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【兼展示会告知】「第一回 枡×アート展」/文化・伝統の現代的問い直し

 「第一回枡×アート展」なる企画イベントが横浜美術大学ギャラリーにて、9月5日より開催されます。
 イベントそのものは「枡」をテーマとした学生によるアートコンペティションで、恐らくは非常に地味な企画展です。枡をテーマとしてアートという視点から問い直す、という試みとしては面白いと思いますが、主催・企画者の意図とは別に以下を考察してみたいと思います。
 
 枡は本来尺貫法の単位である体積を図るための道具でした。尺貫法は距離や重量、容積といったものを「単位」として統一する、云わば文化圏統一と社会構築のための制度であり、その共通性がそのまま支配領域の文化的地理的区域にも繋がる側面があります(現在では基本的にはメートル法等の国際規格が浸透しています)。そして同時に年貢収量にも用いられる、農民(という大多数の存在)と公(朝廷や幕府)を繋ぐ、云わば私と公の接点としての役割も果たしていました(自給自足でその上位に統治体系が無い場合、このような度量衡単位の統一はそれほど必要とされません)。それらの単位が正確性という意味で画一化されるのは実際には近代を待たねばならず、度重なる統一の企図にも関わらず、結果としてそれらは必ずしも実際的統一性が徹底できたわけではありません。しかし、単位として大きな意味を持ち、またその測量の道具が重要な位置づけであったこと自体は事実です。
 
 このような歴史・文化的背景を持ちながら、実用的意味に於いては現代では「枡」そのものはそれほど重要さを持っているわけではありません。展示会を企画している大橋量器には申し訳ないのですが、その点については事実でしょう。従って「枡とアートを掛け合わせたら何が生まれるのか。そんな切り口から枡を見つめ直し、新しい枡を問いたい」という趣旨の提示は、学生によるアートコペティションとしては致し方ない主題設定だと思いますが、そこで生まれる「新しい枡」とは一体何でしょうか。
 本質としてアートが思想や社会背景無しには成り得ないジャンルであることを考慮すると、「枡とアートを掛け合わせ」ることで新しい「何か」が生まれるわけではなく、寧ろ「枡をアートとする」ことそのものが問い直しそのものを意味することになると思います(主催・企画批判ではありません、念為)。大橋量器のウェブサイトの「ますギャラリー」を見ても解るように、枡そのものは極めてシンボライズされた存在となっています。実用性よりも象徴性の意味合いの方が、より大きいと言えます。
 この点に焦点を据えた場合、枡の持つ象徴性は、云わばグローバリズムやエスノセントリズムに対してのサンボリズムのような位相を持ち得る可能性があります。近代国民国家としてのネーションとグローバリズム、或はしばしば神話として持ち出される単一民族・単一文化といった重層性を否定する文脈に於けるエスニックという、本邦が抱えるいくつかの矛盾と相克に対して、それをより超越的包括する共同体(或は共生社会)のシンボルとして、ある種の伝統や文化を同化主義に陥らず高次に昇華するカルチャーシンボルとしての一つのアートの主題にも成り得るとともに、それをアートという芸術家の私的営為で問い直すことでソーシャルに接続し直すという意味で、それを現代にコンシューマリズムでもなくコマーシャリズムでもない価値を再構築することもできるでしょう。
 「日本」のカリカチュアではなく、本来持っているはずの重層性を体現するためのプライベートとパブリックをソーシャルに於いてブリッジするシンボルという意味で、レトロスペクティブではなく、寧ろモダニズムに対して生起したポストモダニズムが結果としてオーソライズされるが故に陥ったイデオローグの陥穽を超えた、一種のレミニセンス・リプロダクトとモダニズムではなく、リアルタイムに現代的意味でのモダンアートとも成り得るように思います。また、消費社会に於いて、プロダクト(工業規格)の意味合いさえ持つ「枡」という存在を、デザイン(非マスプロダクト)として位置づけ直すという作業は、寧ろ必要なことでもあると思います。
 
 最近しきりに「文藝」や「教養」の復興、再構築の必要性に触れることが多い自分ではありますが、是非狭義のアートという点に囚われず、より大きなソーシャルアートとして昇華されることを祈りつつ、勝手に展示会告知とさせて頂きます。
 なお、自分は一切本企画展に関与しておりませんので、本稿に対する批難・抗議等を含めた一切の感想は企画主催者・展示会運営者へ持ち込まぬよう各位にお願いする次第です(自分は日時の都合で会場に行けるかどうか不明ですので、本稿以上の言及は行わないことをご容赦ください)。
 
◆枡×アート展
会期:2014年9月5日(金) – 9月14日(日)
時間:11:00 – 18:30
会場:横浜美術大学大学ギャラリー(3号館B1F)
   オープニングパーティー 9月5日(金) 17:00~

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大衆運動としてのナチス、

 大衆の無関心がファッショを呼び寄せる、という言動がしばしば聞かれるが、これが誤りであることを以下に簡単にまとめてみよう。
 
 もともとワイマールドイツの議会制移行後の投票率は常に極めて高い水準で推移している。1919年の83.o%をスタートに、もっとも落ち込んだ時期で1928年の75.6%、ナチスが本格的に勃興する1930年代は常に80%以上、1933年は過去1年間で3回目の選挙にも関わらず、88.8%と最高値を示している。※史料により小数点以下の差異があるがどの史料も概ねこの数値
 そして、1919年の選挙において、ボイコット戦術を展開した共産党に対して、社会民主党は37.9%の得票を得ることになった。明らかにワイマール期のドイツは「革命」でも「労働者政権」でもなく、「議会制統治」を選択している。事実社会民主党は明らかに労働者代表政党と言うよりは、大衆政党としての性格を持っていた。「抑圧する独裁権力機関」対「抑圧される労働者階級」といった状況が生起したわけではなく、寧ろ資本主義化・工業化の進展によって勃興した「大衆」という名の存在を、共産党は明らかに最初の選挙で見誤っていた。大衆は議会制を求めたのである。
 共産党は選挙ボイコットから戦術を転換し、1920年選挙の2.1%を皮切りに得票を次第に伸ばし、1932年の年内2回目の選挙では寧ろ16.9%と社会民主党に迫る勢いを見せ、30年代は常にカトリック中央党を上回る勢いを見せていた。このことも議会制という体制における体制内政党(合法政党)として支持されたことを意味するだろうし、ナチスが1924年の得票6.5%から1928年の2.8%へと下落した後、1930年代の選挙で躍進することになる。1920年代後半は好景気により支持が落ち、資金難で党大会が中止に追い込まれる有様であったが、1924年選挙から1928年選挙までの間、共産党もまた12%から10%へ伸び悩みを見せていることから、好景気が過激・先鋭な主張を望まなかったことが窺える。
 その点に於いて、共産党同様ナチスが合法的に政権を「獲りに行く」と判断したヒットラーの決断は、大衆政党として「正しかった」判断と言えるだろうし、また、そのような選択をしたからこそ大衆はナチスを「選択できた」とも言える。1930年代初頭のナチスと共産党の伸張は、明らかに1929年に波及した世界恐慌による大衆生活の窮乏が大きな要因になっていると考えることができる。右傾化・左傾化以前に、職の問題であった。1929年に失業率8.5%を記録して以降、加速度的に失業が増大し、1932年には29.9%が失業者となっている。
 

