カテゴリー別アーカイブ: Uncategorized

@tgknami へのお返事。

さて、前回のPOSTに以下のお返事を頂きましたので、お返事しましょうか。

磯野  健 | 07/30/2014 6:27 am |
私はあくまでも区別主義者,自らの本名を名乗れない者は全く信用しない。子沢山の母親を尊敬するのも事実,スターリン主義者よりはマシだと考えているのも事実,動乱の際,在日朝鮮・韓国人が私に救助を求めると間違いなく私は救助への行動をするのも事実(それが日本人の証拠だと考えるから),愛する国土と,愛する家族の為に58歳になった今でも身命を賭して戦う気概があるのも事実,差別と言われようが,現実には彼らチョンを受け入れようとしているのも事実(この点は矛盾があるが),在日民団構成員を信用していないとの事を韓国企業日本支社の韓国人から仕事の中において聞いたのも事実,日本に於いて料理店経営の韓国人から,「在日朝鮮・韓国人をこれまで三人雇ったが,全て店の売上金を持ち逃げされた」と聞いたことも事実(本来同胞であるべき韓国人から信用を失った在日朝鮮・韓国人とは何だろうかと疑問を有する切っ掛けになったのも事実,私の父親が関東大震災後の復興する東京市に故郷宮古島から出稼ぎに来た際,本土の人達から差別されたと言う話を聞いた事も事実,その差別に関して救助してくれたのが鹿児島出身の警察官だと聞いたのも事実,琉球王朝に侵略した薩摩藩であるが,初代沖縄開発庁長官の山中貞則様(故人)を今でも尊敬しているのも事実,そして明治維新が達成されたのは,潜在的に薩摩藩が琉球王国から搾取した財源が多大な貢献したと固く信じているのも事実です。
まあ~!支離滅裂な文章だとは思いますが,仕事に行く前なのでご勘弁の程宜しくお願いします。ヒマの際に充分な反論・回答を行います。
私の行動の指針は「非暴力」が大原則です。
真実の気持ちは,(日本は日本人のものです。それが何か?)と言うだけですが,日本国の自然・文化・歴史・日本人そのものを愛する外国人を排除する気持ちは毛頭ありません。
以上です。

 
 
 まず「私はあくまでも区別主義者,自らの本名を名乗れない者は全く信用しない。」とのことですが、まぁ本名「だろう」有田氏のことは信用されているんですかね。そもそもそこへのリプライが発端だった気がしますが。まぁそれは良しとしましょう、どちらでも。仮にその「磯野健」というお名前が本名であると仮定した場合ですが、その場合アカウントはこちらですかね。

 「磯野 健 @tgkken1」←こちらが本名のアカウント。で「TGKNAMI @tgknami」は今回リプライ頂いた際のアカウント。ちなみにBlogのIDは後者のIDと同一で、プロフィールのニックネームは「ニックネーム sabumarin」と。で、この仮定が正しい場合、本名のアカウントはRTばかりで、罵倒を浴びせるのは別アカウントで、書き散らしているのもそちらのアカウントと同一のIDを持ち、ニックネームはさらに別、と。本名がどれだけ信用に足るのか解りませんが、「全く信用しない」どころか、貴方他にもいろいろなアカウント持っていたりするかもしれませんね。探す気にもなりませんが。それにしても本名アカウントでないアカウントでそういうことやるのは信用のおける行為なんですかね。本名に相当こだわりあるようですが。
 
 
 「子沢山の母親を尊敬するのも事実」とか書いてますが、別に尊敬するのは勝手ですよ。私が指摘しているのは「この子達は貴女の子供ですか?」と言う質問がそもそも見ず知らずの相手の家庭事情も分からない相手に問いかけるべき質問ではない、ということですよ。「今時二人以上の子供さんを育てる貴女は偉いと思います」偉いと思うのは勝手ですよ。その親子に何か問題があるかもしれず、ないかもしれず、そんなことのたった一欠片の想像もできない想像力の貧困さに驚きますが、まぁ言動見れば今更驚く必要もありませんね。
 
 「日本に於いて料理店経営の韓国人から,「在日朝鮮・韓国人をこれまで三人雇ったが,全て店の売上金を持ち逃げされた」と聞いたことも事実(本来同胞であるべき韓国人から信用を失った在日朝鮮・韓国人とは何だろうかと疑問を有する切っ掛けになったのも事実」えぇ、ではその可哀想な経営者に同情しましょう。で、十把一絡げに「在日朝鮮・韓国人」として罵倒してやまないその差別を「区別」とは言いませんね。で、経営者なり店主が金を持ち逃げされるだなんてことは「日本人が日本人を雇っても」存在するし、元警察ならその種の判例はいくらでも見たことあるでしょう。「本来同胞であるべき日本人から信用を失った日本人とは何」なんでしょうかね。
 そもそも貴方の個人的な伝聞を「全体」に敷衍してやっているそれを「差別」と言うのです。なお、暴力団中の初犯収監者比率については何の回答も頂けておりませんが、「嘘八百」でなければ統計なりなんなりを提示頂けませんかね。「日本国の自然・文化・歴史・日本人そのものを愛する外国人を排除する気持ちは毛頭ありません。」とのことですが、在日朝鮮・韓国人の全てが日本国の自然・文化・歴史を憎悪しかしていないと判断できる「根拠」は何処にあるのですか?貴方は明らかにその属性集団全体に「殺戮される前に祖国に帰れ」だのなんだの、言いたい放題言ってるようにしか見えませんけど。どこの何を区別しているんです?
 で、挙句にこれですか。

元警察なんですからこれが意味することをよくご存じかと思いますが、最低な品性ですね。「私の行動の指針は「非暴力」が大原則です。」とか良く書きますね、この口で。
 

 で、「国家と人種・民族」の区別は「つかない」という理解で良いですかね。

 それともわかって「区別」という名の差別をぶん回しているんですかね。なお、余談ですが、2012年の尖閣諸島領有決議を行った台湾議会でそれに賛成したのは国民党も民進党も、なんですけどね。蔡英文とか普通に「漁業権問題」としてしか扱っていませんが。ああ「外省人の末裔」とかそういう「区別」ですか。台湾はこの問題で「中国と共闘しない」だけであって、普通に領有権・主権は主張していますけどね。最も台湾を本邦は「国家」として承認しておりませんので「親日国家台湾」とか非常に失礼ですね。まぁ自分も「北朝鮮」という言葉は用いますので「中華民国」としない点は不問にしておきましょう、お互い様ですから。で、そんな親日国家「台湾(=中華民国)」と国交断交したのは何処の国でしたっけ?確か1972年の日中共同声明の際に何処かの国が断交しましたね。もっと余談ですが台湾も中国も行ったことありますけど、それがどうかしました?
 
