カテゴリー別アーカイブ: 身辺雑記

平成27年 年頭所感

 新年あけましておめでとうございます。

 中性的ニュアンスを持たせたこの名前を名乗り始めてから約18年が経ちました。この間、過剰適応による思想・信条的踏み外しからの軌道修正をはじめ、事実に基づかない歴史解釈や都合良いだけの弱者探しへの指摘、そもそも正義や人権とは何かなど、各般の重要課題をエントリーとして書く形式で当たってまいりました。さらには、愛国という名の横暴や、反差別の名を借りた侮蔑罵倒といった新たな課題にも、ここ数年比較的積極的に取り組んできました。

 そして昨年某所では、御縁のあった皆様から力強いご支援を頂き、この度新たに場を構築する重責を勝手に背負うこととなりました。

 いずれも人生における大変化であり、前途多難な道のりです。しかし、多少の己惚れと過信といういささか無鉄砲な力を得て、今年は、さらに大胆に、さらに重厚さを持って、己の信じる道を推し進める。将来を見据えたテクスト構築の年にしたい、と考えております。

 レイシズム問題では全国各地で様々な事案が発生し、当事者の皆様の司法での勝利もあり、一方でカウンター行動の一部存在に対する疑問の声を、伺う機会を得ました。こうした今まさに正義の名で成されつつあること、淘汰されつつある声に、自分なりの回答を出していくことで、差別とは何か、ただ反レイシズムを騙れば良いのか、或は愛国を唱えれば済むのかをさらに深化して考えてまいります。

 本来の人権、市民権とは何かを継続的に思考し、信念・哲学を不断に昇華する。今年も、己の信ずるやり方で問題提起或は回答提示にあたり、本邦抱える様々な問題を、陰に陽に提起してまいります。

 今年は、戦後70年の節目であります。

 本邦は、先の大戦の深い検証と内省を表面的に行うままに留め、戦後、自由で民主的な国家として、ひたすら平和国家としての道を歩み、世界の戦争と貧困、差別などに対峙せずに済ませてきました。その来し方を振り返りながら、次なる80年、90年、さらには100年に向けて、自己が、どういう哲学を目指し、社会にどのような貢献をしていくのか。

 己が信じる社会公正の姿を、この機会に、或は狭すぎて届かない範囲にしても発信し、あるべき社会づくりへの細やかな、そして確固たる軸線を構築する。そんな一年にしたいと考えています。

 「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」
 「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。」

 キング牧師のこの言葉を、その剽窃者達は、好んで使い、その理念を実践するという行為ではなく、ただ旗や記号或はファッションとしました。半世紀前、ワシントン大行進の最後の演説で語られた一節です。

 エスニシティの問題、カルチャーの問題、それらはこの数年で確固として立ち現れました。日本国憲法を公布し、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と前文で宣言した時代、当時に平和と平等への希求を大いに奮い立たせたに違いありません。この「国家」「自国」「他国」を「人」「自己」「他者」に置き換えた時、この前文の誓約は初めて、個々人の理念・哲学と誠意・理解の下に、初めてその精神を実践し得ると考えます。

 そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、本邦は経済的には世界に冠たる国となりました。当時の本邦に欠けていて、今の本邦こそ、成し遂げるべき課題があります。その課題を考える場として、新たに店を構える運びとなりました。

 個々の叡智とともに、本邦を、真に、世界の中心で輝く社会としていく。その課題を、新年にあたって、強く意識しております。

 最後に、閲読頂いている皆様の個々の実践と理念の実現を希求するとともに、本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

平成27年1月1日
梟の社店主(予) 涼風紫音

(注)今年の安倍首相年頭所感のパクリです

フェティシズムへの偏見と境界線上の分裂

 「SMバー」が「口にするのも汚らわしい」ものですか。
 フェティッシュに対する差別・侮蔑発言以外の何ものでもありません。
 職業選択における社会的差別性の発露であり、同時に性嗜好という至って個人的属性であり私的領域であるはずのそれを議会の場で「汚らわしい」とおっしゃる。
 確かに発言中、大臣の資質について問うた、至って政治的背景のそれについては妥当な面もありましょうが、これほど酷い言い草も無いものです。
 なお、当人のあるかないか存じ上げない名誉のために申し添えておきますが、「明日、本会議にて質問に立ちます」という当人のエントリーにあるように、2014年10月28日衆議院本会議の「労働者派遣法」の改正における問題点について言及がされていますが、それは上記の動画ではカットされておりますので、「衆議院インターネット審議中継」の本日における当人の質疑部分にて確認しております。
また、些末な点ではありますが、「宮沢経産相批判 SMバーは「汚らわしいところ」と民主・菊田氏」という記事における、持ち時間の約半分を政治と金の問題に費やしたという記述は、約13分の登壇中およそ5分程度であるため、概ね正しいが若干誇張気味、という点は書き添えておきます。
 その後半の質疑においても、その発言中不正規雇用の不安定性、定収入性への言及において「若い人が安心して結婚し、子供を産み、育てることができる社会ではない」旨の言及については、上記の「汚らわしい」発言を鑑みて極めてステレオタイプなジェンダー規範を下敷きとしたものと判断せざるを得ないでしょう。職業選択の自由についても言及しておりますが(敢えて派遣や非正規雇用を選択する場合等)、そもそも「結婚」などしてもしなくても良いし「子を産み育てるか」も自由であるしそれが「若い人」に限られる話でもなければ「その懸念がなければ問題がない」問題ではない、という点で何重かの問題点は指摘可能でしょう。それに対する安倍首相の反対答弁がどうしようもない内容であることは事実として、大臣の資質なり政策の適切性を問う立場の質疑者が、そのようなステレオタイプな発想の上に、冒頭のような発言をする偏見に塗れたことを、わざわざ「噛んだので言い直す」ことまでして表現「する必要性」があったのか甚だ疑問でもあります。同時にそうする必要性を敢えて言うのであれば、それが「社会的に異端である」存在であることを自明に背景として持った上でそれを利用して資質の適切性として貶めようという意図が「無かった」とは到底考えられません。