 この時期に何が進行していたかは以下が参考になる。「ドイツ近代史/木谷勤・望田幸男編著/ミネルバ書房」より引用する。
1928年末のルール鉄鋼争議が示しているように、労働争議は妥協のできない「勝利か敗北か」が問われる争議となり、それは同時にワイマール共和国の正統性が問われることを意味していた。だからヘルマン・ミュラー内閣の失業保険引上げをめぐる対立は、彼の退陣の原因ではなく契機であって、保守勢力と産業界の1924年以降の一貫した政治的意図の結果である。
 社会国家とともに公衆衛生、医療行政、社会的矯正などの制度や理論が発展していったが、社会国家の正当性が危機に瀕するについれ、社会改善のための制度や理論は社会防衛論に転化し、「異常」者や「異質」分子を共同社会から排除するイデオロギーに、そして最後はナチの人種イデオロギーにも根拠を与えることになった。(P.114)

 この後ブリューニングがその経済政策において、景気回復よりも全体主義統制経済への布石や、憲法上の大統領権限を毀損するような政策に打って出たことは、当時のワイマールドイツにおいて、ナチスがそれを変容させたのではなく、寧ろそれ以前から土壌に存在したものであるとも言える。また、従来の「保守勢力」と指摘されているのは、ユンカーや官吏等であって、ナチスはそれとは明らかに異質な、労働者をも含む広汎な層を支持基盤としていた。確かに労働者層は相対的には社会民主党や共産党の支持が強かったものの、それでも1930年には党員構成で最多を占めたのは労働者であり、他に手工業者や農民なども相当の比率を占めていた。ナチスの党員構成は明らかに党員の年代構成が若く、単に「新しい」政党であるだけでなく、「若い」政党であり、1920年代後半の混乱期にその基盤が広がっていったことは、確かに大衆政党であったことを意味するだろうし、同時に従来の「保守勢力」への叛乱でもある。
 ワイマールドイツで特筆すべき点は女性解放であるが、従来は「女性に相応しくない」とされたスポーツや、様々な職種への社会進出が進んだのは事実である。戦前は「女性を働かせるのは恥」とされ花嫁修業に充てられた婚前期間は、ワイマール期はそのインフレの加速とその後の不況により「養う余裕がない」こともあって「婚姻退社」を前提とした社会進出を促進していったのである。この過程で平行して「性と生殖の分離(婚外交渉・婚前交渉)」が広がり、また堕胎数増も進んだ。離婚件数も伸び、離婚を恥とする旧来概念への挑戦として、寧ろ好意的に受け止められもした。このような女性の解放は、同時に「性モラルの低下」「家族崩壊」として保守勢力や教会関係者からは攻撃の対象ともなったが、ナチスの「母性像」はこのような背景があったところに後乗りしただけ、とも言える。事実ナチスは女性の人権や母の尊厳など顧慮もしなかったが、上記の女性解放に「批判的」な女性団体・保守勢力とは明らかに手を組める主張であったし、母性賛美の点ではその主張は大差あるものでもなかったのである。このあたりは同著の第三章を丸々参照頂くと、理解が進むだろう。ナチスの価値観・思想はある意味では雑多な寄せ集めで支離滅裂ではあったが、それは確かに大衆の様々な運動の「ある局面」「ある主張」とは共同できるものでもあり、また大衆の政治的熱狂により、そこに収斂していったのである。そのような雑多で支離滅裂な主張・思想を超克する、およそ唯一といっても良い原理が「指導者原理」であり、それに必要だったのがヒットラーそのものの存在と言える。
 ナチスは当初より旧来の保守勢力(ユンカー等)からは寧ろ嫌悪の目で見られることもあった程度に「急進的過激派」であり、決してその保守勢力を基盤として登場したわけではない。ファッショがそもそも大衆運動に立脚する所以であり、議会制への移行と平行して登場した「大衆」は、寧ろ旧来の保守勢力とは異なる存在でさえあった。「皇帝は去ったが将軍は残った」という言葉があるが、これはいささか簡略に過ぎる。正しくは「皇帝は去ったが将軍・官僚・ユンカーは残り、大衆が生まれた」というべきだろう。1919年~1930年に至るわずか10年の激動の変化は、旧来の保守層を激しく動揺させたと同時に、新たな大衆は政治には一貫して高い関心を示していた。社会主義系統の新聞に加えて大規模なマスメディアとしての新聞・ラジオが普及することで労働者「階級」にさえそれが浸透することで、寧ろそれらの「階級」においてさえ選択肢は確実に増えていった。その中に、ナチスも存在したのである。
 
 ユンカーはまだしも「官僚」と書くとあまりピンと来ない向きもあろうが、ここでもう一冊ご紹介したい。「ファシズムへの道 ワイマール裁判物語/清水誠著/日本評論社」である。この著者の言葉として、まえがきに記載された「それらの訴訟において、旧帝政以来のイスに座りつづける裁判官たちは、おおむね、旧貴族・軍人・政治的テロ犯人に対しては寛容な、そして、民主主義者・共和主義者・労働者に対しては苛酷な態度を取り続けた」(P.3/1971年朝日新聞夕刊への寄稿より引用)との評価は、同著を読めば概ね「正しい評価」と言うことができるだろう。
 憲法は変わったが、司法官僚・裁判官はそのまま残り、それらは帝政期から引き続き残っていたが故に、当然に「革命勢力」や「共和主義者」へは、寧ろ憎悪を持っていた。その結果、憲法の精神以前に、司法の場ではワイマールドイツの発足当初より、しばしば「保守勢力」を擁護する判決がくだされ、結果としてそれは「背後からの一突き」論を補強し、また「反共イデオローグ」としての勃興勢力であるナチスを利する結果にもなったのである。「我が闘争」が収監とは言い難いような収監期に記述されたことは有名であるが、そもそもナチスのファッショを支えたヒットラーをそのようにしたのは、ナチスだから「ではなく」、もともと保守勢力が反共という点で、また新しい女性といった「旧来保守勢力」を嫌悪する体質を帝政期のまま引きずっていたことに起因するものであり、それはナチスの浸透に伴って、同著で以下のように記載されるような状況となる。

 だが、この「法的基準」はその名に値しなかった。それは規範として定着し事前に名宛人に明示されるものではありえなかったから。そこでは「裁判」が行われるのではなく、裁判官による政治的処分が存在したに過ぎない。(P.270)

 
 ファッショを生み、育てたのは、確かに大衆運動であり大衆の積極的政治参画であり、同時にそれを見事にアシストしたのは、本来それとは相容れなかったはずの「保守勢力」であったのであり、それは「右傾化」や「保守化」とは到底言い難いものであった、とさえ言えるかもしれない。いかに「民主的」憲法であれ、それを擁護する基盤となるべき司法がこの有様で、その体制で政治を決すべき有権者たる大衆がナチスを結果として選択したことで、ワイマールドイツは崩壊したのである。