 まぁ仮に「磯野健」が本名だとして、「磯野 健 @tgkken1」このアカウントRTばかりですね。まぁフォローフォロワー30人程度のプロフィールもロクに記載のないアカウントなので、つい「TGKNAMI @tgknami」とか匿名のツイートもRTしちゃうんですね。あぁ、ご自身の匿名別垢でしたか。これとか。

 
 もしかして実名アカウントはご迷惑でしたかね。ご自身で名乗っておりましたし、37人フォローの一番最初に「TGKNAMI @tgknami」とか出てきますし、全く同一人物としか思えませんが。「本名も名乗れない」どころか本名とは別の匿名アカウント作って罵詈雑言吐いている貴方の方がよほど卑怯者だと思いますし、そのRTしかしない本名アカウント(仮)にどの程度信用がおけるんですかね。匿名アカウントの方で罵詈雑言差別侮蔑を吐きまくっているというのに。
 「ヒマの際に充分な反論・回答を行います。」とのことですが、そのような卑怯者が次にどのアカウントから支離滅裂な論にもならない戯言をご回答頂けるのか、期待もせず待つことに致します。

広告

@tgknami への公開詰問状

 ブログを読んで判断しろとか言うからわざわざサーチして読んでやったのにこのリプライはあるまいよ。まぁ言論の自由を最大限に行使されるようなので、こちらも最大限に行使させて頂くとする。
 
 サーチしたプロフはこちら。以下引用。

自己紹介

 琉球系日本人です。東京都に27年以上住んでいます。生まれた沖縄県よりも東京が大好きな人間です。東京の水が合っているようです。
 愛する日本国と天皇陛下,並びに皇族の皆様に崇高な念を抱く者です。(靖国神社に対しては戦死では無い,こじ付け処刑された戦犯諸氏が祀られている事に疑問を呈しておりますところから,現在は保留中です。)
 売国奴的な日本人,嫌日でありながら生活の為のみに中国・韓国・その他の外国から帰化した日本人,在日系の政党構成員,朝鮮総連・民団の構成員の抗議は受けません。(健全な反論と理論闘争はお相手します。)
追加として,創価学会組織・構成員,並びにその支持政党である公明党に関しても拒絶します。
 しかし,統治権力者の独裁と権力乱用を防止するために,日本共産党の活動を多少共に支持したいと思います。(日共のブレない主張と活動は,他の政党がパクル事は絶対に不可能だからです。矛盾するようですが,日共に対して,国政・地方を問わず投票行動は確実にしております。)

 好きな本は「中国・南朝鮮・在日朝鮮・韓国人,元在日の悪口に関する本は全て」で好きなブログは「中国・韓国,在日の悪口に関するもの全て」で、ツイッターのプロフィールは「琉球系日本人であり,神社神道,皇道主義者です。嫌韓・嫌中,反日外国人を牽制,在日朝鮮・韓国人の通名禁止ですが,愛日外国人・帰化人大歓迎です。差別主義者ではなく,区別主義者,嫌創価学会です。」だそうで。
 差別区別以前にただ「悪口」好きなだけじゃん。まぁ「健全な反論と理論闘争」とやらは主観判断なんでしょうけど、その判断が正しいと良いですね(呆)。元警察でタクシードライバーの58歳だそうで、いろいろとご苦労もされたのでありましょう。ブログに書いていることが「シナ人・チョン人,国防,警察・検察その他不正公務員等について」とのことなので、さぞ警察に対してもご自身の知見でその不正や不公平が焼き付いているのかと存じます。
 「警察は民主的か?」「警察の矛盾」「現場警察官の弱点」警察に対する並々ならぬ不信感をお察しします。ところで「警察官僚の天下り先」にてパチンコ業界とタクシー業界がやり玉に挙げられていますね。「愛国日本人ならパチンコを排斥しようぜ!」にて

私はほぼ20年以上前に依存症的なパチンコをきっぱりと辞められました。

辞められた理由としては,パチンコ産業がほぼ密入国者である在日朝鮮・韓国人の経営者であるという事実を知ったからです。

何を好んで〇〇チョンの利益となるパチンコをする必要があるのか等と自問自答して中毒していたパチンコを葛藤の戦いの上で何とか辞める事が可能となったのです。

とおっしゃっておりますが、依存してしまったパチンコをその感情で止められたのであれば、恐らく警察天下りで警察の不正に憤懣この上ないタクシー業界におられるのは甚だ疑問ではありますが、そんな「不正ばかりで信じられない警察」が「前科・前歴」を付けまくったとして、なんでこれだけは信じられるんでしょうね。まぁ中に居た時にどの程度の立場かはわかりませんが、現場も上層部へも不信しか見せないのに素朴な信頼を置いているんだなぁ、と人類の神秘を感じる次第です。
 
 「日本の治安をより良くする方策」にて

日本には重要な問題があります。それは在日朝鮮・韓国人の犯罪が極めて多いと言う事です。
 
このブログを読んでくれる諸兄は存じているとは思いますが,国内暴力団組織,右翼団体組織の構成員の40~60%は在日朝鮮・韓国人の国籍を有している現実です。

彼らも在日朝鮮・韓国人国籍を何とか返上したいのは山々ですが,未成年時代も含めてチンピラ・ヤクザ準構成員までの間に多数の犯罪歴を積み重ねたが為に帰化申請をしようにもデーターが存在する法務省の審査にハネられてしまうのです。

とお書きですが、ブログのどこにも根拠らしいものが見当たらないので、折角ですから政府統計でも見てみましょうか。よく引用される08年の矯正統計にしましょう。「49 新受刑者中暴力団加入者の国籍」では韓国・朝鮮籍は63名だそうで、確かに中国籍5名の12倍とはるかに多いですね。日本籍の3,191名の50分の1ですけどね。さて、4~6割が当該国籍だとして、この比率が出てくるということは、「極めて無能極まる警察故に収監もできない」のか、それとも「不正極まる警察故に収監せず逃がしまくっている」のか、「絶大なる不正によって統計が歪められている」のか、それとも「貴方がお書きの数字が出任せの嘘八百」なのか、さてどれが正解なのでしょうか。このブログを読んでくれている諸兄は判断が付くかと思いますが。
 
 「もしも?私が在日朝鮮人だったら?」にて以下のようにお書きですね。

26年前は,沖縄県人と言うと結構人種差別的な言動をする大和人がいたのも事実ですが,私は別段気にしませんでした。

貴方が気になさらないのは勝手ですが、現在でもそういう言動をする「大和人」は存在しますね。

正直言って本土の方たちの怠け者人間よりは,私の方が仕事を頑張ったので,後は大和人の方が沈黙する方が普通でした。(逆に気分が良いものでした。)

まぁ気分良いってルサンチマンの裏返しじゃなければ何よりです。

私は自分の事をいずれの場においても,「琉球系日本人」,だと明確に主張できます。苗字もそれらしいものです。通名はありません。(戦前から戦後しばらくは,沖縄県民にも差別を避ける意味から苗字を替える方もいたようです。」

在日朝鮮・韓国人で実名を使用している者は,大学の教授,弁護士,作家,有名企業家等しかいません。

要は,日本国内において資産を形成した者,いわゆる成功者のみが表明しているだけを考えると,通名使用者は「負け犬」,との認定を自ら行っている事を表明しているものだと思います。

在日系国・地方議員,似非日本人化している右翼構成員,(右翼構成員と言っても実のところ,暴力団員ですので前科前歴多数の為,日本国籍取得は拒否されますけど),も同様です。

