カテゴリー別アーカイブ: 自分自身のこと

平成27年 年頭所感

 新年あけましておめでとうございます。

 中性的ニュアンスを持たせたこの名前を名乗り始めてから約18年が経ちました。この間、過剰適応による思想・信条的踏み外しからの軌道修正をはじめ、事実に基づかない歴史解釈や都合良いだけの弱者探しへの指摘、そもそも正義や人権とは何かなど、各般の重要課題をエントリーとして書く形式で当たってまいりました。さらには、愛国という名の横暴や、反差別の名を借りた侮蔑罵倒といった新たな課題にも、ここ数年比較的積極的に取り組んできました。

 そして昨年某所では、御縁のあった皆様から力強いご支援を頂き、この度新たに場を構築する重責を勝手に背負うこととなりました。

 いずれも人生における大変化であり、前途多難な道のりです。しかし、多少の己惚れと過信といういささか無鉄砲な力を得て、今年は、さらに大胆に、さらに重厚さを持って、己の信じる道を推し進める。将来を見据えたテクスト構築の年にしたい、と考えております。

 レイシズム問題では全国各地で様々な事案が発生し、当事者の皆様の司法での勝利もあり、一方でカウンター行動の一部存在に対する疑問の声を、伺う機会を得ました。こうした今まさに正義の名で成されつつあること、淘汰されつつある声に、自分なりの回答を出していくことで、差別とは何か、ただ反レイシズムを騙れば良いのか、或は愛国を唱えれば済むのかをさらに深化して考えてまいります。

 本来の人権、市民権とは何かを継続的に思考し、信念・哲学を不断に昇華する。今年も、己の信ずるやり方で問題提起或は回答提示にあたり、本邦抱える様々な問題を、陰に陽に提起してまいります。

 今年は、戦後70年の節目であります。

 本邦は、先の大戦の深い検証と内省を表面的に行うままに留め、戦後、自由で民主的な国家として、ひたすら平和国家としての道を歩み、世界の戦争と貧困、差別などに対峙せずに済ませてきました。その来し方を振り返りながら、次なる80年、90年、さらには100年に向けて、自己が、どういう哲学を目指し、社会にどのような貢献をしていくのか。

 己が信じる社会公正の姿を、この機会に、或は狭すぎて届かない範囲にしても発信し、あるべき社会づくりへの細やかな、そして確固たる軸線を構築する。そんな一年にしたいと考えています。

 「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」
 「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。」

 キング牧師のこの言葉を、その剽窃者達は、好んで使い、その理念を実践するという行為ではなく、ただ旗や記号或はファッションとしました。半世紀前、ワシントン大行進の最後の演説で語られた一節です。

 エスニシティの問題、カルチャーの問題、それらはこの数年で確固として立ち現れました。日本国憲法を公布し、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と前文で宣言した時代、当時に平和と平等への希求を大いに奮い立たせたに違いありません。この「国家」「自国」「他国」を「人」「自己」「他者」に置き換えた時、この前文の誓約は初めて、個々人の理念・哲学と誠意・理解の下に、初めてその精神を実践し得ると考えます。

 そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、本邦は経済的には世界に冠たる国となりました。当時の本邦に欠けていて、今の本邦こそ、成し遂げるべき課題があります。その課題を考える場として、新たに店を構える運びとなりました。

 個々の叡智とともに、本邦を、真に、世界の中心で輝く社会としていく。その課題を、新年にあたって、強く意識しております。

 最後に、閲読頂いている皆様の個々の実践と理念の実現を希求するとともに、本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

平成27年1月1日
梟の社店主(予) 涼風紫音

(注)今年の安倍首相年頭所感のパクリです

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フェティシズムへの偏見と境界線上の分裂

 「SMバー」が「口にするのも汚らわしい」ものですか。
 フェティッシュに対する差別・侮蔑発言以外の何ものでもありません。
 職業選択における社会的差別性の発露であり、同時に性嗜好という至って個人的属性であり私的領域であるはずのそれを議会の場で「汚らわしい」とおっしゃる。
 確かに発言中、大臣の資質について問うた、至って政治的背景のそれについては妥当な面もありましょうが、これほど酷い言い草も無いものです。
 なお、当人のあるかないか存じ上げない名誉のために申し添えておきますが、「明日、本会議にて質問に立ちます」という当人のエントリーにあるように、2014年10月28日衆議院本会議の「労働者派遣法」の改正における問題点について言及がされていますが、それは上記の動画ではカットされておりますので、「衆議院インターネット審議中継」の本日における当人の質疑部分にて確認しております。
また、些末な点ではありますが、「宮沢経産相批判 SMバーは「汚らわしいところ」と民主・菊田氏」という記事における、持ち時間の約半分を政治と金の問題に費やしたという記述は、約13分の登壇中およそ5分程度であるため、概ね正しいが若干誇張気味、という点は書き添えておきます。
 その後半の質疑においても、その発言中不正規雇用の不安定性、定収入性への言及において「若い人が安心して結婚し、子供を産み、育てることができる社会ではない」旨の言及については、上記の「汚らわしい」発言を鑑みて極めてステレオタイプなジェンダー規範を下敷きとしたものと判断せざるを得ないでしょう。職業選択の自由についても言及しておりますが(敢えて派遣や非正規雇用を選択する場合等)、そもそも「結婚」などしてもしなくても良いし「子を産み育てるか」も自由であるしそれが「若い人」に限られる話でもなければ「その懸念がなければ問題がない」問題ではない、という点で何重かの問題点は指摘可能でしょう。それに対する安倍首相の反対答弁がどうしようもない内容であることは事実として、大臣の資質なり政策の適切性を問う立場の質疑者が、そのようなステレオタイプな発想の上に、冒頭のような発言をする偏見に塗れたことを、わざわざ「噛んだので言い直す」ことまでして表現「する必要性」があったのか甚だ疑問でもあります。同時にそうする必要性を敢えて言うのであれば、それが「社会的に異端である」存在であることを自明に背景として持った上でそれを利用して資質の適切性として貶めようという意図が「無かった」とは到底考えられません。

 上記発言がいかに社会的に根深く偏見と憎悪、嘲笑の対象であるか、ちょうど良い例を別途頂戴しているので、併せてご紹介致しましょう。

 どうですか?根っ子の部分はまったく同一の偏見に根差したものでしかなく、特定の嗜好を以てそれを「反社会的」と容易に断罪することができる、そのような社会の背景を以て、冒頭の発言になったのでありましょう。なお、当該リプライを投げてきたアカウントが如何にその偏見と憎悪に塗れているかは、アカウントそのものの一連の発言を見ても容易に理解可能です。異性装者を犯罪者や詐欺師と呼び、そうであるだけで「反社会行為」として連日連夜ポストし続ける異常なアカウントなので、正視に堪えませんが。
 そのアカウントが日頃何を書いているかも併せて例示しておきましょう。
1「朝日新聞の私の視点の、高垣雅緒さんの考え方はどう考えても危険思想で、性別変更で身体の状況の要件は必須です。