■引用文献
ドイツ近代史―18世紀から現代まで

マルクス・レーニン・共産主義についての拙稿

 犬沼氏から下記を頂戴したので拙稿を投下しておくことにする。

マルクスの搾取論が間違ってたわけ

 大元はこれ。口は滑らせるもんじゃないですね、という好例であります(汗

 さて、予め断っておくと、「進歩史観を憎悪する問題 ツイート追加」ここのコメント欄にも書いたように、未来決定的(あるいは予言的)歴史観というのは、まったく個人的理由と動機により賛同しないので、決定論的階級闘争史観はまったくどうでも良いし評価もしていません。
 同時に、マルクスが想定しレーニンが継承した(ことにしておく)「労働」と「価値」の設定についても、「現代」においてまったく現状に合致していないとも考えるし、或は「暴力革命論」のようなものに至っては唾棄さえしています。
 と、ここまで読んで頂ければご理解頂けると思いますが、個人的にはマルクス「経済学」といった幻想はまったく評価もしていません。まぁソ連や東欧、或は中国人民共和国やら北朝鮮人民共和国やらの「人民共和国」という名の高度官僚集中独裁体制もまた評価していません。もっとも、それらの政体が実現した「人民共和国」における官僚制度が、マルクスやレーニンが当初想定したような解体をまったく伴っていなかったので、それらは「共産主義」の実現どころか、下手したら「共産主義へ向けた第一段階すら実現しなかった」と、その信奉者から批判もされるでしょうが、そもそも「共産主義」そのものが到底現実適用不能なものだと考えていますので、座学は座学で頑張りましょう、という結論であります。

 その前提の上で、上記の発端のツイートに戻ってみることにします。
 実のところ、その共産主義「理論」が言うほど完結的または論理的だとも考えませんし、いろいろと矛盾も孕みまた相当に夢想なものだとも判断しているので、その意味で「不要、遺物」とすることに、些かの躊躇もありません。
 というか、そもそもマルクス「主義」の実践が、権力の発露の一様態でしかない、という点において、革命夢想家の諸氏にはまったく申し訳ないことながら、「政治的イマジネーションの貧困化、涸渇化という現象のその要因として、マルクス主義が存在しているからであり、これを考えるにはマルクス主義なるものが、基本的な意味で権力の一様態にほかならぬという点をおさえておく必要がある」(吉本隆明著「世界認識の方法」/中央公論社1984/P.18)というフーコーの言葉に大いに同意もしますし、「そのディスクールは、単に過去ばかりではなく、人類の未来に対しても、ある真理の拘束力を波及させるという予言的科学でもあるわけです。つまり、科学性と予言性とが、真理をめぐる拘束力として機能しているという点が重要です」(同著P.19)という点にもフーコーの言に大いに同意であり、同時にそれであればこそ否定もし、だからこそ実践し得なかった(予言的拘束ほど理論は現実に適用するには不可能性が内在されていた)、とも考えます。

 さて、では何故、それでもなお「マルクス」や「レーニン」は色褪せずに済む可能性は何処にあるのか。
 ここからはまったく個人的見解であり、或は研究者諸氏や実践者には、ある意味での噴飯物になるであろうことを承知で書いていくが、自分が個人的にそこに見出す可能性は、「主義」やまたは「経済学」、 或は「歴史観」や「階級概念」では「まったくない」ことは断言しておく。上述の通り、自分はそれら総体にはまったくもって賛同も納得もしていないし、また同意もしない。そういうことではまったくなしに、枝葉の部分にこそ、その着目し見直されるべき点もあるだろう、という意味で、「マルクス主義」或は「マルクス=レーニン主義」或は「共産主義」との決別と遺物化と平行して、その枝葉に立ち現れる原点的問題意識こそ焦点になる、とも考えます。そしてそれらの言は今なお、或は他の「主義」として、或は別の「行動」の中に立ち現れる言でもあり、珍しい物では決してありません。
 たとえば、バーゼルにおける国際社会党臨時大会の宣言において「とくに大会は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシア間の旧敵対関係の再生に反対するばかりでなく、現在別の陣営に属しているバルカン民族、すなわちトルコ人、アルバニア人に対するどのような迫害にも反対すべきことを、バルカンの社会主義者たちに要求する。だから、バルカンの社会主義者は、これらの諸民族のどのような権利剥奪ともたたかい、ときはなたれた国民的排外主義に反対して、アルバニア人、トルコ人、ルーマニア人をもふくめた全バルカン民族の友好を宣言する義務をおうている。」(レーニン著、宇高元輔訳「帝国主義」/岩波書店1956/P.211)といった、その原理原則をまず率先して自らに「義務」として課そうとする態度は肯定します(その後の進展は別として)。この態度はそれが実践されている限りにおいて、否定すべきではないだろうし、何よりこういった理念はその後の人権の進展にも寄与したはずでしょう(当人達が望む形であったか否かを問わず)。
 また、プロレタリア「階級」というものが、理論上の幻想であったとしても、「機械装置が次第に労働の差異を消滅させ、賃金をほとんどどこにおいても一様の低い水準に引き下げるので、プロレタリア階級の内部における利害、生活状態はますます平均化される。」(マルクス・エンゲルス著、大内兵衛・向坂逸郎訳「共産党宣言」/岩波書店1951/P.51)と述べられたそれのうち、一部は実際に現出している点は考慮されてよいようには思う(実際には一様の低い水準に引き下がったわけではなく、機械装置はおろか職能そのものにおいてさえ置換可能なものが低くなり、置換不可能なものは高くなるといった「利害の深化」が発生しているので、あくまで「一部」ではある)。また、「現存社会内の多かれ少なかれかくれた内乱を追求して、それが公然たる革命となって爆発する点まで達した。」(同著P.55)といった、顕在化しない軋轢が限界を超えるといかに社会不安を惹起するかという点において「それをさせてしまうとさらに酷いものがやってくる」という反面教師的意味で、意味がないわけではないようにも思えます。そういった「革命」騒ぎになる前に社会はその軋轢を「発見」し「向かい合い」なんらかの「妥結点」を見つけるべきで、放置し黙認しあるいは無視するのではなく。
 或は、ラッサールの社会主義に対して述べられた「マルクスは言う、ここには実際「平等の権利」があるにはあるが、しかし、これはやはり「ブルジョワ的権利」であって、他のすべての権利と同じく不平等を前提している。すべて権利とは、実際にはひとしくなく、たがいに平等でない種々の人間に、同じ尺度を適用することである。「平等な権利」が平等の侵害である不公正であるのは、このためである。」(レーニン著、宇高元輔訳「国家と革命」/岩波文庫1957/P.130)と述べられた際に気を付けるべきは権利が「ブルジョワ的か否か」といったマルクスやレーニンが掲げた命題の根幹の部分「ではなく」、形式的権利が平等であったとしても、それが不平等を内在することは実際に存在し得るものであり、同時に「平等でない種々の人間に同じ尺度を適用する」ことの意味合いを推し量ることでもあるでしょう。ただ、個人的にはここから革命やらに展開することは求めもしない。同時にこういった着眼において重要なのは「民主主義」における「形式的平等」であったり、「自由主義」における「外形的権利」というものが、それであるが故に内在的不平等を惹起する、という点を考慮の上で、それが実質面で是正される方向で指向「され続ける」必要がある、というに留めたい。完全に民主主義的平等を、レーニンの言うような形で(武装した人民・兵士により「すべての人」が国家的機能を遂行し、或は順番に統治する形で)実現するのは夢想どころか悪夢でもあり、ましてやそれを「自主的に参加」するなど、理想ではあり得ても現実にはあり得ないでしょう(強制されない限り)。一方で「社会主義のもとでは、「原始的」民主主義のうちの多くのものが、不可避的にふたたび活気づくであろう。」(同著P.163)といった、原則論としての「国民すべてがその「民主主義」に自発的に参加すべき」という理想そのものは「永遠に実現しないが常に求め続けるべき」ものであろうし、それは同時に「民主主義」の本質でもあるでしょう。