とりあえずさりげなく最後の行は「系」と付けることで帰化者を含んでいるような書き方ですが、どれだけ断定するんですかね。「日本学校における在日同胞の民族教育」と題された寄稿に拠れば、日本学校に登校する在日韓国・半島籍の1~2割の児童は本名(通名、ではない)だそうです。もっとも統計資料ではないのであくまで自主調査レベルのものでしょうが、少なくとも児童は「大学の教授,弁護士,作家,有名企業家」に含まれないですね。

 〝新井さん、金本君・・・〟
 普段の学校生活の中で、当たり前のように通名が使われるのが大半の日本学校の現状である。それでも、同胞が多数居住し「民族学級」がある大阪のような地域では、本名で通学する子どもが1割から2割いる。(ただ、本名使用率は学校ごとで差がある。)
 日本学校に通う同胞子女の問題を考える時、この通名使用の問題は子ども自身の意識の問題もあるが、主には保護者の考えによるところが大きい。
 「本名を名乗ると学校で’いじめ’にあうかもしれない」。
 これは、保護者自身が子どもの頃にいじめにあった経験と関係しているようだ。また、「日本で生きていくのだから、別にわざわざ本名でなくてもよい」といった考えの保護者も多い。
その一方で、民族学級の取り組みなどによって本名で学校に通っていた子どもが、成長にともなって就職や進学にあたり、本人や保護者の意向で通名に「もどす」といった例もある。これには、本名では受け入れてもらえない日本社会の現実や、保護者自身が通名で生活している、あるいはそのことを余儀なくさせられているという事情がある。
 本名なのか、通名なのかという問題は、日本学校に通う同胞子女の民族教育にとって、「入り口であり出口の問題」であるといえる。民族学級では、最初にこれまで知らなかった本名と子どもたちは出会い、自分と民族とのつながりを意識することから始まる。そして、本名で通学し、卒業後も朝鮮人としての自分に誇りを持って生きる、つまり子ども自身が本名で生きていくと選択することが、日本学校における民族教育の大きな目標である。このことは、最初から’本名しかない’民族学校の場合との違いの一つであろう。
 もう一つの現状として、日本籍の子どもの増大である。国際結婚や帰化などの理由で日本籍の同胞は年々増加している。”日本籍の自分には民族教育は必要ない”といった態度を見せる子どもや保護者がいる。中には、保護者が子どもに民族のルーツを持っていることを教えていないケースさえある。つまり、日本籍取得によって過去を消し去ろうとしているのである。

ということですので、単純に自身の体験を延伸して疑問に思われるのは勝手ですが、あまりに自身と同一視されない方が宜しいと思いますよ。少なくとも「わざわざ本名でなくてもよい」という保護者の意向は「日本社会に適応しよう」という判断であることは疑う余地はないでしょうし、同時に「いじめにあうかもしれない」というのは切実な懸念でもあります。そう、貴方のような「似非日本人」だのという人が絶えない結果「戦前から戦後しばらくは,沖縄県民にも差別を避ける意味から苗字を替える方もいた」という状況がまさにご自身が構成しているのだ、ということを自覚された方が宜しいかと思います。余計なお世話ですが。
 
 「日本人は気の毒だ!」のエントリーでは以下のようにお書きですね。

全ての在日朝鮮・韓国人が偉大な祖国に自主的に帰還する事を願って已みません。

日本人による虐殺を避けるためには帰還する以外の防止策はありませんので・・・!

差別だ!排他的だ!等と叫んでも復讐心の燃える日本人は聞く耳は持ちません。

これからの日本社会は嫌韓世論が露骨になるでしょう。

犯罪被害者専門の日本人による乾坤一擲の反撃が始まります。

逃げてください。通名を使用しないでください。

帰化しても差別されます。

必ず反撃されます。

以上です。

これは一般に「差別」と呼ばれる言動で「区別」でもなんでもありません。虐殺の扇動であり教唆です。もっとも、これを処罰する刑法が現状存在するかは怪しいところですが、少なくとも特定個人に向けて放たないことを願って止みません。元警察とのことなので十分ご存じで釈迦に説法かと思いますが、特定個人に向けた段階で刑法対象ですから(それくらいはご自身もご存じでしょう)。
 なお、以下のようなとうの昔に木端微塵に粉砕されているデマを堂々とリツイートしてしまうあたり、どうかとは思いますけど。

心から申し上げますが、如何に韓国・朝鮮政府の政策が愚劣であれ、また警察官僚が劣悪で不正に塗れていたとしても、このような恥ずかしいデマを真に受けてしまうのは「日本」なり「日本人」なりの名誉と尊厳を棄損するのでお止めになられた方が良いと思いますよ。
 なお、引用するに堪えない劣悪極まるエントリーとして「在日朝鮮・韓国人は日本への抗議方法の提案!」などもありますが、「韓国大統領のクネばあさんは処女か?」といった、低俗極まる産経ややまと新聞でも書かないような差別全開のエントリーはさっさと謝罪なりをした方が良いと思いますけど。前者は民族差別、後者は性差別も内包する破廉恥極まっているエントリーなので。

単刀直入に言えば彼女は男を知らないいわゆる 「処女」 のままではないかな?と思います。

加齢によるホルモン異常からの更年期障害が発生しているかも知れません。

認知症,アルツハイマー,狂牛病(クロイツフェルト・ヤコブ病)に陥っているかも知れません。

いずれにしてもトンネル工事が終了していない女性特有の症状を呈しています。

誰か!日本人の男性がクネおばさんのトンネル工事をして差し上げたらと思います。

私?私はダメです。使用不能ですから・・・ましてやあのクネおばさん相手では無理ですね(笑)

少なくとも相手に選ぶ権利があるので、貴方が懸念しようがしまいが、少なくとも貴方を選択することは、これは断言しても良いですが無いでしょうから、「私はダメ」とか言う必要ないですよ。人としての知性や尊厳が少なからずあるならこのような言語道断なエントリーは「恥」なりの概念があればさっさと謝罪文と併せて、後世に残しておくべきでしょうね。後学・後身のための反面教師程度にはなりましょう。
 
 お節介ついでに、以下のようなリツイートをするのもどうかと思いますけど。

リコール要件をご存じかどうか知りませんが、一言で言って「法知らないんですね」としか言い様がないので。
 
 「私の遊び心!

「この子達は貴女の子供ですか?」

母親が怪訝な表情をしながら

(そうですよ)

と返答した時,私は次の話をします。

「今時二人以上の子供さんを育てる貴女は偉いと思います」

と言いながら

「貴女と私は利害関係は無いのですが,ご苦労様との意味で子供さんに何かを買ってくださいね」

こんな不躾で失礼極まる言動・行為を見ず知らずの他人に押し付けて悦に浸る人の心性の卑しさを指摘するまでも無いことですが、冒頭の一行が如何に他者の家庭事情に土足で踏み入っているかどうかの判断もつかないような人が、プロフィールに「問題に対して冷静に対応すること」を長所として挙げていることに驚愕する次第ですが、「予知能力」の項目に「5~10分後の状況を予知できます。」とありますので、11分後以降の状況は予知どころか想像もできないのだろうな、と納得した次第であります。
 
 まぁ「反朝鮮民族主義者の目標」とかあからさまに特定民族を「差別」することを、国際社会では「区別」とは言いません。
天皇陛下の御意志を考えて見れば・・・!」から以下を引用しましょう。

過去,関東大震災時のデマ情報により,在日半島人が,被災者である日本人から「井戸に毒物を入れている」との流言飛語による虐殺を受けた事実は間違いない事実です。

私としては,現代東京に置き換えて考えて見れば,当時のように,在日半島人が日本人から攻撃され逃げ回って,私の自宅へ助けを求めてきたら・・?

