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原理主義になれない原理主義的何か

脱原発運動の当初において、比較的大きな声は「怖い」という根源的心理的ものであったように思う。経済性に対する欺瞞や安全管理に対するあまりの杜撰さに対する批判もあったが、やはりその根本は「恐怖」ではなかったろうか。いわゆる「危険性」への問い、という声と言える。
オスプレイを巡る一連のそれも、また「危険性」への問い、ということはできるように思う。その当初段階においては、であるが。試験飛行段階から実戦運用段階へと昇華する過程で格段に安全性が向上したとも言われるが(そうでなければなかなか大量配備には至らない性質のものでもある)。
その意味で、両者とも根本としては同じ根っこを持っているように思えないでもない。が、しかし、と思うこともある。このどちらもが、付随する様々な問題(原発では廃棄物や耐用年数超原子炉の廃炉、オスプレイでは米軍基地の存在そのもの)を巻き込み、当初叫ばれた「危険性」というものはいささか雲散霧消気味であるようにも思える。特に後者においては「安全性は関係ない」とまで言い切る反対運動となり、前者においても「安全性」という問題はある種置き去りで、どちらかといえば「何があろうと存在を許さない」といった趣がある。
この当初段階の「危ないから」という性質のものは心理的には非常に理解できるものではあるが、一方で今となっては「危ないかどうかは関係ない」となってしまうと、果たしてそれは理解され得るものだろうか、という点は疑問もある。「最初に声高に叫んでいたのは何だったのか」という問題が自然と生起されてしまうからだ。もちろん様々な複合問題が持ち上がるにつれて、主問題が別に移る、ということはあるだろうが、さりとてそうであったからといって当初の問題が、本来は「消えてなくなる」はずはない、のが本来の問題であろうとは思う。
「危険だから」という問いがいつしか「危険かどうかは関係なく」に変容していく過程で、少なくない人が「その問いは正しかったのか」という点に疑念を抱く可能性は決して少なくないだろうと思う。そして、その結果として、半ば「原理主義」と揶揄されたり、または「為にする批判」と嘲笑されることさえあるのも、また理解できない話ではない。心理的受容のされ方として、の問題ではあるが、当初の問いかけが多分に心理的性質のものであったればこそ、尚の事。
どちらも「事故」の問題、とすれば確率論に類するものとは言えそうな気がするが、そうであれば、単純に事故発生率とその際の被害予測を以って、それが確率的事故発生率に見合うものかどうか、それは日常的に導入するに足るだけのリスクに留まるのか、という点はもっと問われても良いように思うが、残念ながらあまりそういった方面での話は主とは成り得ないようだ。
この2つの問題では、原発では労働問題、オスプレイでは米兵犯罪問題などもリンクされた反対運動となりつつあるようにも思えるが、では果たして「それらの問題がある程度の解決を見た場合には反対しなくなるのか」という点については甚だ疑問でもある。至極単純な理由として、当初掲げられた命題(もしくは問いかけ)が周縁へと追いやられつつある現状を見れば、どちらかといえば反対もしくはその存在を許容しない人々にとっては、それは一種の「カルタゴ」のような存在なのではないか、と思える節があるからだ。
「Ceterum autem censeo, Carthaginem esse delendam」とは大カトーの言として有名な政治表現であるが、この言が何故これほどまでに有名になったかと言えば、ローマとカルタゴの覇権を巡る抗争・確執はもちろんだが、一番はこの言葉がまったく無関係な言論の締めくくりにさえ、定型句のように用いられた、というエピソード故だろう(このエピソードが事実かどうか、は関係ない)。
この表現において、ローマは反カルタゴ原理主義、と言えるようにも思えるが、今現状において揶揄されている脱原発または反オスプレイといったものは、これほどには原理主義でもなければ、徹底してもいないとは思う。そして、それ故にこそ限定的理由を次々と持ち出しては、その理由が古されるか、または一定の反駁を受けてしまうと、別の理由へと挿げ替えてしまう状況になっているのではないか、とも思う。もっとも問いかける側、反駁する側ともに「それはどうなのか」と思うようなものも多々あるので、これは単純に「どちらが良い悪い」ということではなく、そういうことを見せてしまうことで、結果として従来そこに関心を持たなかった(もしくは消極的にしても容認していた)層を取り込むことができなくなっているのではないか、と思わないわけでもない。
冷戦期における「反米・反資本主義」が「先進」であり「インテリ」であり「現状追認主義にならない」ための一つの機軸であった状況においては、「”アメリカの”核反対」や「”大資本家”の資本反対」という点での明快なイデオローグがある種の原理主義的分かりやすさを示していたし、明示的にしろ否にしろ、それを見ている側としては「敵をそこにおいているのだ」という点で、参画するにしろ敬遠するにしろ、分かりやすさ、というものを備えていたようには思う(内実は別として)。一方で、それが現実の前に有効な解としては決して支持されてこなかったのが、日本の現実が辿ってきた道ではある。
脱原発、反オスプレイにはその種の分かりやすい原理主義的イデオローグは存在しないのではないか、というように感じる。もちろん明快であることが良いことである、とは言い切れないのだが、あまりにブレている言動が多いのではないか、と(もちろんそうではない人がいることは知っている)。
脱原発が「人権」「人類」としての原発の拒絶であるならば、当然「国外のそれ」に対しても反対が成されるべきだし、少なくとも大きくコミットしないにしても、そう表明されるべきではあるように思う。同時にオスプレイが「安全」「安心」への脅威であるならば、同時に活発化する中国の海洋覇権主義に対しても否である旨を言明する必要はあるのではないか。もちろんそれを求めることを誰も強要はできまいし、またすべきではないだろう。しかし、一方で、そこが不鮮明であるが故に(もしくは故意に欠落させているが故に)、「かつて支持されてこなかったイデオローグ」と「同種」の、昔ながらの「政府への反対」「反米闘争」が「是」であり「正義」である、といった隘路に陥っているのではないか。もちろん自分の観測範囲が狭いことにより、より広汎であろうと思われるそれらの運動・言説の少なくない部分が抜け落ちている、ということはあろうが。
政府への不信や、都市部・周辺部の構造的問題、もっと言えば民主主義的マジョリティの判断・意識に対しての問題提起もあろうが、それにしても、と思う言説は少なくないように思える。戦略的・戦術的に支持を広げよう、とする動きが見えて来ないか、そもそも期待していないのではないか、とさえ感じる時が少なくない。果たして、それで当事者達の目的は達せられるのであろうか。