 まったくもって身も蓋もない話にはなるものの、個人的には、そう、まったく個人的には、マルクスやレーニンが打ち立てた「理論」そのものではなく、彼らが「民主主義の理想形」として思い描いたもの(それは永遠に実現もせず、また共産主義革命を経るものでもないもの)を、その枝葉の部分で現代になお有効な部分を「摘み食い」することはできるだろう、という意味において、マルクス・レーニン「主義」ではなく、また「マルクス経済学」でも「階級史観」でもなく、その「発端」なり「問題意識」のみをリサイクルすることができる「程度」には無価値ではないだろう、と。
 摘み食いの結果、当然にマルクスやレーニンが追い求めた「共産主義」は永遠に実現しない、ということにはなるわけですが。

 犬沼氏の問いかけに対して妥当な応答になっているようには思わないので恐縮なのだが、マルクスやら(或はエンゲルスやら)からレーニン或は帝国主義や資本論、或は労働と価値をめぐる彼らの誤謬はまったく「どうでも良い」ことではないか、と。それを「思索するに至った意識」という、理論や実践以前の、或は思索・哲学の根源を射程にする、という意味において「のみ」は、まだ捨てなくても良いのではないだろうか、と。いみじくも前部で引用した吉本隆明の「世界認識の方法」において吉本とフーコーとの対談で合意点となっている「縁を切るべき対象としてマルクスとマルクス主義を区別する」(同著P.17)といった感じで、且つマルクス(レーニンでも良いです)が「何を考えていて、何処に欠点があり、何処が着眼点としてあれだけの影響を及ぼしたのか」という点を「のみ」は、有効とは言わないまでも、無効ではないのではないでしょうか。同著で「<プロレタリアートと資本家>という概念なのですが、吉本さんは、この概念と現実とを混合してはならないと明言されています。」(P,130)とフーコーが語った際、同時にそれが「いわゆる<マルクス主義>者とは完全に異なる解釈」と指摘しているのは示唆的ではありますが、その主義主張が「実践的」あるいは「構築された論理的」という意味において、まったく無価値或は誤謬であったとしても、彼の人達が思索した位相が、或は深層が何処にあり、それはどの程度現在も資本主義或は民主主義或は自由主義において内在され是正され「続ける」ものなのか、といったものを考慮する場合において、無価値ではないのではないか、と考える次第です。

P.S.これ共産主義者や研究者から盛大に不勉強なり日和見主義なり剽窃者なりと言われるんだろうなぁ

■参考・引用文献(注:上記引用と増刷・発刊年が異なるものがあります)

【独白】さようなら、保守

さようなら、「保守」
というわけで、一応は保守を自称してきたわけですが、そろそろの名乗りは終わりにしよう、と考えた次第。
保守主義とは元来は近代化に対するアンチテーゼの一翼を担い、また急進的社会変革を求めず時に合理性の上に偏見を配して非合理であれ因習として培ってきた社会制度の中に伝統の存在を肯定をもしてきた、はずであった。
それは郷里・郷土とともにその地に住まい根付いた人々を同胞として共にそれらを実現するものとし、それ故に閉鎖的社会・村社会・排外主義とも隣接する危うい立ち位置でもあった。
これもまた、回顧趣味でもなく反動主義でもなく、漸進改良をも包含しない限り、ただの守旧と頑迷に留まるべきものをも内包するものでもあった。
然るに昨今の「保守」を名乗る界隈の動きや、またそれとは別にいくつかのやりとりを通じての「世間」とやらの因習の弊害が時にあまりに大きさの存在(同時にそれは「普通」とも称される)、それらを見るにつけ、果たして「保守」を名乗ることの意味をどのように持たせるべきか、を何度も自省させるものであった。
別に率先して「保守主義者」と自らを位置づけることやそれをやめることにどれほどの意味があるか、というのはほぼ自分個人以外には「どうでもいい」ことなのであって、わざわざどうこう言う必要があるかどうかは不明だが、敢えてそう言明する言動を少なからず採ってきたのだから、明示しておくことに意味もあろう。

さようなら、「保守」
だからといって保守主義の思想的それを放棄するわけでもないし、言動のそれ自体の中身は別に変わらないだろう。
もちろん、転向する先などあるわけもない(保守からの転向と言うと革新運動系などを想定する向きもあろうが、それらは総じて自分は批判的に見てきているし、今後も変わらないだろう)。
しかし、「保守」を自称していくことは、その文字の本邦での偏った捉えられ方(と同時に、その偏りを当然としてそれを自称する「保守」)に対して、言動のアプローチとして適切さを欠くように感じこそすれ、求める先にあることを見据えた際に負の作用もあろうと感じる。
自らの過去を振り返り、敢えて選び取り直したものであればこそ、それをまたわざわざ宣言して放棄することにいささかの郷愁も無いわけではない。
個人的郷愁にさほどの意味があるかどうかはまったくの個人的問題である。
時に「お前は保守ではないだろう」と言う指摘は頂戴もしてきたが、それは自分が「保守」を自称するそれに対して、それは「保守主義の思想的根源」と相違することを指摘する程度の、「保守」という言葉にどのような側面を見出して指摘するか、という違いであろうし、これもまたどの程度自分にとって意味のある指摘であったかは不明だ。自分の言動が相手に対して、さほど意味がない程度の意味しか持たなかったやもしれないし、そうではなかったかもしれない。

今後、どのように自らを位置付けていくのか、しばらくは模索することになるだろう。
それで良いのだ。
迷い、その先に何を見出すか。
思索を捨てたら前には進まない。
さようなら、「保守」
保守主義足らんためにこそ、その名は捨てるとしよう。
一周したその先に、敢えて再度その名を選び取ることもあろう。
しかし、今はその名を捨てよう。
「普通」を名乗らねば普通ではない、という程度に安っぽいそれではないはずだ。

2013年を振り返りつつ、改めて読んでおきたい10冊

2013年もいろいろありました。
毎年年末は月次ごとに出来事、訃報を列挙して振り返るようなことをしているのですが、敢えて再読書も含めて、今年を踏まえて改めて読んでおきたい10冊、ということで選定してみたいと思います。

■1位「中国化する日本」

與那覇先生は本年多作ではありましたが、敢えて選ぶならこれを。
日頃伝統や文化、「日本」とは何か、について考えることも多いだろう本Blog閲読の諸氏にも得られるものは多いだろうと思います。
自明だと考えていたこと、思い込んで済ませているもの、それらについて旧来のテンプレートからでは得られない視点を得られることもあるでしょう。歴史学の専門家でないならばなおのこと。

■2位「集団的自衛権の深層」

日米安保や積極的平和主義など、国際社会の中での本邦の位置づけが変化を求められ、また変化を志向していく中で、果たして「集団的自衛権」また「集団的安全保障」とは本来はどのような概念から成り立ち、過去国連を中心にどのように議論され、またそれが認められ、認められなかったのか。コンパクトに概略を掴むのにお勧め。本邦内の表で議論されているそれがいかに周回遅れの議論なのかがよくわかります。

■3位「詳録・皇室をめぐる国会論議」

ちょいと古い本ですが、国会の中で皇室がいかに論じられ、また政府答弁が如何様なものであったのか。膨大な国会議事録を追うのは大変ですが、要所のみを書き出してくれているのでとても助かる一冊。
皇室の有り様が、今上陛下の昨今の踏み込んだ発言の是非や後継問題、また園遊会での一件などもあり、改めて押さえておきたい憲法との兼ね合いや政府見解などをテーマごとに追える良書。
かれこれ10年以上前の本なので、是非直近のそれを加えて加筆・改訂版の出版が望まれます。

