「日本政府と国民へのメッセージ」について一日本国民より

 我が国の首相はカイロにおいて、人道支援やインフラ整備に25億ドルの経済支援を表明しました。「非軍事的分野」での支援であり、そのうち2億ドルは他ならない「イスラム国」が生み出した難民に対して必要な支援であり、喫緊且つ重要な支援となりましょう。
 或は我が国の政策が、過去から今に至るまで全て正しかったことは無いかもしれません。あなた方が国を持ちたいと願い、或は実現したいと願う社会は、その動機において正しいものもあるかもしれません。しかし、テロルを否定するという一点において、その手段を放棄しない限り、我が国の歴史を振り返って我が国はそれの国家承認という選択をしないでしょう。曾てその横行で自らの国の政策を過ち、世界を相手に戦争するまでに至った狂気への道は、決して褒められたものではないでしょう。同時に、そのテロルが貧困や社会不満を背景とし、正義の実現を願って引き起こされたものであることも、それが独善に過ぎない動機であったことも、我が国の歴史に刻まれています。
 如何に規模を広げても、手段をエスカレートさせても、テロルによって政策を変更する要求は、拒否されるでしょう。如何なる主張であれ、その手段という一点においてのみ、徹頭徹尾否定されるべきです。今現在行われているそれも、過去に行われてきたそれも、そうであるという一点において、否定されるでしょう。
 人質は解放されるべきであり、解放すべきであり、解放することによってのみ、初めて対話の回路も拓けましょう。あなた方が居る場所が、国が不条理に塗れ、その不条理の一端に我が国の政策が関与していたとしても、その告発はテロルによることなく成されるべきであり、原則であり、如何なる正義に拠っても、テロルの横行は決して認めないでしょう。そして認めない政府を、支持するでしょう。
 その上で、その不条理の告発が正しいものであるなら、その調停に政府の政策を傾けることもまた、支持するでしょう。それはテロルを放棄し、紛争を停止し、それが履行されることによってのみ、支持されるものです。その履行は、あなた方を敵視する側にも等しく要請されるべきであり、それを要請するにはその手段を放棄することが大前提となるはずです。
 第二次大戦とその結果として、中東には多くの国が生まれ、それが多くの場合それ以前の都合により出来たものであり、それらの政府が時に自国民をも攻撃し、都合勝手で戦争を引き起こしてきたことも知っています。それらに様々な国や集団が様々な思惑で介入し関与してきたことでしょう。どのような政府であれ無謬ではない以上、その時代、その瞬間に取られた政策は、後日誤りだったとされることもあるでしょう。そうだとしても、人質を取り強迫し、それによって政治的主張どころか身代金という戦闘資金を得ようとする行為は、否定されます。その手段という一点に拠って、絶対に、絶対に、絶対に。
 我が国が「聖戦」という名の「十字軍」に参加することを、望みません。しかし、今やその「十字軍」はどちらが積極的に組織しているのでしょうか。我が国はアメリカでもイギリスでもフランスでも無く、エジプトでもリビアでもイラクでもヨルダンでもありません。必要であれば、曾て中東で戦争の嵐が吹き荒れていた際、アメリカがイスラエルを支持し、我が国が中東に寄ったように、或はそれが思惑と打算の産物であれ、異なる政策も取りましょう。そして、それは平和的手段により国民によって支持された政府により、実行されるでしょう。イスラエルにもパレスチナにも非があればそれとして対峙しましょう。しかし、それはテロルという手段によって果たされるべきものでは、決してないでしょう。我が国の政策は「対テロ戦争」という名の政策であるが故に支持されているわけではなく、「テロル」という手段を否定する故に支持されるものであって、その逆であることを望みません。
 我が国の憲法は、前文において「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と宣言しました。専制と隷従、圧迫と偏狭は、教義やイデオロギーによって正当化されるものではないでしょう。国民は、それが建前であれ綺麗事であれ、この宣言を崇高なものと確信し、永遠に達成されないものだとしても、それを希求し続ける限りにおいて、支持するでしょう。安易に捨てるようなことは、しないものと信じます。だからこそ、専制と隷従、圧迫と偏狭によって生み出される難民に対して、1億ドルでも2億ドルでも支出し、その支援政策を、それが非軍事的手段である限りにおいて支持するでしょう。同時にそれを支持するが故に、人質の無条件かつ速やかな解放以外の選択を、支持しないでしょう。我が国の政策に誤りがあるとしても、それは平和的手段によって修正されるべきであり、それ以外の手段による修正は、それが譬えどのような正義であれ動機であれ、支持しないでしょう。
 我が国の政策はテロルを認めず、それがテロルにより変更されることを求めません。如何なる愚劣な政策であれ政府であれ、そのような卑劣な手段によって果たされる変更を認めません。曾ての過ちがあれば、それは改められるべきでしょう。しかしそれは、今回のような手段によってではありません。過去の過ちを改めるべきであるならば、それは改めるべき理由そのものにより、今回の行為を容認できないでしょう。あなた方が難民を更に増やし、支援がさらに必要となるならば、我が国が政府としてそこに更なる支援を充てることを、支持するでしょう。それは、あなた方の主張を否定する動機によってではなく、その教義を否定する動機によってではなく、他ならないその地に住む人々の平和と安全と将来をあなた方自身の手で選択できるよう祈ればこそ、政策として支持されるでしょう。
 今回の支援を敵視し、政策の変更を迫りたいのであれば、難民を減らせば良いのであって、難民を多数生み出し、数多の市民に犠牲を強いる、その地における行為を無条件に止めるべきであり、そうすることで実現できる道がありましょう。曾て多くの国でテロルが横行し、それはしばしば独立や革命、或は反独立や反革命の名で行われてきました。我が国の政策が、そのような手段を否定し、それによって生み出される難民を支援する限りにおいて、それは思想や信条、政治形態の有無ではなく、そこに難民が存在するという事実を以て、そこに支援を行うことを、国民は否定しないでしょう。否定する場合でも、必ず平和的手段によってのみ否定するでしょう。
 人質が速やかに解放されることを願います。我が国の政策が、人質と身代金という手段によって変更されることを望みません。その政策が誤りであったとしたら尚の事、そのような手段による変更を認めないでしょう。我が国の政策が変更されることを望むなら、その要求は今回の行為によって達成されるものではなく、変更の要求がテロルや戦争ではない手段によって提示されることを求めるでしょう。我が国の政府は我が国の国民を保護する責任を持ちます。国民もそうであることを望んでいます。そうであればこそテロルは認めないでしょう。そして、その選択は等しくその地においても共有され、実現されることを強く希求して止みません。
 その動機や思想が崇高であるならば、そのような手段を使わずとも、必ずや果たされる日は来るでしょう。それが崇高であるならば、或は我が国の政府もそれを支持し、その政策を国民が支持する日が来るかもしれません。しかし、それは今ではありません。今この瞬間、行われている行為は、動機や思想とは関係なく、その手段を以てのみ否定されることを望みます。それ故に、人質の解放を望みます。我が国は、その政策が誤ったとしても、平和的手段によって、国民の手によってのみ変更される国であることを望み、そうであることは国民からも支持されるでしょう。賢明賢慮な判断と事態の速やかな解決を祈ります。

