カテゴリー別アーカイブ: 東日本大震災

2年

あれから2年。
忘れない、忘れまい。
では何を?
「あれだけ節電したことを」?
「たくさんの死者が出たことを」?
「原発事故があったことを」?
 
追悼も大事だし、犠牲者や被災者、救援者にボランティア、多くの人のそれぞれの物語があり、それは今も続いている。
それぞれにそれぞれの「忘れない」があり「忘れまい」があり、同時に「忘れたい」もあるのだろう。
 
こういう日だからこそ「馬鹿騒ぎしたい」という気分の人もいるだろうし、「静かに弔いを」という人もいると思う。
 
いろいろと思うことはある。
考えなければいけないこともある。
区切りがつくどころか問題山積であることもまた、事実だろう。
 
しかし、こういう日だからこそ、それぞれの思うように過ごし、思うように意識するのが、良いようにも思う。
「こうでなければならない」
「こうあるべきだ」
あの党は、この党は、あの首相は、この議員は、はたまたあの国は、この国は。
いろいろ飛び交ってはいるものの、被災地・被災者・避難者、そしてそこへの視線、またそこから問われる言葉。
それこそが、今日という日の、それぞれの意味なのだろうと思う。
それを当事者が、第三者が、どう感じるか、を含めて。
 
自分には何ができたのか。
自分は何をしてきたのか。
 
2年は短いようで長いようで、それでもやはりそれぞれの時間として、確実に過ぎてきた2年である。
3年経った時、果たして何がどう変わっているのか、変わっていないのか。
それを考えられるのは生者にのみ与えられた機会だ。
その機会を生かすも使うも、それぞれの内にある。

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原理主義になれない原理主義的何か

脱原発運動の当初において、比較的大きな声は「怖い」という根源的心理的ものであったように思う。経済性に対する欺瞞や安全管理に対するあまりの杜撰さに対する批判もあったが、やはりその根本は「恐怖」ではなかったろうか。いわゆる「危険性」への問い、という声と言える。
オスプレイを巡る一連のそれも、また「危険性」への問い、ということはできるように思う。その当初段階においては、であるが。試験飛行段階から実戦運用段階へと昇華する過程で格段に安全性が向上したとも言われるが(そうでなければなかなか大量配備には至らない性質のものでもある)。
その意味で、両者とも根本としては同じ根っこを持っているように思えないでもない。が、しかし、と思うこともある。このどちらもが、付随する様々な問題(原発では廃棄物や耐用年数超原子炉の廃炉、オスプレイでは米軍基地の存在そのもの)を巻き込み、当初叫ばれた「危険性」というものはいささか雲散霧消気味であるようにも思える。特に後者においては「安全性は関係ない」とまで言い切る反対運動となり、前者においても「安全性」という問題はある種置き去りで、どちらかといえば「何があろうと存在を許さない」といった趣がある。
この当初段階の「危ないから」という性質のものは心理的には非常に理解できるものではあるが、一方で今となっては「危ないかどうかは関係ない」となってしまうと、果たしてそれは理解され得るものだろうか、という点は疑問もある。「最初に声高に叫んでいたのは何だったのか」という問題が自然と生起されてしまうからだ。もちろん様々な複合問題が持ち上がるにつれて、主問題が別に移る、ということはあるだろうが、さりとてそうであったからといって当初の問題が、本来は「消えてなくなる」はずはない、のが本来の問題であろうとは思う。
「危険だから」という問いがいつしか「危険かどうかは関係なく」に変容していく過程で、少なくない人が「その問いは正しかったのか」という点に疑念を抱く可能性は決して少なくないだろうと思う。そして、その結果として、半ば「原理主義」と揶揄されたり、または「為にする批判」と嘲笑されることさえあるのも、また理解できない話ではない。心理的受容のされ方として、の問題ではあるが、当初の問いかけが多分に心理的性質のものであったればこそ、尚の事。
どちらも「事故」の問題、とすれば確率論に類するものとは言えそうな気がするが、そうであれば、単純に事故発生率とその際の被害予測を以って、それが確率的事故発生率に見合うものかどうか、それは日常的に導入するに足るだけのリスクに留まるのか、という点はもっと問われても良いように思うが、残念ながらあまりそういった方面での話は主とは成り得ないようだ。
この2つの問題では、原発では労働問題、オスプレイでは米兵犯罪問題などもリンクされた反対運動となりつつあるようにも思えるが、では果たして「それらの問題がある程度の解決を見た場合には反対しなくなるのか」という点については甚だ疑問でもある。至極単純な理由として、当初掲げられた命題(もしくは問いかけ)が周縁へと追いやられつつある現状を見れば、どちらかといえば反対もしくはその存在を許容しない人々にとっては、それは一種の「カルタゴ」のような存在なのではないか、と思える節があるからだ。
「Ceterum autem censeo, Carthaginem esse delendam」とは大カトーの言として有名な政治表現であるが、この言が何故これほどまでに有名になったかと言えば、ローマとカルタゴの覇権を巡る抗争・確執はもちろんだが、一番はこの言葉がまったく無関係な言論の締めくくりにさえ、定型句のように用いられた、というエピソード故だろう(このエピソードが事実かどうか、は関係ない)。
この表現において、ローマは反カルタゴ原理主義、と言えるようにも思えるが、今現状において揶揄されている脱原発または反オスプレイといったものは、これほどには原理主義でもなければ、徹底してもいないとは思う。そして、それ故にこそ限定的理由を次々と持ち出しては、その理由が古されるか、または一定の反駁を受けてしまうと、別の理由へと挿げ替えてしまう状況になっているのではないか、とも思う。もっとも問いかける側、反駁する側ともに「それはどうなのか」と思うようなものも多々あるので、これは単純に「どちらが良い悪い」ということではなく、そういうことを見せてしまうことで、結果として従来そこに関心を持たなかった(もしくは消極的にしても容認していた)層を取り込むことができなくなっているのではないか、と思わないわけでもない。
冷戦期における「反米・反資本主義」が「先進」であり「インテリ」であり「現状追認主義にならない」ための一つの機軸であった状況においては、「”アメリカの”核反対」や「”大資本家”の資本反対」という点での明快なイデオローグがある種の原理主義的分かりやすさを示していたし、明示的にしろ否にしろ、それを見ている側としては「敵をそこにおいているのだ」という点で、参画するにしろ敬遠するにしろ、分かりやすさ、というものを備えていたようには思う(内実は別として)。一方で、それが現実の前に有効な解としては決して支持されてこなかったのが、日本の現実が辿ってきた道ではある。
脱原発、反オスプレイにはその種の分かりやすい原理主義的イデオローグは存在しないのではないか、というように感じる。もちろん明快であることが良いことである、とは言い切れないのだが、あまりにブレている言動が多いのではないか、と(もちろんそうではない人がいることは知っている)。
脱原発が「人権」「人類」としての原発の拒絶であるならば、当然「国外のそれ」に対しても反対が成されるべきだし、少なくとも大きくコミットしないにしても、そう表明されるべきではあるように思う。同時にオスプレイが「安全」「安心」への脅威であるならば、同時に活発化する中国の海洋覇権主義に対しても否である旨を言明する必要はあるのではないか。もちろんそれを求めることを誰も強要はできまいし、またすべきではないだろう。しかし、一方で、そこが不鮮明であるが故に(もしくは故意に欠落させているが故に)、「かつて支持されてこなかったイデオローグ」と「同種」の、昔ながらの「政府への反対」「反米闘争」が「是」であり「正義」である、といった隘路に陥っているのではないか。もちろん自分の観測範囲が狭いことにより、より広汎であろうと思われるそれらの運動・言説の少なくない部分が抜け落ちている、ということはあろうが。
政府への不信や、都市部・周辺部の構造的問題、もっと言えば民主主義的マジョリティの判断・意識に対しての問題提起もあろうが、それにしても、と思う言説は少なくないように思える。戦略的・戦術的に支持を広げよう、とする動きが見えて来ないか、そもそも期待していないのではないか、とさえ感じる時が少なくない。果たして、それで当事者達の目的は達せられるのであろうか。

それでもおそらく橋下市長への支持は大きくは変わらない

「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」
「関西だけでなく、日本全体の電力供給体制の問題。関西も自分たちで十分にやるが、関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」

これは橋下市長の言である。
過去に「原発は無くても電力は足りる」「関電が隠している電源がある」と発言してきた人間と同じとは思えない豹変ぷりだが、軌道修正の気配は少し前から出ていたので、今さら驚くには値しない。
実際問題、大飯原発を動かそうが依然として電力供給量は綱渡りの状態であり、動かさなければ大規模な供給不足に陥ることは目に見えている。