■4位「日露戦争と新聞」

とかく「マスゴミ」や「記者クラブ」批判などが飛び交う昨今。また、戦争とメディアの有り様が改めて問われる中、読んでおきたい一冊。
個人的には前大戦へと至る種は概ね日露戦争までに蒔き終わったと考えているので、尚更のターニングポイント。
新聞の独立性、また大衆新聞化する過程で論者の幾人かは新聞に留まらず雑誌をもその論壇の舞台としていった背景が簡潔に分かります。
報道と政治、戦争とメディアを考える際、メディアの多様化が成された今でも決して根幹は変わっていないはずなので、把握しておくべきテーマでもあります。

■5位「選挙演説の言語学」

2009年衆院選における、自民党・民主党を中心とした党首、候補の選挙演説とは果たしてどのような意味合いを持っていたのか(公約の内容ではない)。それを選挙演説の表現の有り様、演説空間から捉えなおした一冊。
民主党が酷い政党であったにしろ、また本人たちに自覚があったにしろなかったにしろ、09年衆院選は本邦の形骸化しつつあった選挙に一石を投じたはずの選挙でした(政権交代、という意味に非ず)。
簡潔ではありますがオバマ大統領の演説も補足的解説があります。
民主党に「騙された」と言う人、また民主党は「二度と御免」と言う人のいずれにも、改めて09年選挙で行われた「選挙演説」を考えてみても良いのではないでしょうか。

■6位「植木枝盛選集」

石橋湛山評論集と悩んだ末に敢えてこちらを。昨今の薄っぺらい新聞論説や議員発言と比較して、格調高い論考も過去にはあったのだ、と改めて認識させられる一冊。「人民は政府をして良政府ならしむるの道あれども、政府単に良政府なるものなし。」に始まる「世に良政府なる者なきの説」は冒頭収録の論説ですが、これだけでも是非読んで頂きたいところ。政府批判は簡単ですが、政府を良道に導くのは有権者であり国民です。もちろん前大戦のように逆に導くのも。

■7位「文学者たちの大逆事件と韓国併合」

ヘイトスピーチの公然化に対して、その根源の一端になるであろう部分を簡潔にまとめた一冊。大日本帝国、そしてその臣民の完成と、それが与えた影響、後世における在日朝鮮人、被差別部落、引揚者の位相、それらを文学表現から掬い上げた一冊。新書サイズなので内容も簡潔で論考も深くはなく、また視点もある意味では一面的に過ぎるところはあるものの、「行動する保守」や「在日特権を許さない市民の会」が在日ヘイトに限らず部落や生活保護なども標的とし、「普通の国民」を自称する局面において、本書の内容から得られるものは多いでしょう。

■8位「アメリカの保守とリベラル」

本邦でも「保守」「リベラル」とは何なのか、が問われている昨今において、また民主党の壮大な失敗を経て二大政党制への疑問が生まれ、また「反自民」という極と言えない極を志向する傾向に対して、選挙制度・政治文化の違いはあれど参考になるだろう一冊。内容はクリントン政権まで、ですが。
リベラルと保守の捩れ、保守の分裂と先鋭化、果たしてそれをもたらしたリベラルの経済政策の優位性(現在ではやや否定的側面も指摘されていますが)、それでも「リベラルが勝ち得る可能性」を本邦で探るのであれば、リベラル陣営こそ読んでおくべきかもしれません。

■9位「新しい左翼入門」

戦前からの左翼運動の思想的対立(社共対立)等をまとめた運動史。内ゲバと評されることもあるそれがいかに生じ、またいかなる意味を持っていたのか。一括りで「左翼」としてまとめて片付けてしまうことの暴論も顕になるし、また逆に左翼の中でも時に大勢に、または妥協と抗争の果てにその立ち位置を反転させることさえあった本邦左派運動を簡潔に知ろうと思うなら読んでも損はないでしょう。
もちろんこれも新書サイズなので、個々の運動の内実や政策・思想変化に対する論考や多角的視点については専門書に譲るべきでしょうが、あまりに何も知らずに安易に否定するのであればこそ読んでおきたい一冊(「新左翼」ではなく「左翼」に対する「新しい入門書」であることだけ間違えることのなきよう)。

■10位「ネオナチ」「右に傾くとはどういうことか」
ネオナチ―若き極右リーダーの告白

10位は同列でこの二冊。
前者は東独のネオナチのリーダーがいかに組織内での体制を固め、というと聞こえは良いが、いかにネオナチが愚劣な集まりかがよくわかる一冊。これはそのリーダーであるインゴ・八ッセルバッハのインサイド・レポート。本邦のネトウヨに対する考察も進み始めている昨今、いろいろな意味で参考になると思われる一冊。
後者は左翼から転向した須藤久(日本共産党除名)の著。戦後のありとあらゆる「市民運動」「革命運動」と称されるそれが、いかなることを掲げそれを「成し遂げられなかったのか」についての批判的考察。「右翼とは文字を手にすることができなかった被差別人民の前衛なのである」という前書きに引用される一文は非常に示唆的であしょう。
昨今の右翼批判、左翼批判の少なくない部分は、これらの考察を踏まえて改めてそれ故に批判されるべき点は多々あると思います。それが愛国運動であれ反ヘイト運動、反原発運動であれ。

他にもナチスに準える表現が増えている気がするのでナチス論考の10冊とかでも良かったのですが、それはそれでいささか手に入りづらいものもあるので、一年の終わりにはやはり昨今の動きを踏まえて来年どう考えるべきなのか、の参考になりそうなものを選んでみました。
皆様の読書ライフが来年も素敵な一年になりますよう。

「史学」と「物語」と「騙り」と「歴史」を巡って

Mukke氏のところに久しぶりにコメントを残したところ、示唆的なレスを頂いたのでお返事。
「逆右翼」と反中主義者たちをめぐって――梶ピエール氏への応答(元エントリ)

「イデオロギーフリーな学知は存在しないわけで,問題はそのイデオロギーがどのように用いられているかなんじゃないかなーとは。イデオロギー的に偏ってはいるけれども独創的で堅実な実証研究と「イデオロギーフリー」なクソ研究だったら前者の方が遙かにマシなわけで。」(Mukke氏レスより抜粋)