そもそもの大前提として、男が本物の女にはなれませんし、女が本物の男にはなれません。
ですので、戸籍の性別変更する当事者は、少なければ少ない方が良いです。
それにしても問題なのは、法令遵守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかメディアで正当化していることで、無法状態になりますし公序良俗に反しますし治安や秩序等を乱しますので取り締まった方が良いです。
(中略)
性別の取り扱いの国の法律の改正をすることがあるのでしたら、完全に異性装者であるとか完全に同性愛者であるとかの要件は必須で、該当しない場合とかは、一度変更した戸籍の性別を簡単に元の性別に戻せるようにした方が良いです。

 ここで「詐称」や「偽称」、「偽装」とされ「詐欺犯」とされているのは、異性装者や性転換者、あるいはオネエだのオカマだのと称される人です。それを「公序良俗違反」だの「治安秩序を乱す」だのと言って取り締まれとしているわけです。冒頭の発言とこの発言との壁は極めて薄いものでしょう。

2「第三の性とか、LGBTの性別の

多様性のごちゃまぜ活動とか、法令遵守していない女装した詐欺犯とかメディア等に出さないようお願いします。
LとGだけなら、同性婚の法整備を願っているとすぐに理解できますけど、Bの男でも女でもいいとか、Tは性別の混乱とかで、LGBTのごちゃまぜになると性別の多様性という、性別がいくつもあるかのように見せかける活動となり、どう考えても社会の理解は得られないと思います。
日本は法治国家で性別の取り扱いの法律も施行されていますので、LGBTの性別の多様性と称して性別がいくつもあるかのように見せかけるのは、犯罪を助長し幇助し加担する反社会活動となってしまいます。
(中略)
ともかく、第三の性とか、LGBTの性別がいくつもあるかのように見せかける活動とか、法令順守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかはメディア等に出さないようお願いします。

 BとかTは「法令順守していない」んだそうです。なお、当該「法令」が何に該当するのか知りませんが、戸籍法でないことは事実でしょう。民法でもないでしょうね。あるのは「社会規範」と「普通」原理だけです。

3「一度変更した戸籍の性別を元の性別に戻す再変更を求めたら却下になり、抗告しても、棄却になりました。

性別の取り扱いの法律が国策で正しいならば、そのように、もっと周知徹底すべきなのに、法令遵守していない女性に偽装した男性とかがCM等メディアに出ているのは、明らかに国家反逆的行為で早急に取り締まるべきです。

 一部確かに女装して盗撮に及ぶといった不届き者がいることは十分承知しておりますが、異性装者を「法令順守していない偽装」やら「国家反逆的行為」とやらと平然と書き連ねる性根がどれほどおぞましいか、指摘するまでも無いでしょう。

4「女性に偽装した男性のことを、オネエとか、女性であるかのように偽称して欺いて騙すのは悪質卑劣すぎます。

メディア等で、オネエとかいう男性が出ているようですが、お姉さんという呼び名の短縮形のオネエは女性に使用される言葉です。
オネエではなく、オニイが正しい呼称で、日本語の使い方が間違っています。
戸籍の性別が男性なのに、オネエと女性であるかのように偽称して、不特定多数の日本国民を騙そうとするのは詐欺行為です。

 一体、一般に「オネエ」と称される存在が「女性」を偽装しているとか、それに「不特定多数の日本国民」が騙されるなどというのは被害妄想どころか、想像力がゲシュタルト崩壊しそうですが(寡聞にしてそのように騙された存在はほとんど知りません。ごく稀に初夜に相手が同性だと初めて知った、という系統の海外のニュースが散見されるのは承知していますが、それもかなりのレアなケースではありましょう)。

 当該サイトは「女装犯」と只管異性装であることを以て即断に犯罪者であり取り締まるべき規範・治安対象としてしか見ていないので、これ以上引用すると吐き気どころか実際に嘔吐しかねないので止めておきますが、フェティシズムを含めて、性的少数者はこのような偏見と憎悪と嘲笑との社会規範の中に存在します。今も、です。敢えて「性的少数者」と書いたのは「性的指向」も「性的嗜好」も何れもがそれに該当するからでもあります。そこから、或は辛うじて社会的には性同一性障害に対する理解が進みつつあるとはいえ、現実は直接表現せずとも、そのようなものです。反社会的、反生物的、或は伝統の家族を壊す、汚らわしい、全て同一線上に当事者にぶつけられる社会の偏見そのものです。
 大臣の資質を問うのは大いに結構で、問われるべき点はいくらでもありましょう。それは大事なことです。派遣労働者法の改正可否、その内容も重要な問題です。そして「同様に」菊田議員の見識についても、その一言だけで十分に問われるべき内容でしょう。国会の場で、議事録にも録画にも残る形で、明瞭且つ直接的に偏見をぶつけているのですから、「女性が輝く社会」どころか「少数者が報われない社会」そのままですね、と。
 こういうことを書いていると、愛国気取りの痴れ者やら保守を自称する教条主義者がここぞとばかりに「だから反差別は」とか「だから民主党は」と書き連ねるわけですが、そういうところにわざわざネタを提供したくない気持ちは百も二百もありますが、それでも指摘されるべき偏見の一つではありましょう。
 是非、日頃差別問題に熱心な同民主党の有田議員には、この菊田議員の偏見を問い質すことを期待したいものです。ヘイトスピーチやヘイトクライムは何も人種差別に限ったものではありませんし、わざわざ引用した偏見塗れのBlogも「これがヘイトスピーチでなくて何なのか」というくらいにヘイト塗れですので、当然に射程に入れるべきものでしょう。その性質上。個人的にはまったく期待していませんが、せめて日頃の言動に則って対応頂きたいものです。逆に言えば、そこまで射程に入れずに「人種差別禁止法」ではなく「ヘイトスピーチ規制法」に拘るのであれば、従来通りその法案には自身の信条に沿って「原則反対」を改めて表明しておきます。
 
 
 
 
 
 
 