これは過去の言動の変遷をざっくりとまとめたものだが、これを見て「スタンスの変化」を感じる人は多いだろう。
一方で、冒頭の発言にもいくつかのレトリカルなポイントがあることは注意しておいた方がいいだろう。
まず「新しい電力供給態勢」というものが何かを明示していないので、これが「新エネルギー」を指すのか、「原発再稼働」を指すのか、単に「発送電分離」を指すのか、定かではない。
逆に言えば、結論と行く末がどうなろうが、彼のこの言葉はそのいずれの場合にも「必要だ」という言葉で受容可能で、巧妙でさえある。
次に「関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」という言葉だが、そもそも関西の供給不安はその原発依存度の高さもあり、前々から指摘されていたことでもある。
従って、全般の供給安定に努めるべき政府の責任も大きいわけだが、「日本の危機」という表現は、過去の政府の決定不能状態を作り出す一因でもあった橋下市長自身のアジテーションを、「関西だけの問題じゃない」として免責することでもあり、また「関電の電力隠し」だったり、はたまた「既存電源の過大な供給見込み」だったり、そういった諸々の判断ミスを「日本の問題」として自身の権限・判断の範囲外に置くことで、この夏にいかなる事態が発生しようとも、自身は何一つ責任取らずに済む、これもまた巧妙な言い草でもある。そも「日本全体」の問題であれば「一市長」如きがどうこうできるわけではない、という訳だ。
そしてどのような結末が訪れようと、「政府の決定」「政府の判断」であり、彼にとってはその内容はどうとでも批判できることになる。
そもそも彼が提唱する「稼働を認めるための八条件」なるものが「衆院選に向けて」であると断言しているわけだから、稼働すれば電力が足りようが「政府は自分の意見を聞かない=地元を無視している」であり、稼働せずに電力不足に陥れば「わかっていて対策を取らなかった政府が悪い」となるわけで、どう動こうが政府としては失点にしかならず、支持率低迷の折、政府としては「いずれが致命傷になり得ない傷で済むか」という、とても損な役回りを橋下市長によって与えられている、とも言える。

さて、この無責任にも見えるスタンスの変化だが、恐らくこれは上記のようにどう転んでも相手に得点を上げさせないやり方であり、その意味では橋下自身は実は失点が少ない。
言動のブレによって支持が大きく落ち込むことは恐らくないだろう(もしそうであれば「10,000%出馬しない」「20,000%有り得ない」と言い切った彼を当選させることなど有り得なかっただろう)。
ここに根深い問題もまた垣間見える。
まず、橋下市長が府政時代に行ったとされる「大阪府の黒字化」であるが、これはあからさまな会計操作によって行われたことは既に検証されており、黒字宣言をした後にこれが発覚すると、彼は臆面もなく「粉飾」と言い放ち、自身の責任ではない、というスタンスを取ることになった。成果が出れば自分のおかげ、それがなければそれは担当者ないし関係者が悪い、この手法は府政時代から一貫しているため、今回の夏においても、恐らく上記の通り、同様の言説が飛び出すことになるだろう。
そして、その府政の結果をもって市長に移り、府政の結果が架空のものであったにも関わらず、現在に至ってもその支持が大きく揺らいでいるとは言い難い。
彼自身が最も誇り、改革の象徴とさえ言えるその結果があからさまな「偽り」であったにも関わらず、である(最も、基金からの借入とその借入を返済しないことによる黒字化は、橋下市長が府知事になるかどうかに関わらず、それだけであれば達成されていただろう、という分析も成されている)。
彼の改革者のイメージは多分にメディアの影響が強いものではあるが、自身がそう強く印象づけるようアピールしていることもまた事実ではある。
その際、最も重要なことは「手ひどい失点を出さない」ことであり、また些細なこと、架空のものであっても成果は強くアピールする、ということでもある。
彼の言説は、長期で追いかけてみればブレているか、場合によっては180度正反対のことを言っていることさえあるわけだが、少なくともこの原則には忠実である。
いわゆるポピュリストとは、いささか異なる点もあるのはここの辺りであろう。
彼は「府民」「市民」「国民」といろいろな言葉を使うが、必ずしもそれに阿っているわけでもない。
むしろ、彼の言動にその都度、支持し得るような「府民」「市民」「国民」を幻想的に見せている、という方が正しいかもしれない。
彼にとって個別の政策はさして大きな意味を持たないのはこの辺りにあり、だからこそ言動がブレようが180度反転しようが、それが大きな失点にはならず、むしろメディアの即時性をのみ求める報道姿勢を増幅装置として、彼のイメージはより一層「改革者」としての印象を強めていくことになる。
例えば上記のこの夏の電力供給に関しては、彼はどう転んでも自身の「直近の」言動ではうまくフォローされているため、引き続き脱原発派の支持も一定程度は得られるだろうし、仮に再稼働すれば、場合によってはそちらの方面の支持を取り付けることさえできるかもしれない。最悪でも再稼働しながら反対スタンスを取り続けることで脱原発派の支持はある程度引きとめられるだろう。
同様のことは日の丸・君が代の斉唱を巡る対応や、職員の喫煙や刺青の問題など、どちらかといえば全体の問題から見れば瑣末で、且つ目に見えてアピールしやすい問題に関しては積極的である。これは、それらを支持する比較的相対少数の支持を、その一点の問題だけで取り付けることができる点で、彼にとっては非常に都合が良い。
しかし、彼が最初に教育改革、教育非常事態宣言を出した時、「PTAを解体する」「府教育委員会も指導を聞かなければ解体する」と言い放ったわけだが、PTAについては有耶無耶なままであり、教育委員会に至っては、彼らに「日の丸・君が代」対応を行わせることで得点を上げさせ、あまつさえその斉唱の業務命令は「教育委員会」が行っているのだから自身は関係ない、といった風の言動さえしている。
恐らく、彼はこの業務命令遂行をもって、そもそもの教育非常事態宣言の発端となった、全国学力テストの低迷など、その原因とさえ指摘した教育委員会については今後触れない可能性もある(ただし同テストは意味がない、とは言うかもしれないが)。
派手に敵を作り、相手を脅した上で、相手が飲める問題を与え、それをもって最初の論点のスタートは有耶無耶になる、というのは非常に巧妙で、少なくとも大阪で橋下市長を支持する人の一定数は、当初の学力低迷に対する教員側への態度「ではなく」、国歌・国旗の問題によってその教育への姿勢を支持している。彼の教育という問題へのスタンスはこの程度であり、本来はより問題となるべき学力の問題などはどこかへ飛んでしまっている。
恐らく公務員に対する姿勢も同様の展開を見せるだろう。当初大阪で橋下市長が支持された理由の一つは、財政に加えて公務員の怠惰・怠慢だったはずだ(少なくともこういう話で支持をしている、という市民の声は何人かから聞いたことがある)。
しかし、現在それに対して耳目を集めているのは喫煙や刺青の問題であり、それは本来的にはその職員がいかに市民サービスをその職務に沿って行っているか、という点とはあまり大きな結節点を持たない。
刺青のある職員は報道によれば100人程度はいるとされているようだが、そもそも大阪市の市職員は2011年4月現在で約38,000人である(予め断っておくが、これでも05年の48,000人弱から10,000人程度削減されている)。
たかだか100人程度を分限免職したところで、当初批難を浴びせた「働かない職員」という存在が仮にあるとしても、そのごくごく一部であり、分かり易いスケープゴートであるとは言える。
「民間では許されない」と言う言い方もされているが、この「民間では許されない」も都合の良い方便でしかないだろう。
しかし、この「目に見える(まさに刺青は場所によっては目に見えるわけで)」生贄を切ることで、彼は公務員の「非常識」を改革した改革者として、また一歩そのイメージを強めるのであろう。
そこには「別に免職する必要もないし理由もないし、本質的問題とは関係ない」から放置されていた、ということは、この際はどうでもいい話になっているのである。

彼はファシズムを捩って「ハシズム」などと呼ばれることがあるが、これは当たってもいるが外れてもいるだろう。
少なくとも、彼が何らかの思想や哲学に類する何物かをもって政治に当たっている「わけではない」という点で、ファシズム(この場合はナチズム、だろうか)とは異なるとは言える(そうであれば主要命題に掲げた問題をこうも簡単に転換したり有耶無耶にしたりはできないはずだ)。
一方で、その手法に限ってみれば、ナチスが行った手法と近いものがある。
それが上記に示した一連の事例であり手法だ。
ナチスが経済低迷やそもそもの第一次大戦の敗戦理由の要因として、ユダヤ人の存在を論ったことは周知の事実だが、そのユダヤ人(ユダヤ系ドイツ人)と呼ばれる存在は、人口の僅か1%に過ぎなかった。
その1%に対して、問題の責任を被せ、目に見えるようその存在を可視化し、抹殺した、という点において、例えば100人の刺青職員の分限免職の問題などは丁度当てはまるとは言えるだろう。もっとも職場から放逐はするかもしれないが、さすがに抹殺はしないだろう、という点は異なるわけだが。
「虚構のナチズム」によれば、反ファシズム教育の一環としてヒルデ・シュラムが、1930年代のユダヤ人のドイツ国内人口がどの程度の比率だったか、を生徒にアンケートしたところ、多くの生徒が約3割という解答をした、というレポートを書いている。(同書P.28参照)
生徒は当然、ドイツでは当たり前ではあることだが、このアンケートの前にも様々なホロコーストに関する情報を得ているにも関わらず、である。
この書籍にはそうとは書かれていないが、これは逆説的に言えば「それだけ脅威とされたのだから、それなりの数がいるはずだ」という印象を持っていることを示していると言えるだろう。この不確かな先入観は在日排斥問題などにも見られる傾向であるが、もう一回転させてみると、「問題の象徴」として提示されるそれを、いかにも人間は過大に見がちだ、ということでもあるだろう。
この先入観のバイアスは数量的問題に限ったことではないと考えられるし、だからこそ「最初に大きな問題を提示」して、その後に問題の本質とはあまり関係のない要素を、あたかも象徴的に過大に見せる橋下市長自身の手法を、それを支持する受け手の側が、「それで問題が一歩解決に進む」と「過大」に評価する傾向と、無関係とは思えない。
橋下市長の言動は、この点で「些細な問題をあたかも大きな問題の象徴のように持ち出す」という手法と、「自身は決して失点を行わず、可能であれば相手が必ず失点するように仕向ける」という点で、確かに喧嘩は強い、とは言えるだろうが、少なくとも大阪においてこの手法によってもたらされる「結果」を市民が(または府民が)支持する間においては、原発に関する言動の変遷は、決して失点とはならないだろうし、また彼の支持を大きく落とすことはないように思える。
そして、それだからこそより深刻に考えなければならないのは、以下の点であろう。

