セクシャリティを巡る情報と適切さの問題 ~成宮氏からマクドナルドCMまで~

 少し気が重たいのだが、久しぶりに記事を書いておくことにする。

 ここのところセクシャリティ関係の話題が立て続けに出ている。
アッコ 成宮の芸能界引退に釈然とせず「自筆で書いたってことは…」
元フィギュア村主がヌードになったワケ 極貧生活をTV告白
ホリエモン“新恋人”はカリスマ「女装男子」
マクドナルドがキャンペーン動画削除「罰ゲームは男性同士のキス」に疑問の声

 まことにウンザリするような情報量であるが、これは全て今月に入ってからの情報だ。

最初の記事は成宮氏の引退に関するものだが、薬物疑惑についてはここでは触れないことにする。とはいえ

「この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい」と記載されていることについても言及。「今は(世の中の人は)気にしないんじゃないか。そんなことで事務所、芸能界をやめるのは…」と不思議そうに語った。

 という部分はやはり引っ掛かる。過去まったく否定され問答無用で病理や社会悪扱いだった時代と比べれば、セクシャリティ関連については確かに受け入れられつつあるようには思う。しかし、「他者が暴く」ことと「自身で公言する」こととは、天と地ほどの差がある。「気にしない」かどうかという点については、その人の置かれた環境で判断するしかない。身近な周囲に理解が無ければ真っ先にその一番身近なコミュニティから排除されるのだし、セクシャルマイノリティにとって最大の課題は自身の身内の無理解であることがしばしばだ。本人が知られたくない(クローゼットでいたい)と求めるプライバシーに対して、「別に大したことではない」かのように扱える性質の情報ではないはずだ。この発言は一見理解あるように受け取れそうだが、実際のところは無神経の極致でしかない。「そんなこと」どころか「自身の最もクリティカル」な場合でさえあるというのは、推測でもなんでもなく現実でしかない。 

 次の村主氏の記事についてはこのように書かれている。

恋愛の話になり、男性と付き合ったのは大学1年の頃だけで、それ以降は無いと語った。レズビアン疑惑があることを問われると、「別に相手が女性だからダメということは全然ないです」と認めた。(中略)こうした番組内容にネット上では、「好きだったのに何があったんだよ…」「落ちぶれすぎやろ」「この人は引き際を完全に誤った」などといった驚きが広がった。

 相変わらず異性交際の話が出てこないと「疑惑」として同性愛が扱われるメディアの無神経さは今更驚くには値しない。そこに続けて書かれている拾われたネットのコメントが、このセクシャリティ関係に対して向けられたものなのか、それともそれ以前の部分で言及されている貧しい生活を指しているのか、或は仕事としてヌード撮影等を引き受けていることを指しているのかは判然としない部分ではある。とはいえ、成宮氏の引退に関して「ゲイであることが分かればイメージダウンになるのは当然」といったコメントが付されている点を考慮すれば、まったくセクシャリティの部分と無関係にこれらのコメントが出ているとも思えない。全部とは言わないが一部はセクシャリティの部分に向けられているように思われる。
 
 その次の堀江氏の記事では以下のやりとりが記載されている。

――堀江さんとはどのような関係ですか?
「曖昧な関係というか……。この前会ったときは、彼も好意を示してくれました」
――男性同士の愛情ということですか?
「同性でも愛情はあります。そこでセックス出来るか、出来ないかの違いだと思います」
――ホテルに入って行かれましたが、セックスはしているのですか?
「……そうですね」

 異性関係であれば、相手が回答している内容に対してわざわざ「セックスはしているのですか?」という念押しの質問が出たかは疑問も残る。もしかしたら「男女の関係だということですか?」という質問になったのかもしれない。とはいえ、そこで念押しせずともその前段の回答でほぼ答えは出ているのに、わざわざセックスしているのかどうかをダメ押しして聞くことにさほど意味があるとは思えない。また、成宮氏の件では異議を唱えている人の一部は、堀江氏のこちらの情報に関しては寧ろ楽しんでいたように感じられる(或は堀江氏の時には好奇の目で言及し、成宮氏の時には言及しないといったようなケースもあるだろう)。堀江氏は以前から性やセックスに関してはおおらかな印象があるが、セックスしたかしていなかを露悪的に聞いてくるような記者や媒体からの電話が名乗った瞬間に切られるのは、当然といえば当然でもあろう。「人のセックスを笑うな」である。同タイトルの作品は男女関係を描いているが、作者自身はこのタイトルを「同性愛の本の棚の前でクスクス笑っている人を見たときに思ったことばである」と述べている。
 
 最後のマクドナルドのCMの件での反応もいささか気になるものであった。いろいろな批判はあるが、「同性同士のキスを罰ゲームとして表現している」ことが問題かと言うと、私は少し違う印象を受けている。そもそもこのCMに出てくるカズレーサー氏はバイセクシャルであることを公言しているので、それを知っている人にとっては同性同士であることそれ自体は大きな問題ではないかもしれない。

諸外国のCMのように、LGBTはとにかくポジティブ!素晴らしい!なんていうCMは今の日本には似合わないし受けいれられないとは思います。しかし、情報発信の最先端である広告業界であれば、「この演出は、知らないところで誰かを傷つけるかもしれない」ということを敏感に察知してもらいたかったと思います。

とコメントされているが、これは至ってポリティカルコレクトネスに配慮されたコメントである。しかし、このCMは本当にそこが問題なのだろうか?殊更に同性同士を表現したものであることからLGBTに関連させた言及ばかりがされている。

ゲームに負けたナゲッツは突如「罰ゲーム」を受けることになり、両脇を漫才コンビ、メイプル超合金の安藤なつさんに羽交い締めにされる。そして、安藤さんの相方のカズレーザーさんがナゲッツの頬にキスをし、その写真が撮影されるという内容になっている。

 そもそもこの問題は「突如」の罰ゲームとして「羽交い絞め」にして「キスをし、その写真が撮影される」という点ではないだろうか。同性だろうが異性だろうが、不意打ち的に嫌がる相手に無理矢理キスをするというのは、どちらかと言えばセクハラや強制猥褻の類の話である。つまるところ、同性同士であろうが異性であろうが、罰ゲームとしてこういった行為を「相手が嫌がっている」表現の下で行うことを気軽に奨めてしまうような表現になってしまっていることの方が問題ではないだろうか。同性での表現だったためにそこばかりがクローズアップされているが、「嫌がる相手に無理矢理そういった行為を行う」ということそれ自体が問題の本質であるように思われてならない。