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<企画>戦後70年にあたっての内閣総理大臣談話を皆で作ってみよう

 この度無事テクストバーラウンジ「梟の社」を開店する運びとなりました。
 また、戦後70年の区切りでもあります。所謂村山談話小泉談話と、10年置きに談話が発表される中、今年は安倍談話(仮)が出されるものと予測されています。
 果たして今年の談話はどのような内容になるべきでしょうか。恐らくこれといって正解があるものでもありませんので、出されると予測される談話には事後賛否両論いろいろな意見が出ることでしょう。そこで、折角なので皆で戦後70年の総理大臣談話を考えてみませんか?
 
 本企画は本Blog並びに上記「梟の社」及び「日本語一次史料研究会」(最近サボり気味ですいません)の合同企画として、皆様から広く「自分ならこう書く」という内閣総理大臣談話を集めてみたいと思います。

■趣旨
戦後70年にあたっての総理大臣談話を自分なりに考えて書いてみる

■ルール
1:過去の村山談話、小泉談話同様、「終戦70年」という節目であることに触れること
2:過去の談話の全否定になるような内容としないこと(外交上の齟齬を生じる内容ではないこと)
3:タイトルは「内閣総理大臣談話」とすること(文字数に含まず)
4:末尾は必ず「平成二十七年二月十一日」とし、「内閣総理大臣 ○○」で締めること(ご自身のHN等で構いません)
5:本分文字数を1200字以上1600字以内で収めること
※締切りが建国記念日ですが、せっかくなので戦後の歩みと併せて今の本邦を振り返りつつ書いてみたら良いのでは?という意図もございます。
 
■期日
2月11日を締切とします。
 
■送付方法
テキストファイルまたはワードファイルをメール添付にて送付ください。
メールタイトルは「内閣総理大臣談話」としてください。
なお、本名・住所等の記載は不要ですが、メール連絡等をする場合がありますので、メールアドレスのみは受信可能なアドレスにて送付頂きますようお願い致します。
 
■送付先
sionsuzukazeあっとまーくgmail.com
 
■補足1
応募頂いた「内閣総理大臣談話」については、二月十四日「梟の社」にて輪読の上、名文投票を行います。
ただし、内容があまりに手酷いと判断したものは、勝手ながら対象外と致します。
 
■補足2
著作権は各内閣総理大臣(笑)に帰属します。
ただし、私が運営しているBlogや店舗での公開は、勝手ながら独断で行わせて頂きます。

 
 
さぁ、皆様是非内閣総理大臣になった気分で談話を書いてみましょう。
たくさん参加応募が来るといいな、と心待ちにしております。
言い出しっぺなので当然私も書き上げます。
 
皆様も是非是非考えて書いてみてください。

平成27年 年頭所感

 新年あけましておめでとうございます。

 中性的ニュアンスを持たせたこの名前を名乗り始めてから約18年が経ちました。この間、過剰適応による思想・信条的踏み外しからの軌道修正をはじめ、事実に基づかない歴史解釈や都合良いだけの弱者探しへの指摘、そもそも正義や人権とは何かなど、各般の重要課題をエントリーとして書く形式で当たってまいりました。さらには、愛国という名の横暴や、反差別の名を借りた侮蔑罵倒といった新たな課題にも、ここ数年比較的積極的に取り組んできました。

 そして昨年某所では、御縁のあった皆様から力強いご支援を頂き、この度新たに場を構築する重責を勝手に背負うこととなりました。

 いずれも人生における大変化であり、前途多難な道のりです。しかし、多少の己惚れと過信といういささか無鉄砲な力を得て、今年は、さらに大胆に、さらに重厚さを持って、己の信じる道を推し進める。将来を見据えたテクスト構築の年にしたい、と考えております。