これについてはベルンハイムをわざわざ引用した理由を特段書かなかったので、この示唆自体は興味深いお返事でした。
ベルンハイムの「歴史とは何ぞや」(以下断りない限り岩波文庫1976年版第36刷を参照)の第一章第一節において“「史学」における意義で用いれば”から始まる一節における“ギリシア語から出た外国語Historieで、この語はもともと「探求獲得した知識」を意味するが”(同書P.19)からの抜粋簡略な引用として「史学=ヒストリエは探求獲得した知識」という表現を用いたわけですが、ベルンハイムはそのよく批判されるところの「史料操作」(これは史料分類や精査といったテクニカル=技術的手法を意味するので、誤解なきよう)についてに多くを割き、その批判も「史料批判」としてのみ捉えているのに対して、セーニョボスが「歴史的理解のすべてが批判的に貫かれなければならぬ」(同書P.267訳者解説より)とそれを批判し、また「ベルンハイムの方法論の欠陥は、その叙述の大部分が史料操作の技術論にあてられ、歴史理論にかんしては、最初の部分に歴史哲学の諸類型がごく簡単に羅列・紹介されているにすぎず、しかもそれが技術論との必然的な連関において論じられていない」(同書P.270)と指摘されている、まさにその「欠陥」こそが「歴史学」における基礎となり、歴史哲学はその基礎の「上」に築かれる、という意味合いにおいて、所謂最近一般に言われるところの「歴史認識」がMukke氏の指摘の通り「イデオロギーフリー」ではなく、歴史認識が「歴史哲学」において争われる(か最早歴史とは関係ないイデオロギー政争の具に供されるに至る)場として現出した時、むしろセーニョボスが批判するところの「ベルンハイムは方法論ばかりではないか」というその焦点こそが、立ち返るべき起点となるだろう、と考えるのです。
史観がイデオロギーフリーでは有り得ない、という点においては同意するわけですが、その史観の根本の基礎となるべきテクニカルな部分を十分に備えていなければ、その史観はすなわちイデオロギーが「先に立つ」ことにはなりはしないでしょうか。
ベルンハイムは史料そのものの信頼性から内容についての信頼性、果ては「史料の属する時代と場所すなわち環境全体の諸影響を考慮する」(同書P.200)ことまで求めて史料の精査を行うべきとし、また「政党の間では、たとえばある階級または党派の一員の犯した道徳上の過失を摘発すると、この過失がただちに当該階級または党派の道徳的素質全体を表すものであるかのように主張する類のことがある。歴史家こそそういうふうにしてはならない。」(同書P.235~236)と指摘しています。
唯物史観に留まらず、自虐史観(東京裁判史観)だろうがなんだろうが、その史観がそれらのベルンハイムの求めるそれによる批判に十分に耐えられるものであれば、それはそれで一定の価値もありましょう。その点において「実証」の重要性は言うまでもなく、それは党派の如何を問わずに求められるだろう、という点では、Mukke氏の言うところの「「公正さ」という,多少なりとも普遍性を訴えることのできる基準」(同エントリ)という部分に合致するのではないか、と考えます(当該引用が本論と異なる趣旨においての記載であることは理解しております)。
同書の第三章第二節が史学ではなく「史料学」と題され、本書でもっとも多くの副題が配されていることもまた多く批判されるところではありますが、それこそが「公正さ」を担保するものでもあるでしょう。
逆に言えば、エントリ本論(または当該エントリの大本のエントリや引用元)における「逆右翼」(または「逆左翼」)において、歴史とはしばしばベルンハイムの言う史料学的要素(本来は史学の基礎となるべきテクニカルな部分)について無視するか逸脱するか不十分というにも及ばない程度のものである、という指摘は、場合によっては可能でしょう。「歴史の真実」といった類の「宣伝文句」が多くの場合碌な検証もされず史料根拠さえ怪しい代物であることが、それを雄弁に物語っているとさえ感じることもあります。
 
たとえば、ここに「歴史教科書への疑問」(H9/展転社刊/日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編)があります。ここの「慰安婦・教科書問題」と題された末部における各議員のコメント(安倍晋三、衛藤晟一、自見庄三郎、下村博文、菅義偉、高市早苗、中川昭一、中山成彬、平沢勝栄など「錚々たる」諸氏のコメント)が載っているわけですが、どのコメントも総じて「誇り」だの「君が代」だの「左翼教師」だの、イデオロギー満載なわけですが(朝日の例の慰安婦報道の妥当性や吉田清治の著述の妥当性への批判については、当然になされるべくしてなされている批判があるとしても)、また「教育」というのが極めてイデオロギーや統治の問題と密接であればこそ、歴史観というよりは歴史哲学というべきかもしれませんが、そういった視点は常にベルンハイム的批判にされされ、検証されなければならないと考えます。そこに立脚しなければ、歴史とイデオロギーは転倒するからです。イデオロギーの為に歴史を求める、それこそが「逆右翼」しかり「逆左翼」しかり、批判されねばならない点でもありましょう。
その点において、自分が注目している與那覇潤氏が「日本の起源」(太田出版)や「日本人はなぜ存在するのか」(集英社インターナショナル)などの著述において、しばしば歴史を語りながら、それが同時にそれを後者の著述を借りれば「「日本人」をローコンテクスト化する」というイントロダクション部分における表記の有り様は、実際に「語られている」歴史に対する史料面からの「批判」ないしは「再構築」という点でセーニョボス的要素もあり、同時にその依拠する史料の同時代における背景に注意深く配慮しつつ持ち出す点ではベルンハイム的要素もある、とは思います。
ごく一般論として、権威・権力、またはそれの正統性を担保するための歴史「叙述」に対して、逆張りしておけば良し、とするいわゆる「逆右翼」の「語る歴史」と、それに対する反動とも言える「左翼」に逆張りしておけば良し、とするいわゆる「逆左翼」の「語る歴史」というのは、セーニョボス的要素もベルンハイム的要素も、そのどちらも大きく欠落し、その上でイデオロギーが先に立つ、という点において(“反”というのがいかに皮相的立ち位置であるとしても)、それは「史学」「史料学」の文脈においては、それは「歴史」を扱っているのではなく「道具」としている、と指摘するのが妥当と考えます。
神話が神話として、「文化」の文脈で重要な諸要素の一つであることはそれとして、それは「神話」であることそれ自体が持つ「文化」としての意味合いであって、必ずしも「史学」においてはその神話記述が「真実性」を有していなかったとしても、それが同時代に、また研究対象となる時代に、あるいは現代において果たしている「史学上の役割」として決して意味がないことでも価値がないことでもないでしょう。一方でそれがイデオロギーの「装置」としての役割を求められ、それに供された時、それは「史学」ではなく装置としての「歴史」としての意味しか有さなくなります。この時、それはベルンハイムの言うところの「物語風歴史」(冒険譚や民族伝承、あるいは宗教的物語といったそれ)でさえなく、「物語られる歴史」という史学から一歩離れたところにならざるを得なくなると考えます。
統治という行為がすなわち政治であり、政治というそれがイデオロギーと無縁では有り得ず、イデオロギーにおいて歴史の作用というのは寧ろ「重要」でさえあるわけですが、そこから「史学」「史料学」的営為を学問的側面としてすっかり取り払ってしまった場合、それはしばしば「物語られる」どころか「物騙られる歴史」になるわけです。最近も「江戸しぐさ」などといった、まったくもって史料根拠がないそれがあたかも「歴史」であったかのように騙られているわけですが、これもまた相似形を成す一つの立ち現れのようには思います。そしてそれらは「物語られる歴史」ではあるかもしれませんが、決して「史学」では有り得ない(もしくは批判に耐えるどころか批判するまでもないレベルであることも多い)代物でもあるわけです。
一周回ってベルンハイムに戻って参りましたが、「イデオロギーとは無縁の歴史哲学がある」とは自分も考えませんが、同時に「歴史哲学に先立つべき史学的技術があるだろう」という意味において、多くの欠陥を指摘されていることを承知の上でなお、「多少なり普遍性を持つ」という意味において、與那覇氏の指摘するところの「ローコンテクスト化」の必要性(これは「歴史」ではなく「教養」としての有り様に関する概念的一般論的記述でもありますが、同時に著述が「日本人はなぜ存在するのか」であることで自明のように「歴史」とは不可分の指摘でもある)とは、ベルンハイム的技術手法としての普遍性を担保すべきものは「どうあるべきか」に対する指摘と理解すべきと考えます。
そして、それは同時に「どのような立場であれ党派であれ歴史を語る、それを史学的文脈のように装う」場合においては、それこそ「普遍性の担保のために」こそ求められる、「誠実さの態度」であるように考える次第です。
その意味では「そんな奴と手を組むな」や「こいつと手を組め」というのは「史学的誠実さ、普遍性」の問題ではなく「政治的戦略、妥当性」の問題として捉えるべきと考えますので、エントリ自体の内容には本論としては踏み込んでいない点、ご容赦のほど。