リアリズムとアイディアリズム

「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例 を契機としたリアリズムとアイディアリズムについて拙稿を書く次第。

リアリズムとアイディアリズム(またはユートピアニズム)は国際関係学(国際政治学)において、最もポピュラーな2つの考え方である。
しかし、この2つの考え方は、短絡的にまとめればまとめられなくもないわけだが、一方で時代に合わせた変遷、それぞれの思想が抱える欠陥とその克服の試みにより、あまり短絡的理解をするべきではない状況ではある。

さて、ここで一つ断っておくと、アイディアリズムもユートピアニズムも、いずれも邦訳する際は「理想主義」と訳されるわけだが、これはいろいろと問題もありそうにも思える。確かにいずれも「あるべき理想像」を据え、それへ向けての思想、とはなるのだが、アイディアリズムとユートピアニズムでは程度の差はありそうである。ここでは極端な理想を掲げるものをユートピアニズム、それほど極端ではないが、やはり現状を踏まえれば理想的に過ぎるものをアイディアリズムとしておきたい。

リアリズムもアイディアリズムもいずれも古く古代世界にまで思想的源流を辿ることはできるが、本稿では主として論理体系として一定の確立が成される前後のあたりまでを遡る射程としたい。
この二つの思想体系が概ね学問・論理体系として確立されてくるようになるのは国家体制というものが一定の確立を見てから、という風に捉えても大きな過ちはないように思う。もちろんそれ以前にも、例えばリアリズムの源流をマキャベリに比すようなことは多々行われているのだが、もっと前にも遡ることもできるし、一方でこの二つの思想が「国家」をその主的要素として捉える考え方を機軸として大きな発展を遂げたことから、主にヨーロッパ世界においてキリスト教が国家体制からある程度離れた状況が訪れた後からのものを考えれば十分であろう。