 レイシズム問題では全国各地で様々な事案が発生し、当事者の皆様の司法での勝利もあり、一方でカウンター行動の一部存在に対する疑問の声を、伺う機会を得ました。こうした今まさに正義の名で成されつつあること、淘汰されつつある声に、自分なりの回答を出していくことで、差別とは何か、ただ反レイシズムを騙れば良いのか、或は愛国を唱えれば済むのかをさらに深化して考えてまいります。

 本来の人権、市民権とは何かを継続的に思考し、信念・哲学を不断に昇華する。今年も、己の信ずるやり方で問題提起或は回答提示にあたり、本邦抱える様々な問題を、陰に陽に提起してまいります。

 今年は、戦後70年の節目であります。

 本邦は、先の大戦の深い検証と内省を表面的に行うままに留め、戦後、自由で民主的な国家として、ひたすら平和国家としての道を歩み、世界の戦争と貧困、差別などに対峙せずに済ませてきました。その来し方を振り返りながら、次なる80年、90年、さらには100年に向けて、自己が、どういう哲学を目指し、社会にどのような貢献をしていくのか。

 己が信じる社会公正の姿を、この機会に、或は狭すぎて届かない範囲にしても発信し、あるべき社会づくりへの細やかな、そして確固たる軸線を構築する。そんな一年にしたいと考えています。

 「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」
 「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。」

 キング牧師のこの言葉を、その剽窃者達は、好んで使い、その理念を実践するという行為ではなく、ただ旗や記号或はファッションとしました。半世紀前、ワシントン大行進の最後の演説で語られた一節です。

 エスニシティの問題、カルチャーの問題、それらはこの数年で確固として立ち現れました。日本国憲法を公布し、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」と前文で宣言した時代、当時に平和と平等への希求を大いに奮い立たせたに違いありません。この「国家」「自国」「他国」を「人」「自己」「他者」に置き換えた時、この前文の誓約は初めて、個々人の理念・哲学と誠意・理解の下に、初めてその精神を実践し得ると考えます。

 そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、本邦は経済的には世界に冠たる国となりました。当時の本邦に欠けていて、今の本邦こそ、成し遂げるべき課題があります。その課題を考える場として、新たに店を構える運びとなりました。

 個々の叡智とともに、本邦を、真に、世界の中心で輝く社会としていく。その課題を、新年にあたって、強く意識しております。

 最後に、閲読頂いている皆様の個々の実践と理念の実現を希求するとともに、本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

平成27年1月1日
梟の社店主(予) 涼風紫音

(注)今年の安倍首相年頭所感のパクリです

何重にも「残念」であることだけを只管繰り返し続けた御粗末な愚行と後始末

 何が問題なのかまったくわかっていない訳のわからない擁護論から批難論まで飛び交っていて、気が重いというかこういう記事はあまり書くつもりもなかったのだが、論点整理くらいはしておいても良かろう、ということで以下まとめてみる。
 
 論点1:「どうして解散するんですか?」のサイトの何が問題だったのか。
 この点でまず異論が無いであろうことの一つは「騙り」行為そのもの。小学四年生みたいなあたかも無垢を装うことそのものがそもそも駄目(なお、10代前後の多感な時期というのは、大人がそこにどういう視線を向けようが「無垢」どころか「無邪気な邪気」の時期でもあるし、そこに「無垢」だの「純心」だのを見出すのは大人の勝手な振る舞いである。その装いをしようという段階で既に浅ましいのだ)。「当時だったらどう考えたか」という言い訳をするくらいなら、「自分が小学校四年の時に感じていたことを思い返してみると」という前置きをしてそのまま書けば良いものを、明らかに意図的にそれをやっている。1994年生まれという履歴が正しければ公職選挙法9条1項に照らして「有権者」であり「参政権保持者」である可能性が否めない(なお、満20歳で日本国籍を有し同一都道府県に3か月以上在住していること、という要件のいずれかで弾かれる可能性は否定しない)。票を持つ有権者がやる行為の一つの卑劣な行為の一つは怪文書や虚偽情報、欺瞞情報の類の流布であって、これは党派や政党関係なく、公正な代議制選挙を維持するための要諦であって、決して許されるべきものではない。しかも「選挙の意義を問う」というのは、立派に代議制選挙そのものに対するポリティカルメッセージにしか成り得ないのだから、この点からも問題視して当然である。というか、そういう姑息な印象操作を容認するような社会は歪なのだから是正されなければならない。「行動するだけ偉い」「動機は立派である」等の類の擁護は何等その問題を無効化しない。
 さらに、そのサイトを踏み台として、閲覧者にスパム紛いの行為(事実上スパム行為と言って差支えない)をやらせようとした点も問題。サイトの性質上そこを訪れる多数が「有権者」であるとの仮説はそれなりに立てられよう。その場合、そのような有権者はその行為に巻き込まれる(巻き込まれた)ことになる。そこを問題視しないこともまた問題。本件では有権者は徹頭徹尾馬鹿にされているのだ。
 