 上記発言がいかに社会的に根深く偏見と憎悪、嘲笑の対象であるか、ちょうど良い例を別途頂戴しているので、併せてご紹介致しましょう。

 どうですか?根っ子の部分はまったく同一の偏見に根差したものでしかなく、特定の嗜好を以てそれを「反社会的」と容易に断罪することができる、そのような社会の背景を以て、冒頭の発言になったのでありましょう。なお、当該リプライを投げてきたアカウントが如何にその偏見と憎悪に塗れているかは、アカウントそのものの一連の発言を見ても容易に理解可能です。異性装者を犯罪者や詐欺師と呼び、そうであるだけで「反社会行為」として連日連夜ポストし続ける異常なアカウントなので、正視に堪えませんが。
 そのアカウントが日頃何を書いているかも併せて例示しておきましょう。
1「朝日新聞の私の視点の、高垣雅緒さんの考え方はどう考えても危険思想で、性別変更で身体の状況の要件は必須です。

そもそもの大前提として、男が本物の女にはなれませんし、女が本物の男にはなれません。
ですので、戸籍の性別変更する当事者は、少なければ少ない方が良いです。
それにしても問題なのは、法令遵守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかメディアで正当化していることで、無法状態になりますし公序良俗に反しますし治安や秩序等を乱しますので取り締まった方が良いです。
(中略)
性別の取り扱いの国の法律の改正をすることがあるのでしたら、完全に異性装者であるとか完全に同性愛者であるとかの要件は必須で、該当しない場合とかは、一度変更した戸籍の性別を簡単に元の性別に戻せるようにした方が良いです。

 ここで「詐称」や「偽称」、「偽装」とされ「詐欺犯」とされているのは、異性装者や性転換者、あるいはオネエだのオカマだのと称される人です。それを「公序良俗違反」だの「治安秩序を乱す」だのと言って取り締まれとしているわけです。冒頭の発言とこの発言との壁は極めて薄いものでしょう。

2「第三の性とか、LGBTの性別の

多様性のごちゃまぜ活動とか、法令遵守していない女装した詐欺犯とかメディア等に出さないようお願いします。
LとGだけなら、同性婚の法整備を願っているとすぐに理解できますけど、Bの男でも女でもいいとか、Tは性別の混乱とかで、LGBTのごちゃまぜになると性別の多様性という、性別がいくつもあるかのように見せかける活動となり、どう考えても社会の理解は得られないと思います。
日本は法治国家で性別の取り扱いの法律も施行されていますので、LGBTの性別の多様性と称して性別がいくつもあるかのように見せかけるのは、犯罪を助長し幇助し加担する反社会活動となってしまいます。
(中略)
ともかく、第三の性とか、LGBTの性別がいくつもあるかのように見せかける活動とか、法令順守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかはメディア等に出さないようお願いします。

 BとかTは「法令順守していない」んだそうです。なお、当該「法令」が何に該当するのか知りませんが、戸籍法でないことは事実でしょう。民法でもないでしょうね。あるのは「社会規範」と「普通」原理だけです。

3「一度変更した戸籍の性別を元の性別に戻す再変更を求めたら却下になり、抗告しても、棄却になりました。

性別の取り扱いの法律が国策で正しいならば、そのように、もっと周知徹底すべきなのに、法令遵守していない女性に偽装した男性とかがCM等メディアに出ているのは、明らかに国家反逆的行為で早急に取り締まるべきです。

 一部確かに女装して盗撮に及ぶといった不届き者がいることは十分承知しておりますが、異性装者を「法令順守していない偽装」やら「国家反逆的行為」とやらと平然と書き連ねる性根がどれほどおぞましいか、指摘するまでも無いでしょう。

4「女性に偽装した男性のことを、オネエとか、女性であるかのように偽称して欺いて騙すのは悪質卑劣すぎます。

メディア等で、オネエとかいう男性が出ているようですが、お姉さんという呼び名の短縮形のオネエは女性に使用される言葉です。
オネエではなく、オニイが正しい呼称で、日本語の使い方が間違っています。
戸籍の性別が男性なのに、オネエと女性であるかのように偽称して、不特定多数の日本国民を騙そうとするのは詐欺行為です。

 一体、一般に「オネエ」と称される存在が「女性」を偽装しているとか、それに「不特定多数の日本国民」が騙されるなどというのは被害妄想どころか、想像力がゲシュタルト崩壊しそうですが(寡聞にしてそのように騙された存在はほとんど知りません。ごく稀に初夜に相手が同性だと初めて知った、という系統の海外のニュースが散見されるのは承知していますが、それもかなりのレアなケースではありましょう)。

 当該サイトは「女装犯」と只管異性装であることを以て即断に犯罪者であり取り締まるべき規範・治安対象としてしか見ていないので、これ以上引用すると吐き気どころか実際に嘔吐しかねないので止めておきますが、フェティシズムを含めて、性的少数者はこのような偏見と憎悪と嘲笑との社会規範の中に存在します。今も、です。敢えて「性的少数者」と書いたのは「性的指向」も「性的嗜好」も何れもがそれに該当するからでもあります。そこから、或は辛うじて社会的には性同一性障害に対する理解が進みつつあるとはいえ、現実は直接表現せずとも、そのようなものです。反社会的、反生物的、或は伝統の家族を壊す、汚らわしい、全て同一線上に当事者にぶつけられる社会の偏見そのものです。
 大臣の資質を問うのは大いに結構で、問われるべき点はいくらでもありましょう。それは大事なことです。派遣労働者法の改正可否、その内容も重要な問題です。そして「同様に」菊田議員の見識についても、その一言だけで十分に問われるべき内容でしょう。国会の場で、議事録にも録画にも残る形で、明瞭且つ直接的に偏見をぶつけているのですから、「女性が輝く社会」どころか「少数者が報われない社会」そのままですね、と。
 こういうことを書いていると、愛国気取りの痴れ者やら保守を自称する教条主義者がここぞとばかりに「だから反差別は」とか「だから民主党は」と書き連ねるわけですが、そういうところにわざわざネタを提供したくない気持ちは百も二百もありますが、それでも指摘されるべき偏見の一つではありましょう。
 是非、日頃差別問題に熱心な同民主党の有田議員には、この菊田議員の偏見を問い質すことを期待したいものです。ヘイトスピーチやヘイトクライムは何も人種差別に限ったものではありませんし、わざわざ引用した偏見塗れのBlogも「これがヘイトスピーチでなくて何なのか」というくらいにヘイト塗れですので、当然に射程に入れるべきものでしょう。その性質上。個人的にはまったく期待していませんが、せめて日頃の言動に則って対応頂きたいものです。逆に言えば、そこまで射程に入れずに「人種差別禁止法」ではなく「ヘイトスピーチ規制法」に拘るのであれば、従来通りその法案には自身の信条に沿って「原則反対」を改めて表明しておきます。
 
