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炎上商法が焼却する果てに

 昨今、いわゆる「炎上」することが一つのマーケティングの「成功」事例になりつつある。「アンチ」が扇動することで、結果として反対する人の思惑とは裏腹に、その批判対象が「売れる」という現象である。例を挙げるまでもなく、いくらでも思い当たることは身近にあるだろう。良し悪しを別とすれば、大統領の座を射止めたトランプ氏のグッズが早々に大量に企画・販売されている現状を挙げられるかもしれない。差別/反差別界隈も同様だろう。「こんな酷い本がある」と流布されるたびにその本はAmazonのランキングを上げ、書店では入荷待ちとなることも一つならずある。
 
 直近で最大の炎上商法の事例を挙げるとするならば、間違いなく「えんとつ町のプペル」を挙げることができる。今年2017年の五本の指に入るくらいの事例かもしれない(まだ1月だが)。私はこの書籍の制作にあたって、相当数に上るだろうイラストレーター他との間でどのような契約が結ばれているか、預かり知る立場にはない。「それにしても、「クリエイターの不当労働」まで絡めてくる輩まで現れた。
いやいや、インターネット上で無料公開した方が本が売れる(結果的に売れた)んだったら、むしろ逆じゃん。クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」(声優・明坂聡美の危うさ。)もしかしたら、契約次第ではその通りなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしながら、この言葉は賛否の生じた段階での「これから、無料化できるところから無料化していって、『お金』なんて、そもそも存在しなかった時代や、地域で、おこなわれていた『恩で回す』ということをやってみます。」(お金の奴隷解放宣言。)とは相反する。前者は「売れて還元できれば問題ない」かもしれないが、後者はそんな話ではない。端的に言って開き直っているとしか感じられないだろうし、あくまで結果論でしかない。ついでに言えば、「お金の奴隷解放宣言」なるエントリーの最後の「…てなワケで俺は無料にするけど、その代わり他のクリエイターに「西野はタダにしたんだからおまえもしろ」なんて絶対言っちゃダメよ。」は「カッコイイから」という理由で後から追加された文言であるし、「「お金が無い人には見せませーん」ってナンダ?
糞ダセー。……いや、モノによっては、そういうモノがあってもいいのかもしれません(←ここ大事!ニュースになると切り取られる部分ね)。しかし、はたして全てのモノが『お金』を介さないといけないのでしょうか?」という文言がある種の免罪符になるのかもしれない(お金の奴隷解放宣言エントリー内)。一方で「ここを絶対に押さえておかないといけないのだけれど、『えんとつ町のプペル』は″情報は無料だけれど、物質は有料”という点。」という言及が後から追加されている(声優・明坂聡美の危うさ。エントリー内)。ここから透けて見えるのは、「モノ」と「物質」という使い分けなのだ。「情報」が如何にマネタイズされづらいか、その問題については情報媒体(紙)の衰退を見れば自明とも言える現象だが、その帰結はあまり好ましいとは言えないだろう。なにより、2,000円の絵本が買えない層はどのような層が想定し得るだろうか。一回だけの2,000円を支払うのが困難な層であると仮定した場合、そもそもオンラインを安易容易に使える層ではないのではないか?いわゆるデジタルデバイドの問題である。確かに書籍という媒体は、「全体を見て手元に置いておきたいと思えるかどうか」は極めて大きな要素ではある(実際私も少なからずそれに該当するだろう)。
 しかしながら、一方のエントリーでは「糞ダセー」とまで言い切って、片や後日のエントリーでは「結果的に売れた」ので還元できるから良いではないかとばかりに書くのである。しかも児童書としては相当に売った後で、の話だ。児童書の増刷可否は3,000部とか5,000部といた、極めて小ロットでの販売可否にかかっている中で、万の単位を大きく超えて売り切った後での話である。当初から斯様な姿勢を見せてやっていれば、さぞかし「カッコイイ」だろうが、クラウドファンドで製作費を賄って相応に売った後でのこれである。懐が何一つ痛まない状態で、エエカッコシイをやったところで、それこそ「糞ダセ―」話でしかないかもしれない。斟酌する内容としては、「クリエイターさんに入る収入は増えるじゃん。」という文言が文字通り、関係した制作段階で関わった様々なクリエイターに還元されるような契約であれば、それは確かにそうだろうとは思う。それでも炎上商法が良いか悪いかは別の話だが。
 極めて残念なことながら、貨幣経済というものはそれとして機能をしていて、「お金がそもそも存在しなかった時代」などと言われても、とてもそこまで戻れるとは考えられない(或はボランタリーの対価としての様々な「ポイント」みたいなものはあるかもしれないが、地域貨幣含めてそれさえ「お金」の信用の根本が何処にあるかの差異でしかなく、「恩」よりは遥かに「金」に近いだろう)。
 マッチポンプの如く炎上の燃料を投下し続けている訳なので、是非関係したクリエイターにより大きな還元をして頂きたいものである。まさかそこで「売れた分だけ要求するなんて糞ダセ―」とか「そもそも売上比例配分契約になっていない」などということはないと願いたいものだ(結果クリエイターの収入が増えれば良いということであれば、そうなるだろう)。デジタルツールの進展に伴い、クリエイティブ界隈の「正当な対価要求」はなかなか通り辛いものがある。プログラマー然りである。時給換算何時間等の「作業換算清算」以上のことを求めるのはなかなか難しい時代なのだ(それこそ知名度があれば有名料で取れるだろうが、大多数はそんな知名度など無いわけで、このクリエイティブへの支払いのダンピングは上場企業だろうが平気でやってくる)。死屍累々のそれらの上に、或は「恩」で回すことで関係者が結果「得られるものが多い」こともあるのかもしれない。そうだとしても炎上商法は関心しないが、まあ得られるものが皆無よりはまだ良いだろう。
 私は糞ダセ―ことに、こういった駄文を書いても一銭にもならないし、結果として炎上商法の加担にもなるだろうが、それでも参加した各クリエイターに還元されれば駄文を書く意味もあろうというものだ。参加したクリエイター諸氏は、手元の契約書を確認して、正当な対価を受け取れるよう、必要な対応をするべきかと思う。炎上商法の果てにあるものは、恐らくクリエイター諸氏が如何にその「マーケティング」とやらで得た収益を回収できるか、でしょう。別に私がどうこう言う話でも無いのかもしれませんし、「お前がお金の奴隷だ」と言われるかもしれませんが、「不当労働」のニュースに胸を痛めているらしい西野氏には、「正当な対価の要求」がいかに不当労働の中で締める値が大きいものであるか、恐らく自覚頂いていると思いますので、その点は遠慮も配慮も必要ないかと思います。一銭にもならないお金の奴隷ながら、奴隷根性を発揮して是非そのように対応し、得るべきものを得られるよう、祈るくらしいかできませんが、お祈りしております。

 最後に。
 
 声優の明坂聡美さんへ。
 クリエイターとして、表現者として、「無料化の波に抗えない」などというそれに、異を唱えるだけの根拠も主張もあるだろうし、「自分の首を絞める」などという言葉に抗するなら、恐らくその声を支える人は一人二人ではないだろうと思います。相手は「ロボットがどんな風に人間の仕事を奪っていくかに興味があるんです。どの職業から、ロボットに奪われてなくなっていくのか。ロボットを知れば、人間が分かるんじゃないか、と思う部分があって」という理由で、株式会社サビーボの「へんてこロボット博士」に就任するような人です。「最近では「芸人を引退して絵本作家に転身する宣言」で世間を驚かせたかと思えば、なんとその翌日、絵本作家も早々に引退。今度はパインアメ(ご存じない方は検索してください)の「特命配布主任」に転身するなど、めまぐるしいペースで肩書きが変わっていることが話題です(ご本人曰く「いろんな人に怒られている」そう)。」(キングコング西野亮廣さんがロボットノートの『へんてこロボット博士』に就任!)。
 少なくとも2016年7月の段階で芸人も引退し、その翌日には絵本作家も引退したということになっている相手ですので、今回の「絵本」がどのような経緯で制作されたにしろ、名指しで斯様なことを指摘されたことに対して、いくらでも反論する権利も自由もあると思いますし、別に喧嘩しろとか戦争しろとか言いませんが、言いたいことを遠慮なく言うだけの「御指名」だったと思います。

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諸外国の労働関連法制はどうなっているの?

 前回のエントリーが案外と読んで頂いているようで、まず乱筆乱文悪文申し訳なく(備忘録的に飲みながら書いたものなのでろくに推敲等しておりませんでした…)

 さて、それはそれとして、「日本の労働関連法制を遵守していたら国際競争力が」という提起もいくつかされているようなので、厚生労働省が調べた各国の法規がどのようになっているかの図表を見てみることにする。

 諸外国の労働時間制度の概要

 ここにはアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの法制の概要がまとめられている。法定時間外労働時間についての規制や上限など各国で様々な差異があるものの、日または週または特定の期間において、原則として労働時間は定められており、適用除外の職業も定められている。当然違反行為には様々な制裁や罰則が設けられており、救済の方法や内容も様々であるが、これが現実である。しかし、どの国の法制も労働時間を把握していることが前提で設計されていることは、至極当然のことである(そうしないと法定時間外の測定が不能であり、フランスのように換算労働時間制度を定めているような例もあるし、これは変形労働の場合の適用となるのだが、それでも合計での労働時間の定めはある)。
 また、アメリカのように法定時間外労働の上限や休日等の定めがない国もあるが、同国は法を破った場合の措置は日本よりも恐らく厳しいと言えるだろう。法定時間を故意に破って労働させた場合、禁固刑も有り得るし、場合によっては労働長官が労働者に代わって民訴を起こすこともでき、未払金に対しては同額の賠償金加算を定めるなど、破った場合の措置は非常に重いものとなっている。

 クリエイティブな仕事は労働時間が定められていたとしても、その中で納まる性質のものではない、というのは指摘として尤もであり、これでも広告代理店に居たこともあるし、レコード会社などに知己も居る。デザイナーの知己も少なくない。しかしながら、それであっても雇用契約は雇用契約であって、それは法の定める規定に(形式上であれ)拘束されたものでなければならず、実態上それを破る事例が多々あるのも事実である(朝礼時間は勤務時間に含めない、残業時間を故意に計上しない等)。転職系のクチコミサイトではエイベックスという会社が部署によって非常に大きな労働時間の差があり、またそもそも労働時間の把握をしていなかったか、或は故意に法を破ったと受け取られても仕方がないものが少なくない。過去にタイムカードが存在しない=労務時間を把握していない、250時間の月間残業のうち40時間しか計上されていない(裁量労働というわけでもない)、といったケースが書き込まれている。花形部署では相応に給与も高かった面もあるだろうが、少なくとも労働法制がそれなりに敷かれている国であれば、労務時間の把握が為されていない、故意に残業時間を計上しないというのは、どの国の法であってもやはり違法となるのではないだろうか。