 
 論点2:「僕らの一歩が日本を変える。」という団体との関係
 2013年12月25日の記事を読む限り、同団体は2012年に任意団体として発足し、本人等の弁を借りれば「NPO法人」であるそうである。仮に本人の弁の通り「個人が勝手にやったこと」であれば、同団体の名でドメイン取得等を行った時点で「団体・組織の私的利用」にしかならず、同団体から費用等が計上されているようであれば(取得されたドメイン情報を見る限りそうとしか思えないのだが)、「団体・組織の財産の私的流用」にしかならないので、横領に等しい行為と言わざるを得ない。逆に同団体・組織が「個人がやったこと」として切り捨てにかかっているのであれば、その時点で「そのような人間に団体・組織の顔」としてそのような人間を前に立てていたことについて、真剣に自省すべきでしかない。いずれにしろ「問題にしかできない」謝罪となっている上、時限的消滅を作為しそれが明るみに出るとソースコードを書き換えるという、稚拙で思慮の浅い、まこと残念な人物と残念な団体が関与していた残念な案件ということにしかならないことに、恐らく当事者・関係者が保身を優先し「気付いていない」と思われる点がさらに残念な事案となった。
 「慶應義塾大学 青木大和さん | ハイパー学生のアタマの中」のインタビュー記事の記載を信じるなら、尊敬する人は「死後も語り継がれるカリスマ性を持ったジョン・F・ケネディ」だそうなので、個人的には自己顕示欲か承認欲求が度を越した事案として捉えているわけだが、同時に同記事時点では「シェアハウス」に住んでいたそうなので、周囲の人間は今回の件を一切知らなかったのか、知っていて止めなかったのかは気になる点ではある。同記事に見られる傾向から考えて(また今回のサイト開設の直前にやりとりされたとされるツイート内容から判断して)全く知らなかったとは思えないので、その点については仮定であるという留保の上ではあるものの、同氏を止める人が周囲に不在であったことは氏にとっては不幸と言えよう。この点で同団体に民主党関係者が関与していた節があるものの、今回の件そのものは委細が判然としないので、そこまで踏み込むのは現時点では軽率ではあろう。陰謀論の種は世に尽きることなし、ではあるが。
 
 論点3:安倍首相のアカウントの発信についての問題
 この問題に飛びついたのが安倍首相の公式アカウントである。当初は悪名高い「保守速報」を参照するよう誘導した他者のポストのシェア行為である。「保守速報」が差別問題で「訴訟対象となっているから」問題なのではない。そもそも「まとめサイト」という存在が、恣意的に表題を変え、時に部分抜粋引用による印象操作を行っている一連の「存在意義そのものが問題視される運営そのもの」であり、それが差別的であろうがなかろうが、そもそもメディアの名に値しない情報源へと誘導するような記事をシェアする行為そのものが如何なものかという点でリテラシーの問題は挙げられよう。最も、さすがにその批判は耳に入ったのか、FBアカウントでは当該RTは削除されたようで、替わりにこれがポストされている。「批判されにくい子供になりすます最も卑劣な行為だと思います。」これはまぁ頷ける(と同時にそこに「無垢」を投射することの視線の問題は最初に述べた)。しかし「選挙目当ての組織的な印象操作ではないでしょうが、選挙は政策を競い合いたいと思います」この前半部分で明らかに「組織的印象操作」を否定しつつもそうであることを匂わせるコメントについては、確かに「政策で競うべき」という点はそうだとしても、かなり微妙ではある。もともと政治的には左翼的言動への敵視がコメント欄に野放し状態のアカウントでありそれ自体は政治的党派抗争と考えれば必ずしも否定されるべきではないだろうが、それ党派抗争以前に差別コメントが野放しであるアカウントであり、アカウント運営そのものが「近代民主主義国家の一国の首班として如何なものか」という状態である点は「本件とは無関係に」提起され続けるべき問題であろう。「反日左翼」だの「売国民主党」だのというコメントが跋扈しているのを放置しているのは、党派抗争以前の問題である。それこそ印象操作の放置にしかならない。
 その上で「一国の首相という権力の頂点が一個人(一団体)の行為に言及するのは如何なものか」という権力の非対称性を以て問うのは解らない話ではない。当然「触れる必要があったのか」という点においては、だ(触れなかったとしても同氏の行動が「問題がなかった」ことにならない点を、同氏を擁護する人間は非対称性の問題にすり替えている)。一方で言及する以上はあくまで「子供になりすます」行為という表面的事実ではなく、その行為そのものが「代議制への冒涜」であるという一点において批判すれば済む話であったろう(代議制の擁護者足らんとするならば、その点については注意喚起も含めて言及してもおかしくはない。少なくとも同氏と団体はここのところメディアへの露出も少なからずだったのだから)。そこには「触れていない」。もともとアカウント運営者の資質そのものが著しく疑わしい状況において、その資質の無さを一層露呈しただけという、まことに残念な話である。わざわざ「シェア」したものを「消して」までポストし直したコメントでアレである。
 
 論点4:「民主くん」アカウントの曖昧さとお粗末さの問題
 同アカウントは民主党のマスコットをアイコンとし、党関係者が運営していることは過去にアカウント自身が言及しているのであるが、同時に「公式アカウントではない」という位置付けであり「個人の発信は特段制限しない」というスタンスで運営されている、極めて位置付けが曖昧なアカウントである。そのアカウントが「内容には賛同できたので、そのフィクションに乗った形のコメント付きで紹介しました。」という弁明にもならない弁明を重ねているのは愚にもつかない。同団体に民主党が党として関与していたのか、今回の件で直接関与していたか、といったことは詳らかにならない限りただの陰謀論を出ないのだが、「どうして解散するのか?」という問いが逆説的意味合いとして「解散する必要などないではないか」ということに帰結する(解散理由に思い当たる節も道理も見出せないという点に収斂する)サイトの「内容に賛同」とはどういった点の何処に賛同したというのか。しかも何の留保もなく「天才少年現る!とてもいい。皆さんもぜひ!」と書いておいてである。言い逃れのしようもない、お粗末さである。民主党の今回の選挙向けのスローガンは「今こそ、流れを変えるとき」である。このタイミングを党として「そのように位置づける」ならば、そもそも「内容に賛同」などできるだろうか。いかに公式アカウントではないと言ったところで党の掲げるスローガンと真っ向からぶつかってしまっていることに「気付いていない」という残念極まる対応になっている。選挙そのものが実に意味も価値もないであると仮定した場合、ボイコットするという戦術も選択肢としては存在する(もっともそれをやれば党はあっという間に辛うじて保っている支持を失い分解するだろうが)。
 