私はその設問に対して躊躇なく,迅速に,彼ら半島人を救助するために身を挺するであろうとの事です。

綺麗ごとでは無く,博愛精神でも無く,半島人の生命の保護をするための努力をするつもりです。

正直言って,大嫌いな半島人を助けたいと考えております。渋々ではなくて,喜んで救助するでしょう。
私は食できなくても,彼ら半島人に私の食料を与えるものです。

その気持ちは人間愛等との表現ではありません。

その真意は,天皇の御身心に従うだけの事です。私が嫌いな半島人の救助を達成する努力の根源は,その行動は,天皇陛下の御意志であるとの考えの思いからです。

だからと言って,日頃から半島人と理解し合うような必要性は有しておりません。嫌いなものは嫌いなのです。

日頃は見たくもありませんが,天皇陛下の御意志に従って彼らに助けの手を差し伸べる事が出来るだけの事です。

この気持ちは,小汚いシナ人に対しても同様です。はっきり言って,日本国は,日本人だけのものです。

それ以外の問題,例えば在日半島人,在日シナ人に対しては生活保護の支給は大反対,人権擁護法案には絶対に反対,偉大な祖国に強制送還大賛成,反日的全ての外国人は国外追放,愛日的外国人は日本人と同様の権利を認めよです。

 このように陛下の御心を「利用」するのは陛下としても甚だ迷惑だと思いますけどね。勝手にそう思うのは自由ですが、本邦は立憲民主主義代議制を採用しており、陛下の意思とは「無関係」に「国民」の自主的選択によって政権・政策を選択するだけの責務を負い、国際条約に沿った対応をするのもまた本邦政府の責任であり、それは「有権者」の責務でもあります。
 
 
 少なくとも、

のようなセクハラだけはフル装備のツイートをリツイートするような卑しい性根の還暦だけは迎えたくないものです。えぇ、心よりそう思いますし、そのような長生きをするくらいなら生き恥晒したくもありませんが。
 
 
 なお、本エントリーは徹頭徹尾貴方を馬鹿にしておりますが、年長者を敬えとは教わりましたが、馬鹿を敬えとは教わらなかったので、せいぜい自分達の世代が後世、次世代に何を遺したのか、胸に手をあてて自省するのが宜しいかと思います。生き恥を晒すのはご勝手ですが。
 ついでに言うと、タイトルが「質問状」ではなく「詰問状」であることの意味の程度を把握するくらいには「日本人」なんだろうな、とは期待しておりますし、以前にお伝えしている通り、本土大和人であることは含み持ってもらって一向に構いませんので。

【交歓会】アドルフ・ヒトラー生誕125周年記念は即刻中止すべき

本邦を悉く貶め世界を敵とし、また称揚するに本邦を否定することと同義であるこの主旨は徹底的に否定されるべきである。
まずもってナチ党旗のようなイデオロギーとそのためだけに用意されたものと本邦国旗を同列にデモに並べることも論外であるし、ヒトラー礼賛などもってのほかである。
あの優生思想、アーリアン学説は今や疑似科学とまで批判されるほど徹底的に批判・否定されている上、当時においてもその優生思想は本邦をして、それを「劣等民族」と規定するに足るものを公然と主張していたのであり、いかに外交儀礼、戦争戦略上美辞麗句で飾ったところで、もともと組むべき思想でも相手でも無かったのであり、今もってこの時代においてそれを礼賛するなど、本邦国体の敵でさえある。
国家社会主義の概念も本邦の天皇の持つ歴史を肯定すればこそ否定されるべきであるし、邦訳版では割愛されたとされる王政批判も国体否定として拒絶するに足る言動である。
いったい諸君等は何を以って何を守るというのか。行動する保守という面妖な呼称は、何を意味するのか。
ヒトラーの民族政策を是とするのか。
純潔の名を以って東欧系ドイツ人はそのまま飲み込むどころか、「北方人種」とされた人々の移入により「人種改良」を企て、その支離滅裂な民族=人種思想により虐殺どころか、そもそも「民族」の否定さえも実行してのけたヒトラーを礼賛することの何が保守なのか。
あのような紛い物の歴史をでっち上げ、そうまでして神話を作ってなお指導者原理という本邦とは相容れない論理により世界を敵とした、本来であれば本邦も敵とすべきだった相手を称揚することが行動する保守なのか。
諸君等の行動は保守でもなんでもない。寧ろ歴史と文化、伝統を考慮すれば、斯様な人間を礼賛することは保守でもなんでもない。
ただの児戯に等しい牽強付会な歴史遊戯に論理も思想もなく、国体否定者と呼ぶべき人間の生誕を祝うことのどこが保守なのか。
敢えて言おう、諸君等の行動はただの幼稚な革命ごっこ、革新ごっこを反転しただけの、ただの国体否定運動でしかない。
松岡や白鳥のようなユーラシアブロックという名でソ連と結ぼうとする動きなど、共産党を国体否定として解散させておきながら、どのような思想的整合性があるというのか。富田メモの信憑性についての検証は真偽留保の部分があるとはいえ、先帝陛下の協調指向、対米避戦をまっさきに裏切って回った彼等を英霊として合祀した靖国を、以後参拝されなかった理由を、諸君等は考えたことがあるのか。
A級戦犯とされるそれ全体ではなく、まず真っ先にこれら両名を筆頭に挙げるべきであろう。
聖断を下されてなお「国体護持」の名を以って現陛下を拉致する動きを見せた一部軍の先鋭化分子と同様、諸君等に国体も国旗も国家も陛下も語るべき何かなどありはしない。
都合よく切り貼りし、「玉」と称して陛下の権威を借りて自己の栄達と欲望のみを視野狭窄に実現しにかかった連中と何が一体違うのか。
繰り返す。
この交歓会は即刻中止し、諸君等は徹底して己の邦に、国民に背信していることを得心するまで考え抜くべきである。
諸君等の行動は差別主義という用語で称されるのが嫌なのであれば、国体破壊者と呼ぶことにする。
自己の呆けた陶酔感を徹底的に抜き去るまで、諸君等はその行動を自制せよ。

【交歓会】アドルフ・ヒトラー生誕125周年記念

付記
いくつかの機関、団体に対してこの動きを伝え、恥を忍び持論を曲げても頭を下げ、しかるべき対応、周知が為されるよう依頼をかけたことをここに明記しておきます。

デモの成功を祝しつつ

■果たして大行進の目的は何処にありや
 
今回の東京大行進が成功裏に終わったことを、まずはお喜び申し上げます。
本デモに関わらず、所謂カウンターデモを含めて、一連の動きに支えられた方も少なくないと思います。
その上で、以下を記載することをご了解ください。
 