 
 
 
 
 
 
 最後に菊田議員とは関係ありませんが関連引用したBlog主のアカウントの中の人へ。「バイセクシャル」で「異性装趣味者」で「たまにオネエ言葉」を使うこともある自分が(言葉そのものは最近あまり出なくなりましたが)、「反社会的」で「治安紊乱」に値し「取り締まり」の対象として然るべきで、そうしたいのであれば、いくらでも不法行為でもなんでも訴えてご覧なさい。ツイッターで各報道機関の公式アカウントにつまらないタグをつけて連日ポストするような下衆な真似を繰返すくらいなら。もっともその前にアカウント凍結されても知りませんが(規約違反に十分該当するでしょうから)。
 そういうクソッタレな社会を創りたい、維持したいなら、それをひっくり返してその不条理を「当然に不条理として捉える」社会を対置してやりますよ。その時が10年後か100年後か1000年後か知りませんが、必ず、その不条理を糾弾し糾弾することが当然である社会を対置してやりますとも。たとえそれが「反差別」だの「反レイシズム」だのの最後尾で最も無視に足る存在であったとしても、それであるからこそ、必ずそういう方向に持って行ってやりますとも。「普通」どころか「LG」からも分断され、或は憎悪さえされる「B」や「T」のうち、少なくとも自分は「B」には該当するわけですから、自身の生存と信念の下に、必ずそうしてやります。その時に復讐してやろう、と思うかどうかは感情の生き物故に解りませんし、そもそもそういう社会が出来た時に自分が存命であるかどうかも怪しいところですが(それは同時にアカウントの中の人も)、せいぜい信じる社会正義が転換した際、それに追われる側にならないことを祈っていると良いでしょう。自分だってそのような復讐の連鎖など望みはしませんし。ただ、個人的にはあそこまで侮蔑・罵倒が書き連ねてあることに対して、憤懣を抱かないと言えば嘘になりますので、何等かの対応をしたとしてもそれは応報として指摘してあげますよ。もう十分書きましたが。境界線上の「どちらでもない」存在を片っ端から二分法で瞬断する社会そのものを、変えてやりましょう。自分の力がいかに微力であれ無力であれ、そういった想像力の欠片もない二分法社会には抗いますとも。そしていつの日か、それをひっくり返してやりましょう。自分と同じような存在が、10年後、100年後、1000年後に少しでもマシな社会を享受できるために。反社会、治安紊乱上等ですとも。勝手な線引きで「線を引けない」存在が確かに其処に、此処に存在するという、たったそれだけの想像もできず許容もできない社会であるなら、いくらでもその社会を変えていきますとも。

性表現/性視線に対する疑義

というツイートにちょいとばかりちっちゃな反響がありましたので少しばかり。
これ「女性差別」でなく「異性愛者男性」も「同性愛者」もごっちゃにする歴然とした「性差別」ですからね。
このツイートの前にRTしてる某氏のツイートの「女だから」「言えない雰囲気」とかで収斂させちゃいけないんですよ。
(だから繰り返し「女性議員」の抗議という報道にも疑義を呈してきたし、男性議員も反対していたよね、党利党略はそれとして)
「結婚しろ」「結婚してるの?」というそれは、それが経済事由から縁がないからとか主義信条からとかする必然性がないとかそもそも異性愛者でもないとかいろんな理由があり、それは個別個人の自由なんですよ。
で、同時に「子供」の有無は、それとして価値観の問題から病理的理由まで、さらにいろいろあるんですよ。
「だから」女性差別だけにとどまるものではなく「社会全体の問題」ということを繰り返し言ってきたわけです。
同時に「結婚=子供」等の概念も破砕すべき固定概念ではあるし、同時にそう考える人が居ても別にそれは「他者に押し付けない限り」において自由でもあります。この「他者」には配偶者、扶養者だろうがなんだろうが、パートナー全てです。法定婚だろうが事実婚だろうが関係ありません。
そもそも「女性への差別」という命題に収斂することそのものが「異性愛至上主義且つ婚姻=出産至上主義」でしかなく、これは同性愛者や養子縁組者、シングルファザー・マザーへの蔑視も透けて見えるわけです(敢えてファザーを先に書きます)。
そもそも何ら関係のない、もしくは忖度する必要のない私的生活の事情の結果を、公的場に持ちだした挙句にそれそのものが批難に値するかのような言動がクソッタレな代物なのです。
真剣に少子化を懸念するのであれば、同性婚の養子縁組だろうがシングル親だろうが(敢えて性別を指定しませんが)、関係ありません。
今もって「同性愛の親に育てられる子供は不幸に違いない」と決めつけてかかるそれ自体が児童虐待に値するし、同性愛差別にも値するということは、まったくもって理解されておりません。そのあたりは「「同性愛が感染して増える」的言動見てつらつらと思う」にもちらっと触れております。性自認の確立は生まれたその瞬間に意識されるわけではないのですから。
同時に異性愛者の同性愛嫌悪と同様に同性愛者の異性愛嫌悪もまた、このような自認確立前の児童にとっては不幸をもたらすでしょうから、そういった固定概念の偏見化そのものが掣肘されるべき代物であります。

これは同時に、そういった固定概念的それが批判されるに値することであることを示唆するとともに、そういった価値観が表出されるものそれ自体を否定することを意味するわけではありません。
性愛表現の規制を訴える側はしばしば「性表現」そのものを批判の対象に挙げるわけですが、そこで列挙されるものは少なからず批判されるものがあります。
そして同時に、そういった規制の文脈から「外れた」ところに位置する漫画等のそれが幼少期の同性愛者にとっていかに「救い」として作用してきたかは十分に考慮される必要があるでしょう。少女漫画における同性間性愛暗示・明示(それが女性同士であれ男性同士であれ)が、異性愛表現に溢れる社会において、その存在の救いになってきたことを、自主規制を含めて規制すべきとする論者はいかに考慮してきたでしょうか(この一行については空論ではなく、見聞きした実体験を含めて、そう断言しておきます)。
個人的には「まったく考慮されてきたとは思いません」が回答です。
障碍者性教育を「過激」として断罪してしまった事例は記憶に新しいところですが、社会における「多数者の規範」や「多数者の当然のモラール」は、少数者にとっては等価ではありません。
だからこそ、下記のようなことも言うわけです。

