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都知事選挙終わって

 「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」
 自己の生存を主張をすることは、生きとし生けるものの最高の法則である。この法則は、あらゆる生きものの自己保存本能として示されている。しかし、人間にとっては、肉体的な生存ばかりでなく、倫理的なるものとして生存することも重要であり、そのための条件の一つが権利を主張することなのである。人間は、自己の倫理的生存条件を権利という形で保持し、守るのであって、権利をもたない人間は獣に成り下がってしまう。(「権利のための闘争」イェーリング/村上淳一訳/岩波文庫/1987第9刷/P,49 ~50)

 民主主義のためには、すべての国民が教養ある自主的な人間として生活でき、生活のために自由や人格を、金力や権力に身売りする必要のないような経済的条件が必要である。自由や平等は、単に法律的、形式的に認められるだけでは足らず、ある程度まで経済的、社会的にも保障されねばならぬ。でないと民主主義は「金権支配」になってしまう。基本的人権は単に自由権だけではなく、同時に生存権を含むことを忘れてはならぬ。(「政治・民族・国家の話」/矢部貞治/講談社学術文庫/1980第1刷P.96~97)
 (略)
 しかし、ひとたび民主主義の憲法が成立し、国民意思の前に平和的な改革の扉が開かれているとき、国民の意思を無視しまたはそれに反対して、少数の独裁主義者が暴力革命に訴えることは許されない。民主主義では、目的のために手段を選ばぬということは是認されない。暴力と専制によって目的をとげようとすることは、そもそも民主主義の根本理念が許さないのみでなく、かりにそのような手段で、無理矢理にある目的を実現したところで、国民の多数が自由な心でそれを納得し理解しない限り、その目的は価値を発揮しないし、永続きもできない。それを無理に押しつけようとするから、そこにはテロとスパイの恐怖的権力政治が生まれるのである。民主主義はあくまで「人民による政治」で、たとえ「人民のため」と思ってやったことでも、自由な国民意思によるものでなく、一部の権力独占者によって押しつけられた政治は、どんなに強弁を弄してもやはり専制主義なのである。(同著P.101~102)
 (略)
 民主主義では、自覚を持つ個人個人が、改善と向上のため日常不断に主体的な努力を重ねてゆくことの中にこそ、救世主が宿っているのである。(同著P.104)

 (前略)すなわち、社会状態のあらゆる必要条件を十分に満たしうる唯一の統治は、国民全体が参加する統治であるということ、たとえ最小の公共的職務にではあっても、どんな参加も有益であるということ、その参加はどこにおいても、共同社会の改良の一般的程度の許す限り大きなものであるべきだということ、そして究極的にのぞましいのは、すべての人びとに国家の主権の分担をゆるすこと以下ではありえない、ということである。しかし、単一の小都市を超えた共同社会において、公共の業務のうちの若干のきわめて小さな部分にしか、すべての人が自分で参加することはできないので完全な統治の理想的な型は、代議制的でなければならないのである。(「代議制統治論」/J.S.ミル/水田洋訳/1997第1刷P.97~98)

 棄権も権利。それは違う。棄権とは権利の放棄であり、民主主義とは基本的に「全有権者」の「主体的」かつ「自立的」意思表明を以って、不断に努力し、また「相対的」に自己の政治的主張に沿った代議者を選び、またたとえその結果が自己の主張と異なるものであれ、協調と合議によってその実現を図る道を自ら放擲することはその根本の前提たる「主権の有権者への分担」を蔑ろにするのではなかろうか。
 また、ひとたびその主張が少数となることが明瞭になったとしても、それは尊重されるべきものであり、同時にそれは「協議」「合議」という妥結と前進を要請もするだろう。一切の妥協を許さないことは、即ち民主主義の代議制統治形態の否認でもある(矢部氏が革命思想の残る「社会民主主義」ではなく、民主主義に基づいた「民主社会主義」による階級対立の解消を求めたことも示唆的である。詳しくは前掲書)。

 都知事選挙の予想投票率が過去最低と目される中、いったい民主主義を求め、また保持するために不断の努力をする者が誰であるべきなのか、その努力は棄権や不投票という形で表すべきなのか。
 最も、票を投じたところで変わらない、というシニシズム、またはニヒリズムというべきものもあろう。たとえそうであったとしてもなお、そのような態度は「民主主義的」ではないだろう。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。(日本国憲法<前文>)

負け犬の遠吠え、または石原都知事とは何であったのか

石原都知事が新党結成を表明しました。

一都民としては彼の人格には非常に問題があり、また世界有数の影響力を持つ国の首都に戴く人物として適切であったか、という点については極めて懐疑的ではありましたが、さりとて、といったところです。

まず第一に、都民として彼を票を持ってして落とすことができなかったことはおろか、高齢を理由にした引退さえもさせ得なかった、という点について、率直に言って敗北した、と言わざるを得ません。いかに石原都知事に対する人格的・人物的問題があろうとも、その点については疑いようもありません。もちろん前回の都知事選に書いたように、過去の都知事選において、彼がその地位に就任して以降、対抗馬として勝ち得る人物がいたわけでもなく、また勝つための戦略を打った候補者もいなかった、ということはあると思います。

第二に、石原都政において、決して彼は(誉められた部分ばかりとは言いませんが)無能ではなかった、という点は挙げられると思います。美濃部都政によって極度に悪化した財政状況に対して、鈴木都知事がそうであったように(そして鈴木都知事は満足な成果を出さなかったとはいえ)、財政再建を掲げ、実際に一定程度の実効性のある成果を挙げたことは事実であり、それはまた都民自身が望み、選択したことでもありました。もちろんその過程で福祉政策のように反発がありながらも大きな削減の対象となったものはありましたが、反面それは美濃部都政における財政悪化要因の一つが福祉拡充であったことを考えると、是非もなし、といった面も否めなかったでしょう(もちろんこれについて全面的に賛成するわけではありません。過剰カットの部分があったことも事実です)。この「財政」というキーワードは東京都という経済圏にとっては相対的重要なもので、オリンピック招致における都民アンケートにおいて、支持の最大の理由が「経済効果」であったことなどもその一例とは言えるでしょう(自分は招致には反対ですが)。

