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言論・表現の自由を巡るとある一例

 断っておくが、今回の3Dプリンターのそれとは切り離して、以下を書く。
 
 引用はすべて「全検証 ピンクチラシ裁判 言論・表現の自由はこうして侵害された」(清水英夫編著/一葉社/1993)より。

1986年7月18日、朝日新聞の夕刊社会面を見て驚いた。
「売春広告で荒稼ぎ」「組幹部ら5人逮捕」「印刷業者も書類送検」(P.20)

 
 この印刷業者は1979年に歌舞伎町にプリントショップを開店した。場所柄「こワイおニイさんも来るし、外国人の水商売の客も多い(P.23)」一方で、「「警察署」からの注文もある。もちろん、超特急、最優先だ(P.23)」だったそうだ。創業7年にして、ようやく事業が安定してきた矢先に上記の新聞記事が出された。この業者はどの顧客にも価格等を弄ることなく、対等平等に接していたそうである。警察からの注文が入ることで、「ピンクチラシ」の注文を断る口実ができたとさえ喜んでいたそうだ。
 

A印刷が”ピンクチラシ”を受注していた当時、顧客としてかなり大勢の警察官が出入りしていたが、刷り上がったばかりの印刷物を見て、「こういうモノを印刷するのは犯罪だ」と指摘したりした警察官は誰一人いなかった。(P.27)

 実際にこの印刷業者はこの種の仕事は嫌がり、それらしき文言が隠喩でさえあれば断り、判断がつかないものは警察に判断を仰ぐよう押し問答をした挙句に客として来たそれを怒らせて帰らせてしまったこともあったそうだ。この時摘発された業者は二社あったが、一社はしっかりと納税もし、もう一社は新聞の切り抜きを持ってやってきた税務署の職員が“ピンクチラシ”と指摘されたそれで「荒稼ぎ」どころかむしろ損をしていることを確認して同情したほどであったそうだ(未収額等の方がよほど大きかったらしい)。後社はこの新聞記事を契機として、廃業に追い込まれることになる。
 この摘発(?)の時期はちょうど死刑廃止運動(といっても講演程度)から反原発運動、市民運動系に大量の無差別ガサ入れが入っていた時期であり、あの福島瑞穂氏がまだ弁護士活動をしていた時期でもある。この時に「理由なくガサられた」として六十人近い人間が国家賠償訴訟を起こした(P.40)が、その時には既にガサ入れがあった、という理由だけで退職に追い込まれるなど、家庭崩壊・生活基盤の崩壊を起こした人も少なくないようだ。この部分(P.40)の記述を担当している丸山友岐子氏は、一面識もない人物の住所録に記載があったこと(なお相当公に入手可能な名前・住所)と、死刑廃止の講演に行った一回のそれで「過激派」としてマークした人が居た、の二点でガサ入れされている。なお、このガサ入れは「日本赤軍」を名乗って活動したこともある丸岡が旅券法違反で逮捕され、それに関連したものである。たまたま集会に誘われ、日程があったので参加し、回覧されてきた署名に記名しただけ、である。丸岡氏が日本赤軍を名乗って活動したことがあったかどうか、丸山氏は恐らくガサ入れされるまで気付かなかったようだ。この時の朝日新聞の報道の酷さ(自身のだけではなく、知己にも巻き込まれた人がいたようだが、日本赤軍とは無関係)はP.44~46あたりに簡潔に記載されているが、その理不尽さへの怒りは推し量れる(朝日だけではないいくつかの紙面が明示されているが、もっとも辛辣に批判されている)。
 上記の二社のうち後者の一社は、新聞記事のおかげで倒産・失業の挙句に、書類送検した当の検察から「早く認めて謝る」よう何度も忠告されたそうで、「すぐ謝って有罪になってもいいと思っているんです」とすっかり参っていたそうだ。なお、新聞が「印刷業者も書類送検へ」と報道を飛ばした時は、まだ「取り調べ中」だったようである。
 なお、相談に行った先の弁護士には「でも刷ったんでしょ?」と言われたそうだが、それをきっかけに「売春情報」を出版物を探して回ったそうだが、当然に呆れるほどあっさり多数「週刊誌」がそれを掲載していて、それらの出版物は大手出版社だったそうだ(社名は記載無し)。なお、協力者に恵まれたようで、いろいろな事例が回収できたようだが、「ANAL SEX ONLY」と書き「当店は買春をやっておりません」と御丁寧に記載されたチラシもいくつも見つかったようである(P.56)。なお、売春防止法では「性器と性器の結合」が対象であり、巧妙に法の抜け道を潜り、「やっておりません」と法に適った文言を書いたわけである。悪法も法なりとはよく言ったものだ。なお、戦前の事例も調べたようだが、治安維持法下でも「刷る」ことだけをもって「幇助罪」に問われた例はなかったそうである(P.57)。
 なお、書類送検の対象となった”ピンクチラシ”の印刷物というのは、二社のうちの一社が黒いユニフォームの一団に店を占拠され、拒み続けたもののほとほと困り果て、もう一社が「これっきりということであれば」と助け舟を出したのが徒となった代物であった。この二社がちょうど第一審判決の出る直前に、別件同容疑で起訴されていた別の印刷業者が懲役四ヵ月執行猶予二年の判決を喰らっている。
 弁護団の憲法判断闘争も実らず、「チラシを見た。見たからには売春用と認識していたはずだ」との判決文とともに、懲役三か月執行猶予二年の判決が下る。この判決が午前中より三日間にわたり連日テレビがガンガン実名報道を繰り返し、ご丁寧に店舗を隠し撮りまでして垂れ流したお蔭で、遠い場所にいる実家には本件のことは告げていなかったにも関わらず、「まるで連続殺人犯みたいな騒ぎじゃないか」(P.69)と、こっぴどく「叱られた」そうである。
 
 この第一審判決の後、さすがにあまりに酷いとのこともあり、77人にも及ぶ大弁護団が半ば任意に結成され高裁に臨むことになった。憲法の専門家、先般裁判官を退任されたばかりの弁護士、風俗問題を主として扱う弁護士から、アメリカ人弁護士など、凡そ零細業者には望外な豪華な弁護団である。海外で同種の「刷る」ことによっての有罪事例がないこと、戦前の治安維持法下でもそのような事例がないこと、刑法運用の観点から問題が多いことなど、およそあらゆる方面からその不当性を告発し、判決に臨んだ。結果は高裁も一審同様の判決であった。判決公判に先立って、この事案の持つ意味合いなどを一通り記者会見でレクチャーした後、一審判決時のテレビ報道における報道姿勢や内容がいかに無関係の人間をも巻き込む大事であるかを声を大にして訴えたところ、今度は二審有罪の事実さえも今度は報じず、却って新聞が大きく取り上げるといった事態に至る(P.75)。

 一審・二審と結審した二ヵ月後の1991年2月、表現規制界隈では有名な「有害コミック一斉摘発」が始まり、書店員、零細印刷・出版業者を中心に、70名以上が書類送検されることになる(P.77)。そして最終的に1993年、最高裁で有罪が確定するに至った。
 なお、この当時の売春防止法では管理売春罪(置屋等)、ソープランドなどは場所提供罪、愛人バンク等は周旋罪、ビラまきやポン引きは誘引罪等である。看板や印刷の類を規制するような法律はなく、売春防止法は売春に及ぶ当事者は処罰対象外となっている。なお、1960年代~90年代にかけて、本邦からの「売春ツアー」はその行先を変えつつ各国で都度批難されることにもなっていたが、まさにその流れの中で、売春防止から最も「遠い」印刷業者がその印刷行為を以て「幇助」とされた判例が残ることになったのである。1990年代以降、1994年に「児童の権利に関する条約」を批准した僅か2年後の1996年にはそれまで隠語として使われていた「援助交際」なる言葉が流行語大賞に入賞することになる。まことに滑稽なことである。
 この後、同著では延々と各氏が日本国憲法上の疑義、自由権の問題から各国での同種問題での司法判断や世論傾向、戦前でも為されなかったような「幇助罪」適用の重大性などを各方面から指摘を加えている。是非一読されたい。証言内容がどのようなものであったのか、それに対してどのような判決が下されたのかも網羅している。
 同著の結びは、日本国憲法・売春防止法・刑法出版法の各該当法令の引用と、一連の経緯年表で締めくくられている。