「ドイツ人」であることの誇り、社会的な連帯感、等々を、単なる精神主義のスローガンにするのではなく、実生活の手応えに根ざした理念として、まさしく実感として人びとにいだかせたことこそが、ナチズムの本質的な魅力だった。(同書P.14)

と書かれている通り、ナチズムも、そのイデオロギーの少なくない部分は、必ずしも教条的ではなく、妥協的またはそれに反するものさえ黙認してさえも、その権力維持と支持獲得に腐心していたわけだが、ここに書かれているのは、そのスローガン的代物への支持が、初期の生活安定と経済成長に支えられたものであったことを受けての記述である(ナチス時代のプラス評価での回顧がしばしば戦争の惨禍を上回る印象として、生活安定と経済成長故に「あの時代は良かった」と回想される傾向があることを受けての記述)。
しかし、橋下市長には、生活の安定や経済成長といった果実を、その支持基盤に成り得る層に与えることは、恐らくできないだろう。その意味ではこのナチズムの魅力というものが橋下市長には決定的に欠けているものでもあり、恐らくは現状では手に入らないファクターなわけだが、これを「実感」という部分に絞って考えると、また様相は変わってくる。
例えば、彼がこの夏に電力供給がどのような結末に陥ろうが、「節電に”協力”した」という「実感」は残るだろう。また協力した、という実感を通じた”連帯感”さえ醸成される可能性がある(昨年のヤシマ作戦トレンドを想起されたい)。
問題解決が行われたか、実際にそれがプラスだったのか、という「実態」ではなく、自身が望むことに関する「実感」が支持の源泉であると仮定するならば、確かに愛国者的なそれには「斉唱を行わせる」という「目に見えて達成感が得られる」点で、また怠惰な職員に対するそれとしては同じく「業務命令に従わない教員の排除」や「喫煙職員、刺青職員の排除」という「目に見えて達成感が得られる」点で、些細ではあるかもしれないが、その支持者の支持理由に対しては「実感」も得られるだろう。
ナチスの政策・イデオロギーがしばしば支離滅裂だったにも関わらず、この「実感」があったことが大きな理由であったと仮定するならば、少なくともその点で橋下市長は「実態は別」としても、目に見える「実感」だけは与えていることにはなる。国旗・国歌の問題や公務員勤態の問題は、これは実生活の手応えとは到底結びつかない問題であるが故に、実際のところそれほど大きな支持拡大にはつながらないだろう、とも考えていたのだが、この夏の電力供給に絡むそれは、「節電がんばった」という「実感」を「実生活の手応え」として得られる可能性があり、それを仮に橋下市長が自身の成果として主張し始めた場合、いささか国政レベルでの危険を増す可能性が強まるのではないか、と感じている。
冒頭の電力供給に関する発言の変遷や、その次に書いた財政再建や教育に関する態度・問題点の変遷など、その変遷の過程をいくら提示しても、恐らく彼とその支持者には大きな意味は持たないだろう。彼らにとって必要なのは、「結果」であり、その結果は実態とは本質とは無関係なところでの「実感」である可能性は、現段階では決して否定できるものではない。
だからこそ橋下市長は引き続きある程度の支持は得るだろうし、恐らくはこの夏に関西の電力供給で何が起きようが、それは大きくは変わらないだろう。
むしろその事態を逆手に、その支持を高める可能性さえある。
少なくとも今回の「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」という発言には、それだけの要素を十分に担保している。
橋下市長は、民主党とは異なり、発言の変遷や方針転換に当たって、それだけ周到でもあり、また意図的に行っている、と考え、警戒しておく方が良いだろう。
特に彼を支持する人にとっては、彼の行動、言動が「当初の支持」と合致するものなのか、また彼が誇る成果が果たして「もともと必要として求めたそれなのか」という点について十分過ぎるほどに警戒し、慎重であった方が良いだろう。
そして、もし彼が国政で、首班にでもなることになれば、その時は「エゲツない、またそのエゲツなさと支離滅裂さを巧妙に隠す民主党」のような存在になりかねない、という点もまた、十分に留意しておいた方がいいように思える。
少なくとも今までの経緯から考えて、関西でいかなる事態が生起したとしてもそれが橋下市長の支持を大きく落とすことにはならないように思えるので、そこのところをこの夏に期待するのは、電力供給の如何に関わらず、失望するだけだろう。

※蛇足だが、橋下市長は09年選挙時には民主党支持傾向にあった、という点も頭に入れておいた方がいいだろう。今の叩きっぷりとはこれまた180度異なるのだから。
※自分個人としては彼の政策・言動に対して「ハシズム」という用語を充てることを適当とは考えない。そのような「思想的雰囲気」を与えることは、彼を過大に見せることに加担するように思える。
※それでも市民や府民、国民が彼を選ぶのであれば、それもまた一つの選択ではある。

夏場を迎えつつある今だからこそ考えたいこと

大阪では産業界のみならず議会も阿鼻叫喚になりつつあるようだ。
もちろん「節電」に対して、である。
今更維新連中が散々煽った「足りてる」「関電の需要予測は嘘だ」「隠している電源があるはずだ」というのは無視するに足る話として、「足りないのが分かっていて関電は何をやっているんだ」という批判は、さらに今更感が拭えない。そもそも何も対策をしてこなかった、と思い込んでいるとしたら、それこそおかしな話ではあろう。供給側も努力はしているのだ。老朽火力の復旧及びメンテナンス延期(!)までやっているのだから。
現状では大飯原発を動かしたところで、それでも「足りない」様相を呈しているが、とはいえそれでもあそこは関電保有の中でも一番有力な発電施設であることには違いがない。
では大飯原発を動かせば良いのか?
正直な話、今年の夏だけ考えれば、それで窮状は緩和されるだろうが、そういう問題は応急措置と場当たり対応に類するものではあろう。少なくともこの5月も半ばに差し掛かろうかというタイミングである。真夏日は7月には始まるのだから。
そして、この割と破局的状況に至っている原因としては、いくつかの原因は上げられよう。
再稼働を求める側は、明らかに世論醸成に失敗し続けてきた、とは言える。福島原発事故が大きくは運用と設計思想の問題があり(設計面での安全措置そのものは、当初は当時としては妥当なものだったろう、しかし、その後の対応はどうか?)、それに対して毅然と、それでいて誠実に事後の方策を訴えてきたとは到底言い難い。
また、稼働するのが基本的には全基を対象として検討するのか、それとも必要最低限を目途として行うのか、はたまた新しいものに絞って行うのか、それさえもいまだ判然とせず、現状でさえ不十分との指摘もある規制庁でさえ、法案すらロクロク通っていない。
概ね見通しの甘さと、政策の優先順位の問題、何より政策設計そのものの不在が、それぞれに影響し、悪化のスパイラルをもたらしているとも言える。
再稼働を阻止したい側としても、明らかに立地自治体での世論醸成には成功しているとは言い難いし、何より「足りなかった場合にどうする」という、根本的且つ根源的問題に対して、机上の空論以下(時間軸の無視)であったり、そもそも昨夏の状況が「企業が利益・生産そのものを犠牲として達成した数字」であることを漫然と当然のこととして、またより一層の対応が可能なものとして今年に当て嵌めようとしている人さえもいる。
加えて、原発を廃止した後の廃炉をどこがどのように行うのか、それを電力会社に求めた場合、最悪は経営破綻を招きかねないという現実、そして電力政策が大きくは国策によって進められてきたにも関わらず、停止「要請」や賠償法などを見てもわかるように、責任と応能が最終的にどこに所在し、どこがそれを成し遂げるのか、といった、有事の際にもっとも最悪な問題を、半ば検討放棄してきたこともある。
他者の犠牲を「自らの主張に必要なもの」として当然の如く求めるのは、このどちらの場合でも当て嵌まり、且つ互いが「相手のみがそれをやっている」とさえ言わんがばかりの話が罷り通ってもいる。都合のよいときに相手の主張が悪い、理あるものさえ相手の主張に耳を傾けない、これはウェブ上での目立つそれに限らないだろう。