 セクシャルマイノリティの置かれている立場は決して強いものではないが、同時に私自身は「政治的に正しいセクシャルマイノリティ」のようなものも「イロモノとしてのセクシャルマイノリティ」と同様にどうでも良いとも考えている。異性であれ同性であれ、人間関係でしかない以上、個人個人に落とし込まれればさして大きな違いはない。特にマクドナルドのCMでは、これが異性間でのそれであったら批難されたろうか?されなかったのではないだろうか?公平さ、公正さと特権化とは異なるはずだ。これは異性間の表現であったとしても、やはり相応に批難されるべき性質は含んでいたように思えてならない。

 性を巡る表現や、それがどのように扱われるべきかは、デリケートな問題である反面、モラルの問題については特にその属性の種類によって批判される基準がしばしば異なり、それが妥当であるかのように自明視されることさえある。難しい問題ではある。言及される個人の問題、当事者としての属性集団としての問題、個の全集合としての社会の問題、様々な側面があり、「知らないところで知らない誰かが傷つくかもしれない」といった曖昧な話でまとめてしまっては、結局「誰も傷つかないようにあたりさわりなく、社会・道徳・倫理的に正しいとされる表現」だけしか残らなくなってしまう。報道と表現とでの差異は当然にあるとしても、性表現を巡る「正しさ」の問題を考えた時に、この問題はそう簡単には答えは出ないだろう。BL=差別表現だと言う人もいれば、何かある度に異性愛規範の押し付けのように感じられるような様々な「多数にとっての当たり前」の表現もあり、またあれも差別これも差別とやっていって挙句に「正しい少数者」や「保護されるべき少数者」という、逆説的には「そうではない少数者」を区別していくような論考もまた数多存在する。
 
 性を巡る表現、報道の問題は、異性愛・同性愛・両性愛に関係なく、多義的問題を孕んでいる。下劣な情報に下劣だと憤ることは容易いし、成宮氏のように人生そのものを壊されてしまうケースさえある。最善という選択は無いとしても、常によりマシな社会であるためには適切な批判と適切な許容が必要であるようには思う。そしてその適切さの線引きこそ、社会における倫理規範という極めて厄介な代物と対峙することを余儀なくされることでもある。個人個人が尊重され、また自身の意思によってその生き方を決めていくためにも、この問題は恐らく継続的永続的に考えていかなければならない問題でもあるのだろう。

 まとまりもなくとりとめない文章を書いてしまっているが、ここのところあまりに立て続けにこの種の話題が氾濫し、またそれに対して様々な意見が交わされているのを見て、思いつくままに書いているので、結論らしき結論もないことはご容赦頂きたい。

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大統領予備選に見るアメリカ社会の変化の兆し

とてもお久しぶりです。アメリカの大統領選挙予備選が大変混沌とした状況になっています。現時点での雑感をまとめてみたいと思います。

共和党はトランプ氏が圧勝、ブッシュ氏惨敗で撤退決定となりました。ブッシュ氏支持層は今後はルビオ氏に流れるでしょうからトランプ氏vsルビオ氏という枠が基本的枠組みとなるでしょう。クルーズ氏は本命にはならないでしょうし福音派の票が少なからずトランプ氏へ流れているのでこれ以上の浮上は無いでしょう。共和党は党としてはトランプ氏を避けたいでしょうからルビオ氏にどこまで集中できるかが問われるでしょう。
共和党主流派はもう選択肢はルビオ氏しか残っていないので、次の予備選でルビオ氏が何処までトランプ氏の勢いを抑えられるかが注目です。クリスティ氏、ブッシュ氏、ケーシック氏あたりが本来の共和党主流派だったはずなのですが、クリスティ氏がルビオ氏への攻撃へ注力した結果トランプ氏を利する形となり既に撤退、今回ブッシュ氏が撤退となりました。
ルビオ氏は以前の討論会の醜態をある程度挽回した形とはなりましたが、ブッシュ氏も討論会でのパフォーマンスは下手な印象で、主流派と目された候補が軒並みトランプ氏のパフォーマンスに押されている印象です(ブッシュ氏の撤退決断が早かったことからもしかしたらルビオ氏大統領、ブッシュ氏副大統領という線での主流派集約が図られる可能性はあります)。

一方の民主党はヒラリー氏が薄氷の勝利といった感じでサンダース氏の善戦が際立ちました。半月くらいで一気に追い上げた印象です。ヒラリー氏は本来黒人層の支持が厚いと言われていたにも関わらず、前回のニューハンプシャーに続いて接戦となりました。というよりサンダース氏への支持は恐らく当初のヒラリー氏の予想をはるかに超えるものになっていることが改めて示されたと言えるかもしれません。
実際、ニューハンプシャー戦の後に行われた調査では黒人層でも若年・中年層の相当の比率がサンダース氏支持へ流れていることが明らかになっていました。サンダース氏の今回の僅差の敗北は実質的には「ニューハンプシャーの接戦はまぐれではない」ということを如実に表している結果であり、ヒラリー氏と対等に勝負できる候補であることを見せたという点で敗北とは言い切れないものがあります。
次の予備選はヒラリー氏の勝利は手堅いところですが、サンダース氏の追い上げ方次第ではスーパーチューズデーでも候補が確定できない可能性が出てきました。サンダース氏はそもそも大統領候補になるなど有り得ないとされてきた中での出馬でここまで票を集めており、トランプ氏の地滑り的集票と合わせてアメリカの政治基盤の変化が表れているように感じます。