 結論:まこと「残念」な事案である
 非常に器が小さく未熟でつまらない人間が、まことに残念極まることを仕出かした挙句にその後始末にも御粗末なまでに残念な対応を繰り返し、それに言及した我国の首班(そう、首班だ)のアカウントがこれまた極めて残念な対応を繰り返し、挙句に野党第一党の党関係者が運営しているアカウントがこれまた何重にも御粗末で残念な事案なのである。与野党のそれぞれ第一党を巻き込む形で、どこまでも残念な演劇を見せられているこの状況は(そして踊っている人も踊らされている人も何が問題なのか解らず場当たり対応を繰返している状況は)、極めて残念なことである。社会の残念さの縮図としか譬えようがない。思慮も考慮もない極めて平凡でつまらない確信犯が、与野党の中枢の残念さ加減をこれでもかと炙り出しているだけなのだ。
 個人的には、同氏自体はまだ若いのだし、勇み足もあれば失敗もあろうから、それだけ野心があるなら下心など出さずに、粛々と自身がやらかしたことに向き合って再起の道を図る分には、そこに自省がある限り本件を忘れ去ってしまっても構わない程度には思ってはいる。だが、あまりに残念なことが積み重なっている光景を見て本稿を書いた次第である。右翼だろうが左翼だろうが保守だろうが革新だろうが、愚劣卑劣に残念(な対応と擁護)とくれば、それはまこと「残念」としか言い様がない。

フェティシズムへの偏見と境界線上の分裂

 「SMバー」が「口にするのも汚らわしい」ものですか。
 フェティッシュに対する差別・侮蔑発言以外の何ものでもありません。
 職業選択における社会的差別性の発露であり、同時に性嗜好という至って個人的属性であり私的領域であるはずのそれを議会の場で「汚らわしい」とおっしゃる。
 確かに発言中、大臣の資質について問うた、至って政治的背景のそれについては妥当な面もありましょうが、これほど酷い言い草も無いものです。
 なお、当人のあるかないか存じ上げない名誉のために申し添えておきますが、「明日、本会議にて質問に立ちます」という当人のエントリーにあるように、2014年10月28日衆議院本会議の「労働者派遣法」の改正における問題点について言及がされていますが、それは上記の動画ではカットされておりますので、「衆議院インターネット審議中継」の本日における当人の質疑部分にて確認しております。
また、些末な点ではありますが、「宮沢経産相批判 SMバーは「汚らわしいところ」と民主・菊田氏」という記事における、持ち時間の約半分を政治と金の問題に費やしたという記述は、約13分の登壇中およそ5分程度であるため、概ね正しいが若干誇張気味、という点は書き添えておきます。
 その後半の質疑においても、その発言中不正規雇用の不安定性、定収入性への言及において「若い人が安心して結婚し、子供を産み、育てることができる社会ではない」旨の言及については、上記の「汚らわしい」発言を鑑みて極めてステレオタイプなジェンダー規範を下敷きとしたものと判断せざるを得ないでしょう。職業選択の自由についても言及しておりますが(敢えて派遣や非正規雇用を選択する場合等)、そもそも「結婚」などしてもしなくても良いし「子を産み育てるか」も自由であるしそれが「若い人」に限られる話でもなければ「その懸念がなければ問題がない」問題ではない、という点で何重かの問題点は指摘可能でしょう。それに対する安倍首相の反対答弁がどうしようもない内容であることは事実として、大臣の資質なり政策の適切性を問う立場の質疑者が、そのようなステレオタイプな発想の上に、冒頭のような発言をする偏見に塗れたことを、わざわざ「噛んだので言い直す」ことまでして表現「する必要性」があったのか甚だ疑問でもあります。同時にそうする必要性を敢えて言うのであれば、それが「社会的に異端である」存在であることを自明に背景として持った上でそれを利用して資質の適切性として貶めようという意図が「無かった」とは到底考えられません。

 上記発言がいかに社会的に根深く偏見と憎悪、嘲笑の対象であるか、ちょうど良い例を別途頂戴しているので、併せてご紹介致しましょう。

 どうですか?根っ子の部分はまったく同一の偏見に根差したものでしかなく、特定の嗜好を以てそれを「反社会的」と容易に断罪することができる、そのような社会の背景を以て、冒頭の発言になったのでありましょう。なお、当該リプライを投げてきたアカウントが如何にその偏見と憎悪に塗れているかは、アカウントそのものの一連の発言を見ても容易に理解可能です。異性装者を犯罪者や詐欺師と呼び、そうであるだけで「反社会行為」として連日連夜ポストし続ける異常なアカウントなので、正視に堪えませんが。
 そのアカウントが日頃何を書いているかも併せて例示しておきましょう。
1「朝日新聞の私の視点の、高垣雅緒さんの考え方はどう考えても危険思想で、性別変更で身体の状況の要件は必須です。

そもそもの大前提として、男が本物の女にはなれませんし、女が本物の男にはなれません。
ですので、戸籍の性別変更する当事者は、少なければ少ない方が良いです。
それにしても問題なのは、法令遵守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかメディアで正当化していることで、無法状態になりますし公序良俗に反しますし治安や秩序等を乱しますので取り締まった方が良いです。
(中略)
性別の取り扱いの国の法律の改正をすることがあるのでしたら、完全に異性装者であるとか完全に同性愛者であるとかの要件は必須で、該当しない場合とかは、一度変更した戸籍の性別を簡単に元の性別に戻せるようにした方が良いです。