第三に、今回の四期目は当初からあまりやる気が見られなかったという点があるにしても、長期政権がもたらした功罪として、宮廷政治とも揶揄される側近政治の側面と、主として二期目より本格化した有能な職員の人事異動による配転で自身が使い易いポジションにつけることでの、ある意味では実効性のある人事の実現、という側面もまたあったと思います。とかくキャッチフレーズ、アイキャッチ(メディアアピール)先行型の石原都知事にとって、このように動かしやすい、また意に沿って動いてくれる人事実現は必須のものでもあったでしょう。

第四に、第三とも連動しますが、とにかく「目に見える」訴求が一定の効果を挙げたことも否定できない点でしょう。カジノ構想や横田返還闘争にもあるように、第二の点ともリンクしますがある種の「経済効果」を訴え展開したり、またディーゼル車の排ガス規制についても(彼自身の事実誤認などもあったと思われるものの)、結果としてトラック業界自身から法規制に先立って自主的に規制に向けた動きが出てくる程度には効果を挙げたものでもあり、失敗したものも多々あり失政も多々あった反面、成果を挙げた「アピール」もあり、またその成果も割と「都民が求めたそれ(経済再建・経済活性化)」を訴求するなどの巧みさがあります(新銀行東京や築地移転は散々でしたし、尖閣購入募金なんてのもありましたが)。

石原都知事を是としない候補者が、その人間性・人格面、はたまた福祉の切捨てなどを批判の主対象にしたことに対して、石原都知事を支持ないし消極的にしても是とする中には、その極端な「日本的父性」だったり、また「タカ派的言動」だったりといったことを必ずしも支持していたわけではない人も多々いるように思えます。多くの失政や支持を得ない政策があった反面、都民の少なくない数が支持をする政策もあったわけで、対抗馬となるべき候補の多くはその「是」とされる政策に対して有効な対抗案または別案を提示してきたことはほとんど皆無と言って良いように思います。四選という事実を考えれば、彼に対して功罪で言えば功が「それなりに」評価されてきた結果、とも言え、その点においてその「功」の部分を突き崩すこともそれを「さらなる功(を実現し得るため)の提示」を行わなかったことも、その長期政権の延命に繋がった、と言えると思います。

また、罪の部分で言えば、しばしば「差別的」というにも言葉が易し過ぎるような差別発言を連発したかと思えば、アジア大都市ネットワーク構想(東京、デリー、クアラルンプール、「ソウル」)のようにその差別的発言の標的と、日本ではとかく標的とされがちな韓国を同構想に組み込むなど、一面的な差別批判では評価し切れない側面もあります。過去の言動を考えれば、彼が最大に嫌悪(ないし情念的差別感情)を抱いているのは共産中国ではないかとも思われますが、その意味では「民主韓国」「反共韓国」を対中政略上味方に引き入れようとするのは、それが打算であれ何であれ、ある面での「保守」政治家と言うべき側面があることも事実です。これは「保守」が差別的、というわけではなく、本来保守が「反共」として想定してきた対北・対中という、いささか古くなってきているとはいえ冷戦期からの伝統を、それなりに持ち合わせている、ということはできるかもしれません(だからと言ってその差別的言動を支持することは全くできませんが)。

また、表面的にはともかく、長期的に考えて石原都知事の経済政策は東京都という経済圏にとって必ずしも正の結果だけを残しているとはお世辞にも謂い難いのも事実ではあり、財政再建という一定の成果を挙げた側面と相殺、といったところかもしれません。少なくとも「都市圏」として考えた場合、彼の政策はいささか箱に頼りすぎた側面もあり、その結果が高層マンションの乱立と臨海開発の失敗(これは彼だけの責任ではないが)など、都市としての空洞化をもたらすようなものであった点もまた事実ではあります。

石原都知事が橋下市長と異なるのは、石原都知事は少なくとも「表面的な言葉で飾って実態がまるでない」橋下氏と異なり、それなりに「結果」を残しているものもある、という点でありましょう。しばしば見られる感情的言動や差別的言動は批判の対象として然るべきですし、自分としては彼の政策に対しては否の評価の方が多いくらいではありますが、四選出馬やその後の言動など、新党への願望を隠せないそれなど、彼自身がどちらかと言うと「素直に感情を示す(隠せない)」種の人間であり(都知事になる前からそうではあったが)、アクが強く非難される言動さえ、その種の言動の一環として見られがちであったこともまた事実だと思います。ある意味では政治家らしくない、とさえ言えるかもしれません。もっとも、それらもしばしばパフォーマンスであったりするわけですが。

そういった諸々を勘案すると、石原都知事を必ずしも是としない立場としては、三選目を許したことは失態ではありましたが(それでも二期目までの成果を考えれば、その功の部分の評価としては致し方が無い側面があったとはいえ)、四選目は明らかに蛇足でありましたし、結果としては四選目で落とせなかったことは大敗とさえ言えると思います。その意味で、彼と対峙すべき対抗馬を立て得なかった(担ぎ得なかった)、という点と、そもそも対抗するための戦略も戦術も存在させ得なかった、という点において、深く反省と自省が必要であるように感じます。Web上で何かを書いたところで何が変わるわけでも無いわけですが。

もちろん四期目を途中で放り出した、という点において「無責任」というのは易しいですが、東国原氏や橋下氏と比べれば、逆に三期やっているだけでも相当に「やった」わけで(内容ではなく期間として)、ましてや総理大臣が1年や半年でしばしば交代する期間、彼がずっと「都知事」在任であった、という事実はあるわけで、その種の批判は恐らくは新党の障害には成り得ないとは思います。また、国政という全国を対象とする場において、従来のように都政という相対的には小さいところでの結果がどこまで評価され得るか、という点は検討に値するとはいえ、逆に言えば従来と同様の批判を行っていても、そう大きな成果を挙げ得ないだろう、という現実はあるように思います。もっとも彼の新党がそう大きく飛躍するとも考えてはいませんが(それでも有象無象の新党の中では一定の票は得ると思います)。