トランプ氏とサンダース氏の支持は重なっていないとの指摘もありますが、どちらも「既存の民主党共和党のワシントン政治、ウォール街への大きな反発」で支持が集まっていることから、このままトランプ氏が共和党候補として勝ち抜けして民主党が本命ヒラリー氏となった場合「反ワシントン」票として民主党・共和党の枠を超えてトランプ氏へ支持が傾く可能性さえ考慮する必要が出て来た気もします。トランプ氏・サンダース氏が勝ち抜けた場合ブルームバーグ氏の出馬が取り沙汰されていますが、万一にもブルームバーグ氏には勝ち目はないでしょう。
いずれにしても恐らく両党の予備選前の当初の思惑を超えた「反主流派」票が表れてきているのは紛れもない事実で、このことは予備選開始前の選挙予測が悉く外れていることからも理解できます。民主党・共和党という二大政党に特化した政治体制になっているアメリカですが、長期的には第三の政党が組織される可能性が生じてきた印象があります。それくらい反ワシントン、反ウォール街の勢いが強いと感じます。そして民主党・共和党の両党と異なる第三の勢力が実際に組織された場合、それは恐らく民主党的リベラルよりも左派で、また国際的位置付けとしての「世界の警察」アメリカを放棄する政策が打ち出されることになると思われます(実際サンダース氏はそういった主張を頻繁に繰り返しています)。また、従来南部福音派の動向が大統領選を左右するという指摘がしばしばありましたが、今回福音派の票からクルーズ氏ではなくトランプ氏へも票が流れている点、長期的にムスリムがクリスチャンに匹敵する母集団になることが予測されている点を考慮すると、白人系タカ派共和党vs黒人系リベラル民主党といった(ある意味では安直とも言える)枠組みは人口構成の点からも宗派勢力の点からも崩れる可能性を秘めています。加えて白人人口が「少数派」へ転落することも予測されており、第三の左派勢力が組織された場合、福音派・ティーパーティー勢力が一層先鋭化する可能性もあります。

今回の選挙戦はまだまだ予断を許さない状況となっていますが、長期的に視た場合、オバマ氏が初のブラックプレジデントになった選挙以上にアメリカ政治史の中で大きなターニングポイントになった選挙という歴史評価になる可能性もあるように感じます。日本で丸山参議院議員の迂闊な発言がアメリカで報道された際、「アメリカは劇的に政治を変化させることができるが日本の制度は硬直化している」とも指摘されていました。この劇的変化は既に「起きつつある現実」と言えるかもしれません。今回の大統領選がルビオ氏vsヒラリー氏という、現状考慮し得る「従来の枠組みで考えれば妥当」な大統領選になったとしても、変化は確実にアメリカの市民社会で構成されつつあるように感じられます。それは自由主義の後退ではなく、「資本主義」に対する一つのアンチテーゼとして、経済的観点から社会矛盾を突くものと言えるかもしれません。

「日本政府と国民へのメッセージ」について一日本国民より

 我が国の首相はカイロにおいて、人道支援やインフラ整備に25億ドルの経済支援を表明しました。「非軍事的分野」での支援であり、そのうち2億ドルは他ならない「イスラム国」が生み出した難民に対して必要な支援であり、喫緊且つ重要な支援となりましょう。
 或は我が国の政策が、過去から今に至るまで全て正しかったことは無いかもしれません。あなた方が国を持ちたいと願い、或は実現したいと願う社会は、その動機において正しいものもあるかもしれません。しかし、テロルを否定するという一点において、その手段を放棄しない限り、我が国の歴史を振り返って我が国はそれの国家承認という選択をしないでしょう。曾てその横行で自らの国の政策を過ち、世界を相手に戦争するまでに至った狂気への道は、決して褒められたものではないでしょう。同時に、そのテロルが貧困や社会不満を背景とし、正義の実現を願って引き起こされたものであることも、それが独善に過ぎない動機であったことも、我が国の歴史に刻まれています。
 如何に規模を広げても、手段をエスカレートさせても、テロルによって政策を変更する要求は、拒否されるでしょう。如何なる主張であれ、その手段という一点においてのみ、徹頭徹尾否定されるべきです。今現在行われているそれも、過去に行われてきたそれも、そうであるという一点において、否定されるでしょう。
 人質は解放されるべきであり、解放すべきであり、解放することによってのみ、初めて対話の回路も拓けましょう。あなた方が居る場所が、国が不条理に塗れ、その不条理の一端に我が国の政策が関与していたとしても、その告発はテロルによることなく成されるべきであり、原則であり、如何なる正義に拠っても、テロルの横行は決して認めないでしょう。そして認めない政府を、支持するでしょう。
 その上で、その不条理の告発が正しいものであるなら、その調停に政府の政策を傾けることもまた、支持するでしょう。それはテロルを放棄し、紛争を停止し、それが履行されることによってのみ、支持されるものです。その履行は、あなた方を敵視する側にも等しく要請されるべきであり、それを要請するにはその手段を放棄することが大前提となるはずです。
 第二次大戦とその結果として、中東には多くの国が生まれ、それが多くの場合それ以前の都合により出来たものであり、それらの政府が時に自国民をも攻撃し、都合勝手で戦争を引き起こしてきたことも知っています。それらに様々な国や集団が様々な思惑で介入し関与してきたことでしょう。どのような政府であれ無謬ではない以上、その時代、その瞬間に取られた政策は、後日誤りだったとされることもあるでしょう。そうだとしても、人質を取り強迫し、それによって政治的主張どころか身代金という戦闘資金を得ようとする行為は、否定されます。その手段という一点に拠って、絶対に、絶対に、絶対に。
 我が国が「聖戦」という名の「十字軍」に参加することを、望みません。しかし、今やその「十字軍」はどちらが積極的に組織しているのでしょうか。我が国はアメリカでもイギリスでもフランスでも無く、エジプトでもリビアでもイラクでもヨルダンでもありません。必要であれば、曾て中東で戦争の嵐が吹き荒れていた際、アメリカがイスラエルを支持し、我が国が中東に寄ったように、或はそれが思惑と打算の産物であれ、異なる政策も取りましょう。そして、それは平和的手段により国民によって支持された政府により、実行されるでしょう。イスラエルにもパレスチナにも非があればそれとして対峙しましょう。しかし、それはテロルという手段によって果たされるべきものでは、決してないでしょう。我が国の政策は「対テロ戦争」という名の政策であるが故に支持されているわけではなく、「テロル」という手段を否定する故に支持されるものであって、その逆であることを望みません。
 我が国の憲法は、前文において「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と宣言しました。専制と隷従、圧迫と偏狭は、教義やイデオロギーによって正当化されるものではないでしょう。国民は、それが建前であれ綺麗事であれ、この宣言を崇高なものと確信し、永遠に達成されないものだとしても、それを希求し続ける限りにおいて、支持するでしょう。安易に捨てるようなことは、しないものと信じます。だからこそ、専制と隷従、圧迫と偏狭によって生み出される難民に対して、1億ドルでも2億ドルでも支出し、その支援政策を、それが非軍事的手段である限りにおいて支持するでしょう。同時にそれを支持するが故に、人質の無条件かつ速やかな解放以外の選択を、支持しないでしょう。我が国の政策に誤りがあるとしても、それは平和的手段によって修正されるべきであり、それ以外の手段による修正は、それが譬えどのような正義であれ動機であれ、支持しないでしょう。
 我が国の政策はテロルを認めず、それがテロルにより変更されることを求めません。如何なる愚劣な政策であれ政府であれ、そのような卑劣な手段によって果たされる変更を認めません。曾ての過ちがあれば、それは改められるべきでしょう。しかしそれは、今回のような手段によってではありません。過去の過ちを改めるべきであるならば、それは改めるべき理由そのものにより、今回の行為を容認できないでしょう。あなた方が難民を更に増やし、支援がさらに必要となるならば、我が国が政府としてそこに更なる支援を充てることを、支持するでしょう。それは、あなた方の主張を否定する動機によってではなく、その教義を否定する動機によってではなく、他ならないその地に住む人々の平和と安全と将来をあなた方自身の手で選択できるよう祈ればこそ、政策として支持されるでしょう。
 今回の支援を敵視し、政策の変更を迫りたいのであれば、難民を減らせば良いのであって、難民を多数生み出し、数多の市民に犠牲を強いる、その地における行為を無条件に止めるべきであり、そうすることで実現できる道がありましょう。曾て多くの国でテロルが横行し、それはしばしば独立や革命、或は反独立や反革命の名で行われてきました。我が国の政策が、そのような手段を否定し、それによって生み出される難民を支援する限りにおいて、それは思想や信条、政治形態の有無ではなく、そこに難民が存在するという事実を以て、そこに支援を行うことを、国民は否定しないでしょう。否定する場合でも、必ず平和的手段によってのみ否定するでしょう。
 人質が速やかに解放されることを願います。我が国の政策が、人質と身代金という手段によって変更されることを望みません。その政策が誤りであったとしたら尚の事、そのような手段による変更を認めないでしょう。我が国の政策が変更されることを望むなら、その要求は今回の行為によって達成されるものではなく、変更の要求がテロルや戦争ではない手段によって提示されることを求めるでしょう。我が国の政府は我が国の国民を保護する責任を持ちます。国民もそうであることを望んでいます。そうであればこそテロルは認めないでしょう。そして、その選択は等しくその地においても共有され、実現されることを強く希求して止みません。
 その動機や思想が崇高であるならば、そのような手段を使わずとも、必ずや果たされる日は来るでしょう。それが崇高であるならば、或は我が国の政府もそれを支持し、その政策を国民が支持する日が来るかもしれません。しかし、それは今ではありません。今この瞬間、行われている行為は、動機や思想とは関係なく、その手段を以てのみ否定されることを望みます。それ故に、人質の解放を望みます。我が国は、その政策が誤ったとしても、平和的手段によって、国民の手によってのみ変更される国であることを望み、そうであることは国民からも支持されるでしょう。賢明賢慮な判断と事態の速やかな解決を祈ります。