 
 
 同著を読んで、それでもなお「愛国ポルノの出版」または「店頭配荷そのもの」が「悪であり法規制されるべき」と判断できるとしたら、個人的には相当現状の司法運用への信頼が高いのだろうな、と思いつつ、暗澹たる気持ちになる次第である。

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個人としての人間宣言

 「今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。」
 この一節から始まる有名な演説があります。誰もがその名は知っているであろうマーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」と呼ばれる演説です。
 「われわれの共和国の建築家たちが合衆国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる米国民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、白人と同じく黒人も、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。」と指摘されたその約束手形は、演説の中で残高不足の小切手と称された上で、「だがわれわれは、正義の銀行が破産しているなどと思いたくない。この国の可能性を納めた大きな金庫が資金不足であるなどと信じたくない。だからわれわれは、この小切手を換金するために来ているのである。自由という財産と正義という保障を、請求に応じて受け取ることができるこの小切手を換金するために、ここにやって来たのだ。」と続きます。
 
 残念ながら、私は高潔な人物でもなければ、賢慮を持ち合わせているわけでもありません。それでもなお、キング牧師の言葉と同じものを、見出さなければならない一節があります。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
 これは日本国憲法前文に掲げられた、有名な一節です。キング牧師が「白人と同じく黒人も」と問うたそれと同じように、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを「日本国民は、国家の名誉にかけ」宣誓しました。日本国憲法のこの宣言文は、その原稿において、或は日本国民の総意ではなかったかもしれません。しかし、それはキング牧師が必ずしも全黒人の代表者であったわけではないことと同様に、そこに大きな意味はありません。
 
 或は、日本国憲法以前にも、次のような一節がありました。
 「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」
 水平社宣言と呼ばれる宣言の一節です。この一節の崇高なる点は「かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ」という点に、或は集約しても良いかもしれません。
 
 確かに昨今の人種差別言動や、或はジェンダー規範や、或は性的少数者や、或は障碍者、数えればきりがないほどの社会的不公平が存在し、そこには「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」が日々、朝に昼に夕に、浴びせられるか、存在そのものが無かったかのように切断処理されていく現状は、依然根強く残っています。しかし、「正義の銀行が破綻している」などと思いたいわけもなく、また「政治道徳の法則」は普遍的なものであり、また「人間を冒涜してはならなぬ」という言葉は、今なお色褪せているわけではないでしょう。
 だからこそ、大久保で、名古屋で、鶴橋で、抗議の声を上げることは妥当であり、それらの諸理念の実現を求める運動の一つとすることができるでしょう。しかしながら、その中において、「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」と呼んで差支えないようなものも、存在する事実を認めなければなりません。「キチガイ」「知恵遅れ」「ゴキブリ」「ニート」「社会不適応者」「アニオタ」「ロリコン」といった言葉がそれです。残念ながら、これはたまたまその日に目に入ったので、有田和生氏にそれを問うと、返答は「人の心にナイフを刺す人間を人間扱いできるか!」であり、また「在日の友人たちが殴られれば体を張り守るし戦う。お前のようにみてるだけの卑怯な生き方はしない。」とのものでした。確かに差別主義者は心にナイフを刺し続け、平和と安寧を破壊し続けてきました。それは事実です。しかし、同時に私は「人間扱いできるか」という言葉に対して「人を人として扱うべきだ」ということを主張したにも関わらず、「在日の友人」といった、瞬間的に範囲が極端に狭められた問題だけに焦点をスライドしたわけです。理解に苦しみます。ヘイトスピーチが向けられるのは在日諸民族だけではないし、可視化されずらい社会的差別など、差別する側も或は善意として行うだけに一層厄介であるにも関わらず。
 
 これは、デイトレフ・ポイカートが「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」において、「50年代の世論の意識が、ユダヤ人虐殺の「比類なさ」に集中したことで、ほかの犠牲者の多くは忘れられた。戦後のドイツの世論はそれをあっさりと片づけてしまった。世論は犠牲者の特定のグループには贖罪の意を表明したが、このグループこそ、ナチズムの犯罪によって、ドイツ人の視野から消えてしまった人々であった。それに反して、NATOの公敵の一部であるロシア人、ポーランド人、共産主義者にたいする犯罪や、引きつづき烙印を押された集団であった、ジプシー、同性愛者、身体的・精神的障害者、強制的断種者、社会に適応しない者への犯罪は「忘れられた」。」(同著P411)と指摘された状況と、酷似している側面があると指摘したい。自分は在日問題だけを指摘したかったわけではありません。あの差別主義者は或は部落へも差別言動を行い、或は左翼と看做せば攻撃的言動を行ってきた事実があります。しかし、「在日」にフォーカスをあてることで、あたかも「視野から消えてしまった」集団もいます。
 確かに、或はLGBTとの連携をして「見せたり」することもあるのは知っています。しかしそれは、何らの免罪符にもならないでしょう。差別主義者の中に在日の存在がいるのと同様に、そのようなことは、欠片もその言動の正統性を担保しません。
 「なら虐げられている人を守ってみろよ。傍観者!」とも言われましたが、自分は確かに日本国籍者という意味においてはマジョリティであり、この社会の構成者の一員であり、有権者である限り、どのような政府であれ統治であれ、その責任を負うべき立場にあります。同時に、両性愛者であり、異性装趣味もあります。それらのアイデンティティをそれとして自己に引き受けるまでに、多くの自己欺瞞と葛藤と過ちを重ね、またそれを公表すれば好奇の目で珍しい玩具を手に入れたかのように扱われ、或は嘲笑され、或は要らぬ同情をされたこともありました。その意味では、他の少数属性者の人と同等・同質と言うつもりは毛頭ありませんが、傍観者であるつもりもなく、虐げられてこなかった、とも言いません(同時に自分の過去の過ちについても、過去自ら言及の通り、虐げる側であったことも事実です)。
 周知の通り、ナチスがガス室に送ったのは、ユダヤだけではなく、性的少数者や障碍者、或は社会不適応者だった事実があります。このことの意味は、特に差別の問題を扱うにあたり、極めて多くの示唆を与えてくれます。
 