果たして、今回のデモの目的は如何にあったのか。
「あらゆる差別に反対します」という宣言文の後に、現れるのは「人種差別撤廃条約の誠実な履行」となっています。
このことには公式サイトにも掲載されているので異論はないと思います。
自分は、その主義主張からも前者、後者ともに賛意を示すものです。
「FirstStep」というプラカードも用意されていたことを考慮すれば、確かに「第一歩」かもしれません。そして同時に、所謂「在日特権を許さない市民の会」といった醜悪なレイシズムを体現する団体の行為は非難どころか止めるに値する行動でもあります。そのことに異論もありません。
一方で、「あらゆる差別に反対」としながら、そのひとつの着地点が「人種差別撤廃条約の履行」となるのはどういった理由でしょうか。もちろん、もっとも抑圧されていると言って差し支えないそこに目を向けることに対して、特段の異議はないのです。しかし、その敢えて太文字で強調された前後の文章と、その要請文という目的との間の整合性は、いかにも不釣合いと言えます。
本邦は度々女性の人権などにおいても国連から懸念を示される現状において、そしてアイヌを先住民と認めながらその権利を十分に認めざる現状において、敢えてそこに集約する意味合いはどのようなものでしょうか。
確かに新宿・大久保界隈において、最も被害を呈するのは「在日韓国人・朝鮮人」であり、次いで「在日中国人」でありましょう。百人町界隈に住んでいたこともある自分としては、そのことは十分に理解もしているつもりです(最も在日の気持ちが分かる、といった傲慢なことを言うつもりもありません)。
しかし、「あらゆる差別」に対して、要請が「人種差別撤廃条約の履行」で良いのでしょうか。それは非常に重要な問題でもあり、日本政府の不誠実さの現れでもあります。一方で、それは差別のひとつの区分におけるそれでしかありません。「あらゆる」という題目を掲げるのに対して、果たしてそれで良いのでしょうか。「第一歩」というのであればそれも良いでしょう。しかし、告知文の中にそれは垣間見えないこともまた事実でしょう。もちろん、これは参加者間の合意事項と言われればそれまで、でもありますが。
 
 
■レイシストに対峙するに許される言葉とは何か
 
今回、参加者側に(今回と言わず、反レイシストデモ全般ですが)、「キチガイ」「知恵遅れ」「死ね」と言った文言が飛び交っていたことはすでに指摘されていることです。その発話者が「どのような意図で用いたにしても」、それらの言葉がしばしば障害者の差別的文脈で用いられてきたことは事実です。そのこと自体は否定のしようもない事実だと思います。
たとえ発話者にそのような意図が無かったにしても、それらの言葉が差別的に作用する機会というのは間違いなく存在します。果たして、それらの言葉は、発話者の意図が「それを意図していない」からといって、または「それを差別と受け取る人がいるとしたら、その受け取り方が問題だ」として退けられるものでしょうか。
昨今韓国人への攻撃に「キムチくさい」といった表現が珍しくない現状ですが、これは「新たに設定された」言葉であり、「歴史的にそう扱われてきた」言葉の一群に加えるべきかどうかは微妙なところです(その意味では「チョン」といった言葉の方が歴史的にも非難に値する「根付いた表現」とは言えましょう)。
しばしば日本の不正義の弾劾に対して、または日本のマジョリティの不正義に対して「魂が悪い」といった言葉が用いられる一部のWebサービスがありますが、それとどの程度の相違があるでしょうか。
個人的には「まったく相違を感じない」というのが答えです。「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も死ね」というものと、「レイシストは死ね」というものと、確かに言説上(もしくは用語解釈上)、前者はレイシズムと断じて良く、後者はそうではありません。また、前者をそのままに、後者を「知恵遅れ死ね」と言った場合はどうでしょうか。この場合も「レイシズム」という点では、前者はそうであっても後者は必ずしもそうではありません。
しかし、重要なのは、「レイシズム」という点では違っても「あらゆる差別に」となると、大きな相違がある、という点ではないでしょうか。くれぐれも混同を避けなければならないのは「レイシズム」と「差別」とは「絶対にイコールにはならない」という点です。後者は前者を含みますが、その逆ではありません。したがって、そのような発話者を「レイシスト」として糾弾するのは基本的に間違っているわけですが、「差別者」という規定を設けるとすると、必ずしもそれを回避できるものではないと思います。
もっとも、この場合「レイシスト」の強気を挫くに当たって、言葉を選んでいる場合ではなく、彼らのむちゃくちゃなそれに対して最も効果的な言葉と行動をぶつける必要がある、というのは理解できる話ではありますし、「行儀良く」やっていたら、過去の運動同様、大きな成果も何も上げられなかった、かもしれません。というよりは、過去のそれを見る限り、間違いなく大きな成果を上げることもなく、また行政が「デモルートを変更させる」といった圧力を実質的にかけられたかどうか、についても怪しいものがあります。
その上でなお、「必要悪」として規定するのであれば、それもまたひとつの選択ではありましょう。同時に「だからと言って、別の文脈で差別として機能する用語を用いるべきなのか」といった問いや、「死ねというのは人に対して発話すべき言葉なのか」という問いについては、誠実に応える必要はあるように思います。同時に「必要悪」であるならば、それが別の差別を生み得るという点について、批判は甘んじて受ける必要があるように思います。それができないのであれば、「敢えて」そのような言葉を用いる理由について、「問われる側」がしっかりと説明を行う必要はあるでしょう。当たり前ですが、「奇麗事」で問題は解決しない場合は多々あるのであって、今回の「在日」に対するそれが、奇麗事で済まないレベルであることは十分に承知している、という前提がなければその問いそのものがどうなのか、という問題は当然に惹起されますが。
 