<企画>戦後70年にあたっての内閣総理大臣談話を皆で作ってみよう

 この度無事テクストバーラウンジ「梟の社」を開店する運びとなりました。
 また、戦後70年の区切りでもあります。所謂村山談話小泉談話と、10年置きに談話が発表される中、今年は安倍談話(仮)が出されるものと予測されています。
 果たして今年の談話はどのような内容になるべきでしょうか。恐らくこれといって正解があるものでもありませんので、出されると予測される談話には事後賛否両論いろいろな意見が出ることでしょう。そこで、折角なので皆で戦後70年の総理大臣談話を考えてみませんか?
 
 本企画は本Blog並びに上記「梟の社」及び「日本語一次史料研究会」(最近サボり気味ですいません)の合同企画として、皆様から広く「自分ならこう書く」という内閣総理大臣談話を集めてみたいと思います。

■趣旨
戦後70年にあたっての総理大臣談話を自分なりに考えて書いてみる

■ルール
1:過去の村山談話、小泉談話同様、「終戦70年」という節目であることに触れること
2:過去の談話の全否定になるような内容としないこと(外交上の齟齬を生じる内容ではないこと)
3:タイトルは「内閣総理大臣談話」とすること(文字数に含まず)
4:末尾は必ず「平成二十七年二月十一日」とし、「内閣総理大臣 ○○」で締めること(ご自身のHN等で構いません)
5:本分文字数を1200字以上1600字以内で収めること
※締切りが建国記念日ですが、せっかくなので戦後の歩みと併せて今の本邦を振り返りつつ書いてみたら良いのでは?という意図もございます。
 
■期日
2月11日を締切とします。
 
■送付方法
テキストファイルまたはワードファイルをメール添付にて送付ください。
メールタイトルは「内閣総理大臣談話」としてください。
なお、本名・住所等の記載は不要ですが、メール連絡等をする場合がありますので、メールアドレスのみは受信可能なアドレスにて送付頂きますようお願い致します。
 
■送付先
sionsuzukazeあっとまーくgmail.com
 
■補足1
応募頂いた「内閣総理大臣談話」については、二月十四日「梟の社」にて輪読の上、名文投票を行います。
ただし、内容があまりに手酷いと判断したものは、勝手ながら対象外と致します。
 
■補足2
著作権は各内閣総理大臣(笑)に帰属します。
ただし、私が運営しているBlogや店舗での公開は、勝手ながら独断で行わせて頂きます。

 
 
さぁ、皆様是非内閣総理大臣になった気分で談話を書いてみましょう。
たくさん参加応募が来るといいな、と心待ちにしております。
言い出しっぺなので当然私も書き上げます。
 
皆様も是非是非考えて書いてみてください。

平成27年 年頭所感

 新年あけましておめでとうございます。

 中性的ニュアンスを持たせたこの名前を名乗り始めてから約18年が経ちました。この間、過剰適応による思想・信条的踏み外しからの軌道修正をはじめ、事実に基づかない歴史解釈や都合良いだけの弱者探しへの指摘、そもそも正義や人権とは何かなど、各般の重要課題をエントリーとして書く形式で当たってまいりました。さらには、愛国という名の横暴や、反差別の名を借りた侮蔑罵倒といった新たな課題にも、ここ数年比較的積極的に取り組んできました。