さて、都民としては次の都知事選の動向が気になるところではありますが、個人的には現状の石原都政の延長政策が選択され落ち着くのではないか、という気はしています。個人的にそれを是とするかどうかは別の問題ですが。とはいえそれほど大きな変化を望むような空気は自身の生活範囲からは感じませんので。といっても閉塞感が漂っていることもまた否定できないようにも思います。ある意味では大きな停滞期に突入している、といった感じでしょうか。かくして、ミニ石原なのか似非石原なのか偽装石原なのかはわかりませんが、石原都知事ほどに個性も政治力(という評価でよいのかわかりませんが)もなく、大きな変化もなければとはいえ石原都知事ほどの成果もなく(同時に負も減るかもしれませんが)、そのような都政が待っているように思います。残念ながら。今のところそれに対して有効な何か、を見出せていません。

草の根、という言葉/@noiehoie 氏とCivil Action Japan

書こうかどうしようか非常に悩んだ末に、一筆。

Civil Action Japan の件。

いろいろ疑問なども出ているようだが、それは個々に解消されるか、納得できなければ寄附しなければ良いだけの話なので、それはそれ。
正直自分にとっては片山さつきもどうでもいいと言えばどうでもいい。どうせ世耕なども乗っかっているし、個人の問題では、当然「ない」。
不正受給問題を語るのに河本氏を持ち出す必要がないように、そこは瑣末な問題でしかない。
たとえば、電力行政全体を括る際、東電の対応、関電の数字、九電のやらせが、それぞれに風化していっているように、そういう個別具体的事例は全体の一部でしかないし、熱し易く冷め易く見たいものしか見ない、という点で、それほど大きな差があるようにも思えない。
個人的には小宮山氏の発言にあるように、社会保障費を抑えたい、という動機があって、それの格好の標的として、たまたまメディアにポッと出た一例をスケープゴートにしたに過ぎないし、片山氏の一連の発言からはどう考えてもマイノリティ排撃としか思えないので、実は彼女にとって生活保護とかどうでもいいんだろ、そこが攻撃できれば、とも思っているので、Twitterやらで生活保護の問題を語ることが、今回の件でどこまで意味を持つかも正直疑問はある(だからと言って黙るわけではないが)。
それらを踏まえた上で、「制度と運用の問題」というのは過去にも度々指摘されてきた問題であり、放置されてきた問題でもある、という点において、不正受給に纏わる生活保護制度の問題や、在日外国人の医療・年金の問題など、今現在新たに浮上した問題など皆無とさえ言える。問題が悪化はするかもしれないが、改善は見込めないだろう。
制度を厳しくすればより狡猾な人間ほどそれをすり抜けるわけで、貧困ビジネスなどをやっている人間からすれば、それは対応してくるだろうし、結果として支給が厳しくなれば構成比としての不正率は上がる可能性さえあるかもしれない。
少なくとも「制度と運用」に手をつけない限り、そこはどうしようもないわけで、制度と運用というのは、現状の仕組みを維持する限り「予算と人」の問題でしかない。受給者の問題ではなく、行政の問題、ということになる。
有史以来一度だって犯罪の消えたところはなく(犯罪の定義はまちまちだが)、それに対してどう対応するか、が依然として、そしてこれらからも法と運用の問題である以上、同様のことは言えるだろう。
ケースワーカーがパンクしてるなんて話はずっと前から出ている話であって、厳しくしようとすれば一人当たりの対象数を減らすしかないわけだが、それをやるには増員するか対象者を放逐・排除していくしかない。
単純な割り算の話で分母(受給者数)を小さくするか分子(ワーカー数)を大きくするか、それだけの話。
で、そんな問題は河本氏を吊るし上げようが片山氏を袋叩きにしようが、何も解決しない。
何故解決しないかは簡単で、どっちも「制度と運用」の問題に目が行っていないから。
就労所得との差分支給だって同様。
でも現実には既に機能不全に近い状態のところも多いし、金の問題に至っては地方負担分の問題で、財政基盤が弱いところで対象者が多ければ、それだけで破綻する。
破綻するから制度を厳しくして、破綻しそうもないところは多少緩くして、というのではそれだけで十分に「不公平」なわけだが、そういう話にはちっともならない。
なるわけがない。個人の行動の問題はそれに対しては瑣末な問題でしかないにも関わらず、あたかもそれが制度の問題ではなく人の問題であるかのように取り扱えば、制度の欠陥など見る必要もない。
「不公平と誤魔化しを許さない」というのであれば、そういうネコ騙し、目晦ましこそ許してはならないわけだが、現状ではそういうネコ騙しが手っ取り早くメディアに出て支持を集めて正義を主張するためのツールになっている。
その現状こそが、今回の行動の原点ではあろう。その意味で、「反片山」といった領域の問題ではない。契機と本質はイコールではない、ということだ。

のいほい氏は面識もあるし、趣意文には自分なりの考えで一か所事前に訂正さえ入れさせてもらったこともあるが、それさえも個人の問題であって、主眼とするところはそこではない。
そもそものいほい氏とだって意見が対立するものもあれば、同意できるものもある。それは当たり前のことであって、だからどうした、という話でもある。
趣意文自体にも疑問やらがある人もいるだろうし、それはそれで問い掛けるなり、反対であれば別のやり方もあろう。
誰もが彼に乗っかれば良い、というわけではないだろうし、乗っかれないから自分なりのやり方を模索する、というのもあるかもしれない。
現状300万円を大きく超えた寄附が集まっているとのことだが、その多くが小口寄附であろうと考えると、一体どれだけの人が寄附したのか想像もつかない。
それぞれが問題にしている点は相違もあるだろうし、総論賛成各論反対、そういうものもあるだろう。
しかし、自分にとってはそれもどうでもいいように思える。
新聞広告に意味があるのか?そう問う人もいるだろう。
しかし、新聞広告には意味がある。
それはネコ騙し、目晦ましをそのまま垂れ流している「不公平と誤魔化し」の片棒がメディアにもあるからであって、それだけでも十分に意味はあろう(実際の広告の表現がどうあれ)。