 ここで「詐称」や「偽称」、「偽装」とされ「詐欺犯」とされているのは、異性装者や性転換者、あるいはオネエだのオカマだのと称される人です。それを「公序良俗違反」だの「治安秩序を乱す」だのと言って取り締まれとしているわけです。冒頭の発言とこの発言との壁は極めて薄いものでしょう。

2「第三の性とか、LGBTの性別の

多様性のごちゃまぜ活動とか、法令遵守していない女装した詐欺犯とかメディア等に出さないようお願いします。
LとGだけなら、同性婚の法整備を願っているとすぐに理解できますけど、Bの男でも女でもいいとか、Tは性別の混乱とかで、LGBTのごちゃまぜになると性別の多様性という、性別がいくつもあるかのように見せかける活動となり、どう考えても社会の理解は得られないと思います。
日本は法治国家で性別の取り扱いの法律も施行されていますので、LGBTの性別の多様性と称して性別がいくつもあるかのように見せかけるのは、犯罪を助長し幇助し加担する反社会活動となってしまいます。
(中略)
ともかく、第三の性とか、LGBTの性別がいくつもあるかのように見せかける活動とか、法令順守していない女性に詐称や偽称や偽装した詐欺犯とかはメディア等に出さないようお願いします。

 BとかTは「法令順守していない」んだそうです。なお、当該「法令」が何に該当するのか知りませんが、戸籍法でないことは事実でしょう。民法でもないでしょうね。あるのは「社会規範」と「普通」原理だけです。

3「一度変更した戸籍の性別を元の性別に戻す再変更を求めたら却下になり、抗告しても、棄却になりました。

性別の取り扱いの法律が国策で正しいならば、そのように、もっと周知徹底すべきなのに、法令遵守していない女性に偽装した男性とかがCM等メディアに出ているのは、明らかに国家反逆的行為で早急に取り締まるべきです。

 一部確かに女装して盗撮に及ぶといった不届き者がいることは十分承知しておりますが、異性装者を「法令順守していない偽装」やら「国家反逆的行為」とやらと平然と書き連ねる性根がどれほどおぞましいか、指摘するまでも無いでしょう。

4「女性に偽装した男性のことを、オネエとか、女性であるかのように偽称して欺いて騙すのは悪質卑劣すぎます。

メディア等で、オネエとかいう男性が出ているようですが、お姉さんという呼び名の短縮形のオネエは女性に使用される言葉です。
オネエではなく、オニイが正しい呼称で、日本語の使い方が間違っています。
戸籍の性別が男性なのに、オネエと女性であるかのように偽称して、不特定多数の日本国民を騙そうとするのは詐欺行為です。

 一体、一般に「オネエ」と称される存在が「女性」を偽装しているとか、それに「不特定多数の日本国民」が騙されるなどというのは被害妄想どころか、想像力がゲシュタルト崩壊しそうですが(寡聞にしてそのように騙された存在はほとんど知りません。ごく稀に初夜に相手が同性だと初めて知った、という系統の海外のニュースが散見されるのは承知していますが、それもかなりのレアなケースではありましょう)。

 当該サイトは「女装犯」と只管異性装であることを以て即断に犯罪者であり取り締まるべき規範・治安対象としてしか見ていないので、これ以上引用すると吐き気どころか実際に嘔吐しかねないので止めておきますが、フェティシズムを含めて、性的少数者はこのような偏見と憎悪と嘲笑との社会規範の中に存在します。今も、です。敢えて「性的少数者」と書いたのは「性的指向」も「性的嗜好」も何れもがそれに該当するからでもあります。そこから、或は辛うじて社会的には性同一性障害に対する理解が進みつつあるとはいえ、現実は直接表現せずとも、そのようなものです。反社会的、反生物的、或は伝統の家族を壊す、汚らわしい、全て同一線上に当事者にぶつけられる社会の偏見そのものです。
 大臣の資質を問うのは大いに結構で、問われるべき点はいくらでもありましょう。それは大事なことです。派遣労働者法の改正可否、その内容も重要な問題です。そして「同様に」菊田議員の見識についても、その一言だけで十分に問われるべき内容でしょう。国会の場で、議事録にも録画にも残る形で、明瞭且つ直接的に偏見をぶつけているのですから、「女性が輝く社会」どころか「少数者が報われない社会」そのままですね、と。
 こういうことを書いていると、愛国気取りの痴れ者やら保守を自称する教条主義者がここぞとばかりに「だから反差別は」とか「だから民主党は」と書き連ねるわけですが、そういうところにわざわざネタを提供したくない気持ちは百も二百もありますが、それでも指摘されるべき偏見の一つではありましょう。
 是非、日頃差別問題に熱心な同民主党の有田議員には、この菊田議員の偏見を問い質すことを期待したいものです。ヘイトスピーチやヘイトクライムは何も人種差別に限ったものではありませんし、わざわざ引用した偏見塗れのBlogも「これがヘイトスピーチでなくて何なのか」というくらいにヘイト塗れですので、当然に射程に入れるべきものでしょう。その性質上。個人的にはまったく期待していませんが、せめて日頃の言動に則って対応頂きたいものです。逆に言えば、そこまで射程に入れずに「人種差別禁止法」ではなく「ヘイトスピーチ規制法」に拘るのであれば、従来通りその法案には自身の信条に沿って「原則反対」を改めて表明しておきます。
 
 
 