 「今日はゴキブリがたくさん来るな。コックローチで追い払うかな。」という表現の妥当性はそこにあるでしょうか。「朝鮮人をガス室に送れ」と叫ぶ差別主義者に対して、「ゴキブリをコックローチで追い払う」或はより直裁に「ファシストや歴史修正主義者は死ね」と返すことが、どこまで妥当と言えるでしょうか。有田和生氏の言う「ゴキブリ」に私も含まれるでありましょう。「意見を異とする」だけで見てるだけの卑怯者として決めつけて、「人間扱いできるか」どうかを裁定することができるのですから。「人間扱い」すべきかどうかの裁定、人間扱いすべきでない存在の非人間化、非人間を殺傷することに躊躇ないことを意味しかねない表現、コックローチが殺虫剤としての意味しか持たないことが明白な表現を、そこに重ねることができるでしょう。勿論、今のところ、ガス室のように計画的実行が為されている訳ではありません。同時に、あと100年程度前に、当時のドイツに生まれていたら、或はガス室送りになっていたかもしれません。その事実に突き当たったこともあり、自分は過去の過ちから、自らのアイデンティティの肯定とともに、脱却できました。
 その内容から騒然となったアドルフ・アイヒマンは、とても凡庸で、知性が高いわけでもなく、高官になれるような学歴があるわけでもなく、「陳腐な人間」で「凡庸な悪」と評されました。だからこそ、「誰もがアイヒマンになり得る可能性がある」として指摘されもしたわけです。欧州で未だ根強い反ユダヤ主義、或は米国で未だ根強い白人至上主義を持ち出すまでもなく、ある一つの正義は、時として第二、第三のアイヒマンを生むことを、一体誰が否定できるでしょうか。
 
 ヴォルフガング・ヴィッパーマンの「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」で指摘されているように、「共産主義者たちはかれら(筆主注:トロツキスト及びトロツキストと目された者)と戦うことに全力を挙げ、なんのためらいもなく、相手をゲシュタポに売り渡した。1939年以後、スターリンの指令によって、ソ連に亡命していた共産主義者たちさえもが、直接ゲシュタポに引き渡された」(P.220)にも関わらず、東ドイツでは「かつての抵抗運動が現代政治の道具として利用されただけではなく、その歴史的役割がこのうえなく過大評価されてきたことを指摘しておこう。東ドイツで一般におこなわれていた、一方(筆主注:西ドイツ)にファシズムを、もう一方の側(筆主注:東ドイツ)に反ファシズムを置くという二分法的な見方は―残念ながら!―歴史の現実と合致しない。ドイツの抵抗は個々人の問題で、一口でいえば、国民なき抵抗であった。それは国民の大多数からあからさまに拒否されたのである。」(P.221)といったことは、容易に、残念ながら、容易に出現します。スターリンが、或は東ドイツが築いた社会は、密告と弾圧と抑圧により全体主義的統制を色濃く反映したものでした。だから共産党が、或は共産主義が悪い、というわけではありません。そうではなく、ファッショを否定して見せたところで、同種のことは、形を変えて出現し得る、またその当事者にもなり得る、そしてそれはまさしく「個々人の問題」なのです。
 私たちは、未熟で誤謬は常に犯すでしょう。だからこそ、ある一面の不正義への告発が、同時に別の不正義を齎すことは、根源的問題として拒絶されねばなりません。前者が肯定されるが故に、後者が無条件に許されるわけではないのです。
 
 アマルティア・センが「不平等の再検討 潜在能力と自由」において、エチオピアのかつての皇帝統治とその打倒において、「だが、皇帝も、また飢餓が荒れ狂っている時に流血を伴う政変によってついに皇帝を追放した反対派も、善についての他者の見解に対して寛容であるという原理を受け入れることはなかった。実際、それぞれの陣営は、他者の目的に何の慈悲を施すことなく、自分たちの目的だけを追求し、共に生きることを願って寛容に基づく政治的解決を求めることには全く関心がなかった。寛容を求める正義の政治的構想からすれば、このような状況で正義についてのいかなる判断を下すことも困難であったろう。(中略)こんなに制限の強い政治的構想では、正義はなかなか受け入れられないだろう。」(P.121)と書いたように、公平と正義を求めるそれが、必ずしも寛容と平等を齎すとは限らないのです。「世界中の人目を引くような不正義の多くは、「政治的リベラリズム」や「寛容の原理」を唱えることが容易でもなければ、特に助けとなるわけでもない社会的状況の中で起きている」(P.122)ことを考慮しなければなりません。
 
 もちろん人の集団あるいは個々人の意思や情念は、それとして認めたくない恥部を認める必要性を突きつけることもあるでしょう。石橋湛山が「直訴兵卒の軍法会議と特殊部落問題」と題して書いた論説の中に、「申すまでもなく裁判は最も公正でなければならぬ。勿論今度の軍法会議においても、その結果において何ら公正を欠くことがなかったであろうことは信ずる。が問題はその形式だ。裁判は、ただに判決において公正であるのみならず、またその形式において、何人が見ても、なるほど公正だという感を与えねば権威がない。(中略)而してもし被告にその所懐を思うままに述べしめ、あるいは弁護人を付する事により、不幸にして軍隊内部の面白からざる事情が曝露するとも、おそらく陸軍の信用はこのためかえって厚くせらるるとも、少しも傷つけられなんだろう。」(「石橋湛山評論集」岩波書店P.156~157)とあるように、過ちがあれば過ちとしてそれを率先して是正することを「何人が見ても、なるほど公正だ」という感を与えることは、その判断・結果の妥当性を高めることはあっても、決して損なうことはないでしょう。
 「人間扱いできるか」ではなく、「人間として、その社会の公正さに照らして糾弾する」ことが、求められる公正さであり、或は正義の政治的構想であるべきでしょう。それは、時に長い道程になることでしょう。何が正義であるか、ただその根本でさえ、個々人に相違があります。差別主義者に正義がある、と言うわけではありません。同時に、差別の不当性告発の動機が正義であれ、「なるほど公正だ」という言動を、果たしてできているかどうか、それはまさしく「個々人がそれとして引き受けるべき」ものであります。
 
 個々人の集合体として、社会が構成され、国家が形成されている以上、それを避けて通ることなど、できようもありません。有田和生氏は私に「傍観者の卑怯者」と決めて返答しましたが、仮に私が氏が守りたいとして例示した在日であり、声挙げられぬ者であり、その表現だけはどうしても看過し得ないとして問いを立てていたとしたら、同じ回答を氏は返したでしょうか。それとも利敵行為を働く「守る必要のないゴキブリ」として処理するのでしょうか。
 公正と平等を求める声は、本来「社会の不寛容に対する告発」であり、「寛容の要求」であるはずではないのでしょうか。自分のツイッタープロフィールはほぼすべて現実のそれとは無関係な記載をしてあるので、一体自分がどのような存在か確認もせず、或はその必要さえ感じず、「反差別言動の些末な表現に異を唱えるネトウヨのゴキブリ」として判断したのではないでしょうか。勿論自分も決して品行方正で綺麗な言葉遣いをしたわけではありません。寧ろ挑発さえ含めた表現だったことは事実です。しかし、内容については撤回の必要は認めません。一方で、しばしば指摘される「寛容の不寛容」を実践してはいない、と言えるでしょうか。
 「これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれは、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。」
 このキング牧師の言葉は、差別言動という不協和音に対して、それを「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」を以て応酬することを求めた言葉でしょうか。いつの日か、今は差別をしている白人とも、共に手を取って歩めることを、それこそが合衆国が約束した「自由」であり「平等」である、それはきっと実現する、という「この信念」が「差別の告発」としてこの言葉に結実したのではないでしょうか。
 