一方で、自分の中では300万円という数字が出たことで、既に一つの意義は達成したのではないか、とも考えている。
これはまったく個人的なもので、のいほい氏がそう思ってはいないだろう、というのを承知で書くわけだが、300万円という数字、これ衆参の比例を除く、あらゆる選挙の供託金の額をフォローできる数字なのだ。
国会の小選挙区であれ、都道府県知事であれ、この数字があればとりあえず供託金を納めることはでき、納めることができるということは立候補が可能、ということでもある。
もちろん選挙には供託金以外に、いろいろなコストがあり、とてもそれだけで選挙運動などできるものではないのだが、もし仮に真に支援するに足る人間がいた場合、それを既存の何等の仕組みに拠らず、選挙に送り出すことができる、ということの持つ意味は、もっと大きく考えていいものだと思う。
活動家、運動家、いろいろな呼び方もあるだろう。
しかし、今回はのいほい氏に対して普段は反対的立場の人間でさえ、寄附をしている例がある。
イシューの設定さえ賛同されれば、これだけの力がある、という点において、実は今回既に一つの分岐点を超えているのではないか。
そう思えてならない。
市民運動という名の、既存団体による疑似「草の根」運動から、より実態的意味での草の根の運動、というものが生まれるとしたら、この可能性は一つのそれではないか、と。
もちろんこれは重大なポピュリズムの弊害をもたらす可能性さえあるものだが、勝ち取った民主主義というものが存在しない日本において、今回の運動の持つ意味というのは、今回の運動そのものに対しての賛否を問わず、その意味を考えてみても良いのだと思う。
今回の数字は、のいほい氏が自身のネットワーク、人間関係だけに依存したものでは、既になくなっている、という点を忘れない方がいい。

P.S.個人的に寄附先を明らかにすることはしていないので、自分がどうしたか、についてはここでは触れない。それは個々で判断し、したければすればいい、したくなければしなければいい、それだけのことだ。

それでもおそらく橋下市長への支持は大きくは変わらない

「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」
「関西だけでなく、日本全体の電力供給体制の問題。関西も自分たちで十分にやるが、関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」

これは橋下市長の言である。
過去に「原発は無くても電力は足りる」「関電が隠している電源がある」と発言してきた人間と同じとは思えない豹変ぷりだが、軌道修正の気配は少し前から出ていたので、今さら驚くには値しない。
実際問題、大飯原発を動かそうが依然として電力供給量は綱渡りの状態であり、動かさなければ大規模な供給不足に陥ることは目に見えている。

これは過去の言動の変遷をざっくりとまとめたものだが、これを見て「スタンスの変化」を感じる人は多いだろう。
一方で、冒頭の発言にもいくつかのレトリカルなポイントがあることは注意しておいた方がいいだろう。
まず「新しい電力供給態勢」というものが何かを明示していないので、これが「新エネルギー」を指すのか、「原発再稼働」を指すのか、単に「発送電分離」を指すのか、定かではない。
逆に言えば、結論と行く末がどうなろうが、彼のこの言葉はそのいずれの場合にも「必要だ」という言葉で受容可能で、巧妙でさえある。
次に「関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」という言葉だが、そもそも関西の供給不安はその原発依存度の高さもあり、前々から指摘されていたことでもある。
従って、全般の供給安定に努めるべき政府の責任も大きいわけだが、「日本の危機」という表現は、過去の政府の決定不能状態を作り出す一因でもあった橋下市長自身のアジテーションを、「関西だけの問題じゃない」として免責することでもあり、また「関電の電力隠し」だったり、はたまた「既存電源の過大な供給見込み」だったり、そういった諸々の判断ミスを「日本の問題」として自身の権限・判断の範囲外に置くことで、この夏にいかなる事態が発生しようとも、自身は何一つ責任取らずに済む、これもまた巧妙な言い草でもある。そも「日本全体」の問題であれば「一市長」如きがどうこうできるわけではない、という訳だ。
そしてどのような結末が訪れようと、「政府の決定」「政府の判断」であり、彼にとってはその内容はどうとでも批判できることになる。
そもそも彼が提唱する「稼働を認めるための八条件」なるものが「衆院選に向けて」であると断言しているわけだから、稼働すれば電力が足りようが「政府は自分の意見を聞かない=地元を無視している」であり、稼働せずに電力不足に陥れば「わかっていて対策を取らなかった政府が悪い」となるわけで、どう動こうが政府としては失点にしかならず、支持率低迷の折、政府としては「いずれが致命傷になり得ない傷で済むか」という、とても損な役回りを橋下市長によって与えられている、とも言える。