ここで、二つの思想が「国家」をその主的要素として、と書いたことに違和感を感じる方もいるかもしれない。
例えば、アイディアリズムはしばしば「国際社会、国際協調」を基調とし、「汎国家的枠組み」を論じることが多いことから「国家」という概念を思想的に軽視しているように捉える見方も少なくない(これがしばしばユートピアニズムに一括りにされる原因でもある)。しかしながら、この「国際社会、国際協調」の基本となるのがしばしば「国際法」であり、また時に発展して「世界政府論」へと発展することからもわかるように、アイディアリズムは決して「国家」という概念を蔑ろにしているわけではない。むしろ「主権国家」という体制の仕組みを大きく拡張して考える思想と捉えることもできる。いわゆる「法の統治」や「政府」という概念が、基本的には国家体制の中で語られるものであるからだ。
また、アイディアリズム(ユートピアニズム)はしばしば「実際にうまくいったことがない」といった語られ方をするが、これもまた過ちである。確かに理想を追求した(という意味では理想主義的な)実験国家たるソビエト連邦が壮大な失敗に終わったことや、国際連盟の無力さ、また国際連合の脆弱さを引き合いに出せば、それはそれで一面事実ではあるかもしれない。しかし、これは見方としては薄っぺらいものではあろう。その理由は後述する。
同時に、アイディアリズムの影響が少なくないと思われる存在としてEUなどは挙げることができるだろう(最もこれを成功例と見るかどうかは疑問もあるが)。また、政治的枠組みだけではなく、経済的協力体制はいくつも存在するし、それは「国家の枠組みを超えた人・物の移動が協調体制を生むはずだ」というアイディアリズムの素朴な理念の基礎には合致するとも言える。
リアリズムはしばしば「パワーポリティクス」として批判されるわけだが、その意味では「国家」を主的要素として捉えていることは疑いようもない。一方で、その「国家」を主体的プレイヤーと見ることからしばしば非政府組織の役割増大などの現実を踏まえ「論理的欠陥を抱えている」と指摘されることもあるが、1970年代以降このような欠陥に対して、それらの非国家組織をも射程に納めようとする新たな思想的発展を模索し続けているのもまたリアリズムの現状である。
また、この「パワーポリティクス」という用語の持つ「パワー=軍事力」という意味合いのみを過度に誇張し,リアリズムは軍拡と戦争を招来する、と捉える考え方は短絡的である。
有名な「安全保障のジレンマ」(ジョン・ハーツ他)に見られるように、必ずしも「軍備拡張」を志向するわけではなく、リアリズムは十分にその内包する危険性を意識しているのであり、そこから派生的にディフェンシブ・リアリズムという考えが生まれるのである(同時に恐怖の均衡といったオフェンシブ・リアリズムに近い考えもあるが)。

