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原理主義になれない原理主義的何か

脱原発運動の当初において、比較的大きな声は「怖い」という根源的心理的ものであったように思う。経済性に対する欺瞞や安全管理に対するあまりの杜撰さに対する批判もあったが、やはりその根本は「恐怖」ではなかったろうか。いわゆる「危険性」への問い、という声と言える。
オスプレイを巡る一連のそれも、また「危険性」への問い、ということはできるように思う。その当初段階においては、であるが。試験飛行段階から実戦運用段階へと昇華する過程で格段に安全性が向上したとも言われるが(そうでなければなかなか大量配備には至らない性質のものでもある)。
その意味で、両者とも根本としては同じ根っこを持っているように思えないでもない。が、しかし、と思うこともある。このどちらもが、付随する様々な問題(原発では廃棄物や耐用年数超原子炉の廃炉、オスプレイでは米軍基地の存在そのもの)を巻き込み、当初叫ばれた「危険性」というものはいささか雲散霧消気味であるようにも思える。特に後者においては「安全性は関係ない」とまで言い切る反対運動となり、前者においても「安全性」という問題はある種置き去りで、どちらかといえば「何があろうと存在を許さない」といった趣がある。
この当初段階の「危ないから」という性質のものは心理的には非常に理解できるものではあるが、一方で今となっては「危ないかどうかは関係ない」となってしまうと、果たしてそれは理解され得るものだろうか、という点は疑問もある。「最初に声高に叫んでいたのは何だったのか」という問題が自然と生起されてしまうからだ。もちろん様々な複合問題が持ち上がるにつれて、主問題が別に移る、ということはあるだろうが、さりとてそうであったからといって当初の問題が、本来は「消えてなくなる」はずはない、のが本来の問題であろうとは思う。
「危険だから」という問いがいつしか「危険かどうかは関係なく」に変容していく過程で、少なくない人が「その問いは正しかったのか」という点に疑念を抱く可能性は決して少なくないだろうと思う。そして、その結果として、半ば「原理主義」と揶揄されたり、または「為にする批判」と嘲笑されることさえあるのも、また理解できない話ではない。心理的受容のされ方として、の問題ではあるが、当初の問いかけが多分に心理的性質のものであったればこそ、尚の事。
どちらも「事故」の問題、とすれば確率論に類するものとは言えそうな気がするが、そうであれば、単純に事故発生率とその際の被害予測を以って、それが確率的事故発生率に見合うものかどうか、それは日常的に導入するに足るだけのリスクに留まるのか、という点はもっと問われても良いように思うが、残念ながらあまりそういった方面での話は主とは成り得ないようだ。
この2つの問題では、原発では労働問題、オスプレイでは米兵犯罪問題などもリンクされた反対運動となりつつあるようにも思えるが、では果たして「それらの問題がある程度の解決を見た場合には反対しなくなるのか」という点については甚だ疑問でもある。至極単純な理由として、当初掲げられた命題(もしくは問いかけ)が周縁へと追いやられつつある現状を見れば、どちらかといえば反対もしくはその存在を許容しない人々にとっては、それは一種の「カルタゴ」のような存在なのではないか、と思える節があるからだ。
「Ceterum autem censeo, Carthaginem esse delendam」とは大カトーの言として有名な政治表現であるが、この言が何故これほどまでに有名になったかと言えば、ローマとカルタゴの覇権を巡る抗争・確執はもちろんだが、一番はこの言葉がまったく無関係な言論の締めくくりにさえ、定型句のように用いられた、というエピソード故だろう(このエピソードが事実かどうか、は関係ない)。
この表現において、ローマは反カルタゴ原理主義、と言えるようにも思えるが、今現状において揶揄されている脱原発または反オスプレイといったものは、これほどには原理主義でもなければ、徹底してもいないとは思う。そして、それ故にこそ限定的理由を次々と持ち出しては、その理由が古されるか、または一定の反駁を受けてしまうと、別の理由へと挿げ替えてしまう状況になっているのではないか、とも思う。もっとも問いかける側、反駁する側ともに「それはどうなのか」と思うようなものも多々あるので、これは単純に「どちらが良い悪い」ということではなく、そういうことを見せてしまうことで、結果として従来そこに関心を持たなかった(もしくは消極的にしても容認していた)層を取り込むことができなくなっているのではないか、と思わないわけでもない。
冷戦期における「反米・反資本主義」が「先進」であり「インテリ」であり「現状追認主義にならない」ための一つの機軸であった状況においては、「”アメリカの”核反対」や「”大資本家”の資本反対」という点での明快なイデオローグがある種の原理主義的分かりやすさを示していたし、明示的にしろ否にしろ、それを見ている側としては「敵をそこにおいているのだ」という点で、参画するにしろ敬遠するにしろ、分かりやすさ、というものを備えていたようには思う(内実は別として)。一方で、それが現実の前に有効な解としては決して支持されてこなかったのが、日本の現実が辿ってきた道ではある。
脱原発、反オスプレイにはその種の分かりやすい原理主義的イデオローグは存在しないのではないか、というように感じる。もちろん明快であることが良いことである、とは言い切れないのだが、あまりにブレている言動が多いのではないか、と(もちろんそうではない人がいることは知っている)。
脱原発が「人権」「人類」としての原発の拒絶であるならば、当然「国外のそれ」に対しても反対が成されるべきだし、少なくとも大きくコミットしないにしても、そう表明されるべきではあるように思う。同時にオスプレイが「安全」「安心」への脅威であるならば、同時に活発化する中国の海洋覇権主義に対しても否である旨を言明する必要はあるのではないか。もちろんそれを求めることを誰も強要はできまいし、またすべきではないだろう。しかし、一方で、そこが不鮮明であるが故に(もしくは故意に欠落させているが故に)、「かつて支持されてこなかったイデオローグ」と「同種」の、昔ながらの「政府への反対」「反米闘争」が「是」であり「正義」である、といった隘路に陥っているのではないか。もちろん自分の観測範囲が狭いことにより、より広汎であろうと思われるそれらの運動・言説の少なくない部分が抜け落ちている、ということはあろうが。
政府への不信や、都市部・周辺部の構造的問題、もっと言えば民主主義的マジョリティの判断・意識に対しての問題提起もあろうが、それにしても、と思う言説は少なくないように思える。戦略的・戦術的に支持を広げよう、とする動きが見えて来ないか、そもそも期待していないのではないか、とさえ感じる時が少なくない。果たして、それで当事者達の目的は達せられるのであろうか。