 確かに差別主義者の言動は看過できないものでしょう。同時に、そうであるが故に、その不協和音に対置するものが、果たしてそれで良いのか、個々人の問題として常に問われているのではないのでしょうか。
 「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」という、高邁にして高貴な理想に対して、一体どれほど差別を糾弾する側は心中に居るアイヒマンを意識しているでしょうか。私も人間です。恨み辛みもあれば、赦せない人も居ます。だからこそ、いかにそれが「人として」駄目であるか、問いたいとも思います。「人間扱いしない」ことではなく「人間扱いすること」によって、如何に個々人という人間の総体としての「社会」において、それが不正義であるかを問いましょう。
 何等の組織があるわけでもなく、決して学があるわけでもなく、非才無力な個人として、この愚かな人間という存在が、明日にはもう少しだけその愚かさが無くなると、それを希望としましょう。「赦さない」ことと「人間として認めない」こととの間には、エリコの城塞の如く、巨大な隔たりがあります。そしてそれは心中のアイヒマンのラッパの一吹きで容易に崩れ、超えてしまう一線でもあります。安易なラベリング、スローガンの多用は有田芳生議員が2007年に書かれた「何か悪政があればすぐに「ファシズム」という言葉を使うことは、知的怠慢であるだけでなく、画一主義(コンフォーミズ厶)へ陥ることだ。日本の政党は「マニフェスト」などを強調しながら、そこに政治哲学がない。いつまでも是正されない最大の欠陥だろう。アーレントはフランツ•カフカが述べたことを引用している。
 真理を語ることは難しい。真理はなるほど一つしかない。だがそれは生きており、それゆえ生き生きと変化する表情を持っているからだ。」(有田芳生の『酔醒漫録』2007年2月18日)と言う言葉の通り、知的怠慢に陥っていないでしょうか。
 私は、私たちは、或は不正義を糾弾するという正義のために、もっと本質的根源的存在として、人間は愚劣であれ何であれ、人間であり血が通い、心を持ち、生きているのだ、という事実を、しばしば忘れたがるものです。しかし、近代的人権思想が国や制度を超えて、人類の普遍的価値である、と規定されているその普遍性は、私や、私たちが決して神ではなく、任意勝手に裁定者であることを認めません。不正義の告発は社会に対して為されるものであり、裁きは司法によって行われる、その支えがあればこそ、自由と公正、政治的正義の実現が為されるのではないのでしょうか。人間は、神にもなれません。そして英雄も殉教者も、民主主義にとって必要ではありません。
 
 私がどのような存在か、或はどのような肩書きか、あるいはどのような属性か、そのようなことは、人権の普遍性の前には、あまり意味があるものではありません。名前といった記号でさえも、或は意味がないでしょう。普遍的人権という真理とされるもの、或は正義とされるものが、生き生きと変化する表情として「ゴキブリをコックローチで対処する」ような表現や「人間として扱えない」といった表現も含めるとしたら、普遍的人権はあまりにも哀しいものです。
 私は、或は私たちは、社会的不正義の告発に対して、「私もまた、同様に個として人間であり、人間として生き、人間としての権利を持っている」という言葉を言わねばならないのかもしれません。その時「人間扱いできるか!」というそれは、誰の心中にもある凡庸なアイヒマンの亡霊を、抑制すべきそれとして気付くことができるのではないでしょうか。
 敢えて言葉を選びましょう。人間は人間として、その尊厳は基本的人権とともに守られるべきであり、物のように扱うべきではなく、そしてその尊厳を踏みにじる場合は、人間として対応する、と。そしていつの日か、差別主義者の憎悪のそれを、人類は超克するのだと。そのために、まず自らが人間であらねばならないでしょう。綺麗事では差別は無くせない、ともよく言われます。確かにそうかもしれません。しかし、綺麗事そのものを放棄するして構わないわけではないでしょう。だからこそ、失われかけている綺麗事を問います。差別主義者もまた、人間です。切り離して切り捨ててしまえるものではなく、確かに厳然と存在する社会の一部であり、その愚かな行為は人間であるからこそ行われているのだと。
 確かに、反ヘイトデモで救われた、心の支えになった人も決して少なくないでしょう。そして同時に、その言動故に、そのような人にそのような言葉で代弁されたいと願わない人もいるでしょう。或はそういう人は見捨てて前に進むべき、との判断もあるかもしれません。もしそうであるなら、私はそうやって見捨てられていく、切り取られた後に残ったところで、別の道を模索するとしましょう。その判断を嘲笑して頂いても、無益と謗って頂いても構いません。これは、差別主義者を赦すでも寛容になるでもなく、私個人が人間性を回復し、人間足らんために、そういう選択をします。そして、微力無力であれ、私自身が納得し、是と判断したことを、できる範囲でやっていきます。私のように何等持ち合わせていない存在は、このように様々な先達の言や研究を、引用し理解するよう努めることしかできないかもしれませんし、それも誤っているかもしれません。しかし、これらの先達の到達点が今現在飛び交っているそれであるとは、思いません。愚かな個人として、拒否したいと思います。もっとももともと代弁するつもりも守るつもりも手を取るつもりも会話するつもりもない、無力な個人が拒否したところで、何一つ影響は無いでしょう。心中のアイヒマンを愛でて、反差別言動を続ければ宜しいと思います。その果てに何があるのかわかりませんが、そこが知的怠慢の画一主義でないことを祈りたいとは思います。

― 暫く、或は永久に会えないかもしれない、友人に捧ぐ

◆引用文献
「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」
デートレフ・ポイカート著/木村靖二・山本秀行訳/三元社

「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」
ヴォルフガング・ヴィッパーマン著/林功三・柴田敬二訳/未来社

「不平等の再検討 潜在能力と自由」
アマルティア・セン著/池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳/岩波書店

「石橋湛山評論集」
松尾尊兊編/岩波文庫

※手元にあるものが岩波書店版なので部分改訂が入っているかもしれません

◆参照ツイート

◆傍証先
差別反対でありながら「ゴキブリ」などと連呼、野間タソやきっこおじさんを擁護する有田和生さんとのやりとり
有田ヨシフとその弟、有権者をゴキブリと呼ぶ
あのね有田の弟だけど

◆参考資料
Newsweek 日本語版」2014年6月24日号
世界で増殖する差別と憎悪
社会 寛容さの喪失とSNSで世界にヘイトスピーチが蔓延する
日本 「反ヘイト」という名のヘイト
Newsweek日本語版への抗議」(のりこえネット)
Newsweek批判への紫音さんの反論

それでもおそらく橋下市長への支持は大きくは変わらない

「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」
「関西だけでなく、日本全体の電力供給体制の問題。関西も自分たちで十分にやるが、関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」

これは橋下市長の言である。
過去に「原発は無くても電力は足りる」「関電が隠している電源がある」と発言してきた人間と同じとは思えない豹変ぷりだが、軌道修正の気配は少し前から出ていたので、今さら驚くには値しない。
実際問題、大飯原発を動かそうが依然として電力供給量は綱渡りの状態であり、動かさなければ大規模な供給不足に陥ることは目に見えている。

これは過去の言動の変遷をざっくりとまとめたものだが、これを見て「スタンスの変化」を感じる人は多いだろう。
一方で、冒頭の発言にもいくつかのレトリカルなポイントがあることは注意しておいた方がいいだろう。
まず「新しい電力供給態勢」というものが何かを明示していないので、これが「新エネルギー」を指すのか、「原発再稼働」を指すのか、単に「発送電分離」を指すのか、定かではない。
逆に言えば、結論と行く末がどうなろうが、彼のこの言葉はそのいずれの場合にも「必要だ」という言葉で受容可能で、巧妙でさえある。
次に「関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」という言葉だが、そもそも関西の供給不安はその原発依存度の高さもあり、前々から指摘されていたことでもある。
従って、全般の供給安定に努めるべき政府の責任も大きいわけだが、「日本の危機」という表現は、過去の政府の決定不能状態を作り出す一因でもあった橋下市長自身のアジテーションを、「関西だけの問題じゃない」として免責することでもあり、また「関電の電力隠し」だったり、はたまた「既存電源の過大な供給見込み」だったり、そういった諸々の判断ミスを「日本の問題」として自身の権限・判断の範囲外に置くことで、この夏にいかなる事態が発生しようとも、自身は何一つ責任取らずに済む、これもまた巧妙な言い草でもある。そも「日本全体」の問題であれば「一市長」如きがどうこうできるわけではない、という訳だ。
そしてどのような結末が訪れようと、「政府の決定」「政府の判断」であり、彼にとってはその内容はどうとでも批判できることになる。
そもそも彼が提唱する「稼働を認めるための八条件」なるものが「衆院選に向けて」であると断言しているわけだから、稼働すれば電力が足りようが「政府は自分の意見を聞かない=地元を無視している」であり、稼働せずに電力不足に陥れば「わかっていて対策を取らなかった政府が悪い」となるわけで、どう動こうが政府としては失点にしかならず、支持率低迷の折、政府としては「いずれが致命傷になり得ない傷で済むか」という、とても損な役回りを橋下市長によって与えられている、とも言える。