P.S.もっとも「歴史修正主義」のように、政治的文脈においては一定の党派性を指し示す用語であり、同時に史学的文脈においてはむしろ「定見」とされる歴史理解(または学術成果)に対する別見解・新史料による修正を図る意味で用いるような用語もあるため、こと史学と政治というのは厄介な代物であります。本稿に引用しているベルンハイムの同書がもともと1905年に書かれたものであるにも関わらず、追補としてわざわざ1933年のナチスの掲げる民族史観について補足を加えているなど、同氏もまた「歴史哲学」という点においては、政治の文脈から必ずしも無縁であったわけではない点、難しい問題ではありますが(同氏は1942年に逝去しているわけですが、敗戦を迎えた際にその追補とどのように向き合ったのだろうか、と考えると、いささか興味深くもあり、残念でもあります)。

参考・引用文献

「歴史とは何ぞや」ベルンハイム著/1966/岩波文庫

「歴史教科書への疑問」日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編/1997/展転社

「日本の起源」東島誠、與那覇潤著/2013/atプラス叢書05

「日本人はなぜ存在するのか」與那覇潤著/2013/知のトレッキング叢書

保守主義論考 エドマンド・バークと本邦保守主義者の態度

 保守主義。
 この言葉ほど本邦において適当に用いられている言葉も無いだろう。同様に左翼という言葉もまたそうではあるのだが。曰く「文化と伝統を守る」、曰く「国を愛する」、曰く「右翼」、曰く「歴史修正主義者」、曰く「軍国主義者」、曰く「尊皇派」等々。果たして、そのどれもが適当に都度自認として、また批判の言葉として用いられている。昨今では「排外主義者」とも同義に用いられることさえある。しかし、そもそもその「保守主義」という用語について、どの程度の思慮を働かせて用いているだろうか。
 1955年のいわゆる政党合同以降、「保守・革新」という言葉で括られることにより、「保守政党=自民党」「革新政党=社会党・共産党」といった区分がなされ、その分類において一般に進歩的文化人と呼ばれた一群が社会党ないし共産党寄りの発言を繰り返し、また自民党がしばしば戦前について、または先の大戦に対してともすれば是認的言動を行ってきたこともあり、「保守=戦前・大戦容認」であったり、「保守=新しい考えを認めないこと」であったり、といった認識も広がったようには考える。確かに「保守主義」というものの源流を欧州の革命時代におけるアンチテーゼとして確立されてきた経緯を適用すれば、そのような認識も一面では正しかろう。一方で、アメリカを伝統・文化の破壊者として見る立場に立てば、自民党は「親米政党」であり「いつまでも占領期同様の基地体制を維持し続けている」わけであり、「親米保守はおかしい。保守こそ反米であるべき」という見方も立てられよう。その部分だけを見れば、この理屈で言えば「共産党・社民党」も立派な保守であるのかもしれない。しかし、反米保守の立場であってもさすがに共産党や社民党を「保守政党」と呼ぶことは無いであろうことを踏まえると、この立場は「保守主義」の必要要件ではなく、主義の帰結として導かれているひとつの解でしかない、とは言えるだろうし、そうであれば「親米保守」という立場もまた成立する余地はあろう。斯様に「保守」という言葉の定義や運用は個々の主張と結びつきこそすれ、本邦においては体系的に確立した概念では”ない”のではないか、と思えてならない。

 保守主義と呼ぶ際、真っ先に思い浮かぶのがエドマンド・バークであることは異論の無いところであろう。保守主義の父とも呼ばれ、フランス革命に反対の立場を取った人物である。自分も保守主義の原点として彼を位置づけることに異論は無いし、また同時に「保守主義とは何か」を考える際、そこを抜きにしては語れないとも考える。しかし、バークもまた矛盾を孕み、同時に本邦において恣意的引用が繰り返されてきた人物でもあろう。バークがフランス革命を否定した理由のひとつは、それが社会契約論的思考を基盤に置いて展開されたからであるが、バークにとって社会契約論は忌むべきものであった。バークの指摘が正しければ、であるが、社会契約論的方法で構成された統治体系の場合、人民はそれ自身の性向・思想・罪の有無などに関わらず、任意に統治体系を選択することができるのに対して、統治者=君主(当時の統治者)は統治の義務はあれ、人民が気ままに処断できる存在となってしまう。バーク自身は極めて貴族的人物であって、彼が保守したいと切望したそれが「王」「貴族」の権利であり地位であったことは想像に難くない。いわゆる「世襲」がイギリスにおいて封建制・王制の中で特に重要な「財産」であり「権利」であったからこそ、その侵害は「歴史的継承」にあたるのであり、それ故にフランス革命に猛烈な反発を見せ、社会契約論を徹底して批判したのである。一方で、バークはアメリカ独立においては、イギリスではなくアメリカの独立運動を支持している。バークによれば、それはイギリスが「植民地統治権」といったものを振りかざして横暴に振舞っているからという理由であるのだが、そもそも独立しようとした「アメリカ」とは先住民のそれではなく、入植者による「独立」であり、確かにバークが危惧してやまなかったイギリス王族・貴族が「世襲的相続」を行ってきたような財産などがなく、正統に守るべき理由はなかったのであろうが、同時にこのあたりはバークの限界であり、同時に当時の「人間とは何か」という概念的問題の限界でもあっただろう。
 バークの言う「偏見」の尊重、「歴史」の尊重とは、古来より受け継がれてきた習慣・因習であったり、また明確化できないもの(もしくは理論化できないもの、と言っても差し支えないように思う)に対しての肯定であるのだが、これは当時のイギリスにおける「相続」概念(権利)を抜きにして考察することはできないのであり、そこを無視して無理に表面だけを本邦に適用するのはまた過ちをもたらすであろう。そもそもイギリスにおいて「権利の章典」でさえ、その自由の要求は「古来より相続されてきた英国臣民の権利・自由」であるが故に「国王はそれを尊重すべきである」という論理構成となっているため、しばしば本邦においてフランス革命のそれやアメリカ独立戦争のそれと同様に「自由希求の象徴」として捉えられがちであるものの、その根本はあくまで「相続権利を尊重する」という形式であり社会契約論的自由・人権思想とはまるで異なる性質のものである。そもそも「権利章典」自体、「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」という名称であり、そこに「臣民の相続的権利」として規定される自由である、という事実こそ、いかに「相続」が重要且つ根源となっていたかが理解できよう。そして、人民主権が相続的権利ではないが故にフランス革命に反対し、同時に相続的財産でないが故にアメリカ独立においてイギリスを批判する側に立ったのである。
 