 最後に菊田議員とは関係ありませんが関連引用したBlog主のアカウントの中の人へ。「バイセクシャル」で「異性装趣味者」で「たまにオネエ言葉」を使うこともある自分が(言葉そのものは最近あまり出なくなりましたが)、「反社会的」で「治安紊乱」に値し「取り締まり」の対象として然るべきで、そうしたいのであれば、いくらでも不法行為でもなんでも訴えてご覧なさい。ツイッターで各報道機関の公式アカウントにつまらないタグをつけて連日ポストするような下衆な真似を繰返すくらいなら。もっともその前にアカウント凍結されても知りませんが(規約違反に十分該当するでしょうから)。
 そういうクソッタレな社会を創りたい、維持したいなら、それをひっくり返してその不条理を「当然に不条理として捉える」社会を対置してやりますよ。その時が10年後か100年後か1000年後か知りませんが、必ず、その不条理を糾弾し糾弾することが当然である社会を対置してやりますとも。たとえそれが「反差別」だの「反レイシズム」だのの最後尾で最も無視に足る存在であったとしても、それであるからこそ、必ずそういう方向に持って行ってやりますとも。「普通」どころか「LG」からも分断され、或は憎悪さえされる「B」や「T」のうち、少なくとも自分は「B」には該当するわけですから、自身の生存と信念の下に、必ずそうしてやります。その時に復讐してやろう、と思うかどうかは感情の生き物故に解りませんし、そもそもそういう社会が出来た時に自分が存命であるかどうかも怪しいところですが(それは同時にアカウントの中の人も)、せいぜい信じる社会正義が転換した際、それに追われる側にならないことを祈っていると良いでしょう。自分だってそのような復讐の連鎖など望みはしませんし。ただ、個人的にはあそこまで侮蔑・罵倒が書き連ねてあることに対して、憤懣を抱かないと言えば嘘になりますので、何等かの対応をしたとしてもそれは応報として指摘してあげますよ。もう十分書きましたが。境界線上の「どちらでもない」存在を片っ端から二分法で瞬断する社会そのものを、変えてやりましょう。自分の力がいかに微力であれ無力であれ、そういった想像力の欠片もない二分法社会には抗いますとも。そしていつの日か、それをひっくり返してやりましょう。自分と同じような存在が、10年後、100年後、1000年後に少しでもマシな社会を享受できるために。反社会、治安紊乱上等ですとも。勝手な線引きで「線を引けない」存在が確かに其処に、此処に存在するという、たったそれだけの想像もできず許容もできない社会であるなら、いくらでもその社会を変えていきますとも。

「反省」というフィルター/一連の朝日新聞社への雑感

 朝日新聞社の一件以来、何かと謝罪やら反省やらの言葉が紙面・記事を問わず飛び交っている。朝日新聞社の問題は組織問題である要素が強く、それはそれで改善されれば良いだろうし、改善されなければそれまで、というだけの話ではある。
 しかし「反省」や「断腸の思い」の用語ばかりが並び、謝罪することばかりに追われているようにも見える。確かに反省や自省は必要だろう。それを伝えることもまた必要であることは疑いようもない。過去の事実問題に対して(関東大震災における風説流布も媒介した人種差別の発露を記事とした神奈川新聞等も含めて)、「反省しなければならない」との趣旨が記載されていたように思う。では「反省」すれば良いのか。それはまた別の問題であろう。
 
 反省しても、問題の根本が改善・解消されない限り同種の問題は形を変えて、或はまったく同じ形で露呈する。本来反省とは事実と向き合った上で、問題の要因を突き止めそれをどのように変革するのかがあった上で、結果として為されるものではないだろうか。反省の気持ちや感情などいくら持ち合わせたところで、それが無い限りは何等問題は解決されないだろう。
 また、事実と向き合い問題の要因を突き止めたところで、それが反省すべきものなのかどうなのかは別問題にもなろう。教育においてそれらが何もないまま反省文を何枚書かせたところで、書かせる側の自己満足に過ぎず、書かされた側は反省などしないだろうし、表面的にそう繕うことで却って問題の根源がより深く意識下・無意識下に蓄積されるに過ぎない。
 
 報道、或はメディア媒体に公正・中立を求めるといったことはおおよそ的外れで、事実記載であってさえ、事実の一部を意図的に欠落させることで、或は修辞を加えることで、言外に価値規範を持ち込むことは容易であり、そもそも何を記載するかという編集作業はある種の優先順位付けも含んだ価値規範の発露でしかない。そこを自覚的にならない限り、発信者側も受容側も、様々なものを見落とすことになろう。事実と向き合う、という行為は価値規範の他者への押し付けでもなく、或は糾弾や扇動でもなく、先ず以て自己へ向けて自己のために為されるべきものであろう。
 
 意識的価値規範処理を有色のフィルターだとしたら、無意識下の価値規範処理はさながら無色のフィルターになろう。有色のフィルターはいくらでも変えることができる。戦前の新聞メディアが戦争を煽った事実はあり、それが戦後一転してあたかも反戦の牙城のような素振りで振る舞うこともできたし、全共闘運動の報道についても自らの記事が煽り過ぎた結果、手に負えなくなったら論調を変更させてみたり、或は共産党が自主武装・自主憲法路線から転換したことでも良い。事例はいくらでもある。
 しかし、意識的・表面的それに対して、事実と向き合った上で問題の根本をどのように処理したのか、は別問題である。一見正反対、或は真逆に見える論調・政策変更であっても、余程自覚的に一連の処理を行わない限り、有色のフィルターは掛け変えることはできても無色のフィルターは無意識下で何も変わっていないままである。それは心理的にはその正反対・真逆な転換に対して無意識下でそれを論理的整合性を付けるべく、「辻褄合わせ」を自覚無いままに行うことでもある。第三者が見た場合にまるで辻褄が合っていなくても筋が通っていなくても、それは当事者の中では無意識下に既に辻褄が合ってしまっているため、本来正当に為された批判・指摘であっても、ただの誹謗中傷としか受け止めることができない。それは結果として、無意識下で変化がない無色のフィルターの部分により整合性を取ってしまっているためでもある。昨今のレイシズム行動からカウンター行動へと転向した人にも、同種のことは当て嵌まるかもしれない。
 