さて、この無責任にも見えるスタンスの変化だが、恐らくこれは上記のようにどう転んでも相手に得点を上げさせないやり方であり、その意味では橋下自身は実は失点が少ない。
言動のブレによって支持が大きく落ち込むことは恐らくないだろう(もしそうであれば「10,000%出馬しない」「20,000%有り得ない」と言い切った彼を当選させることなど有り得なかっただろう)。
ここに根深い問題もまた垣間見える。
まず、橋下市長が府政時代に行ったとされる「大阪府の黒字化」であるが、これはあからさまな会計操作によって行われたことは既に検証されており、黒字宣言をした後にこれが発覚すると、彼は臆面もなく「粉飾」と言い放ち、自身の責任ではない、というスタンスを取ることになった。成果が出れば自分のおかげ、それがなければそれは担当者ないし関係者が悪い、この手法は府政時代から一貫しているため、今回の夏においても、恐らく上記の通り、同様の言説が飛び出すことになるだろう。
そして、その府政の結果をもって市長に移り、府政の結果が架空のものであったにも関わらず、現在に至ってもその支持が大きく揺らいでいるとは言い難い。
彼自身が最も誇り、改革の象徴とさえ言えるその結果があからさまな「偽り」であったにも関わらず、である(最も、基金からの借入とその借入を返済しないことによる黒字化は、橋下市長が府知事になるかどうかに関わらず、それだけであれば達成されていただろう、という分析も成されている)。
彼の改革者のイメージは多分にメディアの影響が強いものではあるが、自身がそう強く印象づけるようアピールしていることもまた事実ではある。
その際、最も重要なことは「手ひどい失点を出さない」ことであり、また些細なこと、架空のものであっても成果は強くアピールする、ということでもある。
彼の言説は、長期で追いかけてみればブレているか、場合によっては180度正反対のことを言っていることさえあるわけだが、少なくともこの原則には忠実である。
いわゆるポピュリストとは、いささか異なる点もあるのはここの辺りであろう。
彼は「府民」「市民」「国民」といろいろな言葉を使うが、必ずしもそれに阿っているわけでもない。
むしろ、彼の言動にその都度、支持し得るような「府民」「市民」「国民」を幻想的に見せている、という方が正しいかもしれない。
彼にとって個別の政策はさして大きな意味を持たないのはこの辺りにあり、だからこそ言動がブレようが180度反転しようが、それが大きな失点にはならず、むしろメディアの即時性をのみ求める報道姿勢を増幅装置として、彼のイメージはより一層「改革者」としての印象を強めていくことになる。
例えば上記のこの夏の電力供給に関しては、彼はどう転んでも自身の「直近の」言動ではうまくフォローされているため、引き続き脱原発派の支持も一定程度は得られるだろうし、仮に再稼働すれば、場合によってはそちらの方面の支持を取り付けることさえできるかもしれない。最悪でも再稼働しながら反対スタンスを取り続けることで脱原発派の支持はある程度引きとめられるだろう。
同様のことは日の丸・君が代の斉唱を巡る対応や、職員の喫煙や刺青の問題など、どちらかといえば全体の問題から見れば瑣末で、且つ目に見えてアピールしやすい問題に関しては積極的である。これは、それらを支持する比較的相対少数の支持を、その一点の問題だけで取り付けることができる点で、彼にとっては非常に都合が良い。
しかし、彼が最初に教育改革、教育非常事態宣言を出した時、「PTAを解体する」「府教育委員会も指導を聞かなければ解体する」と言い放ったわけだが、PTAについては有耶無耶なままであり、教育委員会に至っては、彼らに「日の丸・君が代」対応を行わせることで得点を上げさせ、あまつさえその斉唱の業務命令は「教育委員会」が行っているのだから自身は関係ない、といった風の言動さえしている。
恐らく、彼はこの業務命令遂行をもって、そもそもの教育非常事態宣言の発端となった、全国学力テストの低迷など、その原因とさえ指摘した教育委員会については今後触れない可能性もある(ただし同テストは意味がない、とは言うかもしれないが)。
派手に敵を作り、相手を脅した上で、相手が飲める問題を与え、それをもって最初の論点のスタートは有耶無耶になる、というのは非常に巧妙で、少なくとも大阪で橋下市長を支持する人の一定数は、当初の学力低迷に対する教員側への態度「ではなく」、国歌・国旗の問題によってその教育への姿勢を支持している。彼の教育という問題へのスタンスはこの程度であり、本来はより問題となるべき学力の問題などはどこかへ飛んでしまっている。
恐らく公務員に対する姿勢も同様の展開を見せるだろう。当初大阪で橋下市長が支持された理由の一つは、財政に加えて公務員の怠惰・怠慢だったはずだ(少なくともこういう話で支持をしている、という市民の声は何人かから聞いたことがある)。
しかし、現在それに対して耳目を集めているのは喫煙や刺青の問題であり、それは本来的にはその職員がいかに市民サービスをその職務に沿って行っているか、という点とはあまり大きな結節点を持たない。
刺青のある職員は報道によれば100人程度はいるとされているようだが、そもそも大阪市の市職員は2011年4月現在で約38,000人である(予め断っておくが、これでも05年の48,000人弱から10,000人程度削減されている)。
たかだか100人程度を分限免職したところで、当初批難を浴びせた「働かない職員」という存在が仮にあるとしても、そのごくごく一部であり、分かり易いスケープゴートであるとは言える。
「民間では許されない」と言う言い方もされているが、この「民間では許されない」も都合の良い方便でしかないだろう。
しかし、この「目に見える(まさに刺青は場所によっては目に見えるわけで)」生贄を切ることで、彼は公務員の「非常識」を改革した改革者として、また一歩そのイメージを強めるのであろう。
そこには「別に免職する必要もないし理由もないし、本質的問題とは関係ない」から放置されていた、ということは、この際はどうでもいい話になっているのである。