 なお、クリエイターのような職種はこういった時間拘束ではその本意の仕事が出来ないという言い方にも一理あるのだが、ハリウッドには俳優その他の一般雇用契約とは異なる個別契約による俳優等のためにSAG-AFTRAという組織が存在し、これに加入することで制作サイドの一方的な搾取的条件や不利益条件に対しての補償や労働環境改善のための活動をしている(この団体の前身団体となるSAG自体は早くも1930年代に組織されている)。ハリウッドはクリエイティブな仕事が出来ないところなのだろうか?それともこういった団体組織がクリエイティブな仕事を阻害しているのだろうか?個人的にはそう思えない(駄作が多い等は別の話だ)。雇用・契約関係の対等にして適切な状態を構築することこそ、仕事の質と生産性を上げていく為の前提であり、その基盤となるのが労働関連法制なのだからこそ、重要な法制なのだという理解は、もっとしっかりと受け止められるべきであろう。

時代に合わない企業なんて早く潰れて欲しい

 エイベックス松浦氏が労基署の是正勧告に対して挑戦状と言うべき性質のことを公言しているようだ。

労働基準法 是正勧告とは

 少なくとも是正勧告に対する報道を見る限り、「残業代を適正に払っていない、実労働時間を管理していないなどの指摘を9日に受けた。」とのことなので、そもそもまともに労務管理を行っていたのかも怪しい限りではある。エイベックス、長時間労働で労基署が是正勧告

 松浦氏の公言している内容を読む限り「望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。」との意識はあるらしいのだが、そもそも「実労働時間を管理していない」と指摘されている状態で「長時間労働を抑制する」ような措置がどこまで取られていたのか疑問が残る。
 加えて、「労働基準監督署は昔の法律のまま、今の働き方を無視する様な取り締まりを行っていると言わざるを得ない。」とも公言しているが、そもそも「残業代を適正に払っていない」ということは、取り締まり以前にそもそも現在の法制をまともに守ってさえいないのだ。五十歩百歩譲って「36協定があってもそれへ残業上限のキャップをかけよう」とする現在の労働法制関連の改定への方向性を批判するならまだ解る。しかし、それであってもそもそも労働基準法では法定労働時間を超える範囲について割増して賃金を支払うことを規定している(労働基準法第37条)。労働時間の管理がそもそも出来ていないようであれば、同法の定める深夜業務の割増賃金の規定も守られていたかどうか怪しいところである。
 少なくとも様々な情報を勘案すると、同社が多少なり労務環境の改善に努めつつあったことは理解できる(真偽の程は社員や元社員の様々なクチコミの信頼の度合に拠るだろうが、悪化する一方だった訳ではないようだ。スタート地点がマイナス過ぎたかどうかは別であるが)。
 とはいえ、だ。

病院で働いている人は労働時間と治療とどちらを優先するべきか。美容師の人達、学校の先生、、、自分の夢を持ってその業界に好きで入った人たちは好きで働いているのに仕事を切り上げて帰らなければならないようなことになる。

 そもそも病院の特に看護業務等は過重労働が問題視されている業種の一つではあるし、美容師も薄給と過重労働が横行している業種の一つでもある(だから美容師は皆独立して自身の店を構えるか体を壊して退職を余儀なくされる事例が少なくない)。教師に至っては雑務の多さ等でそもそもその労務環境が問題視されている最たるものであるし、松浦氏が他に例示している官公庁も同様だ。中央官庁の国会会期中の対応に伴う深夜問わずの環境はそもそも問題視されざるを得ない問題でもある。

望まない長時間労働を抑制する事はもちろん大事だ。ただ、好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない。好きで仕事をやっている人は仕事と遊びの境目なんてない。僕らの業界はそういう人の「夢中」から世の中を感動させるものが生まれる。それを否定して欲しくない。

 実労働時間の管理も出来ていない状態で抑制も何も無いし、そもそも超過労働時間に対して適正な残業に伴う賃金清算をしていないことが指摘されているのだから、論外でしかない。私も経験上クリエイティブに関わる人達の、時として尊敬にさえ値する集中力や心身を消耗しつつ物凄い物事をやってしまう才能などは理解も出来るつもりではいる(実際そういう人はいるのだし、事実その通りなのだから)。しかし、そういった人に対して労務管理をしなくて良いかと言えばそんなことは無い。雇用関係とは契約であり、契約は法に則って行われるものである。尾ひれがついて悪評になっていると言うのであれば、そもそも最低限「法を守っていれば是正勧告など受けずに済んだ」のであり、その上で裁量労働等の対象について苦言なり諫言なりを呈するなら話を聞く道理もあるかもしれない。

好きで仕事をやっている人の制限をし、日本企業の海外競争力を弱める事にもつながる。

などと書いているが、至極当たり前の話として、「その国の法律を破らない」というのは当然であり、だからこそ様々な企業が真っ先にやることと言えば進出先の国の法規制や場合によっては宗教文化や慣習等の調査なのであって、それが出来ない企業は進出に失敗する(実際小売業の他国への進出は日本で通用したやり方をやろうとして失敗し、日本へ入ってこようとした小売業も同様の理由で失敗している)。

 多様性という言葉がいたくお気に入りのようだが、多様性とは無理や無茶或は少なくとも現行法上の法制を破る理由にはならないのであって、以下は論外と言う外にない。

今はとにかく矛盾だらけだ。
僕の法律知識なんて乏しいから間違っていることを書いているかもしれない。しかし、納得できないことに納得するつもりはない。
戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ。

 間違っていることを書いている以前にそもそも「違法行為」として是正勧告を受けている状態で、よくこのようなことを書けたものである。私も現行の様々な法体制や法規制に様々な疑問や問題を提起することに吝かではないが、同時に「納得できなから破って構わない」という話では済まないのが法律である。戦うべき時は相手が誰であろうと戦うのは大いに結構だろう。法律も万全十全ではないし、時代に合わないものもあるだろう。しかし、そもそもそれを私企業の、株主の胸算用で破って開き直って良いということには、当然ならないのだ。

僕らの仕事は自己実現や社会貢献みたいな目標を持って好きで働いている人が多い。だから本人は意識してなくても世の中から見ると忙しく働いている人がいるのは事実。

 自己実現や社会貢献といった言葉はしばしば「違法行為」を正当化する際に多用される言葉だ。体罰から洗脳紛いの研修まで、自己実現だの自己啓発だのという言葉で虚飾されてきた。社会貢献という言葉に至っては論外だ。企業は従業員の雇用と生活、それらを契約と法の範囲において守らなければならず、従業員は紛れも無いステークホルダーでもある。企業が社会における重要な位置付けである以上(少なくとも資本主義社会においては非常に重要であろう)、適切な契約の清算(法の下における労働契約上の履行義務)を怠っていたことについて、そういった美辞麗句を駆使して開き直る言動が許されるべきか否か。自ずと明らかだ。

会社の中にすぐ利用できる病院を作ったり、定期的にメンタルチェックをしたり、時間に限らない社員の労働環境をそれなりに考えてきたつもりだ。

 これらは何等の免罪符にならないし、メンタルチェックに至ってはそもそも法でそのように規定されていることでもあるので、胸を張る要素でさえない。ストレスチェックはそもそも従業員50人以上の企業には義務付けられたのだ(H27以降労働安全衛生法改定、施行)。法で定められた「最低限」について、考えるも何も無いのであって、たとえそれが法の義務規定に先駆けて実施したことであったとしても、それが義務になっただけのことであって、それ以上でも以下でもない。

 労基法違反の摘発は、昨今電通を始め大手企業で相次いでいる。それが見せしめ的意味合いがあることを否定は出来ないであろう。しかしながら、

是正勧告を受けたほぼ全ての企業の名前を世の中の人が知ることはないけど、ごく一部の目立つ企業だけは何故か見せしめのような報道をされること。

 に対して苦言を呈するのであれば、そもそも日本の企業の大半は名も知れない中小企業であり、恐らくほぼ間違いなくエイベックスという企業のビジネスを支える提携先や業務委託先或は様々な、それこそライブなどで販売するグッズ制作を請け負う企業やイベント時にアルバイトスタッフを手配する企業などは、名も知られず報道価値の無い企業であろう。それらの企業が仮に公表されたとして、ではそれらの状況を鑑みて「取引条件を改善します」などと言うだろうか。残念ながらそんなことは無い。現実を盾に取るなら、せいぜい株主の手前そういった企業に皺寄せした挙句に公表されたら取引を打ち切る程度で済ませるだろう。そのことに想像も推測も要しない。しかし同時に、そういった企業はそもそも何かを成し遂げたとしても、報道もされず名も知られず、目立つところは全て「名の知れた」企業が持って行くのだ。例えばエイベックスが関与するライブイベントに関与する企業の名を列挙したところで、大半は「何処それ?」という話にしかならない。報道で取り上げられるのは「何処それ?」でなくエイベックスというブランドである。そもそもメディアの使い方、その効果を最大に活かしてきたのがエイベックスという企業そのものではないか。「誤った時だけ報道されるのは不公平だ」というのであれば、そもそもその不公平さを最大に利用してきた企業の一つが他ならないエイベックスであろう。
 同社と契約関係の浜崎あゆみの動向一つが株価の上下に影響し、もっと言えば松浦氏自身がエイベックスという企業の株価の動向に大きな影響を与えてきた。名も知らない町工場が是正勧告を受けることと、どれほどの違いがあるか、身を以て知ってるはずであるし、そこを気にしたこともなければ知りもしなかったというのであれば、論外という外ない。2004年の一連の騒動を皆忘れていると思ったら甚だしい勘違いでしかない。

この状況を見ていると、今検討されている高度プロフェッショナル制度や裁量労働制の範囲拡大案が多様性にきちんと対応できて使いやすい制度になるかも甚だ心配だ。

 私も極めて心配である。このように開き直った挙句に法を守ることを意識もせず、破った挙句に自身の考えと法が合わないからという理由で「法律で決められた時間しか働けなくなる可能性があるようだ。」とそもそも「最低限」として設定されている労基法の規定を欠片も遵守する建前さえ放棄している企業が跋扈することは憂慮に値するだろう。「使いやすい制度」は「手前勝手に都合の良い制度」を意味しないことは、労働法制に限らず当然のことでしかない。