この二つの理論であるが、これを単純に二項対立と捉えるのは根本的に誤っている、と言うことはできるだろう。
もちろん歴史的にはこの二つの考えはしばしば対立し、時に相互に激しい攻撃を加えていたわけではあるが、同時に現在の国際社会・国家群を分析・説明する際、いずれか一つの考え方では容易に説明できないどころか、ほぼ不可能とさえ言えるほどである。
ジョン・ハーツが「リアリスト・リベラリズム(リベラリズムはアイディアリズムを内包する、と考えて差し支えない)」という境地に達したことや、1970年代~80年代のイギリス・アメリカの対外政策が、概ね前者はアイディアリズムをベースとして、後者はリアリズムをベースとして分析されることで一定の成果を収めたことなどを見ても、択一的論理でないことは明らかとも言えよう。
同時に、国際連盟・国際連合が時に無力で機能しないのは、逆に言えば国際法を「強制的」に主権国家へと適用するだけの「パワー」を欠くからでもあり、この現状は極めてリアリズム的でさえある。「パワー」が主権国家の「内向き」にも発揮され得るからこそ、その国家の法治が実現するのであり、「国際法」がその強制力を持たないが故にしばしば主権国家の独善により無視され、また都合よく利用される現実もまたそこが一つの大きな要因でもある。
そして、これは裏を返せば一定の成果を挙げているPKO、PKFといった行動が、その「パワー」故に成果を挙げ得たことも例証とすることができよう。
これが意味するところはどういうことか。
一つには、アイディアリズムはその理想を現実へと適用し始めた瞬間、それは現実を基点とするリアリズム的分析を不可避的に受け容れざるを得ず、またリアリズムはその政策を実行へと移すにあたって、ある意味での「現実ではなく漸進的に目指すべき理想」を追求せざるを得ない、と言う点にある。
二つには、アイディアリズムにおいて「戦争なき平和」という概念そのものが、現実に適用した瞬間に「現状固定主義」へと陥りやすい点も挙げることができよう。国際連盟の協調体制が極めて「現状固定主義」的考えであり、その体制下での軍縮条約(というある意味での戦争なき平和への追求)が、その現状固定的であるが故に「持たざる国」の暴発を招いた、という点において、やはりリアリズム的視点の導入は不可避であるようにも思える。「戦争がない」という状況を目指すが故に「現状固定」に成らざるを得なかったことに対して、リアリズムは容易に反駁し得るように思える点は、まさにこの点であるとも言える。
三つには、他ならない協調体制、対談による平和が、ナチスの台頭に対して「小国を大国の犠牲として」成し遂げることを目指し、挙句に破綻したことや、アイディアリズムの基本となる「人、物の交流」や「経済的結びつき」が戦争を回避するという考え方では、大日本帝国の戦争は到底説明できない点も挙げることができるだろう。逆に、裏を返せば、その際に連合国と呼ばれる存在がアイディアリズムを全く考慮せず、多分にリアリズム的覇権体制のみを目指したならば、到底国際連合の成立は見ることができず、またその後の冷戦体制が結果としてリアリズム的要素における平和(と同時にアイディアリズム的第三世界の台頭)を見ることもできなかったであろう。
四つには、ロシアや中国に見られるようなセキュリティマインディットな膨張主義は極めてリアリズム的ではあるのだが、同時にそれを抑止し得るのが「国際世論」といったアイディアリズム的要素を含んでいる(全てとは言えない)点なども挙げることができるだろうし、英仏の中東への介入がアメリカの反対があったとは言え、結果として「国際世論」に屈する形で挫折したことなども挙げられるだろう。同時にこれはイスラエルのように、自国のセキュリティに対して国際世論といったものをある程度「無視」するだけの行動を取る国家に対して、アイディアリズム的国際世論はそれに「パワー」がない限り無力であるといったものも考慮する必要があるだろう。

そもそも現代社会、国際社会において、「どちらかを選択するなら」といった前提がそもそもユートピアニズムであり、アイディアリズムもリアリズムもどちらも不可欠な分析・考察・政策立案のための要素でもある。
その意味において、リアリズム、アイディアリズムのいずれの立場であれ、それは程度の問題であり、「どちらか」という選択を迫るものほど「非現実的」「非論理的」であるという意味においては極めてユートピアニズムと言わざるを得ないだろう。