 
■「切り捨てられる」懸念は誰のものか
 
しばしば、「声を上げる」ことが重要であり、「参加し意思を示す」ことが重要であり、「参加せず批判するのは相手を利することだ」との批判(沈黙の加担者)はあります。それはそれで分かります。一方で、例えばしばき隊のように、「被差別側に立った運動ではない」ことを公言している場合もあります。「差別側に立つこと」と「被差別側に立たない」ではまったく意味合いが異なります。一部にはそれを自覚している人がいることも理解しています。前者と後者とでは雲泥の差があります。後者の側では、被差別側を場合によっては「切り捨てる」ことができるからです。それでも目的が変わりませんから。
例えば、自分はカテゴライズの方法によっては容易にマイノリティになり得る立場ではありますが(民族、ではありませんが)、前者で解決できない場合後者を取り得るか、というのは非常に難しい問題であるようには思います。もちろん、毎日暴力を浴びせられる立場にもなれば、その精神的身体的負荷は計り知れず、分かりますなどというのも不遜なものですが、自分は自分で憎悪とは言わないにしても、数住人、百人の単位の集団の中で、孤立し好奇の目に晒され、言葉を以ってそれを向けられたこともあります。そういった際の孤独や傷は、そう簡単に癒えるものではありません。あくまで経験談ですが。たった一瞬、数時間のそれですら、耐え難いものがあることは事実で、それが日々となれば、止めることに躊躇せず、というのは非常によく分かる話です。
一方で「被差別側に立たない」と宣言されることは、しばしば、被差別側を切り捨てる可能性を意味します(というか、それを想定しなければそう明言する必要せいが存在しません)。その際、大手を振って参加できる、というのは、それなりに「強い」人であると思います。集団になれば個の弱さを消せる、ないし緩和できる、というのもまた事実ですが、そうやって「参加した集団」そのものから「切り捨てられる」可能性を考慮せずに参加できるのは、またそれだけのものを持っているのだと思います。
今回しばき隊は「集団」としては参加していないとのことですが、参加者・主導している中に少なくない重複する人が存在することは周知の事実ではあります。もちろん、「目的」の合致によって行動を共にすることもあるでしょう。それはそれで良いと思います。批判している人の大多数が、恐らくはその批判の内容が解消されたからといって、運動に参加することも無いでしょう。それも分かります。
しかし、民族的意味ではマジョリティで、且つセクシャリティではマイノリティと言う立場である場合、あまり無邪気に参加もできないものです。レインボー系の人が今回のデモに参加していることは重々承知していますが(というかそう聞いているだけですが)、セクシャルマイノリティの中でもあの手のイベントに参加できる人は「強い」人です。
その意味では、在日でありセクシャルマイノリティであり、という立場は最も弱いかもしれません(セクシャルマイノリティの中でも、レズビアンやゲイといった立場は相対的には「強い」立場である、ということは念頭に置いておくべきでしょう)。
だからこそ、「あらゆる差別に反対する」行動の要求が「人種差別撤廃条約の履行」であることは、ひとつの懸念ではあります。中には、レイシズム言動を繰り返す相手に「キモヲタ」と言った言動をぶつける人もいます。いわゆる「オタク界隈」の規制に絡んで、都や国の審議会において、しばしば同性愛敵視言動が恥も外聞もなく行われていることを承知で行っているとすれば、それは確信犯なのでしょう。
しかし、そうであれば、到底同調などできるものではありません。そうであればなお、自身の生存の自由に関わることだからです。同時に、知らずにやっているのであれば、批判者の不勉強を非難する前に、自身の言動の持つ意味合いを、もう少し慎重に図るべきではないでしょうか。
これは、一連のカウンター運動に対して、支持をし、また支えられている「マイノリティ」が存在することを承知の上で、です。奇麗事と言われればその通りですが、同時に「あらゆる差別」の中から切り捨てられる、という懸念は、決して無いわけではないでしょう。かつての左翼系市民運動が「同調しない人」を敵視し攻撃して回った歴史的事実もまた、この種の運動では忘れられるべきではありませんし、それを知らないわけでもありません。だからこそ、です。
 
 
 
 
それでもなお、デモの成功を祝します。

Google先生の裁きの鉄槌

ちょっとこの画像の右側を見て欲しい

普段はだいたい公開初日が各エントリーのアクセス最多日で、その後廃れていくわけで、よほどタイミング外れに2chにでも貼られない限りそれがひっくりかえることはない本Blogであるが、今回のGoogle先生のこの仕打ちw

そして伸びるBlogosコメント欄(概ね非難と罵倒)、そしてFACEBOOKのシェアw

正直いろいろと補足が必要な内容である上に(それをやるのも面倒だからやらないけど)、内容的にも薄っぺらいのは承知している、それも個人的雑感に対してこの仕打ちww

いじめだwww

回顧、またはヘイトスピーカーからの帰還、そして

前回のエントリはだいぶいろいろ反響を頂いたようだが、できれば「日本統治下の朝鮮半島を見る」などもあわせて参照頂きたい。日本がいかに半島に資本を投下し、それがどのように経済・社会に立ち現われたかが簡潔ではあるが見てとれるだろう。それと、自分がIDによる原稿記載を行っているからといって、「実名じゃない」という短絡した向きには、ちょっと調べれば自分の実名はウェブ上に晒してるわけだから、調べれば?とだけ。だいたい自分はこのIDでかれこれ10年以上通してきたのである。匿名実名論争に乗るつもりはないが、このIDは自分そのものであり、またそれを自負もしている。

 さて、ここで改めて“現在の”スタンスを確認しておくと、以下のような感じとなる。
1:在留外国人への差別はいかなる人種・民族であれ反対
2:犯罪の取り締まりは厳に成すべきで、それは人種・民族の如何を問わない
3:北朝鮮、中国は潜在敵国であり、同時に中国は不可欠の貿易相手国でもある
4:韓国は国としては好悪で言えば好きではないが、安全保障上必要でもあり連携すべきでもある
5:歴史的経緯については政治的判断・好悪感情を別として、まず事実を知るべきである
6:国家の政策に対して国籍保有者は一定の責任を負うが、同時にその政策に賛同するしないについては個々で判断が異なることを認めるべきである
7:一般に戦争責任と言われているものに植民地責任を被せる者がいるが、これには反対であり、両者は区分され、それぞれに評価すべき問題である(従って中国に対するそれと、韓国・北朝鮮に対するそれは、当然異なる位相の問題である)
8:日韓の賠償問題については原則として所謂日韓基本条約とそれに付随する取り決めにより解決された、と考えるべきだが、その中で抜け落ちている部分・棚上げした部分があれば、それについては別途解決のための算段が取られるべきである(この解決とは必ずしも賠償を意味しない)