さて、この無責任にも見えるスタンスの変化だが、恐らくこれは上記のようにどう転んでも相手に得点を上げさせないやり方であり、その意味では橋下自身は実は失点が少ない。
言動のブレによって支持が大きく落ち込むことは恐らくないだろう(もしそうであれば「10,000%出馬しない」「20,000%有り得ない」と言い切った彼を当選させることなど有り得なかっただろう)。
ここに根深い問題もまた垣間見える。
まず、橋下市長が府政時代に行ったとされる「大阪府の黒字化」であるが、これはあからさまな会計操作によって行われたことは既に検証されており、黒字宣言をした後にこれが発覚すると、彼は臆面もなく「粉飾」と言い放ち、自身の責任ではない、というスタンスを取ることになった。成果が出れば自分のおかげ、それがなければそれは担当者ないし関係者が悪い、この手法は府政時代から一貫しているため、今回の夏においても、恐らく上記の通り、同様の言説が飛び出すことになるだろう。
そして、その府政の結果をもって市長に移り、府政の結果が架空のものであったにも関わらず、現在に至ってもその支持が大きく揺らいでいるとは言い難い。
彼自身が最も誇り、改革の象徴とさえ言えるその結果があからさまな「偽り」であったにも関わらず、である(最も、基金からの借入とその借入を返済しないことによる黒字化は、橋下市長が府知事になるかどうかに関わらず、それだけであれば達成されていただろう、という分析も成されている)。
彼の改革者のイメージは多分にメディアの影響が強いものではあるが、自身がそう強く印象づけるようアピールしていることもまた事実ではある。
その際、最も重要なことは「手ひどい失点を出さない」ことであり、また些細なこと、架空のものであっても成果は強くアピールする、ということでもある。
彼の言説は、長期で追いかけてみればブレているか、場合によっては180度正反対のことを言っていることさえあるわけだが、少なくともこの原則には忠実である。
いわゆるポピュリストとは、いささか異なる点もあるのはここの辺りであろう。
彼は「府民」「市民」「国民」といろいろな言葉を使うが、必ずしもそれに阿っているわけでもない。
むしろ、彼の言動にその都度、支持し得るような「府民」「市民」「国民」を幻想的に見せている、という方が正しいかもしれない。
彼にとって個別の政策はさして大きな意味を持たないのはこの辺りにあり、だからこそ言動がブレようが180度反転しようが、それが大きな失点にはならず、むしろメディアの即時性をのみ求める報道姿勢を増幅装置として、彼のイメージはより一層「改革者」としての印象を強めていくことになる。
例えば上記のこの夏の電力供給に関しては、彼はどう転んでも自身の「直近の」言動ではうまくフォローされているため、引き続き脱原発派の支持も一定程度は得られるだろうし、仮に再稼働すれば、場合によってはそちらの方面の支持を取り付けることさえできるかもしれない。最悪でも再稼働しながら反対スタンスを取り続けることで脱原発派の支持はある程度引きとめられるだろう。
同様のことは日の丸・君が代の斉唱を巡る対応や、職員の喫煙や刺青の問題など、どちらかといえば全体の問題から見れば瑣末で、且つ目に見えてアピールしやすい問題に関しては積極的である。これは、それらを支持する比較的相対少数の支持を、その一点の問題だけで取り付けることができる点で、彼にとっては非常に都合が良い。
しかし、彼が最初に教育改革、教育非常事態宣言を出した時、「PTAを解体する」「府教育委員会も指導を聞かなければ解体する」と言い放ったわけだが、PTAについては有耶無耶なままであり、教育委員会に至っては、彼らに「日の丸・君が代」対応を行わせることで得点を上げさせ、あまつさえその斉唱の業務命令は「教育委員会」が行っているのだから自身は関係ない、といった風の言動さえしている。
恐らく、彼はこの業務命令遂行をもって、そもそもの教育非常事態宣言の発端となった、全国学力テストの低迷など、その原因とさえ指摘した教育委員会については今後触れない可能性もある(ただし同テストは意味がない、とは言うかもしれないが)。
派手に敵を作り、相手を脅した上で、相手が飲める問題を与え、それをもって最初の論点のスタートは有耶無耶になる、というのは非常に巧妙で、少なくとも大阪で橋下市長を支持する人の一定数は、当初の学力低迷に対する教員側への態度「ではなく」、国歌・国旗の問題によってその教育への姿勢を支持している。彼の教育という問題へのスタンスはこの程度であり、本来はより問題となるべき学力の問題などはどこかへ飛んでしまっている。
恐らく公務員に対する姿勢も同様の展開を見せるだろう。当初大阪で橋下市長が支持された理由の一つは、財政に加えて公務員の怠惰・怠慢だったはずだ(少なくともこういう話で支持をしている、という市民の声は何人かから聞いたことがある)。
しかし、現在それに対して耳目を集めているのは喫煙や刺青の問題であり、それは本来的にはその職員がいかに市民サービスをその職務に沿って行っているか、という点とはあまり大きな結節点を持たない。
刺青のある職員は報道によれば100人程度はいるとされているようだが、そもそも大阪市の市職員は2011年4月現在で約38,000人である(予め断っておくが、これでも05年の48,000人弱から10,000人程度削減されている)。
たかだか100人程度を分限免職したところで、当初批難を浴びせた「働かない職員」という存在が仮にあるとしても、そのごくごく一部であり、分かり易いスケープゴートであるとは言える。
「民間では許されない」と言う言い方もされているが、この「民間では許されない」も都合の良い方便でしかないだろう。
しかし、この「目に見える(まさに刺青は場所によっては目に見えるわけで)」生贄を切ることで、彼は公務員の「非常識」を改革した改革者として、また一歩そのイメージを強めるのであろう。
そこには「別に免職する必要もないし理由もないし、本質的問題とは関係ない」から放置されていた、ということは、この際はどうでもいい話になっているのである。