僕らのやってきた事おかまいなしに一気にブラック企業扱いだ。

 法を守る気が欠片も無く実際に守ってもいない企業がそう呼ばれることについて、ここまで開き直ることを是とするほど、社会も法も甘くはない。そもそも横紙破りをやっておいて、「やってきた事」とは何か。目に余る違法行為そのものではないか、やってきた事が。
 時代は国を挙げて、賃上げ、労働生産性向上、余暇の確保と消費である。だからこそ労使協定があっても残業の上限を設けようとしているのであって、過労死ラインの残業時間が明示され、「健康と労働」のバランスを取ろうとしているのだ。過去大目に見られてきたかもしれない脱法違法の類が摘発されたとして、それは適法化の過程であって、間違っても「法を破る企業のために法を変える」ことではない。

75%以上が何かしらの違反とみなされている状況。

 確かに憂慮に値するし実情の酷さに値する事実であろう。それは「法が時代に合っていない」のではない。そもそも「法を守ってさえいない」企業の多さに対して、である。労働基準法はあくまで「最低限」の基準である。ここまで守られていない事実は、いかに酷かった現実が横行していたかを示すことでしかない。労働安全衛生法や労働契約法然りである。「海外競争力」という理由で国内法の最低限をも遵守する気が欠片もないのであれば、そもそも海外に進出して堂々とその国の法を破り、堂々と「法がおかしい」と主張すると良いだろう。恐らく日本の労働法制よりも重い懲罰が飛んでくるであろう。残念ながら日本の労働法制は「破ったところで大して重い懲罰にならない」程度の量刑であって、営業停止処分などそうそう下りないし、その穴埋めを「社会的制裁」とやらで埋め合わせているに過ぎない。
 その点についてだけは、松浦氏に同情もする。そもそも社会的制裁やら報道量に拠らず、懲罰をもっと重くし実態に対して有効なものとすべきなのだから。そこまで法整備が進めば、「法で定める以上の社会的制裁は不当だ」という主張は首肯もしよう。

 まったく個人的見解としては、僅か10日ほど前に「真摯に受け止め、社内調査を含め是正に着手している」とステートメントを出していた関連部署は今頃大層頭を抱えた挙句に善後策の奔走に「より大きな業務負担」を背負わされているであろうことが想像できる点であろうか。広報担当は胃に穴が開くかもしれないし、コールセンターやその窓口は自身に責の無いクレームや罵倒の嵐に晒されるかもしれないし、イベントやライブ担当者は施設利用のキャンセルのリスクを勝手に負わされることになるかもしれず、株主や出資・融資元は今後の価値毀損に対しての試算をせなばならなくなるかもしれない。巻き込まれた人には同情もしよう。

 いずれにしろ、

戦うべき時は相手が誰であろうと僕らは戦う。それが僕らの業界とこの国の未来のためだと思うからだ。

 この点は同感である。労働者の権利と従業員の得るべき報酬、そして現時点で有効であるところの労働関連法制の履行に奔走しているであろう労基署の職員にとって、業界と国の未来のために、戦うべき相手は自明過ぎる。

自由を憎む存在を自由を以て包囲せよ

 さて、記事化して欲しい、との要望も頂いたため、以下にまとめ直すとする。
 
 まず基本的前提与件として、対象としたものは大きく分けて二つある。「思想・良心の自由」と「集会・結社・出版の自由」という二つの自由権である。前者と後者は、基本的には不可分であるが、日本国憲法においてはいくつかの条項に個別に記述されている。もっと手前のところに「生存権」といったものが存在するが、いわゆる市民的権利=Civil Rightsと普遍的権利=Human Rightsの間の行き来をした議論になることはある。しかしここでその定義付けの線引きはしない。そういう概念がある、ということだけ念頭に置いておいて貰えれば良い。
 プログラム説とプロセス説の違いも無いわけではない。イギリスのいわゆる「権利の章典」では「合法的に,余すところなく,自由な仕方でこの王国の人民のすべての身分を代表する,ウエストミンスターに集まりたる聖俗貴顕ならびに庶民は」との書き出しで始まるように、そこに「身分」が存在することを前提とし、また貴族・王族や聖職者・庶民といった様々な諸集合に対して「聖俗貴顕ならびに庶民はそれぞれの選挙の書状に従い,今余すところなく自由にこの国民を代表するものとして集い,先に述べられた目的を達成するための最善の手段をこの上なく真剣に考慮し,まず(その父祖たちが同様な場合に通例なしたように)古来からの権利と自由を擁護し,主張するために宣言する」とあるように、全ての身分乃至代表が結果として権利と自由を享受することが「それぞれが自由であることで同時に全体の自由である」へと繋げられる。それに対してフランス革命にあるそれは、所謂「天賦人権論」とされるそれで、1791年憲法の前文に「国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。」と書かれているように、イギリスの実定法的諸身分のそれぞれの権利と自由ではなく、市民として、或は人としてそれだけで所与にある自然権として、人の権利が規定された。アメリカでは元々がイギリス的法が運用されていたところに独立戦争を展開した経緯もあり、実定法的性格が強いものであるが、同時にフランス的所与の自然権的意味合いも無いわけではない。どちらかといえば実定法的自由権を自然権として規定し直した、と言うべきかもしれない。
 しばしば本邦では自由に「権利」ばかりを主張するので社会が乱れる、自由は公の為に制限される「必要」がある、という主張が為されることがある。しかし、日本国憲法に照らせば、そのような議論は現在の憲法の規定とは大きく異なる議論であるように思える。そもそも、憲法十九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という短い表現の中には様々なものが問われるものの、一般には「内心の自由」と呼ばれるものである。どのような思想・良心を抱こうが、それを裁くことはできず、これは絶対的に国家の介入を許さない条項として捉えるべきである。そして、それは特定の思想・良心を「強制されない」自由であると同時に、「表明する」自由が要請される。前者は十九条に規定の通りであるが、後者は別にいくつかの条項に分解されている。二十一条一項の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」及び二項の「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」或は二十三条の「学問の自由は、これを保障する。」等である。
 実際、法運用上もこの基本原則は平等に保障されていることを前提として、この憲法条項の抽象概念を民法や条例運用に適用させてきている。例えば、集会等の届出制度を見てみよう。東京都の「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」では、第三条に「公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。」と記載されている通り、直接且つ喫緊の危害が予測されない明白にそれと認められない限り、基本的に「許可しなければならない」のであって、それに対して制約を課す場合も、同条の一~六の規定の通り、最大限に必要条件を付す場合でも「場所又は日時」の変更を24時間前までに通告する必要があり、その場合でもその「主張」や「思想」ではなく、あくまで「暴動リスク」や、或は集会所となる場所の「職員の安全への懸念」等が理由とされる。主張・思想ではなく「行為結果が明白に直接危険を及ぼす」と予見される場合のみ、である。もちろんこれは基本原則であって、時にグレーなものが存在することはあるが、あくまでその対象は「直接的喫緊の危害」であり、その状態は明らかに現行法に抵触することをも意味する。そもそもこの集会届自体が問題視されることはあり、憲法訴訟対象にもなったことはあるが、基本的に届出に不備がない限り、そのような具体的喫緊の事態が明瞭にそれとして把握された場合、に限りそれへの制限が認められているものであり、間違っても「思想」そのものではない。都の条例でわざわざ「この条例の各規定は、第一条に定める集会、集団行進又は集団示威運動以外に集会を行う権利を禁止し、若しくは制限し、又は集会、政治運動を監督し若しくはプラカード、出版物その他の文書図画を検閲する権限を公安委員会、警察職員又はその他の都吏員、区、市、町、村の吏員若しくは職員に与えるものと解釈してはならない。」とまで記載されているのは、当該条例が個別の思想等を理由として憲法の保障する十九条や二十一条の原則に抵触しないためである。予め「差別言動が繰り返すことが解っているのだからデモを禁止しろ」というのは、都条例のこの六条の原則を大きく逸脱するものである。
 