当たり前ですが、少数者の権利のために多数者が犠牲を強いられる「べき」ということではありません。
強いて言えば、解放の文学と規制の文学とでも言いましょうか。
性規範というものが極めて「政治的社会的規範」に直結する道徳律そのものであることを認識した上で、「どうしても伝えたいメッセージなのか否か」を「読者」が恣意的に作家を判断し断罪するのは自由ですが、その自由を行使する故に「自主規制」を促すことそのものに、自分は反対します。
「結婚しろ」「子供をつくれ(敢えて産めとは言いません)」の言動がいかに暴力的言動かを考慮すれば、そういった道徳律そのものが「自由社会」と「任意選択」に対して、自明として「空気としての同調圧力を生む」結果になるのは、例を引くまでもないことです。

個々の表現されるそれそのものには当然に批難されるものもあるでしょうし、批難して然るべきものも決して少ないとは言えないでしょう。同時に、その批難が「自分以外の属性を踏みにじっていないか」については寧ろ批難する側そのものが考慮するべきでしょうし、そうであるからこそ「表現規制に反対する」道理も理論だって武装されることもありましょう。
表現規制反対の声が「しずかちゃんの入浴」あるいは「のび太さんのエッチ」にだけ収斂されて、「のび太のブリーフ/ボクサーパンツ」を指摘し得ないのであるとすれば、それこそセクシズムの再生産に過ぎないのであって、所与の前提条件がまったく異なります。

と書いたのはそういった前提があってこそであって、「平等に性表現を規制する」ということを「自主的」であったとしても現状で求めることは、それが「異性愛者以外」に対して社会において存在が「平等に許される」存在であることの認知回路の一つを遮ることにもなります。
規制する側はそもそも「同性愛表現そのものが不道徳」といった理路でそれの制限を「当然に正当化する」ことは、過去の都条例や国会審議を見ても自明すぎるほど自明であって、いかにヘイトスピーチが溢れようが、特定の思想を以て「自明に断罪する」ことに異議を唱える理由でもあります。気分でつけたり外したりするレインボーアイコンに異議を唱えるのと同程度に。いかにそれが現場で連携していようが、です。同性愛者団体の権利運動に同性愛者自身が批判を出すことは、総連や民団の運動に在日半島出身者の系譜が異議申し立てを行うのと同程度に、当事者の間では普遍的に存在するものです(同時にそれらが権利獲得に寄与した役割を否定するわけではありません、とわざわざ注釈を書かないとそういったことすら読めない人が多数存在することそのものが差別なんですよ)。

その上で、敢えて以下のことを述べたいのです。

回顧、またはヘイトスピーカーからの帰還、そして

前回のエントリはだいぶいろいろ反響を頂いたようだが、できれば「日本統治下の朝鮮半島を見る」などもあわせて参照頂きたい。日本がいかに半島に資本を投下し、それがどのように経済・社会に立ち現われたかが簡潔ではあるが見てとれるだろう。それと、自分がIDによる原稿記載を行っているからといって、「実名じゃない」という短絡した向きには、ちょっと調べれば自分の実名はウェブ上に晒してるわけだから、調べれば?とだけ。だいたい自分はこのIDでかれこれ10年以上通してきたのである。匿名実名論争に乗るつもりはないが、このIDは自分そのものであり、またそれを自負もしている。

 さて、ここで改めて“現在の”スタンスを確認しておくと、以下のような感じとなる。
1:在留外国人への差別はいかなる人種・民族であれ反対
2:犯罪の取り締まりは厳に成すべきで、それは人種・民族の如何を問わない
3:北朝鮮、中国は潜在敵国であり、同時に中国は不可欠の貿易相手国でもある
4:韓国は国としては好悪で言えば好きではないが、安全保障上必要でもあり連携すべきでもある
5:歴史的経緯については政治的判断・好悪感情を別として、まず事実を知るべきである
6:国家の政策に対して国籍保有者は一定の責任を負うが、同時にその政策に賛同するしないについては個々で判断が異なることを認めるべきである
7:一般に戦争責任と言われているものに植民地責任を被せる者がいるが、これには反対であり、両者は区分され、それぞれに評価すべき問題である(従って中国に対するそれと、韓国・北朝鮮に対するそれは、当然異なる位相の問題である)
8:日韓の賠償問題については原則として所謂日韓基本条約とそれに付随する取り決めにより解決された、と考えるべきだが、その中で抜け落ちている部分・棚上げした部分があれば、それについては別途解決のための算段が取られるべきである(この解決とは必ずしも賠償を意味しない)