彼はファシズムを捩って「ハシズム」などと呼ばれることがあるが、これは当たってもいるが外れてもいるだろう。
少なくとも、彼が何らかの思想や哲学に類する何物かをもって政治に当たっている「わけではない」という点で、ファシズム(この場合はナチズム、だろうか)とは異なるとは言える(そうであれば主要命題に掲げた問題をこうも簡単に転換したり有耶無耶にしたりはできないはずだ)。
一方で、その手法に限ってみれば、ナチスが行った手法と近いものがある。
それが上記に示した一連の事例であり手法だ。
ナチスが経済低迷やそもそもの第一次大戦の敗戦理由の要因として、ユダヤ人の存在を論ったことは周知の事実だが、そのユダヤ人(ユダヤ系ドイツ人)と呼ばれる存在は、人口の僅か1%に過ぎなかった。
その1%に対して、問題の責任を被せ、目に見えるようその存在を可視化し、抹殺した、という点において、例えば100人の刺青職員の分限免職の問題などは丁度当てはまるとは言えるだろう。もっとも職場から放逐はするかもしれないが、さすがに抹殺はしないだろう、という点は異なるわけだが。
「虚構のナチズム」によれば、反ファシズム教育の一環としてヒルデ・シュラムが、1930年代のユダヤ人のドイツ国内人口がどの程度の比率だったか、を生徒にアンケートしたところ、多くの生徒が約3割という解答をした、というレポートを書いている。(同書P.28参照)
生徒は当然、ドイツでは当たり前ではあることだが、このアンケートの前にも様々なホロコーストに関する情報を得ているにも関わらず、である。
この書籍にはそうとは書かれていないが、これは逆説的に言えば「それだけ脅威とされたのだから、それなりの数がいるはずだ」という印象を持っていることを示していると言えるだろう。この不確かな先入観は在日排斥問題などにも見られる傾向であるが、もう一回転させてみると、「問題の象徴」として提示されるそれを、いかにも人間は過大に見がちだ、ということでもあるだろう。
この先入観のバイアスは数量的問題に限ったことではないと考えられるし、だからこそ「最初に大きな問題を提示」して、その後に問題の本質とはあまり関係のない要素を、あたかも象徴的に過大に見せる橋下市長自身の手法を、それを支持する受け手の側が、「それで問題が一歩解決に進む」と「過大」に評価する傾向と、無関係とは思えない。
橋下市長の言動は、この点で「些細な問題をあたかも大きな問題の象徴のように持ち出す」という手法と、「自身は決して失点を行わず、可能であれば相手が必ず失点するように仕向ける」という点で、確かに喧嘩は強い、とは言えるだろうが、少なくとも大阪においてこの手法によってもたらされる「結果」を市民が(または府民が)支持する間においては、原発に関する言動の変遷は、決して失点とはならないだろうし、また彼の支持を大きく落とすことはないように思える。
そして、それだからこそより深刻に考えなければならないのは、以下の点であろう。

「ドイツ人」であることの誇り、社会的な連帯感、等々を、単なる精神主義のスローガンにするのではなく、実生活の手応えに根ざした理念として、まさしく実感として人びとにいだかせたことこそが、ナチズムの本質的な魅力だった。(同書P.14)

と書かれている通り、ナチズムも、そのイデオロギーの少なくない部分は、必ずしも教条的ではなく、妥協的またはそれに反するものさえ黙認してさえも、その権力維持と支持獲得に腐心していたわけだが、ここに書かれているのは、そのスローガン的代物への支持が、初期の生活安定と経済成長に支えられたものであったことを受けての記述である(ナチス時代のプラス評価での回顧がしばしば戦争の惨禍を上回る印象として、生活安定と経済成長故に「あの時代は良かった」と回想される傾向があることを受けての記述)。
しかし、橋下市長には、生活の安定や経済成長といった果実を、その支持基盤に成り得る層に与えることは、恐らくできないだろう。その意味ではこのナチズムの魅力というものが橋下市長には決定的に欠けているものでもあり、恐らくは現状では手に入らないファクターなわけだが、これを「実感」という部分に絞って考えると、また様相は変わってくる。
例えば、彼がこの夏に電力供給がどのような結末に陥ろうが、「節電に”協力”した」という「実感」は残るだろう。また協力した、という実感を通じた”連帯感”さえ醸成される可能性がある(昨年のヤシマ作戦トレンドを想起されたい)。
問題解決が行われたか、実際にそれがプラスだったのか、という「実態」ではなく、自身が望むことに関する「実感」が支持の源泉であると仮定するならば、確かに愛国者的なそれには「斉唱を行わせる」という「目に見えて達成感が得られる」点で、また怠惰な職員に対するそれとしては同じく「業務命令に従わない教員の排除」や「喫煙職員、刺青職員の排除」という「目に見えて達成感が得られる」点で、些細ではあるかもしれないが、その支持者の支持理由に対しては「実感」も得られるだろう。
ナチスの政策・イデオロギーがしばしば支離滅裂だったにも関わらず、この「実感」があったことが大きな理由であったと仮定するならば、少なくともその点で橋下市長は「実態は別」としても、目に見える「実感」だけは与えていることにはなる。国旗・国歌の問題や公務員勤態の問題は、これは実生活の手応えとは到底結びつかない問題であるが故に、実際のところそれほど大きな支持拡大にはつながらないだろう、とも考えていたのだが、この夏の電力供給に絡むそれは、「節電がんばった」という「実感」を「実生活の手応え」として得られる可能性があり、それを仮に橋下市長が自身の成果として主張し始めた場合、いささか国政レベルでの危険を増す可能性が強まるのではないか、と感じている。
冒頭の電力供給に関する発言の変遷や、その次に書いた財政再建や教育に関する態度・問題点の変遷など、その変遷の過程をいくら提示しても、恐らく彼とその支持者には大きな意味は持たないだろう。彼らにとって必要なのは、「結果」であり、その結果は実態とは本質とは無関係なところでの「実感」である可能性は、現段階では決して否定できるものではない。
だからこそ橋下市長は引き続きある程度の支持は得るだろうし、恐らくはこの夏に関西の電力供給で何が起きようが、それは大きくは変わらないだろう。
むしろその事態を逆手に、その支持を高める可能性さえある。
少なくとも今回の「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」という発言には、それだけの要素を十分に担保している。
橋下市長は、民主党とは異なり、発言の変遷や方針転換に当たって、それだけ周到でもあり、また意図的に行っている、と考え、警戒しておく方が良いだろう。
特に彼を支持する人にとっては、彼の行動、言動が「当初の支持」と合致するものなのか、また彼が誇る成果が果たして「もともと必要として求めたそれなのか」という点について十分過ぎるほどに警戒し、慎重であった方が良いだろう。
そして、もし彼が国政で、首班にでもなることになれば、その時は「エゲツない、またそのエゲツなさと支離滅裂さを巧妙に隠す民主党」のような存在になりかねない、という点もまた、十分に留意しておいた方がいいように思える。
少なくとも今までの経緯から考えて、関西でいかなる事態が生起したとしてもそれが橋下市長の支持を大きく落とすことにはならないように思えるので、そこのところをこの夏に期待するのは、電力供給の如何に関わらず、失望するだけだろう。

※蛇足だが、橋下市長は09年選挙時には民主党支持傾向にあった、という点も頭に入れておいた方がいいだろう。今の叩きっぷりとはこれまた180度異なるのだから。
※自分個人としては彼の政策・言動に対して「ハシズム」という用語を充てることを適当とは考えない。そのような「思想的雰囲気」を与えることは、彼を過大に見せることに加担するように思える。
※それでも市民や府民、国民が彼を選ぶのであれば、それもまた一つの選択ではある。

陰謀論とエア御用論

東北・東日本大震災以降、あちらこちらで陰謀論が出回っている。中には荒唐無稽なものも多いが、中にはそうではない「かもしれない」ものもある。
陰謀論の多くは「政府が」というものであって、中には「東電が」または「電通が」といったものもあり、また複合的にそれらを組み合わせているものもある。
では、それらの多くが「聞く価値があるものなのか」というと、それもまた別問題であることは言うまでもない。