ここまでを前提として、以下の自己分析へ入るとする。

■自らの存在を求め、それを安定させんが為に
少なくともtwitterフォロワーの多くや、過去から自分のBlog等を閲読頂いている諸氏は十分知っているであろうことで、再び書くのも重複した話で申し訳ないのだが、ここから始めないと何も始まらないので記載することにすると、自分は両性愛者である。他にもいくつかあるが、簡単に話を進めるために、ここではこれのみに絞って記載する。
 世の同性愛等の事例を調べればすぐ分かるように、このセクシャリティの相違というのは幼少期においては特に表に出すことが難しく、自分もまたそうであった。それは排除への恐れであり、また保身のためでもあった。
 意識としてのそれを自覚するようになったのは恐らく小学校高学年になるあたりだっただろうか。その頃より、何か現実から逃避するかのように、科学やSFなどへと関心を深めることとなった。自分の読書癖は恐らくここから来ている。
 中学に入ると、それ以前とは格段に情報の流入が増え(といってもまだウェブはまるで普及しているとは言い難く、主にテレビ・雑誌・新聞・書籍等がその経路であった)、同時に関心の領域も広がっていくことになる。
 自分の、今で言うところの「ネットウヨク」的ヘイトスピーカーというのは、恐らくこの頃を基点として据えることができるだろう。それは性への意識が周囲においても確立されていく過程で、それに話を合わせ、また自身のことはできるだけ表には出さず、当然親や教師などに言える訳も無く、また自分と同じような存在に巡り会うこともなかった中で、思春期という不安定な意識の中、自己のアイデンティティを保つために、何らかの代償を必要とした、ということでもあったと、今にして思えば考える。当時はそんなことは考えなかったが。御多分に漏れず、日本を批判して止まない韓国政府(または報道にて出てくる過激な抗議行動)に対しての嫌悪を抱いたわけだ。
 高校に入る頃には歴史への関心も少しずつ高まり、また、シミュレーションゲームなどもゲームそのものではなくテーマ・内容について関心を抱くようになった。しかし、その頃はまだまだ手を伸ばす範囲も狭く、当然のことながら自らが“望むような”傾向のものしか手に取らなかったことから、ヘイトスピーカーとしての傾向は一層強まった。
 一方で、この頃になると、主にナチス関連の書籍などで、同性愛等の虐殺の歴史を垣間見るようにもなった。ここで立ち返れば良かったものの、その排除への恐れは無意識化に刻まれたのであろう、より一層ヘイトスピーカーの傾向に拍車をかけることとなった。これはまさに、「排除されないために、より“正しい”日本人であらねば」という意識が働いたためだ。では“正しい”日本人とは何か。当然日本人なのだから「日本を攻撃する者は敵である」。まさに今のネットウヨクのそれそのものだ。
 大学に入っても引き続きこの傾向は続くわけだが、そこでふとある言葉に出会うことになる。「小林というのは“林”という字が入っているから過去遡れば朝鮮系だ」と。その時は「そんな話もあるんだな」という感じで流してしまっていたわけだが、よくよく考えればおかしな話でもある。自分は今までその「小林」という人間を「日本人」として接してきたわけで、そこに「朝鮮系だ」という情報が入ってきたとしても、その人自身の何が変わるわけでもないのだが、人によってはそうではない、ということなのだろうか、と。
 大学も中盤に差し掛かると、ようやくウェブが一般の手に届く形となり、当時はダイヤルアップ形式での接続ではあったが、様々な「自分の生活範囲からは遠く離れた、また様々な職・立場・年齢の人」と出会うようになった。
 その中で、一人のゲイの友人ができたのだが、そこで初めて「自らを抑圧・否定することなく存在することができる場がある」と認識するに至った。周囲へ公知することになるのはもっとずっと後のことになるが、当時としてはこれが非常に大きな支えになった。そこのコミュニティは小さなものだったが、ゲイは一人だけで、他は極めて“普通”のマジョリティであり、またヘテロでもあり、それらは相手をただ“人”として認識し、それとして接していた。立場も何も関係ないし、出自だなんだを気にすることもないものであった。
 同時期に別のコミュニティで、こちらは別の趣味を通じて知り合った友人がいた。知り合った当初は当然HNのみでの付き合いであったが、何かのきっかけでお互いの本名を明かすこととなり、返ってきた名前は朝鮮名であった。しかし、全く気にすることは無かった。自分はその友人の書く作品は良いものだと思っていたし、今でも思っている。別に何人だろうが良いではないか、と。その人はいわゆる“在日”であるが、今でも友人として仲良くさせてもらっている。
 事ここに至って、至極当たり前の結論として、「人は人であって、何人であろうが善良な人は善良であり、犯罪を犯すものは犯罪を犯すものであり、そこに何等の差異は無い」ということ。そして自らが何かを否定することでアイデンティティを確立しようとせずとも、その居場所を作ることができれば自然と憎悪は薄れていくものだ、ということ。何より、「もしかしたら、自分の知っていることというのは極めて浅薄で、また上っ面なものなのではないか」ということ。読書癖を持っていた人間としては、この最後の問いは自分の中で極めて深刻なもので、「事実はどうであったのか」ということへの探求は、歴史に関してはここが基点となった可能性が極めて高い(その前に一部三国志の演義と正史の違い、などにも興味があり調べたりもしたが、それ以外の項目でそこまで突っ込むこともまたしなかった)。
 この認識に至るまで実に20年以上かかっていることになる。

■疑問から生まれる様々な更なる疑問の連鎖
 そこからは様々な歴史関係の書籍などに当たっていくことになるのだが、そこでまたいろいろな疑問が生まれてくることになった。まずそもそも教科書に書かれていることが全くの表面的なことばかりで、場合によってはそこからアップデートしていないばかりに、研究成果によって否定されていることが自分としては「事実」として認識されていたことなどだ(当たり障りの無い例で言うと、各種の肖像画が実は別人の者だった、等)。
 また、朝日などにおける「平和」「反省」といった戦争への視点の据え方が、これもまた極めて一面的で、また場合によっては事実を無視したような逆説的美辞麗句になっているのではないか、といった疑問もあった。
 結果として、自分は“正しい日本人”であろうとあれだけ嫌悪した相手をロクに知らないばかりか、“正しい”を担保するはずの自国のことさえもロクに知らない、という現実をまざまざと見せつけられる羽目になった。
 疑問が疑問を生み、その検証でまた別のことが書いてあり、なんと多様な世界であることか、史学の世界は、と思ったものだ。
 Aという評価があり、それに対してBという反証がなされ、またその反証がCという研究で否定され、結果としてAとCの中間あたりが妥当なように思われる。そんなものは山ほどあり、当然のことながらそれは先の大戦、そこに至る経緯、さらに源流となる明治維新、また続きとしての戦後、そういった様々な事項へと波及していった。
 そういった探求の中で、いつしかヘイトスピーカーの要素は薄くなり、また自身がそれとしてあることを担保できるのは、「人は人である」という根本的なところまで立ち返ることとなり、その悪癖から脱却するのは実に30歳頃までの時間を要したのである。政治への本格的関心というのもその中で生まれ、またそこでの試行錯誤、疑問と応答、それらが今の自分を形成していると言えるだろう。

■根拠のないものを根拠とする愚かしさ
 ここまでの中で、自分を自分たらしめている一つの要素であるところの(そして不可欠の要素でもある)、両性愛というアイデンティティを公知し始めたのは、概ね大学の後半から卒業直後くらいのタイミングであることは、推察しているであろうと思うが、その中で直面したのは、「それを公知することで排除され、または嘲笑されるという現実」であった。
 中には変わらずに接してくれる者もいたが、逆にそれをそのまま排除・嘲笑のネタにする連中は少なくなかったのである。
 多少頭が回ればわかるだろうが、自分はそういった連中から、それを公知する以前は「全くそういったことの対象になっていなかった」ということであり、逆に「公知することでそれを招いた」という現実が、まさに厳然として存在した、ということだ。
 自分があれだけ嫌悪して止まなかった存在が目の前に立ち現われたとき、自分はそれに対して特段態度を変えることがなかった(それは上記の通りである)。逆に自分がそれを公知した時、格別に態度を変える連中もまた存在した。
 ここから導き出されるのは、ただ一点しかない。それは、自分の嫌悪がいかに薄弱な、事実の前に覆される程度の表層的観念的なものであったか、ということであり、逆説的に言えば、その表層的観念的ヘイトがその人の内に存在する限り、そこに合致するような記号を与えれば、容易にそれを適用する人間もいる、ということだ。そこで態度を変えられる、というこの事実が、いかにそれが思想や信条などという大層なものではなく、浅薄で、また愚かしいことであるか、ということを如実に表している。それを考えれば、「後ろめたくなければ実名を名乗ればいいではないか」というのは、当事者からすれば(犯罪への悪用を別とすれば)「公知した瞬間嘲笑と侮蔑をするであろう人間に対してそんなことできるか」という返し方もできるのであって、そのあたりを勘案すべきだ。
 事実の前に態度を変えることができる(またはその考えが事実の前に安易に覆る)、ということはそもそもその考え方自体が根本的におかしいのだ。
 敢えて問う。自らの戸籍を調べて、果たして戸籍上在日だったとき、ヘイトスピーカーたる貴方達は、自分自身を排斥の対象とすることができるのか?また、知りもせず、言葉も通じず、生活の基盤もなく、頼るものとていない書類上の母国に帰ることを望むのか?
 恐らくしないだろうし、ほぼできないだろう。圧倒的事実の前に、そういった観念上のものが、いかに脆く崩れていくか。別にそれが過去に密航して渡ってこようが(それも今や三~四世代も前である)、志願して兵役につき日本に居座ったものだろうが、徴用で渡ってきたものだろうが、そういったことは一切合財別として、その現在における事実が仮にそうだったとしたら、ヘイトスピーカーは自らにその刃を突き付けることができるのか?そのことは一度自問自答した方がいいだろう。何、自分もできたことなのだ、誰にだってできるはずだ。