さて、その上で、自分として改めて原発の問題を考えてみたとき、いくつかの論点はあるように思える。
(1) 電力供給量の問題
(2) 電源開発の問題
(3) 資源政策の問題
(4) 人権としての問題
(5) 経済としての問題
(6) 思想としての問題
大別すればこのようなグルーピングになるだろうか。
投げやりで申し訳ないが、今年の夏については既に諦めているところもあるので、そうであればこそ、この1年場当たり的対応と地に足のつかない空中戦に終始してきた現状を踏まえ、多角的に「今後どうあるべきか」を検討すべきではないのだろうか。
問題の(1)については、基本的に過去最大供給量を現状では必要量として計算し、その上で中長期的には人口動態変化、産業構造変化を見据え、環境要因を加味してモデル設計すべきではないかと考える。そして、その上で短期的措置として必要な設計を加えていく。短期的措置を積み上げて中長期的モデルを作り上げるのは本末転倒に思えてならない。
次に(2)の問題としては、基本的な政策要件として、新規電源開発が必要なのは疑う余地がない。それがLNG火力であれ太陽光であれ地熱であれ、何であれ、だ。それは大規模電源が失われた際のリスクヘッジも加味しなければならないだろうし、当然災害リスクを低減できる場所を求めることも重要になろう。その上で、安易な開発に陥らないためにも環境アセスメントは厳に行うべきだろうし、その後の用地取得なども考えれば、短めに見積もっても5年~10年スパンの話にはなるだろう。「原発は自然を破壊し人間の生存を脅かす」からといって、別の電源で「自然を破壊し人間の生存を脅かす」事態を招いては、身も蓋も無い。
割と引き合いに出される問題として(3)の問題がある。過去の大東亜戦争が帝国主義的資源(これは消費人口としての人口パイの問題をも含めて)の争奪戦であったこと、最終的なトリガーとなったのが石油禁輸措置であったこと、またオイルショック時の狂騒が持ち出されることもある。これにはいくつか論点で省かれることがあるので補足が必要だが、現状では電源資源として石油が致命的な傷になるかどうか、というと、そこには疑問も残る。短期的問題は別としても、過去には存在しなかったかまたはあまりに効率が悪くて使い物にならなかった新電源(主として「次世代エネ」または「エコ発電」などとも呼ばれる)が、実用段階に入ってきていることである。太陽光・太陽熱・地熱・風力などがそれに該当するだろう。それらは過去にはない「国内調達可能資源」であり、一方で「安定供給源としては変動幅が大きい」という問題をも抱えている。しかし、100%の解ではないとしても、「国内調達可能」という点では活用するに値する資源ではあり、これを頭ごなしに「安定供給源として心もとない」という理由だけで投資を怠る必要はないだろう。ただし、安定しない、ということは逆に言えば、それだけ余力バッファを大きくとる必要があるし、また恒常的に供給不能に陥るリスクを抱えることにもなる。万能でもなければ万全にもなり得ない点は考慮すべきだろう。
また、石油・ガス資源問題とウラン・プルトニウムによる発電が、ある種の共犯的リスクヘッジの関係にあったことは、少なくとも政策的意図とは別として大義名分の一つだったわけではあるが、仮に車両などのガソリン消費への対応として電気自動車などの普及を促進した場合、爆発的に電力消費が「伸びる」可能性は否定できない。これは(3)の問題が(1)の問題とも密接にリンクし、また(2)の問題とも複合的に考え合わせなければならない問題であることを意味するだろう。
問題の(4)については、原発作業従事労働者の待遇の劣悪さ、下請け・孫請けの問題は指摘されている問題でもあり、それが事故を通じてより苛烈な状況をもたらしていることは事実なのであるから、廃炉にしようが稼働しようが、この問題には早急の対応を必要とするだろう。また、そもそもの従事労働者の数の確保が今後困難になる(放射線被曝量制限)可能性も視野にいれておくべきだろうし、それは稼働の有無とは関係なく、福島の現状、稼働しようが廃炉にしようが生じる核燃料処理の問題などがあるわけだから、それを放置するのはいずれの立場にしろ「他者の犠牲」を求めることに他ならないとは言える。綺麗事ではあるが、綺麗事を建前にするのであれば、それに応じた綺麗事の現実化を求めていくべきであろう。
同時に、いまだに蔓延る被災地住民差別の問題や、半ば置き去りにされ忘却されている外国人被曝者の問題など、根本的に「何もなされていないのではないか」とさえ思える問題が存在することも抜け落ちてはなるまい。
問題の(5)は、供給量の不足に企業を対応させるのであれば、それもまた国政のみならず想定される自治体レベルでも企業への補助(補助金か免税か、いろいろ手段はあろう)を通じた緊急時電源の確保促進は可能であろうが、大阪の例を見るまでもなく、そこまで考えているとは思えない。また、緊急時電源については広く利用されているディーゼル発電は基本的に環境負荷が大きく効率が悪い(低出力発電効率は酷い)などの問題があり、ガスタービン型だと給排気がディーゼルよりもネックとなり、価格も高い、という問題があるため、どちらの場合にしても新規設置には設備の設計見直しが必要となったり、またそもそもそれを「夏場3カ月フルに」といった使い方には到底向いていな現状を無視すべきではないだろう(それをやるなら非常用電源ではなく正規の電源を作った方が格段にマシ)。また、非常用電源については法令上の特例が適用されることも多く、環境面での基準ははるかに「ゆるやか」であることについては十分に留意する必要があるだろう。これは(2)の問題とも密接に関連する事項ではある(例:東京都公害防止条例において、非常用電源は騒音規制対象外となっている)。
同時に、これらの措置はどう考えても1カ月などという短いスパンでできるものでは到底ない。また、本質的に電力供給の安定性が経済活動の基本要因であることを考えれば、その責任の一端を企業の「自助努力」に求めざるを得ない、ということも意味するだろう。
加えて、(4)の問題とも関連する部分もあるが、「節電」による「操業維持困難」を理由とした工場の閉鎖・海外移転は促進される可能性もあるし、また町工場レベルだと2年続けての節電要請はそれこそ企業体としての致命傷(すなわち倒産、廃業)を生むだろう、というのは予言を要しない予測でもあり、その場合に波及する損失及び雇用喪失、連鎖倒産などに対して応分の措置はとられるべきだろう。もっとも、この「犠牲」を緩和すべく、短期・中期において新電源開発の目途がつき、稼働に入るまで一定数の原発稼働を認めるべきだ、という考えは、その点で大きな説得力を持つだろう。原発を廃止して国民が飢えた、では内戦のようなものだ。
同時に、それを理由として全ての原発稼働を求めるのもまた、他の問題を置き去りにした論点であるとは言える。
いずれにせよ、犠牲の対象をどうするか、またその犠牲にどう対応するか、というのは原発の存廃に関わらず生じる問題であることは、十分に留意すべきであるだろうし、それは落とすべきではない課題となるだろう。
問題の(6)については、いくつかの提示が既にされていると考える。
まず第一に「植民地的政策」として原発を批難するものがある。これは一定の理を備えている半面、都市と地方という対立構図をより先鋭化させるのみならず、そもそも立地が地方にあるのは本質的問題として都市部にあらゆるものを完備するのはあまりにもそれだけで過剰リスクとなることに加えて、地方の貧困の問題が根底としてあったことは事実だろうし、また地方の財政などを支えているのが少なくない都市での収益であるという事実を踏まえれば、そこの視点を抜きにしてこれを唱えるのはいささか無理があるようにも感じる。この批判は主としてレフトウィングを中心として唱えられているように思える。
また、「国土の喪失」という点において、事故リスクの過大さ故に原発に反対する、という考えもある。これは主としてライトウィングからの視点である場合が多いように思える。ただし過激なエコロジストとハイブリットしたレフトウィングという存在もあるにはあるので、必ずしもライトウィングに限られる話でもない、とは言える。
自分としては「郷里の喪失」というものが、戦争占領や国境線変更などと異なり、より物理的、意味論的問題として具現化したのが原発事故による「土地」の問題だと考えているので、どちらかと言えば後者に近い。そして同時に原発を廃止し、何も手当をしないことで立地自治体が緩慢に死を迎え、破綻による行政サービスが打ち切られ崩壊していく、という構図は、既に先行して破綻した自治体例があることからも望ましいとは思えず、またそれまでの財政措置が半ば以上国策として行われてきた以上、急激なその廃止は、結局は国策の都合による自治体の切り捨てに他ならないと考える。従って一方的に「原発ムラに群がる利権集団とそのお零れに預かる浅ましい金の亡者」のような言い方で地元住民もろともを批難し、またその経済苦境を理由に稼働再開を求める声があることを批難して回ることは、それもまた「犠牲の論理」に他ならないだろうとも思える。
これは同胞をどう守るか、またその郷里をどう守るか、という問題において、事故後の数十年から百年に渡ろうとしている制限区域の問題が、同時に経済としての問題をも包摂するものとして扱われるべきだろう、とも考えられる。そして、その場合、稼働しようが廃炉にしようが、いずれにしても避けて通れない問題であり、究極的には「どちらの立場であれ不満だろう」と思われるものになる可能性は高いと思われる。しかしながら、思想のために人を切り捨てていくのであれば、思想を歪めてでも人を護るべき方向へと向かうべきだろう、と考える。
そして、同時に原発を現状のままにしておくことは、問題を先送りにするだけではなく、電力会社の経営破綻やアウトソーシングの推進による新たな下請け労働問題の生起が有り得る点で、早急に結論を出すべき問題でもあり、また必要な財政措置は、それが税金であれ何であれ投入されるべきだろう。
「血税を電力会社に投入するなんて」という感情的反発はそれを感情的なものとして理解はするとしても(そして同時に電力会社の経営責任としての問題は別に問われるとしても)、破綻されてメンテナンス不能、操業不能に陥れば、直撃を受けるのは間違いなく一般市民そのものであり、それによる波及的損失は試算を待つにしても、数千億単位の赤字を何年も垂れ流して持ち堪えられる会社などそうあるわけではなく、原発を稼働して利益を出し、そこで廃炉作業や賠償に必要な費用また資源価格高騰に対する費用を捻出してもらうか、そうでなければ切り離して国の管理に移行し、赤字を数十年に渡って垂れ流すであろう不良資産を電力会社の管理から外すかしないと、どうしようもないだろう。
そしてそれは「税金を国民のためにどう使うか」という国策上、また国家運営上の思想の問題でもある。そして、稼働の是非いずれの場合にしても、それらには「人と土地」という問題に対する確固たる思想が求められるだろう。また、そうでなければ、中長期政策はもちろん、短期的場当たり的対応に終始し、「誰もが望まない」社会を漫然と続ける羽目にも成りかねないだろう。

