょう。我が国の政策は「対テロ戦争」という名の政策であるが故に支持されているわけではなく、「テロル」という手段を否定する故に支持されるものであって、その逆であることを望みません。
 我が国の憲法は、前文において「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と宣言しました。専制と隷従、圧迫と偏狭は、教義やイデオロギーによって正当化されるものではないでしょう。国民は、それが建前であれ綺麗事であれ、この宣言を崇高なものと確信し、永遠に達成されないものだとしても、それを希求し続ける限りにおいて、支持するでしょう。安易に捨てるようなことは、しないものと信じます。だからこそ、専制と隷従、圧迫と偏狭によって生み出される難民に対して、1億ドルでも2億ドルでも支出し、その支援政策を、それが非軍事的手段である限りにおいて支持するでしょう。同時にそれを支持するが故に、人質の無条件かつ速やかな解放以外の選択を、支持しないでしょう。我が国の政策に誤りがあるとしても、それは平和的手段によって修正されるべきであり、それ以外の手段による修正は、それが譬えどのような正義であれ動機であれ、支持しないでしょう。
 我が国の政策はテロルを認めず、それがテロルにより変更されることを求めません。如何なる愚劣な政策であれ政府であれ、そのような卑劣な手段によって果たされる変更を認めません。曾ての過ちがあれば、それは改められるべきでしょう。しかしそれは、今回のような手段によってではありません。過去の過ちを改めるべきであるならば、それは改めるべき理由そのものにより、今回の行為を容認できないでしょう。あなた方が難民を更に増やし、支援がさらに必要となるならば、我が国が政府としてそこに更なる支援を充てることを、支持するでしょう。それは、あなた方の主張を否定する動機によってではなく、その教義を否定する動機によってではなく、他ならないその地に住む人々の平和と安全と将来をあなた方自身の手で選択できるよう祈ればこそ、政策として支持されるでしょう。
 今回の支援を敵視し、政策の変更を迫りたいのであれば、難民を減らせば良いのであって、難民を多数生み出し、数多の市民に犠牲を強いる、その地における行為を無条件に止めるべきであり、そうすることで実現できる道がありましょう。曾て多くの国でテロルが横行し、それはしばしば独立や革命、或は反独立や反革命の名で行われてきました。我が国の政策が、そのような手段を否定し、それによって生み出される難民を支援する限りにおいて、それは思想や信条、政治形態の有無ではなく、そこに難民が存在するという事実を以て、そこに支援を行うことを、国民は否定しないでしょう。否定する場合でも、必ず平和的手段によってのみ否定するでしょう。
 人質が速やかに解放されることを願います。我が国の政策が、人質と身代金という手段によって変更されることを望みません。その政策が誤りであったとしたら尚の事、そのような手段による変更を認めないでしょう。我が国の政策が変更されることを望むなら、その要求は今回の行為によって達成されるものではなく、変更の要求がテロルや戦争ではない手段によって提示されることを求めるでしょう。我が国の政府は我が国の国民を保護する責任を持ちます。国民もそうであることを望んでいます。そうであればこそテロルは認めないでしょう。そして、その選択は等しくその地においても共有され、実現されることを強く希求して止みません。
 その動機や思想が崇高であるならば、そのような手段を使わずとも、必ずや果たされる日は来るでしょう。それが崇高であるならば、或は我が国の政府もそれを支持し、その政策を国民が支持する日が来るかもしれません。しかし、それは今ではありません。今この瞬間、行われている行為は、動機や思想とは関係なく、その手段を以てのみ否定されることを望みます。それ故に、人質の解放を望みます。我が国は、その政策が誤ったとしても、平和的手段によって、国民の手によってのみ変更される国であることを望み、そうであることは国民からも支持されるでしょう。賢明賢慮な判断と事態の速やかな解決を祈ります。