ここまでを前提として、以下の自己分析へ入るとする。

■自らの存在を求め、それを安定させんが為に
少なくともtwitterフォロワーの多くや、過去から自分のBlog等を閲読頂いている諸氏は十分知っているであろうことで、再び書くのも重複した話で申し訳ないのだが、ここから始めないと何も始まらないので記載することにすると、自分は両性愛者である。他にもいくつかあるが、簡単に話を進めるために、ここではこれのみに絞って記載する。
 世の同性愛等の事例を調べればすぐ分かるように、このセクシャリティの相違というのは幼少期においては特に表に出すことが難しく、自分もまたそうであった。それは排除への恐れであり、また保身のためでもあった。
 意識としてのそれを自覚するようになったのは恐らく小学校高学年になるあたりだっただろうか。その頃より、何か現実から逃避するかのように、科学やSFなどへと関心を深めることとなった。自分の読書癖は恐らくここから来ている。
 中学に入ると、それ以前とは格段に情報の流入が増え(といってもまだウェブはまるで普及しているとは言い難く、主にテレビ・雑誌・新聞・書籍等がその経路であった)、同時に関心の領域も広がっていくことになる。
 自分の、今で言うところの「ネットウヨク」的ヘイトスピーカーというのは、恐らくこの頃を基点として据えることができるだろう。それは性への意識が周囲においても確立されていく過程で、それに話を合わせ、また自身のことはできるだけ表には出さず、当然親や教師などに言える訳も無く、また自分と同じような存在に巡り会うこともなかった中で、思春期という不安定な意識の中、自己のアイデンティティを保つために、何らかの代償を必要とした、ということでもあったと、今にして思えば考える。当時はそんなことは考えなかったが。御多分に漏れず、日本を批判して止まない韓国政府(または報道にて出てくる過激な抗議行動)に対しての嫌悪を抱いたわけだ。
 高校に入る頃には歴史への関心も少しずつ高まり、また、シミュレーションゲームなどもゲームそのものではなくテーマ・内容について関心を抱くようになった。しかし、その頃はまだまだ手を伸ばす範囲も狭く、当然のことながら自らが“望むような”傾向のものしか手に取らなかったことから、ヘイトスピーカーとしての傾向は一層強まった。
 一方で、この頃になると、主にナチス関連の書籍などで、同性愛等の虐殺の歴史を垣間見るようにもなった。ここで立ち返れば良かったものの、その排除への恐れは無意識化に刻まれたのであろう、より一層ヘイトスピーカーの傾向に拍車をかけることとなった。これはまさに、「排除されないために、より“正しい”日本人であらねば」という意識が働いたためだ。では“正しい”日本人とは何か。当然日本人なのだから「日本を攻撃する者は敵である」。まさに今のネットウヨクのそれそのものだ。
 大学に入っても引き続きこの傾向は続くわけだが、そこでふとある言葉に出会うことになる。「小林というのは“林”という字が入っているから過去遡れば朝鮮系だ」と。その時は「そんな話もあるんだな」という感じで流してしまっていたわけだが、よくよく考えればおかしな話でもある。自分は今までその「小林」という人間を「日本人」として接してきたわけで、そこに「朝鮮系だ」という情報が入ってきたとしても、その人自身の何が変わるわけでもないのだが、人によってはそうではない、ということなのだろうか、と。
 大学も中盤に差し掛かると、ようやくウェブが一般の手に届く形となり、当時はダイヤルアップ形式での接続ではあったが、様々な「自分の生活範囲からは遠く離れた、また様々な職・立場・年齢の人」と出会うようになった。
 その中で、一人のゲイの友人ができたのだが、そこで初めて「自らを抑圧・否定することなく存在することができる場がある」と認識するに至った。周囲へ公知することになるのはもっとずっと後のことになるが、当時としてはこれが非常に大きな支えになった。そこのコミュニティは小さなものだったが、ゲイは一人だけで、他は極めて“普通”のマジョリティであり、またヘテロでもあり、それらは相手をただ“人”として認識し、それとして接していた。立場も何も関係ないし、出自だなんだを気にすることもないものであった。
 同時期に別のコミュニティで、こちらは別の趣味を通じて知り合った友人がいた。知り合った当初は当然HNのみでの付き合いであったが、何かのきっかけでお互いの本名を明かすこととなり、返ってきた名前は朝鮮名であった。しかし、全く気にすることは無かった。自分はその友人の書く作品は良いものだと思っていたし、今でも思っている。別に何人だろうが良いではないか、と。その人はいわゆる“在日”であるが、今でも友人として仲良くさせてもらっている。
 事ここに至って、至極当たり前の結論として、「人は人であって、何人であろうが善良な人は善良であり、犯罪を犯すものは犯罪を犯すものであり、そこに何等の差異は無い」ということ。そして自らが何かを否定することでアイデンティティを確立しようとせずとも、その居場所を作ることができれば自然と憎悪は薄れていくものだ、ということ。何より、「もしかしたら、自分の知っていることというのは極めて浅薄で、また上っ面なものなのではないか」ということ。読書癖を持っていた人間としては、この最後の問いは自分の中で極めて深刻なもので、「事実はどうであったのか」ということへの探求は、歴史に関してはここが基点となった可能性が極めて高い(その前に一部三国志の演義と正史の違い、などにも興味があり調べたりもしたが、それ以外の項目でそこまで突っ込むこともまたしなかった)。
 この認識に至るまで実に20年以上かかっていることになる。

■疑問から生まれる様々な更なる疑問の連鎖
 そこからは様々な歴史関係の書籍などに当たっていくことになるのだが、そこでまたいろいろな疑問が生まれてくることになった。まずそもそも教科書に書かれていることが全くの表面的なことばかりで、場合によってはそこからアップデートしていないばかりに、研究成果によって否定されていることが自分としては「事実」として認識されていたことなどだ(当たり障りの無い例で言うと、各種の肖像画が実は別人の者だった、等)。
 また、朝日などにおける「平和」「反省」といった戦争への視点の据え方が、これもまた極めて一面的で、また場合によっては事実を無視したような逆説的美辞麗句になっているのではないか、といった疑問もあった。
 結果として、自分は“正しい日本人”であろうとあれだけ嫌悪した相手をロクに知らないばかりか、“正しい”を担保するはずの自国のことさえもロクに知らない、という現実をまざまざと見せつけられる羽目になった。
 疑問が疑問を生み、その検証でまた別のことが書いてあり、なんと多様な世界であることか、史学の世界は、と思ったものだ。
 Aという評価があり、それに対してBという反証がなされ、またその反証がCという研究で否定され、結果としてAとCの中間あたりが妥当なように思われる。そんなものは山ほどあり、当然のことながらそれは先の大戦、そこに至る経緯、さらに源流となる明治維新、また続きとしての戦後、そういった様々な事項へと波及していった。
 そういった探求の中で、いつしかヘイトスピーカーの要素は薄くなり、また自身がそれとしてあることを担保できるのは、「人は人である」という根本的なところまで立ち返ることとなり、その悪癖から脱却するのは実に30歳頃までの時間を要したのである。政治への本格的関心というのもその中で生まれ、またそこでの試行錯誤、疑問と応答、それらが今の自分を形成していると言えるだろう。