それぞれの立場で、それぞれの主張が、それぞれにおいて理があり、また筋が通っていることは、それをお互いに認めた上で、衆論を重ねるとは、そこに合意を築いていくことではないだろうか。
それ無くしては稼働も廃炉もいずれもがなし崩し、場当たり的であることを免れないだろうし、この1年やってきたことは、まさになし崩し、場当たり的であり、それ故に誰もが納得も理解も満足もしない、という状況に陥っているのではないか。
そして、その合意形成プロセスこそ、今もっとも「忌み嫌われている」とも言える民主主義の迂遠且つ決定に時間がかかるやり方そのものでもある。
直近の電力不足懸念はもちろん重要ではあるし、それによって様々な問題が生じるだろう。しかし、いや、だからこそ、近視眼的に右往左往するだけで終わらず、国民全体の問題としての合意形成プロセスを再度行っていくべきではないだろうか。                     
はっきり言って、簡単に、しかも短期で、また容易に答えを出そう、求めよう、という心情そのものが、最早問題解決の最大の障害になりつつあるように思えてならない。

原発に対する姿勢の難しさ

公害問題のむずかしさは、突きつめて考えれば、だれでもが被害者であって加害者でもある、という相互背反的二面性が随所にみられるところにある。自動車に乗る者はすべて排気ガスの共犯者でもあるといった関係が、そこにはつきまとっている。ちょうど現在の私たちの政治的自由がぎりぎりのところでは日米安保体制下の軍事的暴力によって世界状況の「暴力の海」から匿われているように、私たちの今日の経済的福祉は、日本の高度工業機構のメカニカルな、したがってまた「自然破壊的」な動きに支えられている。私たちは現憲法体制下の政治的自由の空間の中に呼吸しながら、その軍事的暴力的基底を全的に否定することはできない。それと同じように、私たちは今日の工業文明下の経済的福祉を享受しながら、その「自然破壊的」メカニズムを全的に否定することはできない。そういうジレンマを、私たちは私たちの限界状況として生きているのである。(「例外者の社会思想 ‐ヤスパース哲学への同時代的共感‐」武藤光朗著、創文社刊、S58/222頁~223頁)

この文言は原発問題にも同様のことが言えると考える。電力という全体で考えれば誰もが加害者であるだろうし、また全国に散らばった原発というものを考えれば被害者でもあり得る(東京で放射能の影響が懸念されたが、実際時間軸と被害規模の大小を考えなければ、決して懸念レベルではないはずだ)。ヤスパースが核兵器と収容所の実存的ジレンマに対して「原爆と人間の将来」で考察したアンビバレンツなそれを「最終的には、ただひとりの個人によって、原子爆弾の使用が決定されなければならない危機的瞬間が、おそらく突然に、やってくる可能性がある。他のもろもろの可能性に対しては、もう後の祭りである。」(前掲書184頁)と述べたように、それは突然の破局を内包するものとして考えられよう。
収容所の恐怖がナチスのそれに留まらず、またソルジェニーツィンの指摘からもさらに水平化し、また垂直化して、ベトナムにおける政治犯の、ポル・ポト派による大量殺戮へと展開したように(ナチスのそれがある種のシステマチックさを備えていたのに対して、ポル・ポト派はあの大量虐殺を鉈などで行い、またそれはルワンダでも繰り返された)、原爆のそれもまた、より原子力発電という、より日常へと水平化・垂直化した形で世界へと拡散し、今回の福島原発の破局を齎した、と言える。ただし、その破局は日本へと原発導入を推進した中曽根康弘という、ある意味では「ただひとりの個人」あるいは正力松太郎らを含めた「ごく少数」の積極性が、ヤスパースの言う「原子爆弾の使用」決定という意味合いを持ち、原爆と原発の構造的システム的相違は別として、「放射能」という意味での破局としては遅滞して発生したに過ぎない、とも言えるかもしれない(もちろん被害の程度、様相は核兵器使用時とは異なる)。あるいは決定の「瞬間」とそれによる「破局」の時間差故に、「核の平和利用」という名目が成り立った、とは言えよう(場合によっては被害が生じるのは永続的未来のこととして想定し得るからだ。実際に存在したかは別として、喧伝されている安全神話のように)。
中曽根氏が原発の導入を推進した際(決定した際)、そこに核武装への意識があったかは分からない。少なくとも同氏は過去には「日米安保の破棄に備えて核武装を検討すべきだ」という趣旨のことを言った形跡があり、また昨年1月には「日本が核(兵器)を持たないでいくという政策は非常に賢明な政策」とも述べている(発言時期として、福島原発の事象後に広がった「核武装」を目指して原発を導入したのだ、という言説に対するカウンターとしての発言ではない)。従って、原発=核武装という論はひとまず除外するとする。

話を転換して、ツイッターとデモ実践者の間における認識の相違について考えてみる。
しばしばデモ実践者(これは活動家とイコールではない)がツイッター上での批判は現場を見ない空論の批判であり、運動はさらに先を行っている、と言う指摘が成されている。
一方で、ツイッター上での言説においては、しばしば福島県民を例として、それを代弁するかのように「デモは被災者のことを考えていない」という言説も成されている。
この相違は、主としてデモが「広汎に市民を巻き込む」ことをもって、そのポリティカルな主張を「実践」の場で実現しようとしているのに対して、ツイッター上でのそれに対するカウンターは、主として「玉」の取り合いとして為されている節がある点で、そもそも位相が違うのだ、とは感じられる。
もちろん両者のどちらにも被災地の人もいれば、そうではない人もいるだろうし、それに対しての自分の見解の表明が、極めてポリティカルなものになるであろうことは理解している。
その運動・言動の中に「弁証法的理性批判」で描かれる「同胞性(友愛)=恐怖(テロル)の弁証法」を見出すことは、ある意味では容易いのかもしれない。

裏切り者と推定されるか、あるいは本当に裏切ったメンバーに対する死刑宣告が、集団の永続性を確保するための「正当な暴力」として、「各人に対する全員の絶対的権利」となる。(中略)裏切り者はあくまで集団のメンバーとして、つまり同胞として、抹殺されるのであり、集団はそうすることによって自己を再構成する。(前掲書114頁)

これは左翼の内ゲバ傾向を念頭に置かれた言葉だが、しばしば「福島」「被災者」と引き合いに出されるそれが、他者との対地における自己の「正義」と、それを確認するための集団(これは特定の集団でも固有的なものでもなく、時間的瞬間的集団である)の再構成作用を果たしていないと言い切ることはできないだろう。
それは時に「御用学者」の炙り出しであったり、また運動内の「トンデモ」批判をすべきか否かであったり、また「運動が被災地のことを考えていない」という言説であったり、様々な形を取って表れているように思える。
もちろんトンデモ言説を容認したり、はたまた金銭によって科学的知見を捻じ曲げることがあるべきだとは考えないが、一方で、その批判行為がそれ自体として自己の再構成に資する形になれば、容易に「同胞性=恐怖」の陥穽へと落ちるようにも思える。原発を推進するのは国民ではない(≒市民の側ではない)といった形の批判もまた、市民社会(または国民国家)の同胞性がもたらす恐怖を内包している可能性もあるかもしれない。
もちろん利権的、または構造的問題が無いとは決して言えないだろうし、それへの批判は当然為されて然るべきものだと考えるが、一方でベニィ・レヴィが言うところの「革命の観念がテロリズムの観念と一致してしまったらおしまいだ。」(前掲書115頁)と言う指摘もまた、念頭に置かなければならないように思える。
フランソワ・ポンショーが述べるところの「この全面的粛清は、何よりも、人間に対する特定のヴィジョンを実行に移したものである。そのヴィジョンとは、腐敗した政権によってスポイルされた人物を矯正することはできず、そうした人たちを、純粋な同胞の中から肉体的に除いてしまわなければならない、というものである。」(前掲書145頁)という言葉もまた、レヴィの指摘をより実際的に表したものだろう(これはカンボジアにおけるそれを指摘したものである)。
この「腐敗した政権によってスポイルされた人物」のところに、「東電」でも「政府」でも「学者集団」でも「トンデモ」でも、あるいは「福島の農家」でもなんでも代入することは可能だろうし、「肉体的」除去と言わぬまでも、「社会的」抹殺をし兼ねない状況を齎すべきではないだろう。
再びレヴィの言葉を借りるならば「透明な国家、ガラスの社会、絶対的な光明の世界を作ろうという企て、それが全体主義国家の最も恐るべき定義だ」と言う、ここに表されたそれは、法的人格(社会の中における個人)を捨て、全く権力の前にむき出しに晒すことの危険性の指摘でもあるだろう。東電の役員を死刑にしろ、あるいは福島の農家は殺人者であり敵だ、といった言説の中に、自分はそういったものを見出してもいる。そのような言説は権力者たる個人の前に、相手をむき出しにして晒し、攻撃する行為であるように思えるからだ(法犯は別の問題である)。
「カンボジアには収容所も刑務所もないのです。どんな罪に対しても、罰は死しかありません。異議を唱える人物は、この社会に加わりたくない人間だ、ということになるのです。そして、この社会に加わりたくない者は、誰でも撃たれるべきだという考えなのです。赦されるということはありません。」(前掲書146頁)というカンボジア難民の言葉が、まさにそういった状況を表しているのではないだろうか。
このような状況において、上記に代入され得るようなその全てがあたかも社会的状況によってスクリプトされているかのように振る舞う言説それ自体が、恐らくは危険性を孕むものであって、「国民」あるいは「社会」という全体集団の中における特定の小集団が、一定のアイデンティティを帯びる時(社会的位置づけを持つ時)、その小集団に属するもの全てに一定のスクリプトを強制する作用を持ちかねないだろう。