 そして昨年某所では、御縁のあった皆様から力強いご支援を頂き、この度新たに場を構築する重責を勝手に背負うこととなりました。

 いずれも人生における大変化であり、前途多難な道のりです。しかし、多少の己惚れと過信といういささか無鉄砲な力を得て、今年は、さらに大胆に、さらに重厚さを持って、己の信じる道を推し進める。将来を見据えたテクスト構築の年にしたい、と考えております。

 レイシズム問題では全国各地で様々な事案が発生し、当事者の皆様の司法での勝利もあり、一方でカウンター行動の一部存在に対する疑問の声を、伺う機会を得ました。こうした今まさに正義の名で成されつつあること、淘汰されつつある声に、自分なりの回答を出していくことで、差別とは何か、ただ反レイシズムを騙れば良いのか、或は愛国を唱えれば済むのかをさらに深化して考えてまいります。

 本来の人権、市民権とは何かを継続的に思考し、信念・哲学を不断に昇華する。今年も、己の信ずるやり方で問題提起或は回答提示にあたり、本邦抱える様々な問題を、陰に陽に提起してまいります。

 今年は、戦後70年の節目であります。

 本邦は、先の大戦の深い検証と内省を表面的に行うままに留め、戦後、自由で民主的な国家として、ひたすら平和国家としての道を歩み、世界の戦争と貧困、差別などに対峙せずに済ませてきました。その来し方を振り返りながら、次なる80年、90年、さらには100年に向けて、自己が、どういう哲学を目指し、社会にどのような貢献をしていくのか。

 己が信じる社会公正の姿を、この機会に、或は狭すぎて届かない範囲にしても発信し、あるべき社会づくりへの細やかな、そして確固たる軸線を構築する。そんな一年にしたいと考えています。

 「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」
 「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。」

 キング牧師のこの言葉を、その剽窃者達は、好んで使い、その理念を実践するという行為ではなく、ただ旗や記号或はファッションとしました。半世紀前、ワシントン大行進の最後の演説で語られた一節です。

 エスニシティの問題、カルチャーの問題、それらはこの数年で確固として立ち現れました。日本国憲法を公布し、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と前文で宣言した時代、当時に平和と平等への希求を大いに奮い立たせたに違いありません。この「国家」「自国」「他国」を「人」「自己」「他者」に置き換えた時、この前文の誓約は初めて、個々人の理念・哲学と誠意・理解の下に、初めてその精神を実践し得ると考えます。

 そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、本邦は経済的には世界に冠たる国となりました。当時の本邦に欠けていて、今の本邦こそ、成し遂げるべき課題があります。その課題を考える場として、新たに店を構える運びとなりました。

 個々の叡智とともに、本邦を、真に、世界の中心で輝く社会としていく。その課題を、新年にあたって、強く意識しております。

 最後に、閲読頂いている皆様の個々の実践と理念の実現を希求するとともに、本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

平成27年1月1日
梟の社店主(予) 涼風紫音

(注)今年の安倍首相年頭所感のパクリです

何重にも「残念」であることだけを只管繰り返し続けた御粗末な愚行と後始末

 何が問題なのかまったくわかっていない訳のわからない擁護論から批難論まで飛び交っていて、気が重いというかこういう記事はあまり書くつもりもなかったのだが、論点整理くらいはしておいても良かろう、ということで以下まとめてみる。
 
 論点1:「どうして解散するんですか?」のサイトの何が問題だったのか。
 この点でまず異論が無いであろうことの一つは「騙り」行為そのもの。小学四年生みたいなあたかも無垢を装うことそのものがそもそも駄目(なお、10代前後の多感な時期というのは、大人がそこにどういう視線を向けようが「無垢」どころか「無邪気な邪気」の時期でもあるし、そこに「無垢」だの「純心」だのを見出すのは大人の勝手な振る舞いである。その装いをしようという段階で既に浅ましいのだ)。「当時だったらどう考えたか」という言い訳をするくらいなら、「自分が小学校四年の時に感じていたことを思い返してみると」という前置きをしてそのまま書けば良いものを、明らかに意図的にそれをやっている。1994年生まれという履歴が正しければ公職選挙法9条1項に照らして「有権者」であり「参政権保持者」である可能性が否めない(なお、満20歳で日本国籍を有し同一都道府県に3か月以上在住していること、という要件のいずれかで弾かれる可能性は否定しない)。票を持つ有権者がやる行為の一つの卑劣な行為の一つは怪文書や虚偽情報、欺瞞情報の類の流布であって、これは党派や政党関係なく、公正な代議制選挙を維持するための要諦であって、決して許されるべきものではない。しかも「選挙の意義を問う」というのは、立派に代議制選挙そのものに対するポリティカルメッセージにしか成り得ないのだから、この点からも問題視して当然である。というか、そういう姑息な印象操作を容認するような社会は歪なのだから是正されなければならない。「行動するだけ偉い」「動機は立派である」等の類の擁護は何等その問題を無効化しない。
 さらに、そのサイトを踏み台として、閲覧者にスパム紛いの行為(事実上スパム行為と言って差支えない)をやらせようとした点も問題。サイトの性質上そこを訪れる多数が「有権者」であるとの仮説はそれなりに立てられよう。その場合、そのような有権者はその行為に巻き込まれる(巻き込まれた)ことになる。そこを問題視しないこともまた問題。本件では有権者は徹頭徹尾馬鹿にされているのだ。
 