 本邦において、しばしばバークを保守主義の父として取り上げ、またその思想を革新思想(所謂左翼的思考)へのアンチテーゼの玉条の如く持ち出すことがあるが、果たしてバークのそれを正しく理解しているであろうか。民族という用語をここで用いることは避けるが、敢えて言うならば、バークがアメリカ独立に際して取った態度をこそ、帝国期の半島支配に対して取るべきだろうし、もう少し手前のところで同じくバークのインド統治に対して見せた「文化の尊重」というバークの理論的骨子の部分における態度と同じように、その支配のあり方を批判的に捉えるべきであろう。しかし、一方で左翼批判の文脈においてバークの理論を振りかざしながら、一方でそのバークの理論の骨子に反するかのように半島支配を「経済発展したのだから」「近代化してやったのだから」と発言するのは、論理的一貫性として欠ける態度と言えよう。もちろんバークの理論を援用したからといって、それを全面的に肯定する必要もなく、同時に一部を用いて発展させ新たな理論に昇華させることは十分に有り得ることではあるが、理論の根幹の部分で背反する論立てを並行して公言するのは、バークの理論を理解していないのではないか、と思えてならない。
 

 そして同時に、自民党がバークの唱える意味においての保守主義かといえば、必ずしもそうとは言えないだろう。自民党が反革新という意味においては「保守派」の系譜として、ある種の正統な後継であるのかもしれないが、政治的ポジションとしてのそれが思想的それと必ずしも合致するわけではない。社会党と共産党が同じように「革新」に分類されながら決定的に相容れない点があったことは歴史の示す通りだが、思想的意味よりも実践的行動に対しての思想の具現化においての相克でもあった。自民党の場合はそのような対立はしばしば派閥抗争や政策論争の形で党内で行われたわけだが、その程度には党内でさえ相違はあったのであり、中には社会民主主義に近い、保守主義からはいささか距離を置くような政策も見られた。だから自民党を「保守政党ではない」と言いたいのではなく、「保守主義とは何か」を考えずに「反革新だから」と言って安易に「保守主義であるかのような錯覚」を起こすべきではない、ということを忘れてはならないだろう。例えば吉田茂が、岸信介が、佐藤栄作が、田中角栄が、保守主義者であったかどうか。また、その政策を行った自民党という政党が保守主義的であったか、という点については、いろいろと再考の余地があるように思う。
 改憲論議にしても同様で、「押し付け憲法論」というのは確かに移植し縫合した結果としての日本国憲法に対するひとつの態度ではあろうが、それが日本国憲法の「内容」ではなく「手続き」や「経緯の一部」のみを以って不当としながら、同時に「万世一系の皇統こそ日本の伝統」という場合、形式的には日本国憲法は大日本帝国憲法の改憲手続きを経て、陛下の詔書を以って、陛下臨席の下での大日本帝国衆議院・貴族院において採択・公布されている事実に対して、どのような態度と言えるだろうか。「皇統」という点においてはバークの偏見論に沿った保守主義的態度と言えるかもしれないが、同時に先帝陛下が関与する形式を経て公布されたものを軽視する、というのはその皇統に対しての態度と矛盾しないだろうか。もちろん「皇統」という系譜が重要なのであって、「天皇」という「個」「一代」のそれは誤ることもあるのであるからそれほど重要ではない、という立場もあろう。しかし、自分の見ている限り、そのような論立てで「押し付け憲法論」を正当化する論は見たことがない。恐らく、ではあるが、「陛下を戴く国体」と「自身の主張」との間で整合性が取れないからであろう。天皇の過ちを正す、ということは輔弼する臣の態度として必要な態度でもあるだろうが、昨今の「保守」を標榜する集団が「皇統」「天皇」は尊重し敬愛されるべきであり、よもや「過つ」などという批判は想像の埒外であるか、そうでもなければそこを切り離すことでしかこの問題を存立させ得ない、といういずれかではないか。もうひとつ反米だから、という理由も立てることができるし、また一方で左翼的だから、という理由も立てることができるが、保守主義者であるならば、そのいずれの論を採るにしても、日本国憲法制定過程における形式的手続き的意味における先帝陛下の関与を避けて通ることはできないのである。日本国憲法の社会契約論的性質をバークの理論によって批判することは容易いし、またバークの言う偏見論としての意味合いにおいて批判することもできるだろうが、同時にバークの理論において最も重要な「相続的権利」という点においてはどうか。本邦の国体において、そのような意味合いにおける最も象徴的相続継承は他ならない皇統であるわけだが、その一代の御世において行われ、他ならない先帝陛下が関与したそれが過ちであったとするならば、先帝陛下そのものも批判されねばならないだろう。この撞着には自民党でさえも囚われていると言えるだろう。
 また、日本国憲法と合わせて大きく手を加えられたものに皇室典範があるが、ここで最も重要な改正事項は「皇族会議」に代えて「皇室会議」を規定したことである。これは戦前の皇室会議を「国民の代表機関的意味合いも含めた」会議へと転換するものであったが、「天皇」という憲法上の位置づけは統治体系の主権者による改変としてその選択に委ねられるとしても、皇位継承といった問題はどうなのか、という大きな問題を孕んでいる。皇族会議は本質的には「皇室」という、語弊を承知で言うならば一族内の会議であったのに対して「皇室会議」はまったく異なる性質を持つものである。そもそも皇室会議において出席できる皇族の員数規定から、会議の決定は皇族の意向は無視しても可能であるものとなっている。天皇の「憲法上の位置づけ」としての問題からこの規定を妥当することもできるだろうが、こと「皇統」を最重要視し絶対護持を声高に叫ぶ者が、恐らくは日本国憲法よりもより重要であろう皇室典範におけるこの会議の存在に対して、あまりにも無視していることをどう考えれば良いだろうか。原則として不文律で長嫡子順の継承を基本とはしているが、「皇室会議」においてこれを覆すことは不可能ではない。バーク的に言えば、保守主義の根幹たる「相続的権利」に対する侵害とも言える。皇室財産に対する皇室外からの関与も同様である。とかく第九条ばかりを槍玉とし、問題視し、それが故に本邦の根幹が揺らいでいるかのように叫びながら、この態度は不可解でさえある。さらに言えば、この皇室典範改正についてはGHQ主導というよりは、寧ろ本邦の側が主導して行ったことでもある。明治帝からの伝統、という点に限ってさえ、このような問題は不可分に付き纏っている。

 もちろん人間である以上矛盾は孕むものではあるし、必ずしも首尾一貫することがあるとは限らない選択が必要になる局面もあるわけなので、それそのものがあることが必ずしも問題であるとは限らないこともある。しかしながら、昨今の保守主義を標榜する一群の中で、バークを論拠に据えて論じる一部の論者があまりにも恣意的無理解にバークを流用し、似ても似つかない主張を繰り返しているのではないか、と思えてならない。自分がしばしば「保守主義の原点は古典的保守主義にあり」というのは確かにバークを念頭に置いてはいるが、さりとてバークの理論をそのまま直接に本邦に適用できるとは考えないし、補助線としての原点にはなり得ても、全面的に適用するのは愚でさえあるとも考える。然しながら、バークのそれを主張の論拠に据えるならば、せめてバークの理論は極めて欧州君主・貴族的それが「前提」となって論じられていることを念頭に、果たしてその論が自身の主張根拠になり得るのか、ということをよくよく考えるべきであろう。自身の主張根拠のために表面的にバークの理論を継ぎ接ぎするのでは、結論ありきの話であり、まともな論にならないことは自明でさえある。もっとも、日本国憲法を否定し大日本国憲法に立ち返って再度自主憲法を制定すべき(もしくは大日本帝国憲法を復旧適用すべき)、と言う論者は、大日本帝国にバークの理論が影響を与えているという指摘が一部にあることは再考すべき点であろう。