彼はファシズムを捩って「ハシズム」などと呼ばれることがあるが、これは当たってもいるが外れてもいるだろう。
少なくとも、彼が何らかの思想や哲学に類する何物かをもって政治に当たっている「わけではない」という点で、ファシズム(この場合はナチズム、だろうか)とは異なるとは言える(そうであれば主要命題に掲げた問題をこうも簡単に転換したり有耶無耶にしたりはできないはずだ)。
一方で、その手法に限ってみれば、ナチスが行った手法と近いものがある。
それが上記に示した一連の事例であり手法だ。
ナチスが経済低迷やそもそもの第一次大戦の敗戦理由の要因として、ユダヤ人の存在を論ったことは周知の事実だが、そのユダヤ人(ユダヤ系ドイツ人)と呼ばれる存在は、人口の僅か1%に過ぎなかった。
その1%に対して、問題の責任を被せ、目に見えるようその存在を可視化し、抹殺した、という点において、例えば100人の刺青職員の分限免職の問題などは丁度当てはまるとは言えるだろう。もっとも職場から放逐はするかもしれないが、さすがに抹殺はしないだろう、という点は異なるわけだが。
「虚構のナチズム」によれば、反ファシズム教育の一環としてヒルデ・シュラムが、1930年代のユダヤ人のドイツ国内人口がどの程度の比率だったか、を生徒にアンケートしたところ、多くの生徒が約3割という解答をした、というレポートを書いている。(同書P.28参照)
生徒は当然、ドイツでは当たり前ではあることだが、このアンケートの前にも様々なホロコーストに関する情報を得ているにも関わらず、である。
この書籍にはそうとは書かれていないが、これは逆説的に言えば「それだけ脅威とされたのだから、それなりの数がいるはずだ」という印象を持っていることを示していると言えるだろう。この不確かな先入観は在日排斥問題などにも見られる傾向であるが、もう一回転させてみると、「問題の象徴」として提示されるそれを、いかにも人間は過大に見がちだ、ということでもあるだろう。
この先入観のバイアスは数量的問題に限ったことではないと考えられるし、だからこそ「最初に大きな問題を提示」して、その後に問題の本質とはあまり関係のない要素を、あたかも象徴的に過大に見せる橋下市長自身の手法を、それを支持する受け手の側が、「それで問題が一歩解決に進む」と「過大」に評価する傾向と、無関係とは思えない。
橋下市長の言動は、この点で「些細な問題をあたかも大きな問題の象徴のように持ち出す」という手法と、「自身は決して失点を行わず、可能であれば相手が必ず失点するように仕向ける」という点で、確かに喧嘩は強い、とは言えるだろうが、少なくとも大阪においてこの手法によってもたらされる「結果」を市民が(または府民が)支持する間においては、原発に関する言動の変遷は、決して失点とはならないだろうし、また彼の支持を大きく落とすことはないように思える。
そして、それだからこそより深刻に考えなければならないのは、以下の点であろう。

「ドイツ人」であることの誇り、社会的な連帯感、等々を、単なる精神主義のスローガンにするのではなく、実生活の手応えに根ざした理念として、まさしく実感として人びとにいだかせたことこそが、ナチズムの本質的な魅力だった。(同書P.14)

と書かれている通り、ナチズムも、そのイデオロギーの少なくない部分は、必ずしも教条的ではなく、妥協的またはそれに反するものさえ黙認してさえも、その権力維持と支持獲得に腐心していたわけだが、ここに書かれているのは、そのスローガン的代物への支持が、初期の生活安定と経済成長に支えられたものであったことを受けての記述である(ナチス時代のプラス評価での回顧がしばしば戦争の惨禍を上回る印象として、生活安定と経済成長故に「あの時代は良かった」と回想される傾向があることを受けての記述)。
しかし、橋下市長には、生活の安定や経済成長といった果実を、その支持基盤に成り得る層に与えることは、恐らくできないだろう。その意味ではこのナチズムの魅力というものが橋下市長には決定的に欠けているものでもあり、恐らくは現状では手に入らないファクターなわけだが、これを「実感」という部分に絞って考えると、また様相は変わってくる。
例えば、彼がこの夏に電力供給がどのような結末に陥ろうが、「節電に”協力”した」という「実感」は残るだろう。また協力した、という実感を通じた”連帯感”さえ醸成される可能性がある(昨年のヤシマ作戦トレンドを想起されたい)。
問題解決が行われたか、実際にそれがプラスだったのか、という「実態」ではなく、自身が望むことに関する「実感」が支持の源泉であると仮定するならば、確かに愛国者的なそれには「斉唱を行わせる」という「目に見えて達成感が得られる」点で、また怠惰な職員に対するそれとしては同じく「業務命令に従わない教員の排除」や「喫煙職員、刺青職員の排除」という「目に見えて達成感が得られる」点で、些細ではあるかもしれないが、その支持者の支持理由に対しては「実感」も得られるだろう。
ナチスの政策・イデオロギーがしばしば支離滅裂だったにも関わらず、この「実感」があったことが大きな理由であったと仮定するならば、少なくともその点で橋下市長は「実態は別」としても、目に見える「実感」だけは与えていることにはなる。国旗・国歌の問題や公務員勤態の問題は、これは実生活の手応えとは到底結びつかない問題であるが故に、実際のところそれほど大きな支持拡大にはつながらないだろう、とも考えていたのだが、この夏の電力供給に絡むそれは、「節電がんばった」という「実感」を「実生活の手応え」として得られる可能性があり、それを仮に橋下市長が自身の成果として主張し始めた場合、いささか国政レベルでの危険を増す可能性が強まるのではないか、と感じている。
冒頭の電力供給に関する発言の変遷や、その次に書いた財政再建や教育に関する態度・問題点の変遷など、その変遷の過程をいくら提示しても、恐らく彼とその支持者には大きな意味は持たないだろう。彼らにとって必要なのは、「結果」であり、その結果は実態とは本質とは無関係なところでの「実感」である可能性は、現段階では決して否定できるものではない。
だからこそ橋下市長は引き続きある程度の支持は得るだろうし、恐らくはこの夏に関西の電力供給で何が起きようが、それは大きくは変わらないだろう。
むしろその事態を逆手に、その支持を高める可能性さえある。
少なくとも今回の「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」という発言には、それだけの要素を十分に担保している。
橋下市長は、民主党とは異なり、発言の変遷や方針転換に当たって、それだけ周到でもあり、また意図的に行っている、と考え、警戒しておく方が良いだろう。
特に彼を支持する人にとっては、彼の行動、言動が「当初の支持」と合致するものなのか、また彼が誇る成果が果たして「もともと必要として求めたそれなのか」という点について十分過ぎるほどに警戒し、慎重であった方が良いだろう。
そして、もし彼が国政で、首班にでもなることになれば、その時は「エゲツない、またそのエゲツなさと支離滅裂さを巧妙に隠す民主党」のような存在になりかねない、という点もまた、十分に留意しておいた方がいいように思える。
少なくとも今までの経緯から考えて、関西でいかなる事態が生起したとしてもそれが橋下市長の支持を大きく落とすことにはならないように思えるので、そこのところをこの夏に期待するのは、電力供給の如何に関わらず、失望するだけだろう。