 この無意識下の無色のフィルターは相当に厄介な代物で、無意識下にあるそれを意識的に掘り出す必要があり、またそれは非常に当人にとって見たくない事実を曝露することになる。それは体面やプライドによって容易に回避しようと意識させる代物でもあり、多大な苦痛を伴う行為でもある。更に、無色のフィルターは一枚とは限らないのであるから、前提としてそれは無制限に蓄積されていると考えるべきものであるから、基本的には際限なく続けることにもなる。当然一朝一夕でできるものではなく、日々重ねられていくものでもあるため、不断の努力が求められる行為でさえある。
 いくら言葉や態度を取り繕ったところで、これが無ければ何も変わらないままに繰り返すし、これを繰り返すことで、言葉や態度で取り繕うことをせずとも、第三者はその変化に気付くこともできよう。物事を見る、考える、感じる、視線の奥には必ず無色のフィルターがあり、視線の手前に有色のフィルターが存在する。第三者、他者を批難するのは容易い。しかし、それは有色のフィルターの上に為されるものであり、自己批判・自己総括は、それが自身の手によって為される場合に於いてのみ、無色のフィルターの上に為されるものであろう。無色のフィルターに触れる行為は、至って思想・哲学的自問の類にもなるが、それ無くして有色のフィルターを変えてみても、それは最大に為されたとしてもただの抗弁と転向にしかならず、弁明・詭弁の類としか受け取られまい。
 
 これは何も朝日新聞社のみを批判する訳ではなく、それを批判する側にも同様に適用される内容であるし、何より自分自身に向けて書いている。本稿もまた、無色のフィルターを探るための、一つの行為に過ぎない。本件は以て他山の石とし、自己の糧としたい。

【兼展示会告知】「第一回 枡×アート展」/文化・伝統の現代的問い直し

 「第一回枡×アート展」なる企画イベントが横浜美術大学ギャラリーにて、9月5日より開催されます。
 イベントそのものは「枡」をテーマとした学生によるアートコンペティションで、恐らくは非常に地味な企画展です。枡をテーマとしてアートという視点から問い直す、という試みとしては面白いと思いますが、主催・企画者の意図とは別に以下を考察してみたいと思います。
 
 枡は本来尺貫法の単位である体積を図るための道具でした。尺貫法は距離や重量、容積といったものを「単位」として統一する、云わば文化圏統一と社会構築のための制度であり、その共通性がそのまま支配領域の文化的地理的区域にも繋がる側面があります(現在では基本的にはメートル法等の国際規格が浸透しています)。そして同時に年貢収量にも用いられる、農民(という大多数の存在)と公(朝廷や幕府)を繋ぐ、云わば私と公の接点としての役割も果たしていました(自給自足でその上位に統治体系が無い場合、このような度量衡単位の統一はそれほど必要とされません)。それらの単位が正確性という意味で画一化されるのは実際には近代を待たねばならず、度重なる統一の企図にも関わらず、結果としてそれらは必ずしも実際的統一性が徹底できたわけではありません。しかし、単位として大きな意味を持ち、またその測量の道具が重要な位置づけであったこと自体は事実です。
 
 このような歴史・文化的背景を持ちながら、実用的意味に於いては現代では「枡」そのものはそれほど重要さを持っているわけではありません。展示会を企画している大橋量器には申し訳ないのですが、その点については事実でしょう。従って「枡とアートを掛け合わせたら何が生まれるのか。そんな切り口から枡を見つめ直し、新しい枡を問いたい」という趣旨の提示は、学生によるアートコペティションとしては致し方ない主題設定だと思いますが、そこで生まれる「新しい枡」とは一体何でしょうか。
 本質としてアートが思想や社会背景無しには成り得ないジャンルであることを考慮すると、「枡とアートを掛け合わせ」ることで新しい「何か」が生まれるわけではなく、寧ろ「枡をアートとする」ことそのものが問い直しそのものを意味することになると思います(主催・企画批判ではありません、念為)。大橋量器のウェブサイトの「ますギャラリー」を見ても解るように、枡そのものは極めてシンボライズされた存在となっています。実用性よりも象徴性の意味合いの方が、より大きいと言えます。
 この点に焦点を据えた場合、枡の持つ象徴性は、云わばグローバリズムやエスノセントリズムに対してのサンボリズムのような位相を持ち得る可能性があります。近代国民国家としてのネーションとグローバリズム、或はしばしば神話として持ち出される単一民族・単一文化といった重層性を否定する文脈に於けるエスニックという、本邦が抱えるいくつかの矛盾と相克に対して、それをより超越的包括する共同体(或は共生社会)のシンボルとして、ある種の伝統や文化を同化主義に陥らず高次に昇華するカルチャーシンボルとしての一つのアートの主題にも成り得るとともに、それをアートという芸術家の私的営為で問い直すことでソーシャルに接続し直すという意味で、それを現代にコンシューマリズムでもなくコマーシャリズムでもない価値を再構築することもできるでしょう。
 「日本」のカリカチュアではなく、本来持っているはずの重層性を体現するためのプライベートとパブリックをソーシャルに於いてブリッジするシンボルという意味で、レトロスペクティブではなく、寧ろモダニズムに対して生起したポストモダニズムが結果としてオーソライズされるが故に陥ったイデオローグの陥穽を超えた、一種のレミニセンス・リプロダクトとモダニズムではなく、リアルタイムに現代的意味でのモダンアートとも成り得るように思います。また、消費社会に於いて、プロダクト(工業規格)の意味合いさえ持つ「枡」という存在を、デザイン(非マスプロダクト)として位置づけ直すという作業は、寧ろ必要なことでもあると思います。
 
 最近しきりに「文藝」や「教養」の復興、再構築の必要性に触れることが多い自分ではありますが、是非狭義のアートという点に囚われず、より大きなソーシャルアートとして昇華されることを祈りつつ、勝手に展示会告知とさせて頂きます。
 なお、自分は一切本企画展に関与しておりませんので、本稿に対する批難・抗議等を含めた一切の感想は企画主催者・展示会運営者へ持ち込まぬよう各位にお願いする次第です(自分は日時の都合で会場に行けるかどうか不明ですので、本稿以上の言及は行わないことをご容赦ください)。
 
◆枡×アート展
会期:2014年9月5日(金) – 9月14日(日)
時間:11:00 – 18:30
会場:横浜美術大学大学ギャラリー(3号館B1F)
   オープニングパーティー 9月5日(金) 17:00~

新サイト「日本語一次史料研究会」開設のご案内

 平素より本Blogを閲読頂きありがとうございます。いったんは併設Blogとして開設した「日本語一次史料研究所」を改めて「日本語一次史料研究会」といてリファインして開設した旨をご案内致します。
 開設の趣旨は「教科書では教えてくれない『リットン報告書』」の反応が存外に良かったため、私が所蔵している古書及びオンラインアーカイブから適宜「当時どのような情報がどのように流布していたか」の実態を紐解いていくことにあります。
 本Blogと併せてご愛顧頂ければ幸いです。
 今後とも宜しくお願い申し上げます。