実際はそういった単純なものではなく、より複雑で混沌とした状況において、個々人の立ち位置は非常に多様であるだろうし、実際に扱うべき問題が冒頭に述べたような根源的問いとしての相互背反的二面性を持っている以上、極めて難しい問題であるだろうし、その中で両極から広がるグラデーションの「何処を自己の主張として採るべきか」という問題にもなるだろう。
もちろんどの立ち位置を取ろうがそれはポリティカルなものだし、また傍観的現状追認主義も同様にポリティカルなものなので、その意味でのノンポリは「在り得ない」わけだが、それはあくまで「ポリティカル」であることであって、「踏み絵を迫る」ものであってはならないだろう(それに対して「問題と向き合え」と問うことは踏み絵ではないが)。
よく使われる「当事者の前でそれが言えるか」という言葉は、自分も嘗てはよく使っていた言葉でもあるのだが、少なくともそれが「自己の主張」というものを「当事者」というものを盾として、あたかも袞竜の袖に隠れるが如き振る舞いであることに気付き、それ以来極力使わないようにしている。
もちろん当事者を前に「当事者のことを考えていない」と批難した挙句に、当事者だとわかった瞬間「お前らは郷里に砂をかけている」と恥じることなく言えるような言説が、真っ当なものだとは到底思わないが、それは個々人が突き付けられる問題であって、他者が当事者を盾として持ち出すものでもないように思える。

「私は、私の立っている場所で、みずから決断すべきである。無数の個人の内面にこのような転回が起こるのでなければ、破局は避けられないだろう。」あるいは「人間は彼が自分について知っている以上のもの、また知りうる以上のものなのです。」とはヤスパースの言葉であるが、それぞれの主張・行動に対して、それ自体への批判はあったとしても、その全人格を否定すること、または法的ペルソナを踏み越えて、他者の内面の闇(あるいは闇の中に生じる光)に踏み込むことは、一抹の不安を感じざるを得ない。
自分は自分として、原発の持つジレンマの中で何らかの答えを出すだろうし、またそれは時にグラデーションの中で動くこともあるだろう。そしてそれは時に批判もされるだろうし賛同されることもあるかもしれない。
しかし、その答えは「私は、私の立っている場所で、みずから決断」していくだろうし、仮にも「被災地」「被災者」を代弁したり、またそれを総体として忖度することは、できるだけ避けたいとも思う。
自分の「良かれ」が当事者にとって「良かれ」であるとは限らないし、また当事者の「良かれ」が別の当事者の「良かれ」であるとも限らないのだから。
その上で、だからこそ、あるものには批判も加えようし、またあるものには賛同もしよう。それは「みずから決断」として。
あまりできてはいないかもしれないが、だからこそ自覚して。

例外者の社会思想―ヤスパース哲学への同時代的共感 (1983年)

如何に問いかけ、如何に沈思すべきか(2011年3月19日草稿再掲)

■政府への失望

今回の震災において、菅率いる民主党政府への失望は非常に広汎に浸透しているように感じる。
確かに初動は(原発を除き)阪神大震災の時よりも随分と相対的には動きがあった、対応したように思える。
しかし、原発被害の深刻さが浮き彫りになるつれ、他の全てが後手に回り、泥縄的対策に終始し始めている。
充分に失望するに値する動きではあるし、いくつかの非難を免れ得ない判断をしているようにも思える。
しかし、一つ考えなければならないのは、この政治の混迷、政府の弱体化は何も民主党政権が持つ特質ではない、ということである。
残念ながら、中曽根内閣を最後に、小泉内閣の例外を除き、自民党が政権与党であってすら内閣は1~2年で交代している。それだけ基
盤も弱く国民支持も無く、中曽根内閣の最後が1987年末であったことを考えれば、失われた20年と言うのは他ならぬ政府劣化の20年であったと言うことができる。
民主党の母体(中枢部)が社会党と自民党分裂組のキメラであるという歴然とした事実から導かれるのは、単純に「政権交代」と呼ばれるものが、55年体制の派閥政治を拡大再生産しただけの物でしかなかった、という当たり前の事実でもある。
55年体制が冷戦期の産物であったとするならば、少なくとも1989年にはその変革が求められていたはずであったものが、今に至るまで延々と延命措置をしてきただけに過ぎないのである。その予兆を汲み取るのであれば、中曽根政権以降の政府は悉くそれができなかったのであり、その破滅的なまでに形骸化した政治抗争を続けてきただけであるとさえ言える。

従って、少なくとも現在の民主党政府への失望の眼差しは、そのまま過去20年間の政府への眼差しそのものでもあるはずで、たまたま危機が生じなかっただけでもある。途中に転機があるとすれば阪神大震災時の村山内閣の歴然たる機能不全であったはずであるが、結局はその構造と同じものを民主党の中に残しただけである。
今回の震災において政府への不信、政治への不審を抱くのはもっともではあるが、それを変えるならば、そもそも清算しようとしなかった冷戦期の政治構造そのものの変革でなければならず、そうでなければ決定的変化は生じないであろう。何事も無かったかのように政権は瓦解し、野合の中で次の首相が生まれ、また詰まらない理由で失脚し、次の政権が生まれる。このポリティカルサイクルが短くなるだけのことでしかない。

しかし、55年体制とは何であったのか。
冷戦期の申し子ではあったろう。それだけだろうか。
冷戦が「戦中」から始まっていたのであり、その確執が枢軸・自由民主主義連合(これは語弊があるが)という仮初の器の中で、既に連合側に胚胎されたものであり、この連合内の対立の胚胎はロシア革命に起因する(すなわち第一次大戦にまで遡る)根深いものであったはずだ。
そして第一次世界大戦がそもそも「植民地分割競争の終焉」という「遅れてきた帝国主義」たる日本を迷走させるだけのインパクトを持つ事象であったとするならば、55年体制の総括そのものは国際社会の中で日本をどう位置づけるべきか、という問いかけとともに、恐らくは江戸末期の対外関係構築がどうあるべきか、という本質的問いかけそのものへと遡らねばならないのかもしれない。
その間に様々な戦争を主体的に行い、あるいは参加し、あるいは黙認し、あるいは無視しながら、そのどれ一つとしてまともに総括してこなかったという日本の政治の有り様そのものが、今の政治の混迷へと至っているのではないか、と思いさえする。

戦前を含めても日本の内閣というのは基本的に短命であり、弱体であり、長期政権と呼ぶことが相対的には可能であろうと判断できる基準を3年以上としても、中曽根内閣以前には伊藤内閣、桂内閣、東條内閣、吉田内閣、池田内閣、佐藤内閣くらいのもので、政府は弱体なのである。戦前の政府が強力な印象を受けるかもしれないが、内閣自身は短命なのである。
東條内閣以前は例外としても、基本的には「よりマシ」を求めて首を挿げ替え続けてきた結果が現在であることに特段疑問を持つことはできない。
そしてそれが「よりマシ」であったかどうか、については個々に見ていくしかないであろうが、必ずしも「よりマシ」であったかどうか。
近代から現代へ至る国家建設の過程で、順次参政権を拡大してきたという流れはあったとしても、国民的コンセンサスが一体何を求めてきたのか。そのことについて真剣に考える必要もあるだろう。
安逸に流されなかっただろうか。表層に踊らされなかっただろうか。それは小泉内閣でも政権交代でも良い。
敗戦の際、それまでの近代国家建設をしっかりと見据えることなく、安易に「全てが悪かった」としなかっただろうか。またその逆に、「全ては正しかった」としなかっただろうか。
冷戦が終わった際、「このままでよいだろうか」と疑問を持っただろうか。それとも考えもせず「このままでいける」と肯定しなかっただろうか。
戦前から現代に至るまで一貫して底流を流れるのは西欧への憧憬であり、それは時に物質的豊かさであり、時に文明的利便であり、時に文化的思想であり、そしてそれを駆け足で、そう、戦前も駆け足で、そして戦後も駆け足で駆け抜けてこなかっただろうか。その全てが表層的で本質を捉えてこなかったのではないだろうか。その終着点を越えてなお気付かず、最早その先に目的地などないことを気付かずに走ってはこなかっただろうか。
政治が残念であること、政府が残念であることは至って自明的現象として眼前に広がっている。中身がなく、主体性もなく、積極性もなく、寂寥とした空疎だけが広がり、その中でパーティー騒ぎに興じるのが、果たして鏡ではないと言えるだろうか。
各々が抱えるニヒリズムやシニシズムが、果たして自己へ向けられていないと言えるだろうか。
そう考える際、自分には東浩紀氏の考察はいささか軽妙に過ぎるのではないか、と感じるのである。