蛇足ではあるが、このとき日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というアイディアリズムを担保するのが、その公正と信義を担保するためのリアリズムを必要とする、という歴史を思わざるを得ない。日本が戦後戦争に巻き込まれず(朝鮮戦争やベトナム戦争といった間接的関与は別として)、曲がりなりにも「平和国家」を名乗れるのは、他ならないリアリズム的側面がそれを担保し得てこそであった、という現実は、まさに厳然と歴史に刻まれているのである。
それはGDP費で先進国中稀に見る「低軍事費」という「安全保障のジレンマの回避」を元とした周辺国の警戒感の回避と同時に、日米安保というリアリズム的均衡を実現していて「初めて」成り立っていたものであり、決して「憲法九条」というアイディアリズムだけで実現されたものではない。そして同時に、前文や九条というアイディアリズムがあったからこそ、リアリズム的側面があるベトナム戦争や朝鮮戦争に「直接的に参加せずに済ませることができた」という僥倖をも得たのである。
そして、竹島や尖閣諸島における、保守派と称される(自分は認めないが)政治家や団体の、安易に「安全保障のジレンマ」を無視してしまう言説や政策を危惧すると同時に、リアリズムを敵視し軽視するが故に韓国や中国のリアリズム(国権拡張)をも容認してしまうアイディアリスト(とはこれも認めたくないが)のあまりに安直な言動をも危惧するのである。
そして同時にこれはリアリズムとアイディアリズムをうまく包摂することができなかった大日本帝国の過ちや、アイディアリズム的要素を踏まえつつ時にリアリズム的でもあるポストコロニアリズムを否定するものでもないことは明言し、本稿を終えることとする。

整理とまとめ

まず亜門さん(id:D_Amon)とのいろいろなやりとりの中で、お互いに諒解しているだろうコンセンサスの部分。
1:イスラエル軍のガザに対する攻撃において白燐弾が使用されたこと。
2:同兵器には燃焼性(焼夷性)が存在すること。
3:同軍が同兵器を民間人が居住する市街地に打ち込んだこと。
4:3の行為が国際法に基づき違法である可能性が高い、もしくは違法であること。
5:イスラエル軍の起こした戦争被害については周知されるべきこと。

次に、コンセンサスは取れていないかもしれないものの、恐らくは最終的に一致していると考えているもの。
1:白燐弾の現行法での規制は十分ではないこと。
2:同兵器に対してなんらかの新しい規制が設けられるべきこと。
3:過去においても同兵器の使用は、適法とする形での「名分」を喧伝しつつ、実態がそうではなかった例はいくらでもあること(米軍等)。
4:白燐弾そのものは過去から焼夷兵器としても使われてきたこと。
5:イスラエル軍の過去の行動を踏まえ、今回においてもその使用方法に「問題がなかった」とする同軍の見解に対しては疑問の余地なく「問題があることを認識していただろう」と考えていること。

恐らくは諒解してもらっているだろうが、相違がありそうなもの。
1:自分がイスラエル軍のガザへの攻撃に対して、白燐弾の使用有無を問わず、そもそも民間市街地への攻撃という点で重大な問題(違法行為を含む)が存在すると考えていること。
2:亜門さんとのやりとりの中では特段必要がなかったため触れていないが、自分は1の点において、同様の理由によってパレスチナ側からの攻撃(市街地へのロケット撃ちこみ等)については否定的であること。
※繰り返しますがこれによってイスラエル軍の行為が何ら相殺されるわけではありません。

自分の側に瑕疵があったと判断できるもの。
1:自分の疑問の根拠もしくはその要因となっている記事(本件においてはガーディアン紙)の期日記載および翻訳の問題。
※自分が機械翻訳に多くの部分を頼っているのは事実で、その点でid:hokke-ookamiさんの御指摘は至極ごもっともで、逆にその指摘を頂いて腑に落ちた部分が多いことは感謝します。ただし、報道資料とドキュメンタリーの比較は、それをすることは逆に亜門さんに失礼なのではないか、とも。報道において再現やイメージ映像等を使用する場合、それは明らかにそれと分かる形か、そうでなければ「再現」「イメージ」であることを併記・注記して行うものであり、今回の亜門さんの当該記事における写真・映像はそのような「イメージ」という意図ではなく、「犯罪告発」の証拠的扱い(兵器そのものの被害の実態)での意図であるはずです。
2:国際法の改正を目指すべき、という主張の提示の仕方において、「現状における告発」を揶揄する意図があるかのように受け取られたという表現上の問題。
※これについては亜門さんとのツイッター上とのやりとりの中で、「そういう意図ではない」という点は諒解頂いていると考えています。