 ここで問題になるのは他者の自由権を侵害する自由権は存在し得るのか、という点であるが、この点で唯一の憲法制約は基本的に「公共の福祉」であり、これが意味するところは個別事案の私人間の権利の衝突である。自由権は所与であり内在している、という立場である限りにおいて、そのように解されるべきである。自民党憲法草案なるものが大きな批難を浴びたのは、この権利に「公益や公の秩序」という名目で「制限し得る」という、内在的自由権を外在的自由権へ転換しようとした点であり、大日本帝国憲法の自由権が原則として外在的自由権(国家が承認し得る範囲内においてのみ自由である)であったことを念頭におけば、自明の反発でもあろう。というか、そもそもそれに反発するからこそ、自由権は常にその「線引き」と「衡量」の問題であり続ける。
 アメリカ大使館が合衆国憲法の規定する自由権について、いくつかの重要な指摘を掲載している(これを和文で載せているあたり、いかにもアメリカらしい自由の輸出ではある)。権利章典第三章の解説からいくつか引用しよう。「民主主義社会で、何よりも重んじられる権利がひとつあるとすれば、それは言論の自由である。国家から咎められることを恐れることなく、自分の意見を表明し、時の政治的な権威に異議を唱え、政府の政策を批判できることは、自由な国と独裁国家の生活の違いを示す根本的な要素である。」の書き出しで始まり、「「明白かつ現在の危険」を判断基準にしたことは、非常に道理が通っているように見える。確かに言論は自由であるべきだが、それは絶対的な自由ではない。(混雑した劇場で「火事だ!」と叫ぶ人を罰することは当然だという)良識や、戦争という切迫した状況に照らして、言論を制約することが必要になる。この「明白かつ現在の危険」という判断基準は、それから50年近くにわたり、裁判所によって何らかの形で適用されることになる。これは言論の自由の限界を超えたかどうかを判断する上で、便利でわかりやすい基準だったようだ。しかしこの基準をめぐっては、当初から疑問の声があった。米国では言論の自由の伝統は非常に強かったため、政府が反戦派たちを規制しようとしたり、裁判所がそのような措置を容認しようとしたりすることに対して、直ちに批判が噴出した。」と続き「言論の自由の歴史上、偉大な代弁者の1人が、温厚なハーバード大学法学教授ゼカリア・チェイフィー・ジュニアである。裕福で社会的に著名な一門の出である教授は、すべての国民が政府の報復を恐れることなく自分の考えを発言する権利を守るために生涯を捧げた。チェイフィー教授は、たとえ戦時体制下で国民感情が高揚しているときでも、自由な言論は守られるべきだという、多くの人々にとって当時も今も急進的と捉えられる考えを述べた。なぜなら、そういうときにこそ国民は、単に政府が国民に言いたいことだけではなく、賛否両論を聞く必要があるからである。」とされ、「ホームズ判事も、ほかの誰も、言論の自由には制限がないとは言わなかった。むしろ、この後すぐに取り上げるが、過去数十年に行われた論争のほとんどが、守られるべき言論と、守られない言論の間の、どこに一線を引くのかという問題に関するものだった。論争の核心には、「この種の言論に、なぜ憲法の保障の傘を差しのべなければならないのか」という疑問があった。意見の一致がほぼ得られている唯一の領域は、合衆国憲法修正第1条の言論の自由条項が、ほかに何を保障するにせよ、少なくとも政治的な発言を保障しているという点である。」と展開し、「憲法の起草者たちが合衆国憲法修正第1条を草案したのは、まさに多数派が、反対派を沈黙させようとするのを防ぐためだった。自由な思想の原則は、ホームズ判事が書いた有名な言葉にもあるように、「われわれに同意する人々のためではなく、われわれが嫌悪するような考え方のための自由な思想」なのである。」とされ、「悪しき言論に対抗するには、いっそう活発な言論が必要で、言論によって人々が学び、討論し、選択できる機会が与えられるのだ。この70年以上も前にブランダイス判事が残した教訓が、ここで実を結んだのである」となり、「そして国民は、ホームズ判事の考え方を常に快く感じているわけではないが、合衆国憲法修正第1条は、われわれが同意する言論ではなく、われわれが憎悪する言論を守るために存在する、という同判事の言葉には真実があることを認めている。」として結ばれる。
 果たしてアメリカがこれを実践し得ているかどうかについては、特に9.11以降揺らぎが現れてはいるものの、中途「あるいはある種の言論表現は、言論条項の保護の傘から外れるのだろうか。作家や、芸術家やビジネスマン、偏屈な人やデモ参加者、インターネットの発信者たちは、憲法上の保護を主張して、どんなに攻撃的で人々を動揺させることでも、好きなように発言していいのだろうか。これらの質問に対する簡単な回答はない。国民の合意もなければ、すべての分野の言論における連邦最高裁判所の絶対的な判断もない。国民の感情が変わるにつれて、米国がより多様化し開かれた社会になるにつれて、そしてまた新しい電子技術が米国の生活のすみずみまで行き渡るにつれて、合衆国憲法修正第1条の意味合いも、これまでもしばしばそうであったように、とりわけ政治以外の分野の言論表現をめぐり、再び流動的になっているように思われる。」と書かれているように、原則として、「どの種の表現が自由権から外れるのか」について、簡単な回答はなく、多様化し開かれた社会になる「ほど」にその線引きが問われ、より一進一退はあるにしても、相対的にはより「自由」を大きくする方向で結実してきたことは、概ね事実である。わいせつや性の問題、あるいは反戦・反政府運動に対して、あるいは公民権運動がそうであったように、ホームズ判事の示した引用先にある「民主主義は思想の自由市場で支えられているという考えが提示されたのである。思想によっては、不人気なものも、秩序を揺るがすものも、間違ったものもあるかもしれない。しかし民主主義の下では、これらすべての思想に平等な発言の機会を与えるべきである。間違ったもの、恥ずべきもの、役立たずのものは、民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐されると信じるからである。」という概念は、基本的原則であるべきだと考える。
 根本にまずもって「自由に表明される」ことがあり、その上で線引きの揺らぎがあるべきであり、 「自明に制限されて然るべき思想がある」として制限有りきで考慮することは、原則論として危険である。ベトナム戦争時の元米兵捕虜ジェームズ・H・ウォーナーの件にある「星条旗を焼く人を処罰するために、憲法を修正する必要はない。彼らが旗を焼くのは、米国を憎んでいるから、自由を恐れているからである。自由という破壊的な思想以上に、彼らを苦しめる効果的な方法はあるだろうか。自由を広めよ。・・・自由を恐れるな。それこそ、われわれが持てる最も有効な武器なのである」という言葉は、その象徴的ものと云える。昨今のヘイトスピーチ、ヘイトクライムに対してこそ、この言葉を適用すべきではないだろうか。
 
 既に周知の通り、所謂「行動する保守」と称するそれらは、主として在日韓国・朝鮮人をその対象にして展開されているが、同時に日系ブラジル人やフィリピン人にも敵意を向け、部落差別を煽り、左翼思想を嫌悪している。その行動は常に「それらの自由は制限されるべきである」であり「社会の害悪に自由など不要」である。勿論これは彼等の理路であり、同意するわけでは、決してない。そして同時にそれらが指し示す先にあるものは、そういった被差別対象者の「自由」である。前述のジェームズ元兵士が語った言葉を適用するならば、彼らが時に太極旗に嫌悪を示し、チョゴリや或はキムチを嫌悪し、侮蔑的表現を展開する際、彼らが怖れるのは何よりもそれらが「自由」であることにある。韓国政府の、いわゆる「反日政策」といった形容をされるそれでさえ、それが「自由」に展開されるからこそ嫌悪するのである。
 長らく、そういった差別は、或は部落やアイヌ、時に在日諸民族、時には性別や共産思想(いわゆるアカ)への攻撃として現れてもきた。現在進行形で推移するそれは、それらが「自由になることを怖れた」が故であって、「平等になることを怖れた」からでもある。だからこそ、「もっと自由を」と希求し、「もっと平等を」と請願することが推進されるべきである。自由の名の下に展開されるそれをさらなる自由で包囲するために。それこそが民主主義の進展であり自由の拡大である。その点において「「ヘイトスピーチの再発防止につながれば」李信恵さん、在特会・保守速報を提訴で会見【全文】」という自由に対する自由を以てする請願は支持するし、同時に「Newsweek批判への紫音さんの反論」のように、排除を以てする自由を、本来的に支持はしない。
 「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」が憲法二十一条の結社の自由に抵触するのではないか、との違憲訴訟を起こした例もある。この際に同法が一応の合理性があるとされたのは「直接には指定暴力団の構成員の具体的な暴力的要求行為が規制されることになって」いるからでもあり、指定暴力団の規定を「暴力団のうち、暴力団員が生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得るために暴力団の威力を利用することを容認することを実質上の目的とする団体」と相当に具体的且つ実態的制約を課したこともある。デモやヘイトスピーチ或はその種の集会での突発的トラブルではなく、直接にそれを目的とし、それによって生計を立てている団体の個別具体的それを、最低限指定したものである。この問題はさらに暴力団排除条例と称されるそれに至るにあたって、「さらに、「防止」を理由として、未だ罪を犯していない者の行動を重罰をもって規制し、人権の制限や事実上の団体規制が拡大され、憲法が保障する基本的人権と民主主義の原則を損ないかねないとの懸念も表明されている。」との指摘は参議院において社民党又市氏によって為された提起である。暴力団は一般に「反社会団体」として広く認識が共有されているが、それに対してさえも過剰に抑止されることに対してこのように提起されることそのものは、認められるべきであり、また為されるべきでもあろう。
 
 確かに国連からも種々の指摘は入ってもいる。しかし、それは今に始まったことではない。国連人権理事会の普遍的定期報告(UPR)の第一回UPR結果(日本政府に対するもののみ)にもあるように、それらの指摘は様々な国が様々な物事を指摘しているのであり、それは人種差別は勿論のこと、人身売買や児童虐待、性差別から死刑制度、代用監獄、アイヌ問題まで幅広い。それに対する日本政府の回答が十全とは言い難いのは事実であるし、指摘される点も指摘の通りと言えるものは多いが、個別の問題はそれとして、同報告では「複数の代表団から、ハンセン病患者の人権を促進する日本のイニシアチブを評価し、支持した。また、多数の代表団が公務員の人権教育を推進する日本のイニシアチブを歓迎した。多くの代表団が、社会経済分野を含む様々な分野での日本の国際協力を強調した。」とも記載されるように、一様に押しなべて差別国家だと言及するような内容では無い。これは差別が無いと言っているのでもなく、問題が無いと言っているのでもない。同時に、そこで評価側になっている各国にしても、それぞれにそれぞれの問題を抱えてもいる。
 
 確かに人権救済機関の必要性等は十分に議論されるべきだし、憲法上の抽象規定が実態上民法・刑法其の他によって「侵害時」に十分な救済措置を規定していない部分はある。「思想の自由市場」とされるそれに対して、「その思想はその市場に陳列されるべきではない」とする意見はしばしば述べられるが、それに対して「市場に陳列されるべきかどうかは市場に委ねられるべきである」という「間違ったもの、恥ずべきもの、役立たずのものは、民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐されると信じるからである。」という信念を、些かも揺るがせるべきではないだろう。それが「道徳的悪」であるならば、思想の自由市場がそれを必ず民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐するという信念は、何より日本国憲法前文において政治的自由権を「人類普遍の原理」としてフランス的自然権に近しい形で規定し、最大に配慮すべきものとし、国民がそれを自国のことのみに専念せずに普遍的原理として実践することを要請している。
 日本国憲法の擁護する政治的見解の自由表明の権利(言論・出版・集会・結社・思想・良心の自由)は、日本国憲法の各条項を否定する言動をも許容するものであるべきである。天皇制を廃止して共和制に移行することだって大いに議論すればよいし、或は共産党一党独裁の実践でさえ、大いに議論されれば良い。それらをも「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」という規定に含めるべきであろう。確かに人種差別を禁止する法律は無い。憲法上はそれを抽象的否定に留めている。それは事実である。しかし、反政府言動そのものを違法としたり、或は反戦運動をただその思想のみを以て違法としたり、する国よりはよほど自由である。同時にそれはあくまで「思想の自由市場」に於いてであり、それに私刑を加えたり議場を封鎖することではないはずだ。国会の審議時間や答弁時間でさえ、制限せずに、討議の限りを本来は尽くすべきであり、牛歩戦術などが一寸流行ったが、寧ろカストロが国内で10時間に及び、或は国連の議場で4時間以上に及ぶ演説をやったように、主張の限りを尽くし、議論すべきである。それは所与に自然権として有する「思想・良心の自由」「言論・出版・集会・結社の自由」に於いて為すべきであり、それこそが民主主義と自由権の、本来求められるべき有り様である。現政権が自由を怖れるのであれば、一層自由であらねばならないだろう。禁止法が無いとの指摘に対して、そのような法が無くとも自由はそれを駆逐できるのだ、と言い返すべきであろう。「われわれが同意する言論ではなく、われわれが憎悪する言論を守るために」、その自由は存在し、そのような自由であるからこそ、憎悪する言論は自由に包囲されるのである。日本国憲法十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」の規定が、当初その公共の福祉を人権の上位にある社会全体の利益と解釈する外在制約として解釈されたものが、それではあらゆる人権が社会全体の利益のために制限され得るので相互調整のための衡量原理として内在制約として解釈され直し、再びそれではあまりに調整余地が狭すぎるのではないか、と社会利益や国家利益を含める方向の解釈へと、その揺らぎを見せているが、まずもって優先すべきは自由権を不断の努力によって保持し続けることであり、濫用してはならないのであって、同時に何を濫用とするかをも含めて討議されるべきである。そのためには、己の敵と規定したものの言動そのものをも、いったんは市場に陳列した上で、その市場で淘汰されるべきであり、それは究極的には市民(敢えて国民とは言わない)が、歴史的タイムスパンで見た際、バックラッシュを挟んだとしても、長期的にはより民主的でより自由であることを形成するだろう、という民主主義の本質的根源に依拠するものであり、その市場を制限しろという要請は自由に為されるべきだが、その要請そのものは自由の濫用にも成り得る。況して討議を最初から放棄していれば猶更である。確かに愚劣で聞くに堪えない言動はあるだろう。そういったものをも包含してこそ、自由が所与に自然権として存在するそれであり、特定の何者かから自然権を剥奪することではないはずだ。そうであるからこそ、自由は自由であるが故に自由の監獄に囚われているのであり、その監獄は常に自由であることを要請し続ける。許せないそれを制限することではなく、許せないそれを自由であらしむるためにこそ、思想の自由市場が存在するのであって、統制が進んでいる、自由が失われていると感じるならば、猶更に、徹底して、抵抗的に自由を求め、自由であるべきである。そして自由は常に緊張を生み、個としての市民に負荷を掛け続ける。その負荷に堪えかねて「規制を」と叫ぶとき、それは自由が所与であることを捨てる瞬間である。
 