 
 
 
 
 最後に菊田議員とは関係ありませんが関連引用したBlog主のアカウントの中の人へ。「バイセクシャル」で「異性装趣味者」で「たまにオネエ言葉」を使うこともある自分が(言葉そのものは最近あまり出なくなりましたが)、「反社会的」で「治安紊乱」に値し「取り締まり」の対象として然るべきで、そうしたいのであれば、いくらでも不法行為でもなんでも訴えてご覧なさい。ツイッターで各報道機関の公式アカウントにつまらないタグをつけて連日ポストするような下衆な真似を繰返すくらいなら。もっともその前にアカウント凍結されても知りませんが(規約違反に十分該当するでしょうから)。
 そういうクソッタレな社会を創りたい、維持したいなら、それをひっくり返してその不条理を「当然に不条理として捉える」社会を対置してやりますよ。その時が10年後か100年後か1000年後か知りませんが、必ず、その不条理を糾弾し糾弾することが当然である社会を対置してやりますとも。たとえそれが「反差別」だの「反レイシズム」だのの最後尾で最も無視に足る存在であったとしても、それであるからこそ、必ずそういう方向に持って行ってやりますとも。「普通」どころか「LG」からも分断され、或は憎悪さえされる「B」や「T」のうち、少なくとも自分は「B」には該当するわけですから、自身の生存と信念の下に、必ずそうしてやります。その時に復讐してやろう、と思うかどうかは感情の生き物故に解りませんし、そもそもそういう社会が出来た時に自分が存命であるかどうかも怪しいところですが(それは同時にアカウントの中の人も)、せいぜい信じる社会正義が転換した際、それに追われる側にならないことを祈っていると良いでしょう。自分だってそのような復讐の連鎖など望みはしませんし。ただ、個人的にはあそこまで侮蔑・罵倒が書き連ねてあることに対して、憤懣を抱かないと言えば嘘になりますので、何等かの対応をしたとしてもそれは応報として指摘してあげますよ。もう十分書きましたが。境界線上の「どちらでもない」存在を片っ端から二分法で瞬断する社会そのものを、変えてやりましょう。自分の力がいかに微力であれ無力であれ、そういった想像力の欠片もない二分法社会には抗いますとも。そしていつの日か、それをひっくり返してやりましょう。自分と同じような存在が、10年後、100年後、1000年後に少しでもマシな社会を享受できるために。反社会、治安紊乱上等ですとも。勝手な線引きで「線を引けない」存在が確かに其処に、此処に存在するという、たったそれだけの想像もできず許容もできない社会であるなら、いくらでもその社会を変えていきますとも。

自由を憎む存在を自由を以て包囲せよ

 さて、記事化して欲しい、との要望も頂いたため、以下にまとめ直すとする。
 
 まず基本的前提与件として、対象としたものは大きく分けて二つある。「思想・良心の自由」と「集会・結社・出版の自由」という二つの自由権である。前者と後者は、基本的には不可分であるが、日本国憲法においてはいくつかの条項に個別に記述されている。もっと手前のところに「生存権」といったものが存在するが、いわゆる市民的権利=Civil Rightsと普遍的権利=Human Rightsの間の行き来をした議論になることはある。しかしここでその定義付けの線引きはしない。そういう概念がある、ということだけ念頭に置いておいて貰えれば良い。
 プログラム説とプロセス説の違いも無いわけではない。イギリスのいわゆる「権利の章典」では「合法的に,余すところなく,自由な仕方でこの王国の人民のすべての身分を代表する,ウエストミンスターに集まりたる聖俗貴顕ならびに庶民は」との書き出しで始まるように、そこに「身分」が存在することを前提とし、また貴族・王族や聖職者・庶民といった様々な諸集合に対して「聖俗貴顕ならびに庶民はそれぞれの選挙の書状に従い,今余すところなく自由にこの国民を代表するものとして集い,先に述べられた目的を達成するための最善の手段をこの上なく真剣に考慮し,まず(その父祖たちが同様な場合に通例なしたように)古来からの権利と自由を擁護し,主張するために宣言する」とあるように、全ての身分乃至代表が結果として権利と自由を享受することが「それぞれが自由であることで同時に全体の自由である」へと繋げられる。それに対してフランス革命にあるそれは、所謂「天賦人権論」とされるそれで、1791年憲法の前文に「国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。」と書かれているように、イギリスの実定法的諸身分のそれぞれの権利と自由ではなく、市民として、或は人としてそれだけで所与にある自然権として、人の権利が規定された。アメリカでは元々がイギリス的法が運用されていたところに独立戦争を展開した経緯もあり、実定法的性格が強いものであるが、同時にフランス的所与の自然権的意味合いも無いわけではない。どちらかといえば実定法的自由権を自然権として規定し直した、と言うべきかもしれない。
 しばしば本邦では自由に「権利」ばかりを主張するので社会が乱れる、自由は公の為に制限される「必要」がある、という主張が為されることがある。しかし、日本国憲法に照らせば、そのような議論は現在の憲法の規定とは大きく異なる議論であるように思える。そもそも、憲法十九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という短い表現の中には様々なものが問われるものの、一般には「内心の自由」と呼ばれるものである。どのような思想・良心を抱こうが、それを裁くことはできず、これは絶対的に国家の介入を許さない条項として捉えるべきである。そして、それは特定の思想・良心を「強制されない」自由であると同時に、「表明する」自由が要請される。前者は十九条に規定の通りであるが、後者は別にいくつかの条項に分解されている。二十一条一項の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」及び二項の「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」或は二十三条の「学問の自由は、これを保障する。」等である。
 実際、法運用上もこの基本原則は平等に保障されていることを前提として、この憲法条項の抽象概念を民法や条例運用に適用させてきている。例えば、集会等の届出制度を見てみよう。東京都の「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」では、第三条に「公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。」と記載されている通り、直接且つ喫緊の危害が予測されない明白にそれと認められない限り、基本的に「許可しなければならない」のであって、それに対して制約を課す場合も、同条の一~六の規定の通り、最大限に必要条件を付す場合でも「場所又は日時」の変更を24時間前までに通告する必要があり、その場合でもその「主張」や「思想」ではなく、あくまで「暴動リスク」や、或は集会所となる場所の「職員の安全への懸念」等が理由とされる。主張・思想ではなく「行為結果が明白に直接危険を及ぼす」と予見される場合のみ、である。もちろんこれは基本原則であって、時にグレーなものが存在することはあるが、あくまでその対象は「直接的喫緊の危害」であり、その状態は明らかに現行法に抵触することをも意味する。そもそもこの集会届自体が問題視されることはあり、憲法訴訟対象にもなったことはあるが、基本的に届出に不備がない限り、そのような具体的喫緊の事態が明瞭にそれとして把握された場合、に限りそれへの制限が認められているものであり、間違っても「思想」そのものではない。都の条例でわざわざ「この条例の各規定は、第一条に定める集会、集団行進又は集団示威運動以外に集会を行う権利を禁止し、若しくは制限し、又は集会、政治運動を監督し若しくはプラカード、出版物その他の文書図画を検閲する権限を公安委員会、警察職員又はその他の都吏員、区、市、町、村の吏員若しくは職員に与えるものと解釈してはならない。」とまで記載されているのは、当該条例が個別の思想等を理由として憲法の保障する十九条や二十一条の原則に抵触しないためである。予め「差別言動が繰り返すことが解っているのだからデモを禁止しろ」というのは、都条例のこの六条の原則を大きく逸脱するものである。
 