※蛇足だが、橋下市長は09年選挙時には民主党支持傾向にあった、という点も頭に入れておいた方がいいだろう。今の叩きっぷりとはこれまた180度異なるのだから。
※自分個人としては彼の政策・言動に対して「ハシズム」という用語を充てることを適当とは考えない。そのような「思想的雰囲気」を与えることは、彼を過大に見せることに加担するように思える。
※それでも市民や府民、国民が彼を選ぶのであれば、それもまた一つの選択ではある。

原発に対する姿勢の難しさ

公害問題のむずかしさは、突きつめて考えれば、だれでもが被害者であって加害者でもある、という相互背反的二面性が随所にみられるところにある。自動車に乗る者はすべて排気ガスの共犯者でもあるといった関係が、そこにはつきまとっている。ちょうど現在の私たちの政治的自由がぎりぎりのところでは日米安保体制下の軍事的暴力によって世界状況の「暴力の海」から匿われているように、私たちの今日の経済的福祉は、日本の高度工業機構のメカニカルな、したがってまた「自然破壊的」な動きに支えられている。私たちは現憲法体制下の政治的自由の空間の中に呼吸しながら、その軍事的暴力的基底を全的に否定することはできない。それと同じように、私たちは今日の工業文明下の経済的福祉を享受しながら、その「自然破壊的」メカニズムを全的に否定することはできない。そういうジレンマを、私たちは私たちの限界状況として生きているのである。(「例外者の社会思想 ‐ヤスパース哲学への同時代的共感‐」武藤光朗著、創文社刊、S58/222頁~223頁)

この文言は原発問題にも同様のことが言えると考える。電力という全体で考えれば誰もが加害者であるだろうし、また全国に散らばった原発というものを考えれば被害者でもあり得る(東京で放射能の影響が懸念されたが、実際時間軸と被害規模の大小を考えなければ、決して懸念レベルではないはずだ)。ヤスパースが核兵器と収容所の実存的ジレンマに対して「原爆と人間の将来」で考察したアンビバレンツなそれを「最終的には、ただひとりの個人によって、原子爆弾の使用が決定されなければならない危機的瞬間が、おそらく突然に、やってくる可能性がある。他のもろもろの可能性に対しては、もう後の祭りである。」(前掲書184頁)と述べたように、それは突然の破局を内包するものとして考えられよう。
収容所の恐怖がナチスのそれに留まらず、またソルジェニーツィンの指摘からもさらに水平化し、また垂直化して、ベトナムにおける政治犯の、ポル・ポト派による大量殺戮へと展開したように(ナチスのそれがある種のシステマチックさを備えていたのに対して、ポル・ポト派はあの大量虐殺を鉈などで行い、またそれはルワンダでも繰り返された)、原爆のそれもまた、より原子力発電という、より日常へと水平化・垂直化した形で世界へと拡散し、今回の福島原発の破局を齎した、と言える。ただし、その破局は日本へと原発導入を推進した中曽根康弘という、ある意味では「ただひとりの個人」あるいは正力松太郎らを含めた「ごく少数」の積極性が、ヤスパースの言う「原子爆弾の使用」決定という意味合いを持ち、原爆と原発の構造的システム的相違は別として、「放射能」という意味での破局としては遅滞して発生したに過ぎない、とも言えるかもしれない(もちろん被害の程度、様相は核兵器使用時とは異なる)。あるいは決定の「瞬間」とそれによる「破局」の時間差故に、「核の平和利用」という名目が成り立った、とは言えよう(場合によっては被害が生じるのは永続的未来のこととして想定し得るからだ。実際に存在したかは別として、喧伝されている安全神話のように)。
中曽根氏が原発の導入を推進した際(決定した際)、そこに核武装への意識があったかは分からない。少なくとも同氏は過去には「日米安保の破棄に備えて核武装を検討すべきだ」という趣旨のことを言った形跡があり、また昨年1月には「日本が核(兵器)を持たないでいくという政策は非常に賢明な政策」とも述べている(発言時期として、福島原発の事象後に広がった「核武装」を目指して原発を導入したのだ、という言説に対するカウンターとしての発言ではない)。従って、原発=核武装という論はひとまず除外するとする。

話を転換して、ツイッターとデモ実践者の間における認識の相違について考えてみる。
しばしばデモ実践者(これは活動家とイコールではない)がツイッター上での批判は現場を見ない空論の批判であり、運動はさらに先を行っている、と言う指摘が成されている。
一方で、ツイッター上での言説においては、しばしば福島県民を例として、それを代弁するかのように「デモは被災者のことを考えていない」という言説も成されている。
この相違は、主としてデモが「広汎に市民を巻き込む」ことをもって、そのポリティカルな主張を「実践」の場で実現しようとしているのに対して、ツイッター上でのそれに対するカウンターは、主として「玉」の取り合いとして為されている節がある点で、そもそも位相が違うのだ、とは感じられる。
もちろん両者のどちらにも被災地の人もいれば、そうではない人もいるだろうし、それに対しての自分の見解の表明が、極めてポリティカルなものになるであろうことは理解している。
その運動・言動の中に「弁証法的理性批判」で描かれる「同胞性(友愛)=恐怖(テロル)の弁証法」を見出すことは、ある意味では容易いのかもしれない。

裏切り者と推定されるか、あるいは本当に裏切ったメンバーに対する死刑宣告が、集団の永続性を確保するための「正当な暴力」として、「各人に対する全員の絶対的権利」となる。(中略)裏切り者はあくまで集団のメンバーとして、つまり同胞として、抹殺されるのであり、集団はそうすることによって自己を再構成する。(前掲書114頁)