この瑕疵の1の点において、亜門さんには随分と時間と手間をかけて頂いた点について、ここにお詫び致します。また、法華狼さんには亜門さんと自分との中で、問題の記事の理解に対して自分のどこに問題があったのか、という点(時系列と翻訳の問題)を明確にして頂いた点は大いに感謝するものであります。改めて。

その上で、瑕疵の1が生じた理由として以下のように整理をしたいと思う。
まず、当該記事は自分のブックマーク(はてなブックマーク、ではなくブラウザの方)に残っていたもので、本件を機に改めて引っ張り出してきたものであること(その時点で期日等ちゃんと確認しろよ、というご指摘は甘んじて受けましょう)。
※ちなみに法華狼さんのコメント欄にあったようにwikipediaを参照したわけではないつもりですが、まぁ結果としてそう見えたのなら仕方のない点はあるとは思います、とだけ。ただ自分も当初からあの記事を「白燐弾被害の否定記事」として読んだわけではない点はここに書いておいてもよいかな、とは思いますが。というのと、22日の記事だけではなく16日の記事も合わせてブックマークしておりました。まぁ引っ張り出したのは漠然と記憶に残っていた方の22日の記事だけ、というのはありますが。
次に、当該記事に対しては法華狼さんの言うように死因(これはイラク時のもの)をはっきりと断定はできない、とした上で、証言を基に兵器としての運用(もしくは兵器そのもの)の問題点を提起している内容、という理解であり、冒頭部分に限らず、全文の翻訳上の問題があったとしても、この点は大きくはずれていないだろう、とは考えています。
その意味で証言の重要性、という点において法華狼さんの言うことはごもっともな点があり、証言そのものは当事者の知見に拠るものであり、またその社会上の様々な要因があって過小な証言であったり、また過大な証言であったり、という点は否めないものであるとも考えます。特に戦争のように「生き残ること」が主課題となる場における当事者、特に被害者の場合、客観的正確性など求めるのは酷でもあります。だからこそ、戦争報道の重要性、または過去の戦争における史家の地道な検証作業というのは非常に大きな意味を持っているはずです(その一例が南京事件を巡る虐殺有無の問題でしょう)。
その上で、亜門さんが指摘するように、ガザでの報道において、ある種の制約があり、必ずしも十分な報道活動が成されたわけではない、という点は重要に思えます。
亜門さんが提示した写真・動画が戦争被害であることは疑問を差し挟まないものとして(そもそもあれが戦争行為と関係さえなく生じたものを転用した、徹底したプロパガンダ=捏造である、とはさすがに考えにくく、そこを否定する必要性もないと考えます)、亜門さんが戦争被害全体を告発するものとしてそれを提示していたならば、自分も別段疑問も抱くことなく、それとして受け止めたと思います(この点で、法華狼さんが言うように、それが白燐弾に起因するものであるかどうかに関わらず、戦争被害者の証言はそれとして聞くべき、というのは真理であると思います)。
今回自分の引っかかった疑問(最初はもっと漠然と、疑問未満だったかもしれませんが)について、当該記事を改めて引っ張り出した段階で「誤った方向」でその判断を傾斜させたことは否めませんし、そこについて亜門さんがいろいろと骨を折ってくれたことは重ね重ね感謝します。結果としては、引っ張り出したことそのものが誤りだった、と言えますね。
その上で、兵器の告発として成され、戦争犯罪としての裁きを求めるのであれば、少なくともその提示物にある程度の証拠能力は必要だろう、とも考えていますし、それは今も変わっていません。これを選択的懐疑主義と言うならそう言って頂いても結構です。
自分の瑕疵はそれとして誤りを認めた上で(そもそも引っ張り出してきたものの内容理解が誤っていたわけですから、そこから正しい認識などが出ようはずもないのですが)、最終的に残った点(当該写真が白燐弾の直接被害なのかどうか)については亜門さんから「消去法による推定」の旨、を回答頂きましたので、そういうものとして受け取ることとします。また、追加でアムネスティやHRWの「白燐弾被害のもの」とされる写真等を提示頂きましたが、それについては検証されているように思えますし(少なくとも砲弾の残骸を検証するなど、断定できるだけの証拠を揃えているように思えます)、撮影日等記録写真として必要なキャプションはついていますし、それを否定する必要もないと考えます。付け加えると、民間団体やNGOがどこまでの立証責任を負うべきか、という点についてはケースバイケースとしか言いようがないと思いますが(それこそ裁判にでもなれば立証責任無し、ともできないでしょうし)、推定であれば推定、断定であれば断定で、断定なら断定なりの証拠固めをしているように見えます。
単純な話として、亜門さんが最初のエントリで提示していた写真について、その種の検証を経たものであれば、そうキャプションに入れて頂きたかったし(URLリンクでも構わないのですが)、そうでないならHRWのように疑惑は疑惑として、そうわかる形での記載(これはDIMEの使用についての記事で写真ではないですが、“確かな証拠は得られなかったが、類似した被害の症状を示している”等のニュアンスとして断定は避けるが推定であることが分かる表現)をして頂ければよかったのに、とも思いますが、今さら自分がこう言っても言い訳のように聞こえるだけでしょうから、それ以上は言いません。自分自身が記事の検証を怠った点がありますので(少なくとも亜門さんから指摘頂いている「嘘」というのはこの検証作業の不備で事実認識を誤っていた点であり、それをすっ飛ばして判断を加えたことに対して、だと理解していますが)、当然そこも自分の瑕疵に加えるべきかと思います。ただ、そこをそれとして指摘頂くのであれば、最初の記事でそうしておいて頂ければな、と。とはいえ、自分以外は誰も引っかかるものが無かったようなので、それは必要のないことかもしれませんね。