 
 
■関連まとめ
【呪詛】自由権と基本的人権とグランデの一件と其の他諸々 
果たして危機にあるのは民主主義の「何」なのか
【備忘録】平等と信仰と民主主義的何か

注)記事化要望を頂いたのは上記まとめの一番上のものである。十分にお応えできたかは定かではない。

大衆運動としてのナチス、

 大衆の無関心がファッショを呼び寄せる、という言動がしばしば聞かれるが、これが誤りであることを以下に簡単にまとめてみよう。
 
 もともとワイマールドイツの議会制移行後の投票率は常に極めて高い水準で推移している。1919年の83.o%をスタートに、もっとも落ち込んだ時期で1928年の75.6%、ナチスが本格的に勃興する1930年代は常に80%以上、1933年は過去1年間で3回目の選挙にも関わらず、88.8%と最高値を示している。※史料により小数点以下の差異があるがどの史料も概ねこの数値
 そして、1919年の選挙において、ボイコット戦術を展開した共産党に対して、社会民主党は37.9%の得票を得ることになった。明らかにワイマール期のドイツは「革命」でも「労働者政権」でもなく、「議会制統治」を選択している。事実社会民主党は明らかに労働者代表政党と言うよりは、大衆政党としての性格を持っていた。「抑圧する独裁権力機関」対「抑圧される労働者階級」といった状況が生起したわけではなく、寧ろ資本主義化・工業化の進展によって勃興した「大衆」という名の存在を、共産党は明らかに最初の選挙で見誤っていた。大衆は議会制を求めたのである。
 共産党は選挙ボイコットから戦術を転換し、1920年選挙の2.1%を皮切りに得票を次第に伸ばし、1932年の年内2回目の選挙では寧ろ16.9%と社会民主党に迫る勢いを見せ、30年代は常にカトリック中央党を上回る勢いを見せていた。このことも議会制という体制における体制内政党(合法政党)として支持されたことを意味するだろうし、ナチスが1924年の得票6.5%から1928年の2.8%へと下落した後、1930年代の選挙で躍進することになる。1920年代後半は好景気により支持が落ち、資金難で党大会が中止に追い込まれる有様であったが、1924年選挙から1928年選挙までの間、共産党もまた12%から10%へ伸び悩みを見せていることから、好景気が過激・先鋭な主張を望まなかったことが窺える。
 その点に於いて、共産党同様ナチスが合法的に政権を「獲りに行く」と判断したヒットラーの決断は、大衆政党として「正しかった」判断と言えるだろうし、また、そのような選択をしたからこそ大衆はナチスを「選択できた」とも言える。1930年代初頭のナチスと共産党の伸張は、明らかに1929年に波及した世界恐慌による大衆生活の窮乏が大きな要因になっていると考えることができる。右傾化・左傾化以前に、職の問題であった。1929年に失業率8.5%を記録して以降、加速度的に失業が増大し、1932年には29.9%が失業者となっている。
 

 この時期に何が進行していたかは以下が参考になる。「ドイツ近代史/木谷勤・望田幸男編著/ミネルバ書房」より引用する。
1928年末のルール鉄鋼争議が示しているように、労働争議は妥協のできない「勝利か敗北か」が問われる争議となり、それは同時にワイマール共和国の正統性が問われることを意味していた。だからヘルマン・ミュラー内閣の失業保険引上げをめぐる対立は、彼の退陣の原因ではなく契機であって、保守勢力と産業界の1924年以降の一貫した政治的意図の結果である。
 社会国家とともに公衆衛生、医療行政、社会的矯正などの制度や理論が発展していったが、社会国家の正当性が危機に瀕するについれ、社会改善のための制度や理論は社会防衛論に転化し、「異常」者や「異質」分子を共同社会から排除するイデオロギーに、そして最後はナチの人種イデオロギーにも根拠を与えることになった。(P.114)

 この後ブリューニングがその経済政策において、景気回復よりも全体主義統制経済への布石や、憲法上の大統領権限を毀損するような政策に打って出たことは、当時のワイマールドイツにおいて、ナチスがそれを変容させたのではなく、寧ろそれ以前から土壌に存在したものであるとも言える。また、従来の「保守勢力」と指摘されているのは、ユンカーや官吏等であって、ナチスはそれとは明らかに異質な、労働者をも含む広汎な層を支持基盤としていた。確かに労働者層は相対的には社会民主党や共産党の支持が強かったものの、それでも1930年には党員構成で最多を占めたのは労働者であり、他に手工業者や農民なども相当の比率を占めていた。ナチスの党員構成は明らかに党員の年代構成が若く、単に「新しい」政党であるだけでなく、「若い」政党であり、1920年代後半の混乱期にその基盤が広がっていったことは、確かに大衆政党であったことを意味するだろうし、同時に従来の「保守勢力」への叛乱でもある。
 ワイマールドイツで特筆すべき点は女性解放であるが、従来は「女性に相応しくない」とされたスポーツや、様々な職種への社会進出が進んだのは事実である。戦前は「女性を働かせるのは恥」とされ花嫁修業に充てられた婚前期間は、ワイマール期はそのインフレの加速とその後の不況により「養う余裕がない」こともあって「婚姻退社」を前提とした社会進出を促進していったのである。この過程で平行して「性と生殖の分離(婚外交渉・婚前交渉)」が広がり、また堕胎数増も進んだ。離婚件数も伸び、離婚を恥とする旧来概念への挑戦として、寧ろ好意的に受け止められもした。このような女性の解放は、同時に「性モラルの低下」「家族崩壊」として保守勢力や教会関係者からは攻撃の対象ともなったが、ナチスの「母性像」はこのような背景があったところに後乗りしただけ、とも言える。事実ナチスは女性の人権や母の尊厳など顧慮もしなかったが、上記の女性解放に「批判的」な女性団体・保守勢力とは明らかに手を組める主張であったし、母性賛美の点ではその主張は大差あるものでもなかったのである。このあたりは同著の第三章を丸々参照頂くと、理解が進むだろう。ナチスの価値観・思想はある意味では雑多な寄せ集めで支離滅裂ではあったが、それは確かに大衆の様々な運動の「ある局面」「ある主張」とは共同できるものでもあり、また大衆の政治的熱狂により、そこに収斂していったのである。そのような雑多で支離滅裂な主張・思想を超克する、およそ唯一といっても良い原理が「指導者原理」であり、それに必要だったのがヒットラーそのものの存在と言える。
 ナチスは当初より旧来の保守勢力(ユンカー等)からは寧ろ嫌悪の目で見られることもあった程度に「急進的過激派」であり、決してその保守勢力を基盤として登場したわけではない。ファッショがそもそも大衆運動に立脚する所以であり、議会制への移行と平行して登場した「大衆」は、寧ろ旧来の保守勢力とは異なる存在でさえあった。「皇帝は去ったが将軍は残った」という言葉があるが、これはいささか簡略に過ぎる。正しくは「皇帝は去ったが将軍・官僚・ユンカーは残り、大衆が生まれた」というべきだろう。1919年~1930年に至るわずか10年の激動の変化は、旧来の保守層を激しく動揺させたと同時に、新たな大衆は政治には一貫して高い関心を示していた。社会主義系統の新聞に加えて大規模なマスメディアとしての新聞・ラジオが普及することで労働者「階級」にさえそれが浸透することで、寧ろそれらの「階級」においてさえ選択肢は確実に増えていった。その中に、ナチスも存在したのである。
 
 ユンカーはまだしも「官僚」と書くとあまりピンと来ない向きもあろうが、ここでもう一冊ご紹介したい。「ファシズムへの道 ワイマール裁判物語/清水誠著/日本評論社」である。この著者の言葉として、まえがきに記載された「それらの訴訟において、旧帝政以来のイスに座りつづける裁判官たちは、おおむね、旧貴族・軍人・政治的テロ犯人に対しては寛容な、そして、民主主義者・共和主義者・労働者に対しては苛酷な態度を取り続けた」(P.3/1971年朝日新聞夕刊への寄稿より引用)との評価は、同著を読めば概ね「正しい評価」と言うことができるだろう。
 憲法は変わったが、司法官僚・裁判官はそのまま残り、それらは帝政期から引き続き残っていたが故に、当然に「革命勢力」や「共和主義者」へは、寧ろ憎悪を持っていた。その結果、憲法の精神以前に、司法の場ではワイマールドイツの発足当初より、しばしば「保守勢力」を擁護する判決がくだされ、結果としてそれは「背後からの一突き」論を補強し、また「反共イデオローグ」としての勃興勢力であるナチスを利する結果にもなったのである。「我が闘争」が収監とは言い難いような収監期に記述されたことは有名であるが、そもそもナチスのファッショを支えたヒットラーをそのようにしたのは、ナチスだから「ではなく」、もともと保守勢力が反共という点で、また新しい女性といった「旧来保守勢力」を嫌悪する体質を帝政期のまま引きずっていたことに起因するものであり、それはナチスの浸透に伴って、同著で以下のように記載されるような状況となる。