■何故陰謀論がダメなのか

まず、陰謀論とは何か、という点。
陰謀論の本質は、その「非証明性」にある。
陰謀論は当たり前のことながら「証明」されなければ、そもそもその存在自体が「非存在」であり続ける。
そして、多くの場合、その証明は「成されない」ままに、その陰謀論のみが独り歩きすることになる。
それは、「~であるのは、~の陰謀であるからだ」という形を取る(「陰謀」という呼称を使うかどうかは別として、そのようなニュアンスの言説を取る)。
このとき、ほぼ例外なく言えるのは、それが「証明されていない」という「現在」の状況が存在することにある。
この言説の問題点は、「陰謀論が無いことを証明するのは事実上不可能に近い」という悪魔の証明的内容であり、逆に言えば、それが証明されてしまえば、殊更に「陰謀論」などという形態を取らずとも非難可能である点にある。
というのは、陰謀というのは「隠されてこそ」陰謀なのであって、証明されてしまえば、それは「犯罪」なり「詐欺」なり「欺瞞」なりの言説は妥当だとしても、「証明後になお陰謀」と言うだけの意味を持たないからだ(罪状がはっきりとすればそれで追求可能であり、それがたとえ道義的問題であったとしても、また同様だ)。
加えて、「陰謀論」の取る形態の問題は、それが「肝心な批判先との共存関係を生む」ことにある。
その一つは、陰謀論がそれとして成り立つためには「陰謀」でなければならず、「陰謀」であるためには「明かされていない」ことが重要であるからである。
というのは、「陰謀」それ自体が「明らか」になってしまえば、そこには「陰謀論」の根幹とも言うべき「想像力」の働く余地がなくなってしまうからだ。
それは流布され扇動されるべき「陰謀論」としての魅力を大きく減じることになる。
しかし、さらに問題なのは、下記の言葉が端的に表しているだろう。

つぎに、破棄されてしまったり、長期にわたり公開されない公文書と陰謀論の関連をみると、たがいに助け合っているようなところがある。想像力豊かな著述家たちには都合良く、そうした文書にこそ秘密が隠されているということができる。そうでなければ、なんで破棄されたり、非公開だったりするのかというわけだ。その一方で、センセーショナルな説が出てくると、役所の側ではますます「微妙な」文書は公開しない方が身のためだと考えるようだ。陰謀論者と公文書管理者らとは敵対関係にあるようにいわれるが、実は両者の間には相互依存の要素も見られる。また、陰謀論では政策決定者は常に事態をコントロールしているのだという幻想を抱かせてくれ、安心できるという面もある。政府は思いがけない出来事に右往左往すると考えるよりも、そちらに引き付けられがちだ。
(「日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争」著:リチャード・オルドリッチ、訳:会田弘継、P.145~146)

これに加えて日本では「公文書」そのものの「保管」についての大きな問題があるのだが、それはここでは触れない。
しかし、この最後の部分における「常に事態をコントロールしている」という前提がなければ、そもそも「陰謀論」の生まれる余地はない、とさえ言える。
なぜなら、陰謀論の多くは「このように~を無視(または軽視)しているのは、~があるからだ」という形を取るからだ。
簡単に言えば、そこが「無能で右往左往しているからだ」となってしまえば、そもそもそこに「陰謀論」など介在する余地がなくなってしまう。

陰謀論の最悪なところは、ここに集約されると言っても良い。普段罵倒してやまない「無能な政治家」が、自身にとって(これは国民にとって、でも良い)都合の悪い(または結果として被害を拡大する)判断・政策を決定したとして、それを「陰謀論」に帰することは、それが「政治家の常に事態をコントロールする」という、本質的「有能さ」を自ら「投影」することになる点にある。
この時、政治家は、その「右往左往」という実態を「暴露することなく」、逆に陰謀論によって「事態をコントロールすることができる」という「(その評価の正負は別としても)有能さ」を印象付けることさえできる。要するに「あからさまな過大評価」であるが、過大評価は「ある意味での」政治的有能さでもあり、そこから「実は右往左往していたんですよ」という実態を「覆い隠す」点において、「その陰謀論を黙認すること自体が『(ありもしない)有能さ』を間接証明する」意味合いさえ持ち得てしまう。

自分にはこの種のもたれあいは、「あのときは精いっぱいがんばったのだから」という「根性論(これは日本の悪しき評価の一つでもあり、肯定すべき評価の一側面でもあると考える)の、半ば「間接肯定」にもなり得る。
加えて「無能」であるが故に「失敗」したことを、あたかも「陰謀」という「有能故に成し得る判断」という、「放逐すべき人間に対しての『ある種の肯定評価』」をも生み出し得るし、実際問題として「何が問題の本質なのか」という点を覆い隠す効果さえ生み出し得る、という点で、何重にも問題があるだろう。

■問題の焦点をどこに据えるのか

当然人間である以上、必ずしも「合理的」判断に拠るものが最適かどうかは「政治的判断に拠る」側面が多いわけだが、それをどこまで「是」とすべきかどうか、という問題は当然「別の政治的問題」に関わる。
自分が広告代理店勤務であった過去の経験と知見という極めて狭い範囲で言えば、日本で「比較広告がないのは、大手2社(ないし3社)が、広告出稿の大半を押さえているからだ」という話はよくあった。
これは、例えば「電通」(これは博報堂でもADKでも良いのだが)が、「部署ごとに同業(競業)他社」をクライアントにもっている場合、片方を「貶める(比較広告の大半はこれである)」ことは、結局トータルで「自社」の利益を損なうことであるので「行わない」という暗黙のルールがある、というものである。
逆に言えば、他国ではそういった「ナショナル」規模で出稿枠を押さえ、競合をも含めて1社で抱える、ということが「あまりない」という認識の裏返しでもある。
しかしながら、この問題というのは、実際のところ、テレビ局・新聞(加えて一部は出版も)が系列として「ナショナル」である、という問題への追及に至ることは、あまり無い。
加えて、読売と朝日のような、いわゆる「ライバル」関係と目され、時として相手方への批難と推定可能な記事が載ることはあるが、これとて尻すぼみで終わることが多いのは「どちらの側へも1社の代理店が広告枠をある程度押さえているからだ」と言われることがある。
では、これが「電通」(度々引き合いに出して申し訳ないが業界ダントツトップということで許されたい)の問題か、というと、話はそう簡単ではないのである。
そこには「電波の問題」(いわゆる電波オークション方式を取るべきか否か)があり、また「タスキ掛け」(いわゆる電波・新聞の両メディアを抱える企業形態が是か否か)があり、これは簡単に言えば「国民の知る権利」の問題にも関わる問題で、政界の疑惑が少なからず「タブロイド系週刊誌(この場合のタブロイド系、というのは資本家関係の有無ではなく、「売れればセンセーショナルな方が良い、と判断できる雑誌を指す」)の「執拗」な連載がきっかけであることも少なくないことからも、問題の本質は「メディアと広告費の関係」であり、「メディアそのものの『たすき掛け』の問題」をも孕む問題であることは容易に指摘可能であるが、そこに「陰謀論」を加えた瞬間に、それは「タブロイド誌」の面白可笑しい話の延長線上でしか、その問題が指摘できなくなることにある。
残念ながら日本のメディアは極めて「企業的」であって、その「使命感」というものには「無縁」であり(過去の朝日の「ジャーナリスト宣言」などは滑稽極まる自社広告なわけだが)、その一つの(あくまで一つの、という点は留意されたい)要因は「無記名記事だらけ」という、「文責・編集責任の曖昧な責任体制」にあると言わざるを得ない。
これを「匿名・実名論争」につなげるのもまた一面での誤った捉え方なのではあるが、もし本質的に「陰謀」が隠されているのであれば、それを暴くのが「メディア」の一つの役割であるだろうし(役割であろう、と考えるが)、それを執拗に取材し連載し暴くのは「メディア」の一つの役割であろうし、もっと言えば、それが「陰謀論などではなくただの無能無策」であったとしても、それを露呈させるのもまた「メディア」の役割であろう。
少なくとも「第○の権力」を自覚するのであれば、そうでなければならないだろうし、仮にそれが「期待過剰」であったとしても、それを「求め続ける」ことは、決して国民の「負」にはならないだろう。