■基点、または起点
 前回のエントリについては、靖国神社における絵馬の一件があり(朝鮮人は出ていけ、の件)、また在日が今の差別的待遇であるのは自身がブランディングをしてこなかったからだ、という言説に対しての応答が主であるので(そこまで言うなら過去の功績に関して正当な評価を下したのか、という点)、決して「通名の是非」を問うことは主目的ではなかったため、Blogosのトップページリンクから辿って読んだ人や、それらの経緯を知らない人については、唐突感もあったろうし、歴史の郷愁に浸っても解決しない、というのは優れて正鵠を得ている批判ではあるので、それはそれとして受け止めるが、それ以外の言説の少なからずが、まさに絵に描いたように自らが犯した、そして直面した過ちであったことは、それとして炙り出しとしても、また自らに対して問いかける意味でも、意味があった記事になったと考える。
 もちろん、いわゆる「反日ナショナリズム」という点については、自分も嫌悪するし、さっさと自律したナショナリズムへと昇華して欲しいとも思う。また竹島などの問題は、現在のところどう考えても日本側に主権があるとするのが妥当であろう、とも考える(ただし政治的妥結をどこで結ぶべきか、というのは別の問題でもある)。「従軍慰安婦」という「言葉」の出てきた経緯も承知しているし、半島支配の過程で莫大な資本投下をしてきた事実も知っている(この点で、前時代的ステレオタイプな「日本性悪説」は採らないし、そういった短絡的評価もまた批判に値すると考えている)。
 個々人として追及されるべき問題、組織として抱えてきた問題、国家として抱えてきた問題、様々な問題はあろう。例えば、日韓基本条約における金銭が韓国においてどのように使われたのか、という点について、韓国政府はその行為・判断と結果を正しく同国民に伝えるべきであろうし、それを踏まえた上で、言うべきことがあれば言って貰えば良い話でもある。
 一事が万事ではないが、それぞれの問題を、あたかも民族性に起因するものとして捉えるのは根本的に誤りであるし、ましてそれが観念的なそれであったり印象論的なそれであったり、はたまた論破し尽くされている根拠なき扇動に基づくものであったり、そういったことは、それが「どの国の人であれ、どの民族であれ」考え方として「間違っている」わけで、それは相手が如何なる国であれ民族であれ人であれ、それとして自分は「間違っている」と言うだろう。
 自分がそれとして実践し、直面してきたものでもあるからこそ、間違っている、と言うべきだとも考えるし、また問いかけもする。
 当然、隣国間での利害など当たり前のことであり、また歴史に対する評価が異なるのもまた当然ではあるので、そこについては事実の積み上げを行っていくしかないだろう。その中で、欺瞞・詐術はそれとして暴かれねばならないだろうし(これは日本であれ韓国であれ中国であれ、はたまた米国であれロシアであれ、どこに対しても、だ)、中には過去は正当として行われ、現在の価値観で見れば悪辣だと考えられるものもあるだろう。
 例えば国際法上植民地が完全に非合法とされたのは戦後のことであり、戦前は列強という強者のみの理屈の中でその合法性が問われたことを考えれば、当時としては日本の韓国併合は国際的に認められたものでもあった。非合法論の入る余地などどこにも無い。脅されたから違法だ、という理屈が通らないのは、当時としてそれが「当たり前」に行われていた、という「事実」(これはやったことの是非の評価ではなく、事実評価として)であり、だからこそあれだけ躍起になって日本は不平等条約の改正に邁進した、というのもまた「事実」でもある。
 それらの事実と向き合うことは、当然日本だけではなく韓国や北朝鮮、中国にとっても「不都合」かつ「不愉快」な現実が立ち現われることにもなるだろうし、また従来低い評価であったものが、逆に肯定的に評価し直されるものもあるだろう。
 大日本帝国として成したことの全てを否定することも、また肯定することも、どちらも愚かしく、また馬鹿らしい行為であって、ましてや「当時」の資料にロクにあたることなく、売文屋が書いた文書やアジテーターの書いた文書(これは右翼だろうが左翼だろうが関係ない)を鵜呑みにして、あたかもそれが自らの考察の結果であるかのように振り回しても、そこには確固たる芯もなければ、また心も真も信も無い。
 別に自分は人間が皆分かりあえる、といった楽天的幻想を抱くつもりもない。ただ、それとして不当だと考える言動には、繰り返し「間違っている」と言うだろう。しかし、「日本人の意識にあるアジア人蔑視」などと言うつもりも毛頭ない。前回の記事で敢えて「民族」という括りを用い、個々人のそれに触れなかったのは、そういった「懺悔主義」に対するアンチテーゼでもあるのだが、釣りだか何だか知らないが、案の定そういった連中も出てきたようで、自分の意図したところはその点でも概ね達成されたと考える。
 蔑視も差別も悉く個々の意識の問題であって、「日本人はアジアを蔑視している」という言い方もまた、「韓国人は皆犯罪者だ」というのと全く同じ構造をもって否定されるべき言説であり、揃いも揃ってそんなことを言い合っているから、正対することなく繰り返すことができるのだ、ということにいい加減気付くべきだ。
 そして、それは「相手も同じことをしているではないか」ということではなく、相手とは無関係に自ら進めるべき問題であって、お互いが「相手もこうだから」と言って現実から逃げ回っていては、何も見えないだろう(この問いかけは当然日本だけではなく、半島や中国にも向けられるべき問いである)。
 それに対して「日本だけがそんなことをする必要があるのか」という問いも成されるだろうが、そうではない。これらの論点に意識が向いているのであれば、そういった個々人がやっていく問題で、「韓国が」「日本が」というのは、その総体が立ち現われるものでしかない。
 大丈夫、いかに自己を振り返り、自国の歴史を振り返ったところで、全否定されることなどあり得ないし、また美化する必要もない。日本にしても半島にしても、それだけの歴史の深さがあるのだから、堂々とそれに正対すれば良いことだ。何を恐れることがあろうか。誇れるものは誇れば良い、過ちは過ちで繰り返さなければ良い、それだけのことだ。事実誤認の誇りは滑稽でもあるし、事実無視の理解は過ちの反復を生むのだから。