 だが、この「法的基準」はその名に値しなかった。それは規範として定着し事前に名宛人に明示されるものではありえなかったから。そこでは「裁判」が行われるのではなく、裁判官による政治的処分が存在したに過ぎない。(P.270)

 
 ファッショを生み、育てたのは、確かに大衆運動であり大衆の積極的政治参画であり、同時にそれを見事にアシストしたのは、本来それとは相容れなかったはずの「保守勢力」であったのであり、それは「右傾化」や「保守化」とは到底言い難いものであった、とさえ言えるかもしれない。いかに「民主的」憲法であれ、それを擁護する基盤となるべき司法がこの有様で、その体制で政治を決すべき有権者たる大衆がナチスを結果として選択したことで、ワイマールドイツは崩壊したのである。

■引用文献
ドイツ近代史―18世紀から現代まで

個人としての人間宣言

 「今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。」
 この一節から始まる有名な演説があります。誰もがその名は知っているであろうマーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」と呼ばれる演説です。
 「われわれの共和国の建築家たちが合衆国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる米国民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、白人と同じく黒人も、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。」と指摘されたその約束手形は、演説の中で残高不足の小切手と称された上で、「だがわれわれは、正義の銀行が破産しているなどと思いたくない。この国の可能性を納めた大きな金庫が資金不足であるなどと信じたくない。だからわれわれは、この小切手を換金するために来ているのである。自由という財産と正義という保障を、請求に応じて受け取ることができるこの小切手を換金するために、ここにやって来たのだ。」と続きます。
 
 残念ながら、私は高潔な人物でもなければ、賢慮を持ち合わせているわけでもありません。それでもなお、キング牧師の言葉と同じものを、見出さなければならない一節があります。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
 これは日本国憲法前文に掲げられた、有名な一節です。キング牧師が「白人と同じく黒人も」と問うたそれと同じように、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを「日本国民は、国家の名誉にかけ」宣誓しました。日本国憲法のこの宣言文は、その原稿において、或は日本国民の総意ではなかったかもしれません。しかし、それはキング牧師が必ずしも全黒人の代表者であったわけではないことと同様に、そこに大きな意味はありません。
 
 或は、日本国憲法以前にも、次のような一節がありました。
 「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」
 水平社宣言と呼ばれる宣言の一節です。この一節の崇高なる点は「かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ」という点に、或は集約しても良いかもしれません。
 
 確かに昨今の人種差別言動や、或はジェンダー規範や、或は性的少数者や、或は障碍者、数えればきりがないほどの社会的不公平が存在し、そこには「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」が日々、朝に昼に夕に、浴びせられるか、存在そのものが無かったかのように切断処理されていく現状は、依然根強く残っています。しかし、「正義の銀行が破綻している」などと思いたいわけもなく、また「政治道徳の法則」は普遍的なものであり、また「人間を冒涜してはならなぬ」という言葉は、今なお色褪せているわけではないでしょう。
 だからこそ、大久保で、名古屋で、鶴橋で、抗議の声を上げることは妥当であり、それらの諸理念の実現を求める運動の一つとすることができるでしょう。しかしながら、その中において、「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」と呼んで差支えないようなものも、存在する事実を認めなければなりません。「キチガイ」「知恵遅れ」「ゴキブリ」「ニート」「社会不適応者」「アニオタ」「ロリコン」といった言葉がそれです。残念ながら、これはたまたまその日に目に入ったので、有田和生氏にそれを問うと、返答は「人の心にナイフを刺す人間を人間扱いできるか!」であり、また「在日の友人たちが殴られれば体を張り守るし戦う。お前のようにみてるだけの卑怯な生き方はしない。」とのものでした。確かに差別主義者は心にナイフを刺し続け、平和と安寧を破壊し続けてきました。それは事実です。しかし、同時に私は「人間扱いできるか」という言葉に対して「人を人として扱うべきだ」ということを主張したにも関わらず、「在日の友人」といった、瞬間的に範囲が極端に狭められた問題だけに焦点をスライドしたわけです。理解に苦しみます。ヘイトスピーチが向けられるのは在日諸民族だけではないし、可視化されずらい社会的差別など、差別する側も或は善意として行うだけに一層厄介であるにも関わらず。
 
 これは、デイトレフ・ポイカートが「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」において、「50年代の世論の意識が、ユダヤ人虐殺の「比類なさ」に集中したことで、ほかの犠牲者の多くは忘れられた。戦後のドイツの世論はそれをあっさりと片づけてしまった。世論は犠牲者の特定のグループには贖罪の意を表明したが、このグループこそ、ナチズムの犯罪によって、ドイツ人の視野から消えてしまった人々であった。それに反して、NATOの公敵の一部であるロシア人、ポーランド人、共産主義者にたいする犯罪や、引きつづき烙印を押された集団であった、ジプシー、同性愛者、身体的・精神的障害者、強制的断種者、社会に適応しない者への犯罪は「忘れられた」。」(同著P411)と指摘された状況と、酷似している側面があると指摘したい。自分は在日問題だけを指摘したかったわけではありません。あの差別主義者は或は部落へも差別言動を行い、或は左翼と看做せば攻撃的言動を行ってきた事実があります。しかし、「在日」にフォーカスをあてることで、あたかも「視野から消えてしまった」集団もいます。
 確かに、或はLGBTとの連携をして「見せたり」することもあるのは知っています。しかしそれは、何らの免罪符にもならないでしょう。差別主義者の中に在日の存在がいるのと同様に、そのようなことは、欠片もその言動の正統性を担保しません。
 「なら虐げられている人を守ってみろよ。傍観者!」とも言われましたが、自分は確かに日本国籍者という意味においてはマジョリティであり、この社会の構成者の一員であり、有権者である限り、どのような政府であれ統治であれ、その責任を負うべき立場にあります。同時に、両性愛者であり、異性装趣味もあります。それらのアイデンティティをそれとして自己に引き受けるまでに、多くの自己欺瞞と葛藤と過ちを重ね、またそれを公表すれば好奇の目で珍しい玩具を手に入れたかのように扱われ、或は嘲笑され、或は要らぬ同情をされたこともありました。その意味では、他の少数属性者の人と同等・同質と言うつもりは毛頭ありませんが、傍観者であるつもりもなく、虐げられてこなかった、とも言いません(同時に自分の過去の過ちについても、過去自ら言及の通り、虐げる側であったことも事実です)。
 周知の通り、ナチスがガス室に送ったのは、ユダヤだけではなく、性的少数者や障碍者、或は社会不適応者だった事実があります。このことの意味は、特に差別の問題を扱うにあたり、極めて多くの示唆を与えてくれます。
 
 「今日はゴキブリがたくさん来るな。コックローチで追い払うかな。」という表現の妥当性はそこにあるでしょうか。「朝鮮人をガス室に送れ」と叫ぶ差別主義者に対して、「ゴキブリをコックローチで追い払う」或はより直裁に「ファシストや歴史修正主義者は死ね」と返すことが、どこまで妥当と言えるでしょうか。有田和生氏の言う「ゴキブリ」に私も含まれるでありましょう。「意見を異とする」だけで見てるだけの卑怯者として決めつけて、「人間扱いできるか」どうかを裁定することができるのですから。「人間扱い」すべきかどうかの裁定、人間扱いすべきでない存在の非人間化、非人間を殺傷することに躊躇ないことを意味しかねない表現、コックローチが殺虫剤としての意味しか持たないことが明白な表現を、そこに重ねることができるでしょう。勿論、今のところ、ガス室のように計画的実行が為されている訳ではありません。同時に、あと100年程度前に、当時のドイツに生まれていたら、或はガス室送りになっていたかもしれません。その事実に突き当たったこともあり、自分は過去の過ちから、自らのアイデンティティの肯定とともに、脱却できました。
 その内容から騒然となったアドルフ・アイヒマンは、とても凡庸で、知性が高いわけでもなく、高官になれるような学歴があるわけでもなく、「陳腐な人間」で「凡庸な悪」と評されました。だからこそ、「誰もがアイヒマンになり得る可能性がある」として指摘されもしたわけです。欧州で未だ根強い反ユダヤ主義、或は米国で未だ根強い白人至上主義を持ち出すまでもなく、ある一つの正義は、時として第二、第三のアイヒマンを生むことを、一体誰が否定できるでしょうか。
 
 ヴォルフガング・ヴィッパーマンの「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」で指摘されているように、「共産主義者たちはかれら(筆主注:トロツキスト及びトロツキストと目された者)と戦うことに全力を挙げ、なんのためらいもなく、相手をゲシュタポに売り渡した。1939年以後、スターリンの指令によって、ソ連に亡命していた共産主義者たちさえもが、直接ゲシュタポに引き渡された」(P.220)にも関わらず、東ドイツでは「かつての抵抗運動が現代政治の道具として利用されただけではなく、その歴史的役割がこのうえなく過大評価されてきたことを指摘しておこう。東ドイツで一般におこなわれていた、一方(筆主注:西ドイツ)にファシズムを、もう一方の側(筆主注:東ドイツ)に反ファシズムを置くという二分法的な見方は―残念ながら!―歴史の現実と合致しない。ドイツの抵抗は個々人の問題で、一口でいえば、国民なき抵抗であった。それは国民の大多数からあからさまに拒否されたのである。」(P.221)といったことは、容易に、残念ながら、容易に出現します。スターリンが、或は東ドイツが築いた社会は、密告と弾圧と抑圧により全体主義的統制を色濃く反映したものでした。だから共産党が、或は共産主義が悪い、というわけではありません。そうではなく、ファッショを否定して見せたところで、同種のことは、形を変えて出現し得る、またその当事者にもなり得る、そしてそれはまさしく「個々人の問題」なのです。
 私たちは、未熟で誤謬は常に犯すでしょう。だからこそ、ある一面の不正義への告発が、同時に別の不正義を齎すことは、根源的問題として拒絶されねばなりません。前者が肯定されるが故に、後者が無条件に許されるわけではないのです。
 