個人としての人間宣言

 「今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。」
 この一節から始まる有名な演説があります。誰もがその名は知っているであろうマーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」と呼ばれる演説です。
 「われわれの共和国の建築家たちが合衆国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる米国民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、白人と同じく黒人も、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。」と指摘されたその約束手形は、演説の中で残高不足の小切手と称された上で、「だがわれわれは、正義の銀行が破産しているなどと思いたくない。この国の可能性を納めた大きな金庫が資金不足であるなどと信じたくない。だからわれわれは、この小切手を換金するために来ているのである。自由という財産と正義という保障を、請求に応じて受け取ることができるこの小切手を換金するために、ここにやって来たのだ。」と続きます。
 
 残念ながら、私は高潔な人物でもなければ、賢慮を持ち合わせているわけでもありません。それでもなお、キング牧師の言葉と同じものを、見出さなければならない一節があります。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
 これは日本国憲法前文に掲げられた、有名な一節です。キング牧師が「白人と同じく黒人も」と問うたそれと同じように、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを「日本国民は、国家の名誉にかけ」宣誓しました。日本国憲法のこの宣言文は、その原稿において、或は日本国民の総意ではなかったかもしれません。しかし、それはキング牧師が必ずしも全黒人の代表者であったわけではないことと同様に、そこに大きな意味はありません。
 
 或は、日本国憲法以前にも、次のような一節がありました。
 「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」
 水平社宣言と呼ばれる宣言の一節です。この一節の崇高なる点は「かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ」という点に、或は集約しても良いかもしれません。
 
 確かに昨今の人種差別言動や、或はジェンダー規範や、或は性的少数者や、或は障碍者、数えればきりがないほどの社会的不公平が存在し、そこには「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」が日々、朝に昼に夕に、浴びせられるか、存在そのものが無かったかのように切断処理されていく現状は、依然根強く残っています。しかし、「正義の銀行が破綻している」などと思いたいわけもなく、また「政治道徳の法則」は普遍的なものであり、また「人間を冒涜してはならなぬ」という言葉は、今なお色褪せているわけではないでしょう。
 だからこそ、大久保で、名古屋で、鶴橋で、抗議の声を上げることは妥当であり、それらの諸理念の実現を求める運動の一つとすることができるでしょう。しかしながら、その中において、「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」と呼んで差支えないようなものも、存在する事実を認めなければなりません。「キチガイ」「知恵遅れ」「ゴキブリ」「ニート」「社会不適応者」「アニオタ」「ロリコン」といった言葉がそれです。残念ながら、これはたまたまその日に目に入ったので、有田和生氏にそれを問うと、返答は「人の心にナイフを刺す人間を人間扱いできるか!」であり、また「在日の友人たちが殴られれば体を張り守るし戦う。お前のようにみてるだけの卑怯な生き方はしない。」とのものでした。確かに差別主義者は心にナイフを刺し続け、平和と安寧を破壊し続けてきました。それは事実です。しかし、同時に私は「人間扱いできるか」という言葉に対して「人を人として扱うべきだ」ということを主張したにも関わらず、「在日の友人」といった、瞬間的に範囲が極端に狭められた問題だけに焦点をスライドしたわけです。理解に苦しみます。ヘイトスピーチが向けられるのは在日諸民族だけではないし、可視化されずらい社会的差別など、差別する側も或は善意として行うだけに一層厄介であるにも関わらず。
 
 これは、デイトレフ・ポイカートが「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」において、「50年代の世論の意識が、ユダヤ人虐殺の「比類なさ」に集中したことで、ほかの犠牲者の多くは忘れられた。戦後のドイツの世論はそれをあっさりと片づけてしまった。世論は犠牲者の特定のグループには贖罪の意を表明したが、このグループこそ、ナチズムの犯罪によって、ドイツ人の視野から消えてしまった人々であった。それに反して、NATOの公敵の一部であるロシア人、ポーランド人、共産主義者にたいする犯罪や、引きつづき烙印を押された集団であった、ジプシー、同性愛者、身体的・精神的障害者、強制的断種者、社会に適応しない者への犯罪は「忘れられた」。」(同著P411)と指摘された状況と、酷似している側面があると指摘したい。自分は在日問題だけを指摘したかったわけではありません。あの差別主義者は或は部落へも差別言動を行い、或は左翼と看做せば攻撃的言動を行ってきた事実があります。しかし、「在日」にフォーカスをあてることで、あたかも「視野から消えてしまった」集団もいます。
 確かに、或はLGBTとの連携をして「見せたり」することもあるのは知っています。しかしそれは、何らの免罪符にもならないでしょう。差別主義者の中に在日の存在がいるのと同様に、そのようなことは、欠片もその言動の正統性を担保しません。
 「なら虐げられている人を守ってみろよ。傍観者!」とも言われましたが、自分は確かに日本国籍者という意味においてはマジョリティであり、この社会の構成者の一員であり、有権者である限り、どのような政府であれ統治であれ、その責任を負うべき立場にあります。同時に、両性愛者であり、異性装趣味もあります。それらのアイデンティティをそれとして自己に引き受けるまでに、多くの自己欺瞞と葛藤と過ちを重ね、またそれを公表すれば好奇の目で珍しい玩具を手に入れたかのように扱われ、或は嘲笑され、或は要らぬ同情をされたこともありました。その意味では、他の少数属性者の人と同等・同質と言うつもりは毛頭ありませんが、傍観者であるつもりもなく、虐げられてこなかった、とも言いません(同時に自分の過去の過ちについても、過去自ら言及の通り、虐げる側であったことも事実です)。
 周知の通り、ナチスがガス室に送ったのは、ユダヤだけではなく、性的少数者や障碍者、或は社会不適応者だった事実があります。このことの意味は、特に差別の問題を扱うにあたり、極めて多くの示唆を与えてくれます。
 
 「今日はゴキブリがたくさん来るな。コックローチで追い払うかな。」という表現の妥当性はそこにあるでしょうか。「朝鮮人をガス室に送れ」と叫ぶ差別主義者に対して、「ゴキブリをコックローチで追い払う」或はより直裁に「ファシストや歴史修正主義者は死ね」と返すことが、どこまで妥当と言えるでしょうか。有田和生氏の言う「ゴキブリ」に私も含まれるでありましょう。「意見を異とする」だけで見てるだけの卑怯者として決めつけて、「人間扱いできるか」どうかを裁定することができるのですから。「人間扱い」すべきかどうかの裁定、人間扱いすべきでない存在の非人間化、非人間を殺傷することに躊躇ないことを意味しかねない表現、コックローチが殺虫剤としての意味しか持たないことが明白な表現を、そこに重ねることができるでしょう。勿論、今のところ、ガス室のように計画的実行が為されている訳ではありません。同時に、あと100年程度前に、当時のドイツに生まれていたら、或はガス室送りになっていたかもしれません。その事実に突き当たったこともあり、自分は過去の過ちから、自らのアイデンティティの肯定とともに、脱却できました。
 その内容から騒然となったアドルフ・アイヒマンは、とても凡庸で、知性が高いわけでもなく、高官になれるような学歴があるわけでもなく、「陳腐な人間」で「凡庸な悪」と評されました。だからこそ、「誰もがアイヒマンになり得る可能性がある」として指摘されもしたわけです。欧州で未だ根強い反ユダヤ主義、或は米国で未だ根強い白人至上主義を持ち出すまでもなく、ある一つの正義は、時として第二、第三のアイヒマンを生むことを、一体誰が否定できるでしょうか。
 