■公共圏の低落

しかしながら、残念な政府、というこの状況は半ば想定内でさえあったろう。自分はいささか「意外さ」を感じるほど、「酷すぎなかった」とさえも感じている。
一方で、マスメディアの惨状たるや惨憺たるものである。 基本的知識の欠落や誤報や捏造(意図しているかどうかは分からないが)、あらゆる事象を政権批判へと落とし込もうとするメディアやいかにセンセーショナルな記事を構築するかに余念が無い編集など、一言で言えばまったくの弊害でしかない状況でもある。特にテレビメディアは考察の余地さえ無い状況であり、一番政府の掣肘を受け易いNHKが最も信頼される(相対的に、ではあるが)という、同情の余地もない酷い有り様である(そのNHKでさえ少なからず問題がある報道内容となっている)。
唯一救いがあるとすれば「いかに記者が馬鹿な質問に基づいて記事を書いているか」ということが、他の事象に比して会見中継が多かったことで「より多く」の人に周知された、ということではあろう(ただしこのことの意味にマスメディアが気付いているかは不明だが)。
一方で、平時にはこのマスメディアへの対抗であるかのように語られていたWebに関しては、これもまた誤報と捏造の濁流となり、一部の私個人の努力によりいくつかのデマなどは指摘されているものの、それはまったくの献身と犠牲の上に成り立っているのであり、拡散のスピードからすればマスメディアよりも酷い場合さえあるように感じられる。特に震災という事象が救援や支援など多くの情報を被災地が
Webに頼らざるを得ない状況下において、場合によっては必要な情報の埋没を生み、本来期待されていたはずの公共圏としての役割は到底Diskurとは程遠い状況となっている。
また、日本の情報が信頼できないと海外の情報を無条件に信頼して垂れ流すような状況も見られ、多くの場合肝心な「情報源が信用するに値するのか」は置き去りである。
加えて、今回の震災において、日頃「識者」としてメディアや出版界隈で重宝されている(そして今も重宝されている)方々のいかに「有害」であることかも露呈されることとなった。

「最大の関心事は法律の条文に違反しないことです。事実の歪曲や偏向に対する道徳的責任はありません。ジャーナリストは読者や歴史に対してどんな責任を負っていることでしょうか。彼らが不正確な情報やまちがった結論で世論や政府の判断を誤らせた場合、当のジャーナリストや新聞がそのような過ちを認め訂正したケースを私たちは知っているでしょうか。そんなことは起こりません。販売に悪影響を及ぼすからです。そのような過ちの犠牲になるのは国民かもしれませんが、ジャーナリストはいつも逃げおおせます。新たな自信を得て、次は正反対のことを書き始めると予想してもまちがいではないでしょう。」(ソルジェニーツィン/1978年ハーバード大演説/訳出「世界を動かした21の演説」英治出版)

この言葉は随分前に述べられた言葉だが、果たして現状はいかにこの言葉そのままの有り様であると感じるのは決して自分だけではないだろう。
そして、このジャーナリストや新聞のところに、個々のWeb上のアカウントを当てはめても、記者クラブ外のジャーナリストを当てはめても、所謂識者と呼ばれる人も当てはめても、悉く該当することを知ることになるだろう。
熱し易く醒め易いという(語弊を承知で使うならば)国民性とも言うべき習い性を自ら改善すること無しに、そしてまさに日本国憲法が宣言するところの「第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」という文言さながらに、不断の努力を重ねることなくして、この悪弊は決して無くなることはないだろう。
「知る権利」をフィルタリングにより阻害するのが「マスメディア」であり「識者」であり「個々の発信者」であるならば、その権利を阻害する壁そのものを万里の長城の如く営々と築いてきたのは、この「不断の努力」の欠如そのものに他ならないだろう。そして、これは自分も含めて、ではあるのだが、それらの壁をいくら過去に批判していたとしても、それは一切の免罪にはならない、ということは忘れてはならないだろう。現実的変革をもたらさない何等の言説をも、それは個々の「不断の努力」という文字通りの意味ではそうなのだが、逆説的に言うならばそれが「個々」の範囲を超えない、という意味で、「言葉のもつ力」を行使することができていない、という意味で「結果の無い言葉」でしか無い。 特にWeb上の言説が実際の大多数の行動という点で誤差に均しい影響しかない現状を考えれば、これは本Blogを読む全ての人に対しての、自らを含めての糾弾である。

■ナショナリズムの行方

今回の震災を通じて海外の一部報道で「日本は暴動も略奪もない」と言う言説が出、それをもって「日本は素晴らしい」と言う内容を少なからず見ているが、そして、原発への最前線の従事者を見て「日本の盾だ」と言う言説もまた少なからず見ているが、非常に危ういものを感じてざるを得ない。
一つは日本がそんなに素晴らしい「民度において追随を許さない国」であるならば、この政治とメディアの、恐らくは日本のエリートと称される人間が少なからず存在するであろう界隈のあまりの惨状に対しての説明が付かないことに対して何等の補記が無いことであり、一つは実際には生き残る上で、またこういった惨状故に生じる犯罪に対しての意識的隠蔽を生じかねないことであり、また一つは「犠牲的精神」とやらに「特攻隊」に通じる賛美を感じるからでもある。
相対的犯罪発生件数は少ないかもしれないが、それはあくまで相対的であり、被災者の中には略奪や強姦に怯える人間も確かにいるのである。それを流言蜚語の類と一笑に付すのは容易いが、未だ被害の全貌さえ見えぬ中で、そういった事態が生じていないと断言できるのは楽観に過ぎるし、誤ったナショナリズムを生起しよう。
助け合いや互助の精神というものがまったく無い、という極論を呈するつもりもないし、それが日本の「美徳」とされるものの一つの要素ではあろう。しかし、その「美徳」というものはあくまで「物語」としての傾向であって、それ以上でなく、それを外れる「犯罪」が生じていると考える方が自然であろう。人間である以上、集団として見た際には生じるべくして生じる犯罪は処断されるべきであろうし、それを隠匿し兼ねないような過度の「日本」という誇りは弊害でもあろう。
一方で、従来にないナショナリズムの萌芽を感じない訳ではない。
前エントリ(移転後掲載なし)でもリンクさせてもらったが、有志による地震発生時緊急マニュアルのような、「日本という領域に住む人々」に対する「日本という領域」に対するナショナリズムに対しては賞賛もしたい。これは「民族国家」としてのナショナリズムではなく「国民国家」としてのナショナリズムの萌芽であるとも言いたいところである。
一方で、相変わらず「外国人犯罪」のような震災に関連付けた排外主義が散見されることは憂慮せざるを得ない。
図らずも「帝国」として存在したことを、一部たりといえど肯定するのであれば「多民族国家」としての「帝国」を肯定すべきであるし、排外主
義の先端がこれを肯定するのは滑稽でさえある。
Webによる個々のクラスターに対する分断と断絶を肯定的に捉えるのであれば、猶の事「国民」という総体は「民族」というクラスターに囚われるべきではないだろう。
もし健全なナショナリズムというものがあるとするならば、過去の帝国領域たる大和民族(=日本民族)、琉球民族(ただしこれは文化的分化によりより細分化した区分が有り得る)、アイヌ民族、朝鮮民族、加えて旧満州諸民族や日本がその傀儡と為したる蒙古族、中華民族に加えて、永住ないし帰化した諸民族を「同胞」として対等に遇し得るナショナリズムであろう。
上述ではないが、戦後の「日本国」が正統な「大日本帝国の後継国家」であるならば、それを為さぬナショナリズムなど論外である。

■政策と国策

今回の震災において、間違いなく最大の被害をもたらしたのは津波であり(これは原発の緊急回路停止の直接要因を含めて)、加えて国策そのものでもある。
電力需要をどう捉えるか、そもそも電力がそこまで必要なのか、また原発でよかったのか、原発に変わる調整可能電力源としての火力・水力をどう考えるのか、過疎地、特に孤立集落へどう対応すべきなのか、被災時の対応策に「自治体そのものが消滅した場合どうするのか」がしっかりと理解されていたか、停電に伴う労務補償をどうすべきか、被災地避難の有り様は現状で問題が無いのか、今回の震災で問いかけられたものは極めて多い。
そのいくつかには自分の中に一定の解答はあるが、一方でいくつかの課題については未だ解答を持ち合わせていない。 恐らくは多くの人がそうであろう、と想像する。
さらに、各国の丁重且つ代え難い支援の中でも、最も大規模且つ感謝をいくら示しても足りない米国の支援に対してどう考えるべきなのか。少なくとも日米同盟及び駐留米軍無くしてこれほど迅速且つ大規模な支援は無かったであろうことを考えれば、これは極めて深刻な、特に左派ならびに反米右派にとって深刻な問いとなろう。これを逃避すべきではないだろうし、それをすれば結局は「残念な政治」を持続させてきた精神そのものの温存でしかないだろう。