 アマルティア・センが「不平等の再検討 潜在能力と自由」において、エチオピアのかつての皇帝統治とその打倒において、「だが、皇帝も、また飢餓が荒れ狂っている時に流血を伴う政変によってついに皇帝を追放した反対派も、善についての他者の見解に対して寛容であるという原理を受け入れることはなかった。実際、それぞれの陣営は、他者の目的に何の慈悲を施すことなく、自分たちの目的だけを追求し、共に生きることを願って寛容に基づく政治的解決を求めることには全く関心がなかった。寛容を求める正義の政治的構想からすれば、このような状況で正義についてのいかなる判断を下すことも困難であったろう。(中略)こんなに制限の強い政治的構想では、正義はなかなか受け入れられないだろう。」(P.121)と書いたように、公平と正義を求めるそれが、必ずしも寛容と平等を齎すとは限らないのです。「世界中の人目を引くような不正義の多くは、「政治的リベラリズム」や「寛容の原理」を唱えることが容易でもなければ、特に助けとなるわけでもない社会的状況の中で起きている」(P.122)ことを考慮しなければなりません。
 
 もちろん人の集団あるいは個々人の意思や情念は、それとして認めたくない恥部を認める必要性を突きつけることもあるでしょう。石橋湛山が「直訴兵卒の軍法会議と特殊部落問題」と題して書いた論説の中に、「申すまでもなく裁判は最も公正でなければならぬ。勿論今度の軍法会議においても、その結果において何ら公正を欠くことがなかったであろうことは信ずる。が問題はその形式だ。裁判は、ただに判決において公正であるのみならず、またその形式において、何人が見ても、なるほど公正だという感を与えねば権威がない。(中略)而してもし被告にその所懐を思うままに述べしめ、あるいは弁護人を付する事により、不幸にして軍隊内部の面白からざる事情が曝露するとも、おそらく陸軍の信用はこのためかえって厚くせらるるとも、少しも傷つけられなんだろう。」(「石橋湛山評論集」岩波書店P.156~157)とあるように、過ちがあれば過ちとしてそれを率先して是正することを「何人が見ても、なるほど公正だ」という感を与えることは、その判断・結果の妥当性を高めることはあっても、決して損なうことはないでしょう。
 「人間扱いできるか」ではなく、「人間として、その社会の公正さに照らして糾弾する」ことが、求められる公正さであり、或は正義の政治的構想であるべきでしょう。それは、時に長い道程になることでしょう。何が正義であるか、ただその根本でさえ、個々人に相違があります。差別主義者に正義がある、と言うわけではありません。同時に、差別の不当性告発の動機が正義であれ、「なるほど公正だ」という言動を、果たしてできているかどうか、それはまさしく「個々人がそれとして引き受けるべき」ものであります。
 
 個々人の集合体として、社会が構成され、国家が形成されている以上、それを避けて通ることなど、できようもありません。有田和生氏は私に「傍観者の卑怯者」と決めて返答しましたが、仮に私が氏が守りたいとして例示した在日であり、声挙げられぬ者であり、その表現だけはどうしても看過し得ないとして問いを立てていたとしたら、同じ回答を氏は返したでしょうか。それとも利敵行為を働く「守る必要のないゴキブリ」として処理するのでしょうか。
 公正と平等を求める声は、本来「社会の不寛容に対する告発」であり、「寛容の要求」であるはずではないのでしょうか。自分のツイッタープロフィールはほぼすべて現実のそれとは無関係な記載をしてあるので、一体自分がどのような存在か確認もせず、或はその必要さえ感じず、「反差別言動の些末な表現に異を唱えるネトウヨのゴキブリ」として判断したのではないでしょうか。勿論自分も決して品行方正で綺麗な言葉遣いをしたわけではありません。寧ろ挑発さえ含めた表現だったことは事実です。しかし、内容については撤回の必要は認めません。一方で、しばしば指摘される「寛容の不寛容」を実践してはいない、と言えるでしょうか。
 「これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれは、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。」
 このキング牧師の言葉は、差別言動という不協和音に対して、それを「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」を以て応酬することを求めた言葉でしょうか。いつの日か、今は差別をしている白人とも、共に手を取って歩めることを、それこそが合衆国が約束した「自由」であり「平等」である、それはきっと実現する、という「この信念」が「差別の告発」としてこの言葉に結実したのではないでしょうか。
 
 確かに差別主義者の言動は看過できないものでしょう。同時に、そうであるが故に、その不協和音に対置するものが、果たしてそれで良いのか、個々人の問題として常に問われているのではないのでしょうか。
 「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」という、高邁にして高貴な理想に対して、一体どれほど差別を糾弾する側は心中に居るアイヒマンを意識しているでしょうか。私も人間です。恨み辛みもあれば、赦せない人も居ます。だからこそ、いかにそれが「人として」駄目であるか、問いたいとも思います。「人間扱いしない」ことではなく「人間扱いすること」によって、如何に個々人という人間の総体としての「社会」において、それが不正義であるかを問いましょう。
 何等の組織があるわけでもなく、決して学があるわけでもなく、非才無力な個人として、この愚かな人間という存在が、明日にはもう少しだけその愚かさが無くなると、それを希望としましょう。「赦さない」ことと「人間として認めない」こととの間には、エリコの城塞の如く、巨大な隔たりがあります。そしてそれは心中のアイヒマンのラッパの一吹きで容易に崩れ、超えてしまう一線でもあります。安易なラベリング、スローガンの多用は有田芳生議員が2007年に書かれた「何か悪政があればすぐに「ファシズム」という言葉を使うことは、知的怠慢であるだけでなく、画一主義(コンフォーミズ厶)へ陥ることだ。日本の政党は「マニフェスト」などを強調しながら、そこに政治哲学がない。いつまでも是正されない最大の欠陥だろう。アーレントはフランツ•カフカが述べたことを引用している。
 真理を語ることは難しい。真理はなるほど一つしかない。だがそれは生きており、それゆえ生き生きと変化する表情を持っているからだ。」(有田芳生の『酔醒漫録』2007年2月18日)と言う言葉の通り、知的怠慢に陥っていないでしょうか。
 私は、私たちは、或は不正義を糾弾するという正義のために、もっと本質的根源的存在として、人間は愚劣であれ何であれ、人間であり血が通い、心を持ち、生きているのだ、という事実を、しばしば忘れたがるものです。しかし、近代的人権思想が国や制度を超えて、人類の普遍的価値である、と規定されているその普遍性は、私や、私たちが決して神ではなく、任意勝手に裁定者であることを認めません。不正義の告発は社会に対して為されるものであり、裁きは司法によって行われる、その支えがあればこそ、自由と公正、政治的正義の実現が為されるのではないのでしょうか。人間は、神にもなれません。そして英雄も殉教者も、民主主義にとって必要ではありません。
 
 私がどのような存在か、或はどのような肩書きか、あるいはどのような属性か、そのようなことは、人権の普遍性の前には、あまり意味があるものではありません。名前といった記号でさえも、或は意味がないでしょう。普遍的人権という真理とされるもの、或は正義とされるものが、生き生きと変化する表情として「ゴキブリをコックローチで対処する」ような表現や「人間として扱えない」といった表現も含めるとしたら、普遍的人権はあまりにも哀しいものです。
 私は、或は私たちは、社会的不正義の告発に対して、「私もまた、同様に個として人間であり、人間として生き、人間としての権利を持っている」という言葉を言わねばならないのかもしれません。その時「人間扱いできるか!」というそれは、誰の心中にもある凡庸なアイヒマンの亡霊を、抑制すべきそれとして気付くことができるのではないでしょうか。
 敢えて言葉を選びましょう。人間は人間として、その尊厳は基本的人権とともに守られるべきであり、物のように扱うべきではなく、そしてその尊厳を踏みにじる場合は、人間として対応する、と。そしていつの日か、差別主義者の憎悪のそれを、人類は超克するのだと。そのために、まず自らが人間であらねばならないでしょう。綺麗事では差別は無くせない、ともよく言われます。確かにそうかもしれません。しかし、綺麗事そのものを放棄するして構わないわけではないでしょう。だからこそ、失われかけている綺麗事を問います。差別主義者もまた、人間です。切り離して切り捨ててしまえるものではなく、確かに厳然と存在する社会の一部であり、その愚かな行為は人間であるからこそ行われているのだと。
 確かに、反ヘイトデモで救われた、心の支えになった人も決して少なくないでしょう。そして同時に、その言動故に、そのような人にそのような言葉で代弁されたいと願わない人もいるでしょう。或はそういう人は見捨てて前に進むべき、との判断もあるかもしれません。もしそうであるなら、私はそうやって見捨てられていく、切り取られた後に残ったところで、別の道を模索するとしましょう。その判断を嘲笑して頂いても、無益と謗って頂いても構いません。これは、差別主義者を赦すでも寛容になるでもなく、私個人が人間性を回復し、人間足らんために、そういう選択をします。そして、微力無力であれ、私自身が納得し、是と判断したことを、できる範囲でやっていきます。私のように何等持ち合わせていない存在は、このように様々な先達の言や研究を、引用し理解するよう努めることしかできないかもしれませんし、それも誤っているかもしれません。しかし、これらの先達の到達点が今現在飛び交っているそれであるとは、思いません。愚かな個人として、拒否したいと思います。もっとももともと代弁するつもりも守るつもりも手を取るつもりも会話するつもりもない、無力な個人が拒否したところで、何一つ影響は無いでしょう。心中のアイヒマンを愛でて、反差別言動を続ければ宜しいと思います。その果てに何があるのかわかりませんが、そこが知的怠慢の画一主義でないことを祈りたいとは思います。

― 暫く、或は永久に会えないかもしれない、友人に捧ぐ

◆引用文献
「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」
デートレフ・ポイカート著/木村靖二・山本秀行訳/三元社

「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」
ヴォルフガング・ヴィッパーマン著/林功三・柴田敬二訳/未来社

「不平等の再検討 潜在能力と自由」
アマルティア・セン著/池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳/岩波書店

「石橋湛山評論集」
松尾尊兊編/岩波文庫

※手元にあるものが岩波書店版なので部分改訂が入っているかもしれません

◆参照ツイート

◆傍証先
差別反対でありながら「ゴキブリ」などと連呼、野間タソやきっこおじさんを擁護する有田和生さんとのやりとり
有田ヨシフとその弟、有権者をゴキブリと呼ぶ
あのね有田の弟だけど

◆参考資料
Newsweek 日本語版」2014年6月24日号
世界で増殖する差別と憎悪
社会 寛容さの喪失とSNSで世界にヘイトスピーチが蔓延する
日本 「反ヘイト」という名のヘイト
Newsweek日本語版への抗議」(のりこえネット)
Newsweek批判への紫音さんの反論