 ヴォルフガング・ヴィッパーマンの「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」で指摘されているように、「共産主義者たちはかれら(筆主注:トロツキスト及びトロツキストと目された者)と戦うことに全力を挙げ、なんのためらいもなく、相手をゲシュタポに売り渡した。1939年以後、スターリンの指令によって、ソ連に亡命していた共産主義者たちさえもが、直接ゲシュタポに引き渡された」(P.220)にも関わらず、東ドイツでは「かつての抵抗運動が現代政治の道具として利用されただけではなく、その歴史的役割がこのうえなく過大評価されてきたことを指摘しておこう。東ドイツで一般におこなわれていた、一方(筆主注:西ドイツ)にファシズムを、もう一方の側(筆主注:東ドイツ)に反ファシズムを置くという二分法的な見方は―残念ながら!―歴史の現実と合致しない。ドイツの抵抗は個々人の問題で、一口でいえば、国民なき抵抗であった。それは国民の大多数からあからさまに拒否されたのである。」(P.221)といったことは、容易に、残念ながら、容易に出現します。スターリンが、或は東ドイツが築いた社会は、密告と弾圧と抑圧により全体主義的統制を色濃く反映したものでした。だから共産党が、或は共産主義が悪い、というわけではありません。そうではなく、ファッショを否定して見せたところで、同種のことは、形を変えて出現し得る、またその当事者にもなり得る、そしてそれはまさしく「個々人の問題」なのです。
 私たちは、未熟で誤謬は常に犯すでしょう。だからこそ、ある一面の不正義への告発が、同時に別の不正義を齎すことは、根源的問題として拒絶されねばなりません。前者が肯定されるが故に、後者が無条件に許されるわけではないのです。
 
 アマルティア・センが「不平等の再検討 潜在能力と自由」において、エチオピアのかつての皇帝統治とその打倒において、「だが、皇帝も、また飢餓が荒れ狂っている時に流血を伴う政変によってついに皇帝を追放した反対派も、善についての他者の見解に対して寛容であるという原理を受け入れることはなかった。実際、それぞれの陣営は、他者の目的に何の慈悲を施すことなく、自分たちの目的だけを追求し、共に生きることを願って寛容に基づく政治的解決を求めることには全く関心がなかった。寛容を求める正義の政治的構想からすれば、このような状況で正義についてのいかなる判断を下すことも困難であったろう。(中略)こんなに制限の強い政治的構想では、正義はなかなか受け入れられないだろう。」(P.121)と書いたように、公平と正義を求めるそれが、必ずしも寛容と平等を齎すとは限らないのです。「世界中の人目を引くような不正義の多くは、「政治的リベラリズム」や「寛容の原理」を唱えることが容易でもなければ、特に助けとなるわけでもない社会的状況の中で起きている」(P.122)ことを考慮しなければなりません。
 
 もちろん人の集団あるいは個々人の意思や情念は、それとして認めたくない恥部を認める必要性を突きつけることもあるでしょう。石橋湛山が「直訴兵卒の軍法会議と特殊部落問題」と題して書いた論説の中に、「申すまでもなく裁判は最も公正でなければならぬ。勿論今度の軍法会議においても、その結果において何ら公正を欠くことがなかったであろうことは信ずる。が問題はその形式だ。裁判は、ただに判決において公正であるのみならず、またその形式において、何人が見ても、なるほど公正だという感を与えねば権威がない。(中略)而してもし被告にその所懐を思うままに述べしめ、あるいは弁護人を付する事により、不幸にして軍隊内部の面白からざる事情が曝露するとも、おそらく陸軍の信用はこのためかえって厚くせらるるとも、少しも傷つけられなんだろう。」(「石橋湛山評論集」岩波書店P.156~157)とあるように、過ちがあれば過ちとしてそれを率先して是正することを「何人が見ても、なるほど公正だ」という感を与えることは、その判断・結果の妥当性を高めることはあっても、決して損なうことはないでしょう。
 「人間扱いできるか」ではなく、「人間として、その社会の公正さに照らして糾弾する」ことが、求められる公正さであり、或は正義の政治的構想であるべきでしょう。それは、時に長い道程になることでしょう。何が正義であるか、ただその根本でさえ、個々人に相違があります。差別主義者に正義がある、と言うわけではありません。同時に、差別の不当性告発の動機が正義であれ、「なるほど公正だ」という言動を、果たしてできているかどうか、それはまさしく「個々人がそれとして引き受けるべき」ものであります。
 
 個々人の集合体として、社会が構成され、国家が形成されている以上、それを避けて通ることなど、できようもありません。有田和生氏は私に「傍観者の卑怯者」と決めて返答しましたが、仮に私が氏が守りたいとして例示した在日であり、声挙げられぬ者であり、その表現だけはどうしても看過し得ないとして問いを立てていたとしたら、同じ回答を氏は返したでしょうか。それとも利敵行為を働く「守る必要のないゴキブリ」として処理するのでしょうか。
 公正と平等を求める声は、本来「社会の不寛容に対する告発」であり、「寛容の要求」であるはずではないのでしょうか。自分のツイッタープロフィールはほぼすべて現実のそれとは無関係な記載をしてあるので、一体自分がどのような存在か確認もせず、或はその必要さえ感じず、「反差別言動の些末な表現に異を唱えるネトウヨのゴキブリ」として判断したのではないでしょうか。勿論自分も決して品行方正で綺麗な言葉遣いをしたわけではありません。寧ろ挑発さえ含めた表現だったことは事実です。しかし、内容については撤回の必要は認めません。一方で、しばしば指摘される「寛容の不寛容」を実践してはいない、と言えるでしょうか。
 「これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれは、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。」
 このキング牧師の言葉は、差別言動という不協和音に対して、それを「卑屈なる言葉と怯懦なる行為」を以て応酬することを求めた言葉でしょうか。いつの日か、今は差別をしている白人とも、共に手を取って歩めることを、それこそが合衆国が約束した「自由」であり「平等」である、それはきっと実現する、という「この信念」が「差別の告発」としてこの言葉に結実したのではないでしょうか。
 