これは左翼の内ゲバ傾向を念頭に置かれた言葉だが、しばしば「福島」「被災者」と引き合いに出されるそれが、他者との対地における自己の「正義」と、それを確認するための集団(これは特定の集団でも固有的なものでもなく、時間的瞬間的集団である)の再構成作用を果たしていないと言い切ることはできないだろう。
それは時に「御用学者」の炙り出しであったり、また運動内の「トンデモ」批判をすべきか否かであったり、また「運動が被災地のことを考えていない」という言説であったり、様々な形を取って表れているように思える。
もちろんトンデモ言説を容認したり、はたまた金銭によって科学的知見を捻じ曲げることがあるべきだとは考えないが、一方で、その批判行為がそれ自体として自己の再構成に資する形になれば、容易に「同胞性=恐怖」の陥穽へと落ちるようにも思える。原発を推進するのは国民ではない(≒市民の側ではない)といった形の批判もまた、市民社会(または国民国家)の同胞性がもたらす恐怖を内包している可能性もあるかもしれない。
もちろん利権的、または構造的問題が無いとは決して言えないだろうし、それへの批判は当然為されて然るべきものだと考えるが、一方でベニィ・レヴィが言うところの「革命の観念がテロリズムの観念と一致してしまったらおしまいだ。」(前掲書115頁)と言う指摘もまた、念頭に置かなければならないように思える。
フランソワ・ポンショーが述べるところの「この全面的粛清は、何よりも、人間に対する特定のヴィジョンを実行に移したものである。そのヴィジョンとは、腐敗した政権によってスポイルされた人物を矯正することはできず、そうした人たちを、純粋な同胞の中から肉体的に除いてしまわなければならない、というものである。」(前掲書145頁)という言葉もまた、レヴィの指摘をより実際的に表したものだろう(これはカンボジアにおけるそれを指摘したものである)。
この「腐敗した政権によってスポイルされた人物」のところに、「東電」でも「政府」でも「学者集団」でも「トンデモ」でも、あるいは「福島の農家」でもなんでも代入することは可能だろうし、「肉体的」除去と言わぬまでも、「社会的」抹殺をし兼ねない状況を齎すべきではないだろう。
再びレヴィの言葉を借りるならば「透明な国家、ガラスの社会、絶対的な光明の世界を作ろうという企て、それが全体主義国家の最も恐るべき定義だ」と言う、ここに表されたそれは、法的人格(社会の中における個人)を捨て、全く権力の前にむき出しに晒すことの危険性の指摘でもあるだろう。東電の役員を死刑にしろ、あるいは福島の農家は殺人者であり敵だ、といった言説の中に、自分はそういったものを見出してもいる。そのような言説は権力者たる個人の前に、相手をむき出しにして晒し、攻撃する行為であるように思えるからだ(法犯は別の問題である)。
「カンボジアには収容所も刑務所もないのです。どんな罪に対しても、罰は死しかありません。異議を唱える人物は、この社会に加わりたくない人間だ、ということになるのです。そして、この社会に加わりたくない者は、誰でも撃たれるべきだという考えなのです。赦されるということはありません。」(前掲書146頁)というカンボジア難民の言葉が、まさにそういった状況を表しているのではないだろうか。
このような状況において、上記に代入され得るようなその全てがあたかも社会的状況によってスクリプトされているかのように振る舞う言説それ自体が、恐らくは危険性を孕むものであって、「国民」あるいは「社会」という全体集団の中における特定の小集団が、一定のアイデンティティを帯びる時(社会的位置づけを持つ時)、その小集団に属するもの全てに一定のスクリプトを強制する作用を持ちかねないだろう。

実際はそういった単純なものではなく、より複雑で混沌とした状況において、個々人の立ち位置は非常に多様であるだろうし、実際に扱うべき問題が冒頭に述べたような根源的問いとしての相互背反的二面性を持っている以上、極めて難しい問題であるだろうし、その中で両極から広がるグラデーションの「何処を自己の主張として採るべきか」という問題にもなるだろう。
もちろんどの立ち位置を取ろうがそれはポリティカルなものだし、また傍観的現状追認主義も同様にポリティカルなものなので、その意味でのノンポリは「在り得ない」わけだが、それはあくまで「ポリティカル」であることであって、「踏み絵を迫る」ものであってはならないだろう(それに対して「問題と向き合え」と問うことは踏み絵ではないが)。
よく使われる「当事者の前でそれが言えるか」という言葉は、自分も嘗てはよく使っていた言葉でもあるのだが、少なくともそれが「自己の主張」というものを「当事者」というものを盾として、あたかも袞竜の袖に隠れるが如き振る舞いであることに気付き、それ以来極力使わないようにしている。
もちろん当事者を前に「当事者のことを考えていない」と批難した挙句に、当事者だとわかった瞬間「お前らは郷里に砂をかけている」と恥じることなく言えるような言説が、真っ当なものだとは到底思わないが、それは個々人が突き付けられる問題であって、他者が当事者を盾として持ち出すものでもないように思える。

「私は、私の立っている場所で、みずから決断すべきである。無数の個人の内面にこのような転回が起こるのでなければ、破局は避けられないだろう。」あるいは「人間は彼が自分について知っている以上のもの、また知りうる以上のものなのです。」とはヤスパースの言葉であるが、それぞれの主張・行動に対して、それ自体への批判はあったとしても、その全人格を否定すること、または法的ペルソナを踏み越えて、他者の内面の闇(あるいは闇の中に生じる光)に踏み込むことは、一抹の不安を感じざるを得ない。
自分は自分として、原発の持つジレンマの中で何らかの答えを出すだろうし、またそれは時にグラデーションの中で動くこともあるだろう。そしてそれは時に批判もされるだろうし賛同されることもあるかもしれない。
しかし、その答えは「私は、私の立っている場所で、みずから決断」していくだろうし、仮にも「被災地」「被災者」を代弁したり、またそれを総体として忖度することは、できるだけ避けたいとも思う。
自分の「良かれ」が当事者にとって「良かれ」であるとは限らないし、また当事者の「良かれ」が別の当事者の「良かれ」であるとも限らないのだから。
その上で、だからこそ、あるものには批判も加えようし、またあるものには賛同もしよう。それは「みずから決断」として。
あまりできてはいないかもしれないが、だからこそ自覚して。

例外者の社会思想―ヤスパース哲学への同時代的共感 (1983年)