■根拠のないものを根拠とする愚かしさ
 ここまでの中で、自分を自分たらしめている一つの要素であるところの(そして不可欠の要素でもある)、両性愛というアイデンティティを公知し始めたのは、概ね大学の後半から卒業直後くらいのタイミングであることは、推察しているであろうと思うが、その中で直面したのは、「それを公知することで排除され、または嘲笑されるという現実」であった。
 中には変わらずに接してくれる者もいたが、逆にそれをそのまま排除・嘲笑のネタにする連中は少なくなかったのである。
 多少頭が回ればわかるだろうが、自分はそういった連中から、それを公知する以前は「全くそういったことの対象になっていなかった」ということであり、逆に「公知することでそれを招いた」という現実が、まさに厳然として存在した、ということだ。
 自分があれだけ嫌悪して止まなかった存在が目の前に立ち現われたとき、自分はそれに対して特段態度を変えることがなかった(それは上記の通りである)。逆に自分がそれを公知した時、格別に態度を変える連中もまた存在した。
 ここから導き出されるのは、ただ一点しかない。それは、自分の嫌悪がいかに薄弱な、事実の前に覆される程度の表層的観念的なものであったか、ということであり、逆説的に言えば、その表層的観念的ヘイトがその人の内に存在する限り、そこに合致するような記号を与えれば、容易にそれを適用する人間もいる、ということだ。そこで態度を変えられる、というこの事実が、いかにそれが思想や信条などという大層なものではなく、浅薄で、また愚かしいことであるか、ということを如実に表している。それを考えれば、「後ろめたくなければ実名を名乗ればいいではないか」というのは、当事者からすれば(犯罪への悪用を別とすれば)「公知した瞬間嘲笑と侮蔑をするであろう人間に対してそんなことできるか」という返し方もできるのであって、そのあたりを勘案すべきだ。
 事実の前に態度を変えることができる(またはその考えが事実の前に安易に覆る)、ということはそもそもその考え方自体が根本的におかしいのだ。
 敢えて問う。自らの戸籍を調べて、果たして戸籍上在日だったとき、ヘイトスピーカーたる貴方達は、自分自身を排斥の対象とすることができるのか?また、知りもせず、言葉も通じず、生活の基盤もなく、頼るものとていない書類上の母国に帰ることを望むのか?
 恐らくしないだろうし、ほぼできないだろう。圧倒的事実の前に、そういった観念上のものが、いかに脆く崩れていくか。別にそれが過去に密航して渡ってこようが(それも今や三~四世代も前である)、志願して兵役につき日本に居座ったものだろうが、徴用で渡ってきたものだろうが、そういったことは一切合財別として、その現在における事実が仮にそうだったとしたら、ヘイトスピーカーは自らにその刃を突き付けることができるのか?そのことは一度自問自答した方がいいだろう。何、自分もできたことなのだ、誰にだってできるはずだ。

■基点、または起点
 前回のエントリについては、靖国神社における絵馬の一件があり(朝鮮人は出ていけ、の件)、また在日が今の差別的待遇であるのは自身がブランディングをしてこなかったからだ、という言説に対しての応答が主であるので(そこまで言うなら過去の功績に関して正当な評価を下したのか、という点)、決して「通名の是非」を問うことは主目的ではなかったため、Blogosのトップページリンクから辿って読んだ人や、それらの経緯を知らない人については、唐突感もあったろうし、歴史の郷愁に浸っても解決しない、というのは優れて正鵠を得ている批判ではあるので、それはそれとして受け止めるが、それ以外の言説の少なからずが、まさに絵に描いたように自らが犯した、そして直面した過ちであったことは、それとして炙り出しとしても、また自らに対して問いかける意味でも、意味があった記事になったと考える。
 もちろん、いわゆる「反日ナショナリズム」という点については、自分も嫌悪するし、さっさと自律したナショナリズムへと昇華して欲しいとも思う。また竹島などの問題は、現在のところどう考えても日本側に主権があるとするのが妥当であろう、とも考える(ただし政治的妥結をどこで結ぶべきか、というのは別の問題でもある)。「従軍慰安婦」という「言葉」の出てきた経緯も承知しているし、半島支配の過程で莫大な資本投下をしてきた事実も知っている(この点で、前時代的ステレオタイプな「日本性悪説」は採らないし、そういった短絡的評価もまた批判に値すると考えている)。
 個々人として追及されるべき問題、組織として抱えてきた問題、国家として抱えてきた問題、様々な問題はあろう。例えば、日韓基本条約における金銭が韓国においてどのように使われたのか、という点について、韓国政府はその行為・判断と結果を正しく同国民に伝えるべきであろうし、それを踏まえた上で、言うべきことがあれば言って貰えば良い話でもある。
 一事が万事ではないが、それぞれの問題を、あたかも民族性に起因するものとして捉えるのは根本的に誤りであるし、ましてそれが観念的なそれであったり印象論的なそれであったり、はたまた論破し尽くされている根拠なき扇動に基づくものであったり、そういったことは、それが「どの国の人であれ、どの民族であれ」考え方として「間違っている」わけで、それは相手が如何なる国であれ民族であれ人であれ、それとして自分は「間違っている」と言うだろう。
 自分がそれとして実践し、直面してきたものでもあるからこそ、間違っている、と言うべきだとも考えるし、また問いかけもする。
 当然、隣国間での利害など当たり前のことであり、また歴史に対する評価が異なるのもまた当然ではあるので、そこについては事実の積み上げを行っていくしかないだろう。その中で、欺瞞・詐術はそれとして暴かれねばならないだろうし(これは日本であれ韓国であれ中国であれ、はたまた米国であれロシアであれ、どこに対しても、だ)、中には過去は正当として行われ、現在の価値観で見れば悪辣だと考えられるものもあるだろう。
 例えば国際法上植民地が完全に非合法とされたのは戦後のことであり、戦前は列強という強者のみの理屈の中でその合法性が問われたことを考えれば、当時としては日本の韓国併合は国際的に認められたものでもあった。非合法論の入る余地などどこにも無い。脅されたから違法だ、という理屈が通らないのは、当時としてそれが「当たり前」に行われていた、という「事実」(これはやったことの是非の評価ではなく、事実評価として)であり、だからこそあれだけ躍起になって日本は不平等条約の改正に邁進した、というのもまた「事実」でもある。
 それらの事実と向き合うことは、当然日本だけではなく韓国や北朝鮮、中国にとっても「不都合」かつ「不愉快」な現実が立ち現われることにもなるだろうし、また従来低い評価であったものが、逆に肯定的に評価し直されるものもあるだろう。
 大日本帝国として成したことの全てを否定することも、また肯定することも、どちらも愚かしく、また馬鹿らしい行為であって、ましてや「当時」の資料にロクにあたることなく、売文屋が書いた文書やアジテーターの書いた文書(これは右翼だろうが左翼だろうが関係ない)を鵜呑みにして、あたかもそれが自らの考察の結果であるかのように振り回しても、そこには確固たる芯もなければ、また心も真も信も無い。
 別に自分は人間が皆分かりあえる、といった楽天的幻想を抱くつもりもない。ただ、それとして不当だと考える言動には、繰り返し「間違っている」と言うだろう。しかし、「日本人の意識にあるアジア人蔑視」などと言うつもりも毛頭ない。前回の記事で敢えて「民族」という括りを用い、個々人のそれに触れなかったのは、そういった「懺悔主義」に対するアンチテーゼでもあるのだが、釣りだか何だか知らないが、案の定そういった連中も出てきたようで、自分の意図したところはその点でも概ね達成されたと考える。
 蔑視も差別も悉く個々の意識の問題であって、「日本人はアジアを蔑視している」という言い方もまた、「韓国人は皆犯罪者だ」というのと全く同じ構造をもって否定されるべき言説であり、揃いも揃ってそんなことを言い合っているから、正対することなく繰り返すことができるのだ、ということにいい加減気付くべきだ。
 そして、それは「相手も同じことをしているではないか」ということではなく、相手とは無関係に自ら進めるべき問題であって、お互いが「相手もこうだから」と言って現実から逃げ回っていては、何も見えないだろう(この問いかけは当然日本だけではなく、半島や中国にも向けられるべき問いである)。
 それに対して「日本だけがそんなことをする必要があるのか」という問いも成されるだろうが、そうではない。これらの論点に意識が向いているのであれば、そういった個々人がやっていく問題で、「韓国が」「日本が」というのは、その総体が立ち現われるものでしかない。
 大丈夫、いかに自己を振り返り、自国の歴史を振り返ったところで、全否定されることなどあり得ないし、また美化する必要もない。日本にしても半島にしても、それだけの歴史の深さがあるのだから、堂々とそれに正対すれば良いことだ。何を恐れることがあろうか。誇れるものは誇れば良い、過ちは過ちで繰り返さなければ良い、それだけのことだ。事実誤認の誇りは滑稽でもあるし、事実無視の理解は過ちの反復を生むのだから。