■だがしかし・・・

今回も半年の間に、「地震兵器」やら「質量兵器」やらが飛び出し、はたまた「わざと爆発させた」だの「モサド」だの「CIA」だの、ありとあらゆる「陰謀の主役」が飛び交ったといっても過言ではないだろう。
加えて、放射線測定におけるホットスポット探しでは、「測定方法の間違い」から「全く別の放射線源の問題」まで、その報道の当初は必ずといって良いほど「政府は実態を隠している」と主張する人間が現れ、その多くは事実上の問題が何処にあったかが明らかになっても撤回はしないか、または「こっそりと主張を書き換える」といったことを平然と行っている。
こういった事態を招くのは、その種の「~の陰謀」に類する主張がそれなりの一定の共感ルな内容」を発信しよう、という心理もまた働いているだろう。
しかしながら、そういった心理的土壌に付け込んで、まったく証明もできなければ根拠もない陰謀論を説くのは「厚顔無恥な扇動」の類であって、議論を行い、より好ましい方向へと政策を誘導していきたいと望むのであれば、そのような言動は厳として慎むべきであろう。
ましてや自分がそれを立証できないことを「陰謀」だの「陰謀論と受け取られても構わない」などと公言することは、自身の言論への大きな棄損になるのだから、止めた方が良いだろう。

また、その種の「陰謀論」に対して、個人的趣味として「SF小説を読むかのように」楽しむのは一向に構わないが、それを真に受けて行動するのは慎んだ方が良いだろう。もちろん放射線被害に対する警戒、またそれを避けようとする姿勢は問題があるわけではない。しかし、それ故にこそ、その種の陰謀論を盲信していけば、次にはよりセンセーショナルな陰謀論や全く別の陰謀論が登場し、際限なく疑心暗鬼が膨らむことになるのであって、それはより「適切」な判断からは遠ざかる可能性が高まることになるだろう。

■エア御用論と陰謀論

日本では「空気」と呼ばれるある種の同調要素が「強い」とされているので、必ずしも明文化・明確化されない「緩やかなシステム」的要素が無いわけではないのだが、「エア御用論」も陰謀論に似たある種の「証明不要性(または非証明性)」を帯びていると言えるだろう。
「エア御用」というのは、簡単に言えば「政府を利する主張を述べる存在」であり、本来であればそれ自体は「正負の評価を持ち得ない」はずのものである。
というのは、政府の判断が正しい(もしくは適切である)とされる場合、その存在は肯定されるのだろうし、そうでなければ否定されることになるからだ。
ここで問題になるのは、「御用」という言葉の持つ極めて「否定的」ニュアンスになるわけだが、それが問題なのは要するに「正負の判断が正しいか誤っているのか」ということとは「無関係」に「御用」という言葉が「負の評価」をもたらす点にある。
学問的に係争ないしは論争のある問題に対して、自身の研究や実績から何かを主張する場合、その評価は当然「政府を利するかどうか」という判断「では評価し得ない」はずであって、結果として「政府の誤った判断を助長した」場合であっても、その見解を採用した(またはそのような主張を出すよう求めた)政治の側の問題の方が本質的には大きい問題であるはずである。
例えば、政府の各種諮問会や委員会における「民間委員」と呼ばれるものは、多くの場合「まるでお飾り」であることは過去にも度々指摘されていたが(だからこそその形骸故に報酬が批判されていたはずだ)、その影響の軽さと比べても「エア御用」はさらに政府との関係は薄く、場合によっては何らの関係も持ち得ないことがある。それにも関らず「エア御用」と呼び、「政府を利する」と糾弾する場合、それは「政府を利する意図」と「純粋に自身の見解に基づく主張」とは「本質的に区別不能」なのであって(そもそもどのような弁明を加えても「主張故に糾弾される」のであれば、意図は無関係となってしまう)、それは「陰謀論」にも似た「答え在りき、証明不要(または不能)」の言説と極めて似た構図となってくるだろう。

もちろん政府の判断は誤ることも多々あるだろうし、当然のことながら右往左往しているだけのこともあるだろうし、はたまた「事態収拾の目途がつくまで」と後回しにしていただけのこともあるだろうし、その一つ一つは当然批難も批判もできるだろう。
だいたい、政府が方針を180度転換させた場合、それに合致する主張を行う「政府とは必ずしも関係を持たない」言説は、今度は以前批難されていた言説とは真逆の主張が「エア御用」になるはずなのだが、果たしてそういった批判を加えるだろうか?加えないだろう。
それは「エア御用」そのものが「政治的に負のニュアンスを持つ」からに他ならず、そうであるならば、「エア御用」といった批判は本質的問題が何か(政策決定過程、政策決定根拠、それを採用した判断の妥当性・合理性等)から「目を反らし兼ねない」危険性さえあるのであって、陰謀論のより「悪質(これは扇動性という意味ではない)」とさえ言えるだろう。
陰謀論は少なからず荒唐無稽さがあり、それ故の批難・判断も可能だが、「エア御用」なるものはそうではないからだ。
仮に学術分野で全く芽が出ずとも、それが「この主張が世に出ないのは学会のエア御用どもが云々」とやっていれば、少なくともそれだけで「あたかも自身に正当性・妥当性があるかのような」ニュアンスを作りだすこともできるだろう。
当然、金銭関係・役職関係だけで全てが判断できるわけでもないし、人脈で判断が可能なわけでもないが、そのような批判は「合理的」でもなければ「妥当性もない」。

例えば自分の親族には元銀行関係や元医療関係の人間もいるのだが、自分が銀行や医療の問題で現行の(もしくは過去の)何らかの判断を「支持」した場合、そういった人脈(というか親類関係)だけで、その判断根拠があたかも「それを擁護する」目的で書いたかのようなことを批難されれば、当然自分は「否」というだろうが、批判する側はそれだけで十分「根拠」としてしまうだろうし、そのことであたかもその「的外れの批判」が「妥当」であるかのような「空気」を生みだすこともできるだろう。「エア御用」というものがやっていることは、その目的・意図はどうあれ、本質的には「全く同質のこと」だと言えるだろう。

状況証拠のみでそれとして「疑念」「疑惑」を持つことは、それとして一つの判断で、それ自体は批判されるべきものだとも考えないが、もし「状況証拠」のみでそれを主張するならば、それは更なる情報の集約と、その「陰謀論から脱却し得ないレベルの想定」に対して、その「疑念」「疑惑」が「裏付ける」ように努めるべきであるだろう。
それ無しに開き直るのは、言論を扱う人のすべきことではないと考える。

■たった一つだけ「陰謀論」が許される状況

それは陰謀が「暴かれた」場合のみである。陰謀論が本質的に「非証明」であることで大きな欠陥を抱えている以上、実際は「証明」されれば「陰謀論」などを取る必要もなく、事実が明らかになった後、それが批判・批難に値するならば、当然その検証と総括をすれば良いのだが、それは「何故そのような判断をしたのか」という背景と根拠を求め、その誤りを明らかにし、それを今後に活かすためのものであって、「陰謀があったかどうか」という「陰謀の証明」で終わっては何も得るものがないのだが、それでも「証明された陰謀」というのは、それとして「陰謀論」としてはまだ「証明された内容については」妥当性を持つものになるだろう。