 
 論点2:「僕らの一歩が日本を変える。」という団体との関係
 2013年12月25日の記事を読む限り、同団体は2012年に任意団体として発足し、本人等の弁を借りれば「NPO法人」であるそうである。仮に本人の弁の通り「個人が勝手にやったこと」であれば、同団体の名でドメイン取得等を行った時点で「団体・組織の私的利用」にしかならず、同団体から費用等が計上されているようであれば(取得されたドメイン情報を見る限りそうとしか思えないのだが)、「団体・組織の財産の私的流用」にしかならないので、横領に等しい行為と言わざるを得ない。逆に同団体・組織が「個人がやったこと」として切り捨てにかかっているのであれば、その時点で「そのような人間に団体・組織の顔」としてそのような人間を前に立てていたことについて、真剣に自省すべきでしかない。いずれにしろ「問題にしかできない」謝罪となっている上、時限的消滅を作為しそれが明るみに出るとソースコードを書き換えるという、稚拙で思慮の浅い、まこと残念な人物と残念な団体が関与していた残念な案件ということにしかならないことに、恐らく当事者・関係者が保身を優先し「気付いていない」と思われる点がさらに残念な事案となった。
 「慶應義塾大学 青木大和さん | ハイパー学生のアタマの中」のインタビュー記事の記載を信じるなら、尊敬する人は「死後も語り継がれるカリスマ性を持ったジョン・F・ケネディ」だそうなので、個人的には自己顕示欲か承認欲求が度を越した事案として捉えているわけだが、同時に同記事時点では「シェアハウス」に住んでいたそうなので、周囲の人間は今回の件を一切知らなかったのか、知っていて止めなかったのかは気になる点ではある。同記事に見られる傾向から考えて(また今回のサイト開設の直前にやりとりされたとされるツイート内容から判断して)全く知らなかったとは思えないので、その点については仮定であるという留保の上ではあるものの、同氏を止める人が周囲に不在であったことは氏にとっては不幸と言えよう。この点で同団体に民主党関係者が関与していた節があるものの、今回の件そのものは委細が判然としないので、そこまで踏み込むのは現時点では軽率ではあろう。陰謀論の種は世に尽きることなし、ではあるが。
 
 論点3:安倍首相のアカウントの発信についての問題
 この問題に飛びついたのが安倍首相の公式アカウントである。当初は悪名高い「保守速報」を参照するよう誘導した他者のポストのシェア行為である。「保守速報」が差別問題で「訴訟対象となっているから」問題なのではない。そもそも「まとめサイト」という存在が、恣意的に表題を変え、時に部分抜粋引用による印象操作を行っている一連の「存在意義そのものが問題視される運営そのもの」であり、それが差別的であろうがなかろうが、そもそもメディアの名に値しない情報源へと誘導するような記事をシェアする行為そのものが如何なものかという点でリテラシーの問題は挙げられよう。最も、さすがにその批判は耳に入ったのか、FBアカウントでは当該RTは削除されたようで、替わりにこれがポストされている。「批判されにくい子供になりすます最も卑劣な行為だと思います。」これはまぁ頷ける(と同時にそこに「無垢」を投射することの視線の問題は最初に述べた)。しかし「選挙目当ての組織的な印象操作ではないでしょうが、選挙は政策を競い合いたいと思います」この前半部分で明らかに「組織的印象操作」を否定しつつもそうであることを匂わせるコメントについては、確かに「政策で競うべき」という点はそうだとしても、かなり微妙ではある。もともと政治的には左翼的言動への敵視がコメント欄に野放し状態のアカウントでありそれ自体は政治的党派抗争と考えれば必ずしも否定されるべきではないだろうが、それ党派抗争以前に差別コメントが野放しであるアカウントであり、アカウント運営そのものが「近代民主主義国家の一国の首班として如何なものか」という状態である点は「本件とは無関係に」提起され続けるべき問題であろう。「反日左翼」だの「売国民主党」だのというコメントが跋扈しているのを放置しているのは、党派抗争以前の問題である。それこそ印象操作の放置にしかならない。
 その上で「一国の首相という権力の頂点が一個人(一団体)の行為に言及するのは如何なものか」という権力の非対称性を以て問うのは解らない話ではない。当然「触れる必要があったのか」という点においては、だ(触れなかったとしても同氏の行動が「問題がなかった」ことにならない点を、同氏を擁護する人間は非対称性の問題にすり替えている)。一方で言及する以上はあくまで「子供になりすます」行為という表面的事実ではなく、その行為そのものが「代議制への冒涜」であるという一点において批判すれば済む話であったろう(代議制の擁護者足らんとするならば、その点については注意喚起も含めて言及してもおかしくはない。少なくとも同氏と団体はここのところメディアへの露出も少なからずだったのだから)。そこには「触れていない」。もともとアカウント運営者の資質そのものが著しく疑わしい状況において、その資質の無さを一層露呈しただけという、まことに残念な話である。わざわざ「シェア」したものを「消して」までポストし直したコメントでアレである。
 
 論点4:「民主くん」アカウントの曖昧さとお粗末さの問題
 同アカウントは民主党のマスコットをアイコンとし、党関係者が運営していることは過去にアカウント自身が言及しているのであるが、同時に「公式アカウントではない」という位置付けであり「個人の発信は特段制限しない」というスタンスで運営されている、極めて位置付けが曖昧なアカウントである。そのアカウントが「内容には賛同できたので、そのフィクションに乗った形のコメント付きで紹介しました。」という弁明にもならない弁明を重ねているのは愚にもつかない。同団体に民主党が党として関与していたのか、今回の件で直接関与していたか、といったことは詳らかにならない限りただの陰謀論を出ないのだが、「どうして解散するのか?」という問いが逆説的意味合いとして「解散する必要などないではないか」ということに帰結する(解散理由に思い当たる節も道理も見出せないという点に収斂する)サイトの「内容に賛同」とはどういった点の何処に賛同したというのか。しかも何の留保もなく「天才少年現る!とてもいい。皆さんもぜひ!」と書いておいてである。言い逃れのしようもない、お粗末さである。民主党の今回の選挙向けのスローガンは「今こそ、流れを変えるとき」である。このタイミングを党として「そのように位置づける」ならば、そもそも「内容に賛同」などできるだろうか。いかに公式アカウントではないと言ったところで党の掲げるスローガンと真っ向からぶつかってしまっていることに「気付いていない」という残念極まる対応になっている。選挙そのものが実に意味も価値もないであると仮定した場合、ボイコットするという戦術も選択肢としては存在する(もっともそれをやれば党はあっという間に辛うじて保っている支持を失い分解するだろうが)。
 