さらに、今言うべき言説ではないことを重々承知で言うならば、原発の建設ならびに電力需要の補完が国策として推進されてきた上、原発立地自治体には少なくない補助金が投下されてきたのである。
確かに東電や政府の過去の言説や対応に必ずしも誠意があったとは言えない。が、スリーマイルやチェルノブイリに代表されるように、原発は惨禍が生じた際にいかなることになるか、その傍証にはいくつかの前例が存在する。
確かに首都圏がその電力に対するリスクを地方へと転移したこともある。それに対して弁明も釈明もすべきではないだろう。一方で、それに伴って少なくない補償を投下してきたことは絶対に失念すべきではない。
これは在日米軍基地にも通じる共通の構造である。確かに「札束」をもってそれの受け入れを認めさせてきたことは事実であろう。そして、その事実は裏を返せば「札束」がいかに「立地自治体」にとって魅力であったか(これは雇用を含む)を示すものでもある。
これは立地側にも需要側にも極めて深刻且つ冷徹で、何より醜悪な現実を突きつけることになろう。加えて東電という(そして地域電力会社というその他の全ての電力会社という)存在そのものへの深刻な疑問もまた呈されるであろう。そしてその傍証として、アメリカにおける電力会社の破綻に伴う各種の混乱をも視野に入れるべき事例でもあろう。
課された課題は間違いなく「国家規模」であり「国策レベル」であることは疑いようもない。自分が安易な「アウトソース」という言動に抵抗を感じ、一方で「原発」と言う有り様そのものに対して疑問を持つ極めて矛盾した人間であるからこそ、この解答は容易に見つかりそうも無い。

■英雄待望の過ち

原発周辺での現場作業員に対して、一部に極端な英雄視をする傾向があることを極めて憂慮している。
まず彼らを英雄視することで、本来彼らが負うべき責務以上の期待を意識しなくとも負わせることとなり、加えて彼ら一人一人が持つ苦悩を覆い隠してしまうからだ。
さらに、そのような英雄を作らざるを得なかった事態を生起した要因の解明を鈍らせることにもなる上、そこに一種のカタルシスを感じる空気を懸念するからでもある。
英雄待望論は往々にして個々の政治的判断の過ちを放擲するものであり、また、民主主義の精神とは相容れないものであり(逆に海外の報道において英雄視されるのはナショナリズムの発露としてであり、加えて「自国の被害が少ないと分かっている」からでもあるし、増して自国民でもないからでもある)、本来であれば払うはずが無かったかもしれない犠牲を「個々人の自己責任」という大義名分の下に「押しやる側」が正当化するからでもある。
自衛隊であれ消防隊であれ東電であれ東電の下請けであれ、現場の作業員には深い敬意を示し、また感謝してもし足りない行為を付託していることを、自分も一切否定もしないし、また自分が相対的安全区域にいることを考えても、その願望が他者への過剰な希望の債務であることは理解しているつもりではある。
そして、彼らがいかなる作業をし、いかなる結果になったとしても、それを責めるのは卑怯でさえあり、いかなる賞賛をも惜しまないだろう。
ただし、それは「英雄」ではなく、子息・家族を含め、関係する全ての人間に対して「彼らは英雄ではなく人間であった。家族にも関係者にも、場合によっては生きて帰れないという現実を前に苦悩を抱え、後ろ髪を引かれる人間であった」という意味で。 そうしなかったら、一体何をどう考えるべきなのか。
可能であれば全員健康被害無く、増して死者でもなく、更には英雄としてではなく迎えることが、いかに望ましい収束であるか、について考えざるを得ない。

■終わりに

まとまりもない文章であることは百も二百も承知である。
というよりも、未だ心中まったく整理も付いていないし、日常を取り戻してもいないのである。
しかしながら、そろそろ最初の衝撃から立ち直らねばなるまい、とも感じるのである。それは、身内に一切の直接被災者がなく、全てが間接的且つ情報的影響でしか無いことを「理解しなければならない」からでもある。
いくつかの危うさといくつかの絶望と、そして契機としての僅かな変転の希望を抱いて、そしてそれが多くの場合望み得ない将来であることを承知の上で、それでもなお、多くの犠牲者に対する僅かなりの弔いと、生者としての責務において、本稿を書く。それが多分に自分に対する欺瞞的解消であることをも承知の上で、それでもなお、一人でも沈思と悔悟の上に未来を築く人の現れることを期待して。

2011年まとめ

2011年まとめ
1月
チュニジア・ジャスミン革命/エジプト反体制デモ拡大/イエメン反政府デモ/ヨルダン反政府デモ/アメリカ民主党下院議員への銃撃事件/インド大寒波/オーストラリア大洪水/スリランカ大洪水/韓国口蹄疫発生/世界華人保釣連盟結成/和田勉死去
2月
ムバーラク大統領辞任/ニュージーランド大地震発生/タイ・カンボジア国境紛争/永田洋子死去/ゲイリー・ムーア死去/
3月
東日本大震災発生/国連決議でリビアへの軍事介入容認/エリザベス・テイラー死去
4月
福島第一原発国際評価引き上げ/カストロ前議長共産党第一書記を退任/南北戦争150周年/出崎統死去
5月
ウサーマ・ビンラーディン暗殺/団鬼六死去/中村光毅死去/長門裕之死去
6月
チリ火山噴火/FIFA女子ワールドカップ/川上とも子死去
7月
南スーダン分離独立/ノルウェーオスロテロ事件/スペースシャトル全機退役/小松左京死去/オットー・フォン・ハプスブルク死去/原田芳雄死去
8月
9月
ウォール街占拠デモ
10月
タイ大水害発生/トルコ大地震発生/カダフィ大佐死亡
11月
ギリシャ、パパンドレウ内閣信認/ベルルスコーニ首相辞任/APEC、ASEAN首脳会議/立川談志死去
12月
金正日総書記死去/ロシア下院選/荒木伸吾死去/冬柴鐵三死去/柳宗理死去

2011年こんな本読んだ(今年の10冊)
今年発売の、ではなく再読含めて今年読んだ中でのお勧め本。


「秘録 東京裁判」清瀬一郎著
改めて戦争を考える際、極東軍事裁判とは何だったのか、の補助線になる一冊。

右に傾くとはどういうことか (1984年)
「右に傾くとはどういうことか」須藤久著
左翼からの転向右翼である同氏の著作。左翼運動の問題点や、同氏が「右翼とは文字を手にすることが出来なかった被差別人民の前衛なのである」と宣言する経緯の一つでもある部落問題なども、現場に身を投じたからこその言葉で描かれている。

「新左翼運動の論点」戦旗社 高山亨著
Amazon取扱なし。1989年の書であるが、前掲書を読んだ後に読むと非常に味わい深い。ある意味では「何故国民的動員ができないのか」という点を如実に表しているとも言えるので、一読の価値あり。

ネオナチ―若き極右リーダーの告白
「ネオナチ 若き極右リーダーの告白」インゴ・エッセルバッハ著、野村志乃婦訳
ネオナチで一員として積極的役割を果たし、またそこから決別を果たした同氏の著。「より正しき世界をめざして闘う理想主義者」であると自認し、「不当で圧倒的な国家暴力の犠牲者」であると思い込み、憎悪と暴力に浸かった同氏が「外国人やパンクスにふるわれる暴力は不当だ」と考え、ネオナチとの決別を果たす。ネオナチ入りから決別までの行動・心情を自らの体験で描いた貴重な書。


「理想郷としての第三帝国」ヨースト・ヘルマント著、識名章喜訳
ドイツ統一期からビスマルク時代を経て第三帝国に至るまでの、未来小説・ユートピア小説などの娯楽小説200点余りから分析されたナチズムが提示したユートピアとは何か(またナチズムがユートピアを必ずしも全面的には容認せず、時に抑圧したそれは何か)を示した書。「現実の社会的な不都合を隠蔽するために「国民国家のアイデンティティ」への渇望を利用したがる政治家に、つけいる隙を与えかねないだろう」という現状分析(ドイツの、だが)を本邦に照らした時、本書の持つ意味合いはグッと重くなるように思える。


「韓国併合」100年を問う 『思想』特集・関係資料 趙景達・李成市・宮嶋博史・和田春樹編
日韓併合100年となった2010年の国際シンポジウム関連で、主に思想関連をまとめたもの。半島そのものだけでなく、関東大震災における、いわゆる「朝鮮人暴動」という誤認・拡散の発生経緯などもまとめられている。史学的側面が中心ではあるが、政治的評価の側面も持つため、読解には十分な留意が必要なものではあるが、実態を資料を基に紐解いているものも多く、参照に値する一冊。


「植民地期朝鮮の歴史教育」国分麻里著
併合時代を中心に、半島における「歴史教育」がどのような実態であったのかをまとめた書。当時の実態を知る上での貴重な書であるだけでなく、現在において「歴史教育はどうあるべきか」を考える上で、非常に参考になる一冊。


「選挙演説の言語学」東照二著
海外の名演説の解説が多い中で、本書は2009年のいわゆる「政権交代選挙」を中心に、誰が何をどのように語ったのか、それはどのような意味を持っていたのか、を「言語学」の分野で分析した書。リポート・トークとラポート・トークの違いを知る上でも読み易い一冊。当然鳩山氏が当時何を語ったか、も収められている。


「原発と原爆 「核」の戦後精神史」川村湊著
広島・長崎への原爆投下から現代に至るまで、様々な作品を引き合いに、その時代に「核」がどう捉えられてきたか、を明らかにした書。ゴジラ、鉄腕アトムから吉本隆明、広瀬隆、さらに風の谷のナウシカからAKIRAまで、引き合いに出される作品・著名人は多いが、簡潔にまとめられている。主に反、または脱原発を標榜する人にこそ読んで欲しい一冊。


「夜の鼓動にふれる 戦争論講義」西谷修著
戦争とは何であるのか、を哲学的考察を中心にまとめたもの。核兵器やアウシュビッツも考察の対象であり、これも今だからこそ再読をお勧めしたい一冊。自分は主として特攻隊論考を書く際に傍照したが、戦争における「死」という点で、靖国神社とは何か、を考える際にも参考になると思われる。

というわけで、2011年のまとめ、でした。
良いお年を。