少なくとも自分が無謬でもなければ全てにおいて慎重なわけでもなく、ましてや完璧な人間とは程遠いことは十分理解しているつもりではいますので、幾人かから頂いた指摘については、また同じ過ちをする可能性はありますが、指摘頂いたことの少しでも生かしていければな、とは思いますし、「何で俺が悪いんだよ」みたいな開き直り方をするつもりもありません。また、一連のやり取りおよび法華狼さんのようにわざわざ横から補助線を引いて頂いた点については、関係各位大いに時間と手間と、時に気分を害するようなことがあったとは思いますが、感謝致します。少なくとも自分にとっては実りあるものだったと考えていますし、それを以後に少しでも生かせれば、とも思います。まぁ勝手な言い草であることは承知しているつもりです。

ここからは亜門さんや法華狼さんではなく、他の方への回答ではありますが、非対称な懐疑が良くない、とのことなので、ほぼ留保なくイスラエル軍が違法を承知で(もしくは違法の可能性を十分に認識した上で)ガザに対しての攻撃を行っている、と考えている自分の判断についても「そうではないかもしれない」という懐疑を持つことに致します。
それと、「本音の本音はイスラエルもパレスチナもどうでもいいんだろ?」的指摘については、まぁそう忖度して頂くのは勝手ですが、「本音の本音は」とか言い出したら何でも言えますよね、とだけ。それこそその点は証明不能でしょ。自分が「こうなんだ」と言ったところで「本音の本音は」とか「本当は違うんだろ」とか言い出したら、あらゆる人のあらゆる言説は否定可能でしょうし、まぁそれはそれで気持ちいいんでしょうけど、勝手にしてれば、とだけ。それ被害者の証言に対して「本当は賠償の金が欲しいだけだろ」と言ってのける連中とあんまり変わらないことをしているように思えますけどね、自分には。まぁあくまで自分の「印象」なので、「本音の本音」は違うのかもしれませんけど。以上、最後の段落は皮肉に加えて自分も陥りがちなので自省を兼ねて、ですので悪しからず。

P.S.各IDは「はてな」のものです。直接コールは飛びませんが、第3者の識別用として記載しました。