 確かに差別主義者の言動は看過できないものでしょう。同時に、そうであるが故に、その不協和音に対置するものが、果たしてそれで良いのか、個々人の問題として常に問われているのではないのでしょうか。
 「人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。」という、高邁にして高貴な理想に対して、一体どれほど差別を糾弾する側は心中に居るアイヒマンを意識しているでしょうか。私も人間です。恨み辛みもあれば、赦せない人も居ます。だからこそ、いかにそれが「人として」駄目であるか、問いたいとも思います。「人間扱いしない」ことではなく「人間扱いすること」によって、如何に個々人という人間の総体としての「社会」において、それが不正義であるかを問いましょう。
 何等の組織があるわけでもなく、決して学があるわけでもなく、非才無力な個人として、この愚かな人間という存在が、明日にはもう少しだけその愚かさが無くなると、それを希望としましょう。「赦さない」ことと「人間として認めない」こととの間には、エリコの城塞の如く、巨大な隔たりがあります。そしてそれは心中のアイヒマンのラッパの一吹きで容易に崩れ、超えてしまう一線でもあります。安易なラベリング、スローガンの多用は有田芳生議員が2007年に書かれた「何か悪政があればすぐに「ファシズム」という言葉を使うことは、知的怠慢であるだけでなく、画一主義(コンフォーミズ厶)へ陥ることだ。日本の政党は「マニフェスト」などを強調しながら、そこに政治哲学がない。いつまでも是正されない最大の欠陥だろう。アーレントはフランツ•カフカが述べたことを引用している。
 真理を語ることは難しい。真理はなるほど一つしかない。だがそれは生きており、それゆえ生き生きと変化する表情を持っているからだ。」(有田芳生の『酔醒漫録』2007年2月18日)と言う言葉の通り、知的怠慢に陥っていないでしょうか。
 私は、私たちは、或は不正義を糾弾するという正義のために、もっと本質的根源的存在として、人間は愚劣であれ何であれ、人間であり血が通い、心を持ち、生きているのだ、という事実を、しばしば忘れたがるものです。しかし、近代的人権思想が国や制度を超えて、人類の普遍的価値である、と規定されているその普遍性は、私や、私たちが決して神ではなく、任意勝手に裁定者であることを認めません。不正義の告発は社会に対して為されるものであり、裁きは司法によって行われる、その支えがあればこそ、自由と公正、政治的正義の実現が為されるのではないのでしょうか。人間は、神にもなれません。そして英雄も殉教者も、民主主義にとって必要ではありません。
 
 私がどのような存在か、或はどのような肩書きか、あるいはどのような属性か、そのようなことは、人権の普遍性の前には、あまり意味があるものではありません。名前といった記号でさえも、或は意味がないでしょう。普遍的人権という真理とされるもの、或は正義とされるものが、生き生きと変化する表情として「ゴキブリをコックローチで対処する」ような表現や「人間として扱えない」といった表現も含めるとしたら、普遍的人権はあまりにも哀しいものです。
 私は、或は私たちは、社会的不正義の告発に対して、「私もまた、同様に個として人間であり、人間として生き、人間としての権利を持っている」という言葉を言わねばならないのかもしれません。その時「人間扱いできるか!」というそれは、誰の心中にもある凡庸なアイヒマンの亡霊を、抑制すべきそれとして気付くことができるのではないでしょうか。
 敢えて言葉を選びましょう。人間は人間として、その尊厳は基本的人権とともに守られるべきであり、物のように扱うべきではなく、そしてその尊厳を踏みにじる場合は、人間として対応する、と。そしていつの日か、差別主義者の憎悪のそれを、人類は超克するのだと。そのために、まず自らが人間であらねばならないでしょう。綺麗事では差別は無くせない、ともよく言われます。確かにそうかもしれません。しかし、綺麗事そのものを放棄するして構わないわけではないでしょう。だからこそ、失われかけている綺麗事を問います。差別主義者もまた、人間です。切り離して切り捨ててしまえるものではなく、確かに厳然と存在する社会の一部であり、その愚かな行為は人間であるからこそ行われているのだと。
 確かに、反ヘイトデモで救われた、心の支えになった人も決して少なくないでしょう。そして同時に、その言動故に、そのような人にそのような言葉で代弁されたいと願わない人もいるでしょう。或はそういう人は見捨てて前に進むべき、との判断もあるかもしれません。もしそうであるなら、私はそうやって見捨てられていく、切り取られた後に残ったところで、別の道を模索するとしましょう。その判断を嘲笑して頂いても、無益と謗って頂いても構いません。これは、差別主義者を赦すでも寛容になるでもなく、私個人が人間性を回復し、人間足らんために、そういう選択をします。そして、微力無力であれ、私自身が納得し、是と判断したことを、できる範囲でやっていきます。私のように何等持ち合わせていない存在は、このように様々な先達の言や研究を、引用し理解するよう努めることしかできないかもしれませんし、それも誤っているかもしれません。しかし、これらの先達の到達点が今現在飛び交っているそれであるとは、思いません。愚かな個人として、拒否したいと思います。もっとももともと代弁するつもりも守るつもりも手を取るつもりも会話するつもりもない、無力な個人が拒否したところで、何一つ影響は無いでしょう。心中のアイヒマンを愛でて、反差別言動を続ければ宜しいと思います。その果てに何があるのかわかりませんが、そこが知的怠慢の画一主義でないことを祈りたいとは思います。

― 暫く、或は永久に会えないかもしれない、友人に捧ぐ

◆引用文献
「ナチス・ドイツ ある近代の社会史 ナチ支配下の「ふつうの人びと」の日常」
デートレフ・ポイカート著/木村靖二・山本秀行訳/三元社

「議論された過去 ナチズムに関する事実と論争」
ヴォルフガング・ヴィッパーマン著/林功三・柴田敬二訳/未来社

「不平等の再検討 潜在能力と自由」
アマルティア・セン著/池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳/岩波書店

「石橋湛山評論集」
松尾尊兊編/岩波文庫

※手元にあるものが岩波書店版なので部分改訂が入っているかもしれません

◆参照ツイート

◆傍証先
差別反対でありながら「ゴキブリ」などと連呼、野間タソやきっこおじさんを擁護する有田和生さんとのやりとり
有田ヨシフとその弟、有権者をゴキブリと呼ぶ
あのね有田の弟だけど