 結論:まこと「残念」な事案である
 非常に器が小さく未熟でつまらない人間が、まことに残念極まることを仕出かした挙句にその後始末にも御粗末なまでに残念な対応を繰り返し、それに言及した我国の首班(そう、首班だ)のアカウントがこれまた極めて残念な対応を繰り返し、挙句に野党第一党の党関係者が運営しているアカウントがこれまた何重にも御粗末で残念な事案なのである。与野党のそれぞれ第一党を巻き込む形で、どこまでも残念な演劇を見せられているこの状況は(そして踊っている人も踊らされている人も何が問題なのか解らず場当たり対応を繰返している状況は)、極めて残念なことである。社会の残念さの縮図としか譬えようがない。思慮も考慮もない極めて平凡でつまらない確信犯が、与野党の中枢の残念さ加減をこれでもかと炙り出しているだけなのだ。
 個人的には、同氏自体はまだ若いのだし、勇み足もあれば失敗もあろうから、それだけ野心があるなら下心など出さずに、粛々と自身がやらかしたことに向き合って再起の道を図る分には、そこに自省がある限り本件を忘れ去ってしまっても構わない程度には思ってはいる。だが、あまりに残念なことが積み重なっている光景を見て本稿を書いた次第である。右翼だろうが左翼だろうが保守だろうが革新だろうが、愚劣卑劣に残念(な対応と擁護)とくれば、それはまこと「残念」としか言い様がない。

フェティシズムへの偏見と境界線上の分裂

 「SMバー」が「口にするのも汚らわしい」ものですか。
 フェティッシュに対する差別・侮蔑発言以外の何ものでもありません。
 職業選択における社会的差別性の発露であり、同時に性嗜好という至って個人的属性であり私的領域であるはずのそれを議会の場で「汚らわしい」とおっしゃる。
 確かに発言中、大臣の資質について問うた、至って政治的背景のそれについては妥当な面もありましょうが、これほど酷い言い草も無いものです。
 なお、当人のあるかないか存じ上げない名誉のために申し添えておきますが、「明日、本会議にて質問に立ちます」という当人のエントリーにあるように、2014年10月28日衆議院本会議の「労働者派遣法」の改正における問題点について言及がされていますが、それは上記の動画ではカットされておりますので、「衆議院インターネット審議中継」の本日における当人の質疑部分にて確認しております。
また、些末な点ではありますが、「宮沢経産相批判 SMバーは「汚らわしいところ」と民主・菊田氏」という記事における、持ち時間の約半分を政治と金の問題に費やしたという記述は、約13分の登壇中およそ5分程度であるため、概ね正しいが若干誇張気味、という点は書き添えておきます。
 その後半の質疑においても、その発言中不正規雇用の不安定性、定収入性への言及において「若い人が安心して結婚し、子供を産み、育てることができる社会ではない」旨の言及については、上記の「汚らわしい」発言を鑑みて極めてステレオタイプなジェンダー規範を下敷きとしたものと判断せざるを得ないでしょう。職業選択の自由についても言及しておりますが(敢えて派遣や非正規雇用を選択する場合等)、そもそも「結婚」などしてもしなくても良いし「子を産み育てるか」も自由であるしそれが「若い人」に限られる話でもなければ「その懸念がなければ問題がない」問題ではない、という点で何重かの問題点は指摘可能でしょう。それに対する安倍首相の反対答弁がどうしようもない内容であることは事実として、大臣の資質なり政策の適切性を問う立場の質疑者が、そのようなステレオタイプな発想の上に、冒頭のような発言をする偏見に塗れたことを、わざわざ「噛んだので言い直す」ことまでして表現「する必要性」があったのか甚だ疑問でもあります。同時にそうする必要性を敢えて言うのであれば、それが「社会的に異端である」存在であることを自明に背景として持った上でそれを利用して資質の適切性として貶めようという意図が「無かった」とは到底考えられません。

 上記発言がいかに社会的に根深く偏見と憎悪、嘲笑の対象であるか、ちょうど良い例を別途頂戴しているので、併せてご紹介致しましょう。

 どうですか?根っ子の部分はまったく同一の偏見に根差したものでしかなく、特定の嗜好を以てそれを「反社会的」と容易に断罪することができる、そのような社会の背景を以て、冒頭の発言になったのでありましょう。なお、当該リプライを投げてきたアカウントが如何にその偏見と憎悪に塗れているかは、アカウントそのものの一連の発言を見ても容易に理解可能です。異性装者を犯罪者や詐欺師と呼び、そうであるだけで「反社会行為」として連日連夜ポストし続ける異常なアカウントなので、正視に堪えませんが。
 そのアカウントが日頃何を書いているかも併せて例示しておきましょう。
1「朝日新聞の私の視点の、高垣雅緒さんの考え方はどう考えても危険思想で、性別変更で身体の状況の要件は必須です。

そもそもの大前提として、男が本物の女にはなれませんし、女が本物の男にはなれません。
ですので、戸籍の性別変更する当事者は、少なければ少ない方が良いです。
それにしても問題なのは、法令遵守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかメディアで正当化していることで、無法状態になりますし公序良俗に反しますし治安や秩序等を乱しますので取り締まった方が良いです。
(中略)
性別の取り扱いの国の法律の改正をすることがあるのでしたら、完全に異性装者であるとか完全に同性愛者であるとかの要件は必須で、該当しない場合とかは、一度変更した戸籍の性別を簡単に元の性別に戻せるようにした方が良いです。

 ここで「詐称」や「偽称」、「偽装」とされ「詐欺犯」とされているのは、異性装者や性転換者、あるいはオネエだのオカマだのと称される人です。それを「公序良俗違反」だの「治安秩序を乱す」だのと言って取り締まれとしているわけです。冒頭の発言とこの発言との壁は極めて薄いものでしょう。

2「第三の性とか、LGBTの性別の

多様性のごちゃまぜ活動とか、法令遵守していない女装した詐欺犯とかメディア等に出さないようお願いします。
LとGだけなら、同性婚の法整備を願っているとすぐに理解できますけど、Bの男でも女でもいいとか、Tは性別の混乱とかで、LGBTのごちゃまぜになると性別の多様性という、性別がいくつもあるかのように見せかける活動となり、どう考えても社会の理解は得られないと思います。
日本は法治国家で性別の取り扱いの法律も施行されていますので、LGBTの性別の多様性と称して性別がいくつもあるかのように見せかけるのは、犯罪を助長し幇助し加担する反社会活動となってしまいます。
(中略)
ともかく、第三の性とか、LGBTの性別がいくつもあるかのように見せかける活動とか、法令順守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかはメディア等に出さないようお願いします。

 BとかTは「法令順守していない」んだそうです。なお、当該「法令」が何に該当するのか知りませんが、戸籍法でないことは事実でしょう。民法でもないでしょうね。あるのは「社会規範」と「普通」原理だけです。