マルクス・レーニン・共産主義についての拙稿

 犬沼氏から下記を頂戴したので拙稿を投下しておくことにする。

マルクスの搾取論が間違ってたわけ

 大元はこれ。口は滑らせるもんじゃないですね、という好例であります(汗

 さて、予め断っておくと、「進歩史観を憎悪する問題 ツイート追加」ここのコメント欄にも書いたように、未来決定的(あるいは予言的)歴史観というのは、まったく個人的理由と動機により賛同しないので、決定論的階級闘争史観はまったくどうでも良いし評価もしていません。
 同時に、マルクスが想定しレーニンが継承した(ことにしておく)「労働」と「価値」の設定についても、「現代」においてまったく現状に合致していないとも考えるし、或は「暴力革命論」のようなものに至っては唾棄さえしています。
 と、ここまで読んで頂ければご理解頂けると思いますが、個人的にはマルクス「経済学」といった幻想はまったく評価もしていません。まぁソ連や東欧、或は中国人民共和国やら北朝鮮人民共和国やらの「人民共和国」という名の高度官僚集中独裁体制もまた評価していません。もっとも、それらの政体が実現した「人民共和国」における官僚制度が、マルクスやレーニンが当初想定したような解体をまったく伴っていなかったので、それらは「共産主義」の実現どころか、下手したら「共産主義へ向けた第一段階すら実現しなかった」と、その信奉者から批判もされるでしょうが、そもそも「共産主義」そのものが到底現実適用不能なものだと考えていますので、座学は座学で頑張りましょう、という結論であります。

 その前提の上で、上記の発端のツイートに戻ってみることにします。
 実のところ、その共産主義「理論」が言うほど完結的または論理的だとも考えませんし、いろいろと矛盾も孕みまた相当に夢想なものだとも判断しているので、その意味で「不要、遺物」とすることに、些かの躊躇もありません。
 というか、そもそもマルクス「主義」の実践が、権力の発露の一様態でしかない、という点において、革命夢想家の諸氏にはまったく申し訳ないことながら、「政治的イマジネーションの貧困化、涸渇化という現象のその要因として、マルクス主義が存在しているからであり、これを考えるにはマルクス主義なるものが、基本的な意味で権力の一様態にほかならぬという点をおさえておく必要がある」(吉本隆明著「世界認識の方法」/中央公論社1984/P.18)というフーコーの言葉に大いに同意もしますし、「そのディスクールは、単に過去ばかりではなく、人類の未来に対しても、ある真理の拘束力を波及させるという予言的科学でもあるわけです。つまり、科学性と予言性とが、真理をめぐる拘束力として機能しているという点が重要です」(同著P.19)という点にもフーコーの言に大いに同意であり、同時にそれであればこそ否定もし、だからこそ実践し得なかった(予言的拘束ほど理論は現実に適用するには不可能性が内在されていた)、とも考えます。

 さて、では何故、それでもなお「マルクス」や「レーニン」は色褪せずに済む可能性は何処にあるのか。
 ここからはまったく個人的見解であり、或は研究者諸氏や実践者には、ある意味での噴飯物になるであろうことを承知で書いていくが、自分が個人的にそこに見出す可能性は、「主義」やまたは「経済学」、 或は「歴史観」や「階級概念」では「まったくない」ことは断言しておく。上述の通り、自分はそれら総体にはまったくもって賛同も納得もしていないし、また同意もしない。そういうことではまったくなしに、枝葉の部分にこそ、その着目し見直されるべき点もあるだろう、という意味で、「マルクス主義」或は「マルクス=レーニン主義」或は「共産主義」との決別と遺物化と平行して、その枝葉に立ち現れる原点的問題意識こそ焦点になる、とも考えます。そしてそれらの言は今なお、或は他の「主義」として、或は別の「行動」の中に立ち現れる言でもあり、珍しい物では決してありません。
 たとえば、バーゼルにおける国際社会党臨時大会の宣言において「とくに大会は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシア間の旧敵対関係の再生に反対するばかりでなく、現在別の陣営に属しているバルカン民族、すなわちトルコ人、アルバニア人に対するどのような迫害にも反対すべきことを、バルカンの社会主義者たちに要求する。だから、バルカンの社会主義者は、これらの諸民族のどのような権利剥奪ともたたかい、ときはなたれた国民的排外主義に反対して、アルバニア人、トルコ人、ルーマニア人をもふくめた全バルカン民族の友好を宣言する義務をおうている。」(レーニン著、宇高元輔訳「帝国主義」/岩波書店1956/P.211)といった、その原理原則をまず率先して自らに「義務」として課そうとする態度は肯定します(その後の進展は別として)。この態度はそれが実践されている限りにおいて、否定すべきではないだろうし、何よりこういった理念はその後の人権の進展にも寄与したはずでしょう(当人達が望む形であったか否かを問わず)。
 また、プロレタリア「階級」というものが、理論上の幻想であったとしても、「機械装置が次第に労働の差異を消滅させ、賃金をほとんどどこにおいても一様の低い水準に引き下げるので、プロレタリア階級の内部における利害、生活状態はますます平均化される。」(マルクス・エンゲルス著、大内兵衛・向坂逸郎訳「共産党宣言」/岩波書店1951/P.51)と述べられたそれのうち、一部は実際に現出している点は考慮されてよいようには思う(実際には一様の低い水準に引き下がったわけではなく、機械装置はおろか職能そのものにおいてさえ置換可能なものが低くなり、置換不可能なものは高くなるといった「利害の深化」が発生しているので、あくまで「一部」ではある)。また、「現存社会内の多かれ少なかれかくれた内乱を追求して、それが公然たる革命となって爆発する点まで達した。」(同著P.55)といった、顕在化しない軋轢が限界を超えるといかに社会不安を惹起するかという点において「それをさせてしまうとさらに酷いものがやってくる」という反面教師的意味で、意味がないわけではないようにも思えます。そういった「革命」騒ぎになる前に社会はその軋轢を「発見」し「向かい合い」なんらかの「妥結点」を見つけるべきで、放置し黙認しあるいは無視するのではなく。
 或は、ラッサールの社会主義に対して述べられた「マルクスは言う、ここには実際「平等の権利」があるにはあるが、しかし、これはやはり「ブルジョワ的権利」であって、他のすべての権利と同じく不平等を前提している。すべて権利とは、実際にはひとしくなく、たがいに平等でない種々の人間に、同じ尺度を適用することである。「平等な権利」が平等の侵害である不公正であるのは、このためである。」(レーニン著、宇高元輔訳「国家と革命」/岩波文庫1957/P.130)と述べられた際に気を付けるべきは権利が「ブルジョワ的か否か」といったマルクスやレーニンが掲げた命題の根幹の部分「ではなく」、形式的権利が平等であったとしても、それが不平等を内在することは実際に存在し得るものであり、同時に「平等でない種々の人間に同じ尺度を適用する」ことの意味合いを推し量ることでもあるでしょう。ただ、個人的にはここから革命やらに展開することは求めもしない。同時にこういった着眼において重要なのは「民主主義」における「形式的平等」であったり、「自由主義」における「外形的権利」というものが、それであるが故に内在的不平等を惹起する、という点を考慮の上で、それが実質面で是正される方向で指向「され続ける」必要がある、というに留めたい。完全に民主主義的平等を、レーニンの言うような形で(武装した人民・兵士により「すべての人」が国家的機能を遂行し、或は順番に統治する形で)実現するのは夢想どころか悪夢でもあり、ましてやそれを「自主的に参加」するなど、理想ではあり得ても現実にはあり得ないでしょう(強制されない限り)。一方で「社会主義のもとでは、「原始的」民主主義のうちの多くのものが、不可避的にふたたび活気づくであろう。」(同著P.163)といった、原則論としての「国民すべてがその「民主主義」に自発的に参加すべき」という理想そのものは「永遠に実現しないが常に求め続けるべき」ものであろうし、それは同時に「民主主義」の本質でもあるでしょう。

 まったくもって身も蓋もない話にはなるものの、個人的には、そう、まったく個人的には、マルクスやレーニンが打ち立てた「理論」そのものではなく、彼らが「民主主義の理想形」として思い描いたもの(それは永遠に実現もせず、また共産主義革命を経るものでもないもの)を、その枝葉の部分で現代になお有効な部分を「摘み食い」することはできるだろう、という意味において、マルクス・レーニン「主義」ではなく、また「マルクス経済学」でも「階級史観」でもなく、その「発端」なり「問題意識」のみをリサイクルすることができる「程度」には無価値ではないだろう、と。
 摘み食いの結果、当然にマルクスやレーニンが追い求めた「共産主義」は永遠に実現しない、ということにはなるわけですが。

 犬沼氏の問いかけに対して妥当な応答になっているようには思わないので恐縮なのだが、マルクスやら(或はエンゲルスやら)からレーニン或は帝国主義や資本論、或は労働と価値をめぐる彼らの誤謬はまったく「どうでも良い」ことではないか、と。それを「思索するに至った意識」という、理論や実践以前の、或は思索・哲学の根源を射程にする、という意味において「のみ」は、まだ捨てなくても良いのではないだろうか、と。いみじくも前部で引用した吉本隆明の「世界認識の方法」において吉本とフーコーとの対談で合意点となっている「縁を切るべき対象としてマルクスとマルクス主義を区別する」(同著P.17)といった感じで、且つマルクス(レーニンでも良いです)が「何を考えていて、何処に欠点があり、何処が着眼点としてあれだけの影響を及ぼしたのか」という点を「のみ」は、有効とは言わないまでも、無効ではないのではないでしょうか。同著で「<プロレタリアートと資本家>という概念なのですが、吉本さんは、この概念と現実とを混合してはならないと明言されています。」(P,130)とフーコーが語った際、同時にそれが「いわゆる<マルクス主義>者とは完全に異なる解釈」と指摘しているのは示唆的ではありますが、その主義主張が「実践的」あるいは「構築された論理的」という意味において、まったく無価値或は誤謬であったとしても、彼の人達が思索した位相が、或は深層が何処にあり、それはどの程度現在も資本主義或は民主主義或は自由主義において内在され是正され「続ける」ものなのか、といったものを考慮する場合において、無価値ではないのではないか、と考える次第です。

P.S.これ共産主義者や研究者から盛大に不勉強なり日和見主義なり剽窃者なりと言われるんだろうなぁ

■参考・引用文献(注:上記引用と増刷・発刊年が異なるものがあります)