◆参考資料
Newsweek 日本語版」2014年6月24日号
世界で増殖する差別と憎悪
社会 寛容さの喪失とSNSで世界にヘイトスピーチが蔓延する
日本 「反ヘイト」という名のヘイト
Newsweek日本語版への抗議」(のりこえネット)
Newsweek批判への紫音さんの反論

言動と人格に対する認識の陥穽

「Aという人の発言(B)をRTして共感するのはどういうことか理解できない。それ以外はわかるのに」
という問いが立てられるとする。
問う人をC、問われる人をDとしよう。
この場合、冒頭の問いを発した人がC、問われた人がDとなる。

さて、この問いの立て方にはいくつかの問題が内在している。
前提として、CはDを評価していて、Aを評価していない。
この場合、問題としては以下が提示できるだろう。
1:CはAの評価とB(発言)を同等に扱っている
2:CはAの評価を低く見積もっているため、Bも同時に評価を低く看做している
ここから、A=Bとなっているため、CにとってはDがBをRTすることがAを評価することと等価になっている。
それと同時に以下も問題として提示できる。
3:CはDをB以外の点では評価している
4:CはDに対してA=Bを以てDがAに対してくだしている判断への同意を求めている
ここにおいて4はそれとして「そう判断したC自身の価値基準」への同意を求めていることになる。
問いの形で発せられるそれは、実際のところ問いではなく、C自身の価値基準への承認を求めていると言える。

この問題は、本来CがいかにDを評価していようとも、決してD自身の価値基準や判断はCと全く同じであるわけがないにも関わらず、Bの一点を以てそう発している点に収斂される。CはDを「自己と同様に物を見て同様の判断を下す」という見方になってしまっている。日常におけるコミュニケーションにおいて、しばしばDがCが同意し得る言動を行っていたとしても、そういったことは有り得ない。人は物事を観察・思考した際、そもそもそれに向ける眼差しそのものから既に異なっているからだ。
そうである以上、本来立てられるべき問いは以下であるはずである。
「Aという人の発言(B)をRTして共感する判断は何によって為されているのか」
ただその一点である。それ以外の問いの立てようがない。
況して、出会って日も浅い関係の内に冒頭の問いをぶつけるのは、気心が知れているならいざ知らず、その問いの形で発せられるそれそのものが、価値判断への同調・同意を求める行為にもなる。
同調圧力とまで言うと言い過ぎではあるが、少なくともそれが「Dの見解」を考慮することなく「Cがそう判断している」ことを所与の前提としている以上、Cの問いの立て方自体がDを尊重していない行為でもある。
討議或はコミュニケーションの有り方としては非常に問題が多い。

もう一つの問題はA=Bになってしまっている点にある。
B(発言)はAの何らかの価値判断によって行われているのは当然である。
同時にBに含まれる価値・意味或は事実関係は、Aがどのような認識によってフレームアップしたかはその内容次第ということになる。
しかしながら、冒頭の問いはA=Bであるため、発信元がAであるならいかなる内容であれBは低い評価となる、という内容を無視したCの価値判断を既に前提として織り込んでしまっている。
如何にDがAを評価していても、或はAのBを評価していたとしても、それはCのものとは異なるはずである。
それ以外の部分でCがDを評価していたとしても、それはたまたまDが行う発信がCの価値判断に合致しているだけに過ぎず、決して同等でも同様でもない、ということが抜け落ちている。
極端に言えば、CはCの価値判断によってDをフレームアップしているだけにも拘わらず、CはDと同じ視点・ロジックによって同様の結論を下すはずだ、が前提になってしまっている。
言動と人格とが不可分に結びついている状態と言える。この状態でDがCに対して冒頭の問いへの異論を唱えた場合、Cにとっては織り込まれた前提としての「CはDと同じ視点・ロジックによって同様の結論をくだすはずだ」が正面から否定される形にならざるを得ない。
これはフレームの問題としては非常に危険なものとなる。Cにとっては、Bを契機に所与に前提であるはずのC=Dが崩されるため、C≠DがそのままCの価値判断の否定に繋がることになる。
そもそも言動と人格が不可分になってしまっている状態でそうなると、次に訪れるのは呆気ない破局と断絶、或は敵対である。

このような、認識体系を人格と等価で結んでしまう状態での陥穽はいくつもある。
「在日批判をしていたが戸籍を調べたら自分自身が在日だった」といった2ちゃんねるあたりで稀に出てくる、自己認識の崩壊であったり、或は「そういった言動である以上、その時点を以て敵と看做す」というそれだ。
これが激しく表面化するのがラベリングによるフレームで、いわゆる「党派性の論理」となる。
ある一つの集団において、言動と人格が不可分として認識されていた場合、たった一つの言動が集団の中での敵としてフレームアップされることになる。集団の外部、つまり第三者からはしばしば内ゲバと呼ばれるそれである。
逆説的表現をするならば、言動と人格が不可分として認識されている場では、異論の挟まる余地が存在としての人格そのものから有り得なくなるため、集団そのものが一種の同質化をはじめ、強力な同調圧力として作用する。村社会と揶揄される閉鎖空間の相互監視に近い状態での価値判断への同調圧力だ。
集団がその傾向を帯びると、それは必然に自律運動をはじめ、次第に熱狂へも転化する。
しばしば扇動家のそれが強力に作用するのは、ここである。
扇動家に煽られないためには、常に言動と人格とを予め腑分けしておく必要がある。A=BやC=Dといった認識は、この点に於いて、大袈裟に言えばその認識体系そのものが社会リスクになる(もちろん自己リスクでもある)。
そして、一度熱狂の同調に染まると、それは扇動家にさえ手に負えない代物になる。集団心理が作用し、コントロール不能になるからだ。戦争の自律運動や組織の自律運動とは、しばしばその状態を指す。

多様性や民主主義というのは非常に厄介な代物で、常に言動と人格とを腑分けしておかないとならない制度設計である。
そうでなければ、些細な契機が必ず許容できない存在としてフレームアップされざるを得ないからだ。百人百様とはよく言ったもので、百人一様では多様性や民主主義は不要となる。
民主主義の名における独裁や、党中央独裁・民主集中制、あるいは指導者原理といったそれは、必然にそういった要素を含んでいる。
そうならないためには、究極的には常に孤独である必要があり、それはC≠Dであることを所与の前提とすることを意味している。
その上で、人は一人では生きられない社会的存在であり、A=B或はC=Dの錯誤はしばしば犯す過ちでもある。
完全にそれを可能とすることは、感情が介在する以上不可能でさえあるのだが、その不可能性を認識すること・意識することから、はじめて多様性や民主主義がそれとして「本来求められたはずの」制度として機能する可能性が見出せるのではないだろうか。