整理とまとめ

まず亜門さん(id:D_Amon)とのいろいろなやりとりの中で、お互いに諒解しているだろうコンセンサスの部分。
1:イスラエル軍のガザに対する攻撃において白燐弾が使用されたこと。
2:同兵器には燃焼性(焼夷性)が存在すること。
3:同軍が同兵器を民間人が居住する市街地に打ち込んだこと。
4:3の行為が国際法に基づき違法である可能性が高い、もしくは違法であること。
5:イスラエル軍の起こした戦争被害については周知されるべきこと。

次に、コンセンサスは取れていないかもしれないものの、恐らくは最終的に一致していると考えているもの。
1:白燐弾の現行法での規制は十分ではないこと。
2:同兵器に対してなんらかの新しい規制が設けられるべきこと。
3:過去においても同兵器の使用は、適法とする形での「名分」を喧伝しつつ、実態がそうではなかった例はいくらでもあること(米軍等)。
4:白燐弾そのものは過去から焼夷兵器としても使われてきたこと。
5:イスラエル軍の過去の行動を踏まえ、今回においてもその使用方法に「問題がなかった」とする同軍の見解に対しては疑問の余地なく「問題があることを認識していただろう」と考えていること。

恐らくは諒解してもらっているだろうが、相違がありそうなもの。
1:自分がイスラエル軍のガザへの攻撃に対して、白燐弾の使用有無を問わず、そもそも民間市街地への攻撃という点で重大な問題(違法行為を含む)が存在すると考えていること。
2:亜門さんとのやりとりの中では特段必要がなかったため触れていないが、自分は1の点において、同様の理由によってパレスチナ側からの攻撃(市街地へのロケット撃ちこみ等)については否定的であること。
※繰り返しますがこれによってイスラエル軍の行為が何ら相殺されるわけではありません。

自分の側に瑕疵があったと判断できるもの。
1:自分の疑問の根拠もしくはその要因となっている記事(本件においてはガーディアン紙)の期日記載および翻訳の問題。
※自分が機械翻訳に多くの部分を頼っているのは事実で、その点でid:hokke-ookamiさんの御指摘は至極ごもっともで、逆にその指摘を頂いて腑に落ちた部分が多いことは感謝します。ただし、報道資料とドキュメンタリーの比較は、それをすることは逆に亜門さんに失礼なのではないか、とも。報道において再現やイメージ映像等を使用する場合、それは明らかにそれと分かる形か、そうでなければ「再現」「イメージ」であることを併記・注記して行うものであり、今回の亜門さんの当該記事における写真・映像はそのような「イメージ」という意図ではなく、「犯罪告発」の証拠的扱い(兵器そのものの被害の実態)での意図であるはずです。
2:国際法の改正を目指すべき、という主張の提示の仕方において、「現状における告発」を揶揄する意図があるかのように受け取られたという表現上の問題。
※これについては亜門さんとのツイッター上とのやりとりの中で、「そういう意図ではない」という点は諒解頂いていると考えています。

この瑕疵の1の点において、亜門さんには随分と時間と手間をかけて頂いた点について、ここにお詫び致します。また、法華狼さんには亜門さんと自分との中で、問題の記事の理解に対して自分のどこに問題があったのか、という点(時系列と翻訳の問題)を明確にして頂いた点は大いに感謝するものであります。改めて。