3「一度変更した戸籍の性別を元の性別に戻す再変更を求めたら却下になり、抗告しても、棄却になりました。

性別の取り扱いの法律が国策で正しいならば、そのように、もっと周知徹底すべきなのに、法令遵守していない女性に偽装した男性とかがCM等メディアに出ているのは、明らかに国家反逆的行為で早急に取り締まるべきです。

 一部確かに女装して盗撮に及ぶといった不届き者がいることは十分承知しておりますが、異性装者を「法令順守していない偽装」やら「国家反逆的行為」とやらと平然と書き連ねる性根がどれほどおぞましいか、指摘するまでも無いでしょう。

4「女性に偽装した男性のことを、オネエとか、女性であるかのように偽称して欺いて騙すのは悪質卑劣すぎます。

メディア等で、オネエとかいう男性が出ているようですが、お姉さんという呼び名の短縮形のオネエは女性に使用される言葉です。
オネエではなく、オニイが正しい呼称で、日本語の使い方が間違っています。
戸籍の性別が男性なのに、オネエと女性であるかのように偽称して、不特定多数の日本国民を騙そうとするのは詐欺行為です。

 一体、一般に「オネエ」と称される存在が「女性」を偽装しているとか、それに「不特定多数の日本国民」が騙されるなどというのは被害妄想どころか、想像力がゲシュタルト崩壊しそうですが(寡聞にしてそのように騙された存在はほとんど知りません。ごく稀に初夜に相手が同性だと初めて知った、という系統の海外のニュースが散見されるのは承知していますが、それもかなりのレアなケースではありましょう)。

 当該サイトは「女装犯」と只管異性装であることを以て即断に犯罪者であり取り締まるべき規範・治安対象としてしか見ていないので、これ以上引用すると吐き気どころか実際に嘔吐しかねないので止めておきますが、フェティシズムを含めて、性的少数者はこのような偏見と憎悪と嘲笑との社会規範の中に存在します。今も、です。敢えて「性的少数者」と書いたのは「性的指向」も「性的嗜好」も何れもがそれに該当するからでもあります。そこから、或は辛うじて社会的には性同一性障害に対する理解が進みつつあるとはいえ、現実は直接表現せずとも、そのようなものです。反社会的、反生物的、或は伝統の家族を壊す、汚らわしい、全て同一線上に当事者にぶつけられる社会の偏見そのものです。
 大臣の資質を問うのは大いに結構で、問われるべき点はいくらでもありましょう。それは大事なことです。派遣労働者法の改正可否、その内容も重要な問題です。そして「同様に」菊田議員の見識についても、その一言だけで十分に問われるべき内容でしょう。国会の場で、議事録にも録画にも残る形で、明瞭且つ直接的に偏見をぶつけているのですから、「女性が輝く社会」どころか「少数者が報われない社会」そのままですね、と。
 こういうことを書いていると、愛国気取りの痴れ者やら保守を自称する教条主義者がここぞとばかりに「だから反差別は」とか「だから民主党は」と書き連ねるわけですが、そういうところにわざわざネタを提供したくない気持ちは百も二百もありますが、それでも指摘されるべき偏見の一つではありましょう。
 是非、日頃差別問題に熱心な同民主党の有田議員には、この菊田議員の偏見を問い質すことを期待したいものです。ヘイトスピーチやヘイトクライムは何も人種差別に限ったものではありませんし、わざわざ引用した偏見塗れのBlogも「これがヘイトスピーチでなくて何なのか」というくらいにヘイト塗れですので、当然に射程に入れるべきものでしょう。その性質上。個人的にはまったく期待していませんが、せめて日頃の言動に則って対応頂きたいものです。逆に言えば、そこまで射程に入れずに「人種差別禁止法」ではなく「ヘイトスピーチ規制法」に拘るのであれば、従来通りその法案には自身の信条に沿って「原則反対」を改めて表明しておきます。
 
 
 
 
 
 
 
 最後に菊田議員とは関係ありませんが関連引用したBlog主のアカウントの中の人へ。「バイセクシャル」で「異性装趣味者」で「たまにオネエ言葉」を使うこともある自分が(言葉そのものは最近あまり出なくなりましたが)、「反社会的」で「治安紊乱」に値し「取り締まり」の対象として然るべきで、そうしたいのであれば、いくらでも不法行為でもなんでも訴えてご覧なさい。ツイッターで各報道機関の公式アカウントにつまらないタグをつけて連日ポストするような下衆な真似を繰返すくらいなら。もっともその前にアカウント凍結されても知りませんが(規約違反に十分該当するでしょうから)。
 そういうクソッタレな社会を創りたい、維持したいなら、それをひっくり返してその不条理を「当然に不条理として捉える」社会を対置してやりますよ。その時が10年後か100年後か1000年後か知りませんが、必ず、その不条理を糾弾し糾弾することが当然である社会を対置してやりますとも。たとえそれが「反差別」だの「反レイシズム」だのの最後尾で最も無視に足る存在であったとしても、それであるからこそ、必ずそういう方向に持って行ってやりますとも。「普通」どころか「LG」からも分断され、或は憎悪さえされる「B」や「T」のうち、少なくとも自分は「B」には該当するわけですから、自身の生存と信念の下に、必ずそうしてやります。その時に復讐してやろう、と思うかどうかは感情の生き物故に解りませんし、そもそもそういう社会が出来た時に自分が存命であるかどうかも怪しいところですが(それは同時にアカウントの中の人も)、せいぜい信じる社会正義が転換した際、それに追われる側にならないことを祈っていると良いでしょう。自分だってそのような復讐の連鎖など望みはしませんし。ただ、個人的にはあそこまで侮蔑・罵倒が書き連ねてあることに対して、憤懣を抱かないと言えば嘘になりますので、何等かの対応をしたとしてもそれは応報として指摘してあげますよ。もう十分書きましたが。境界線上の「どちらでもない」存在を片っ端から二分法で瞬断する社会そのものを、変えてやりましょう。自分の力がいかに微力であれ無力であれ、そういった想像力の欠片もない二分法社会には抗いますとも。そしていつの日か、それをひっくり返してやりましょう。自分と同じような存在が、10年後、100年後、1000年後に少しでもマシな社会を享受できるために。反社会、治安紊乱上等ですとも。勝手な線引きで「線を引けない」存在が確かに其処に、此処に存在するという、たったそれだけの想像もできず許容もできない社会であるなら、いくらでもその社会を変えていきますとも。