その上で、瑕疵の1が生じた理由として以下のように整理をしたいと思う。
まず、当該記事は自分のブックマーク(はてなブックマーク、ではなくブラウザの方)に残っていたもので、本件を機に改めて引っ張り出してきたものであること(その時点で期日等ちゃんと確認しろよ、というご指摘は甘んじて受けましょう)。
※ちなみに法華狼さんのコメント欄にあったようにwikipediaを参照したわけではないつもりですが、まぁ結果としてそう見えたのなら仕方のない点はあるとは思います、とだけ。ただ自分も当初からあの記事を「白燐弾被害の否定記事」として読んだわけではない点はここに書いておいてもよいかな、とは思いますが。というのと、22日の記事だけではなく16日の記事も合わせてブックマークしておりました。まぁ引っ張り出したのは漠然と記憶に残っていた方の22日の記事だけ、というのはありますが。
次に、当該記事に対しては法華狼さんの言うように死因(これはイラク時のもの)をはっきりと断定はできない、とした上で、証言を基に兵器としての運用(もしくは兵器そのもの)の問題点を提起している内容、という理解であり、冒頭部分に限らず、全文の翻訳上の問題があったとしても、この点は大きくはずれていないだろう、とは考えています。
その意味で証言の重要性、という点において法華狼さんの言うことはごもっともな点があり、証言そのものは当事者の知見に拠るものであり、またその社会上の様々な要因があって過小な証言であったり、また過大な証言であったり、という点は否めないものであるとも考えます。特に戦争のように「生き残ること」が主課題となる場における当事者、特に被害者の場合、客観的正確性など求めるのは酷でもあります。だからこそ、戦争報道の重要性、または過去の戦争における史家の地道な検証作業というのは非常に大きな意味を持っているはずです(その一例が南京事件を巡る虐殺有無の問題でしょう)。
その上で、亜門さんが指摘するように、ガザでの報道において、ある種の制約があり、必ずしも十分な報道活動が成されたわけではない、という点は重要に思えます。
亜門さんが提示した写真・動画が戦争被害であることは疑問を差し挟まないものとして(そもそもあれが戦争行為と関係さえなく生じたものを転用した、徹底したプロパガンダ=捏造である、とはさすがに考えにくく、そこを否定する必要性もないと考えます)、亜門さんが戦争被害全体を告発するものとしてそれを提示していたならば、自分も別段疑問も抱くことなく、それとして受け止めたと思います(この点で、法華狼さんが言うように、それが白燐弾に起因するものであるかどうかに関わらず、戦争被害者の証言はそれとして聞くべき、というのは真理であると思います)。
今回自分の引っかかった疑問(最初はもっと漠然と、疑問未満だったかもしれませんが)について、当該記事を改めて引っ張り出した段階で「誤った方向」でその判断を傾斜させたことは否めませんし、そこについて亜門さんがいろいろと骨を折ってくれたことは重ね重ね感謝します。結果としては、引っ張り出したことそのものが誤りだった、と言えますね。
その上で、兵器の告発として成され、戦争犯罪としての裁きを求めるのであれば、少なくともその提示物にある程度の証拠能力は必要だろう、とも考えていますし、それは今も変わっていません。これを選択的懐疑主義と言うならそう言って頂いても結構です。
自分の瑕疵はそれとして誤りを認めた上で(そもそも引っ張り出してきたものの内容理解が誤っていたわけですから、そこから正しい認識などが出ようはずもないのですが)、最終的に残った点(当該写真が白燐弾の直接被害なのかどうか)については亜門さんから「消去法による推定」の旨、を回答頂きましたので、そういうものとして受け取ることとします。また、追加でアムネスティやHRWの「白燐弾被害のもの」とされる写真等を提示頂きましたが、それについては検証されているように思えますし(少なくとも砲弾の残骸を検証するなど、断定できるだけの証拠を揃えているように思えます)、撮影日等記録写真として必要なキャプションはついていますし、それを否定する必要もないと考えます。付け加えると、民間団体やNGOがどこまでの立証責任を負うべきか、という点についてはケースバイケースとしか言いようがないと思いますが(それこそ裁判にでもなれば立証責任無し、ともできないでしょうし)、推定であれば推定、断定であれば断定で、断定なら断定なりの証拠固めをしているように見えます。
単純な話として、亜門さんが最初のエントリで提示していた写真について、その種の検証を経たものであれば、そうキャプションに入れて頂きたかったし(URLリンクでも構わないのですが)、そうでないならHRWのように疑惑は疑惑として、そうわかる形での記載(これはDIMEの使用についての記事で写真ではないですが、“確かな証拠は得られなかったが、類似した被害の症状を示している”等のニュアンスとして断定は避けるが推定であることが分かる表現)をして頂ければよかったのに、とも思いますが、今さら自分がこう言っても言い訳のように聞こえるだけでしょうから、それ以上は言いません。自分自身が記事の検証を怠った点がありますので(少なくとも亜門さんから指摘頂いている「嘘」というのはこの検証作業の不備で事実認識を誤っていた点であり、それをすっ飛ばして判断を加えたことに対して、だと理解していますが)、当然そこも自分の瑕疵に加えるべきかと思います。ただ、そこをそれとして指摘頂くのであれば、最初の記事でそうしておいて頂ければな、と。とはいえ、自分以外は誰も引っかかるものが無かったようなので、それは必要のないことかもしれませんね。

少なくとも自分が無謬でもなければ全てにおいて慎重なわけでもなく、ましてや完璧な人間とは程遠いことは十分理解しているつもりではいますので、幾人かから頂いた指摘については、また同じ過ちをする可能性はありますが、指摘頂いたことの少しでも生かしていければな、とは思いますし、「何で俺が悪いんだよ」みたいな開き直り方をするつもりもありません。また、一連のやり取りおよび法華狼さんのようにわざわざ横から補助線を引いて頂いた点については、関係各位大いに時間と手間と、時に気分を害するようなことがあったとは思いますが、感謝致します。少なくとも自分にとっては実りあるものだったと考えていますし、それを以後に少しでも生かせれば、とも思います。まぁ勝手な言い草であることは承知しているつもりです。

ここからは亜門さんや法華狼さんではなく、他の方への回答ではありますが、非対称な懐疑が良くない、とのことなので、ほぼ留保なくイスラエル軍が違法を承知で(もしくは違法の可能性を十分に認識した上で)ガザに対しての攻撃を行っている、と考えている自分の判断についても「そうではないかもしれない」という懐疑を持つことに致します。
それと、「本音の本音はイスラエルもパレスチナもどうでもいいんだろ?」的指摘については、まぁそう忖度して頂くのは勝手ですが、「本音の本音は」とか言い出したら何でも言えますよね、とだけ。それこそその点は証明不能でしょ。自分が「こうなんだ」と言ったところで「本音の本音は」とか「本当は違うんだろ」とか言い出したら、あらゆる人のあらゆる言説は否定可能でしょうし、まぁそれはそれで気持ちいいんでしょうけど、勝手にしてれば、とだけ。それ被害者の証言に対して「本当は賠償の金が欲しいだけだろ」と言ってのける連中とあんまり変わらないことをしているように思えますけどね、自分には。まぁあくまで自分の「印象」なので、「本音の本音」は違うのかもしれませんけど。以上、最後の段落は皮肉に加えて自分も陥りがちなので自省を兼ねて、ですので悪しからず。

P.S.各IDは「はてな」のものです。直接コールは飛びませんが、第3者の識別用として記載しました。