 ここで問題になるのは他者の自由権を侵害する自由権は存在し得るのか、という点であるが、この点で唯一の憲法制約は基本的に「公共の福祉」であり、これが意味するところは個別事案の私人間の権利の衝突である。自由権は所与であり内在している、という立場である限りにおいて、そのように解されるべきである。自民党憲法草案なるものが大きな批難を浴びたのは、この権利に「公益や公の秩序」という名目で「制限し得る」という、内在的自由権を外在的自由権へ転換しようとした点であり、大日本帝国憲法の自由権が原則として外在的自由権(国家が承認し得る範囲内においてのみ自由である)であったことを念頭におけば、自明の反発でもあろう。というか、そもそもそれに反発するからこそ、自由権は常にその「線引き」と「衡量」の問題であり続ける。
 アメリカ大使館が合衆国憲法の規定する自由権について、いくつかの重要な指摘を掲載している(これを和文で載せているあたり、いかにもアメリカらしい自由の輸出ではある)。権利章典第三章の解説からいくつか引用しよう。「民主主義社会で、何よりも重んじられる権利がひとつあるとすれば、それは言論の自由である。国家から咎められることを恐れることなく、自分の意見を表明し、時の政治的な権威に異議を唱え、政府の政策を批判できることは、自由な国と独裁国家の生活の違いを示す根本的な要素である。」の書き出しで始まり、「「明白かつ現在の危険」を判断基準にしたことは、非常に道理が通っているように見える。確かに言論は自由であるべきだが、それは絶対的な自由ではない。(混雑した劇場で「火事だ!」と叫ぶ人を罰することは当然だという)良識や、戦争という切迫した状況に照らして、言論を制約することが必要になる。この「明白かつ現在の危険」という判断基準は、それから50年近くにわたり、裁判所によって何らかの形で適用されることになる。これは言論の自由の限界を超えたかどうかを判断する上で、便利でわかりやすい基準だったようだ。しかしこの基準をめぐっては、当初から疑問の声があった。米国では言論の自由の伝統は非常に強かったため、政府が反戦派たちを規制しようとしたり、裁判所がそのような措置を容認しようとしたりすることに対して、直ちに批判が噴出した。」と続き「言論の自由の歴史上、偉大な代弁者の1人が、温厚なハーバード大学法学教授ゼカリア・チェイフィー・ジュニアである。裕福で社会的に著名な一門の出である教授は、すべての国民が政府の報復を恐れることなく自分の考えを発言する権利を守るために生涯を捧げた。チェイフィー教授は、たとえ戦時体制下で国民感情が高揚しているときでも、自由な言論は守られるべきだという、多くの人々にとって当時も今も急進的と捉えられる考えを述べた。なぜなら、そういうときにこそ国民は、単に政府が国民に言いたいことだけではなく、賛否両論を聞く必要があるからである。」とされ、「ホームズ判事も、ほかの誰も、言論の自由には制限がないとは言わなかった。むしろ、この後すぐに取り上げるが、過去数十年に行われた論争のほとんどが、守られるべき言論と、守られない言論の間の、どこに一線を引くのかという問題に関するものだった。論争の核心には、「この種の言論に、なぜ憲法の保障の傘を差しのべなければならないのか」という疑問があった。意見の一致がほぼ得られている唯一の領域は、合衆国憲法修正第1条の言論の自由条項が、ほかに何を保障するにせよ、少なくとも政治的な発言を保障しているという点である。」と展開し、「憲法の起草者たちが合衆国憲法修正第1条を草案したのは、まさに多数派が、反対派を沈黙させようとするのを防ぐためだった。自由な思想の原則は、ホームズ判事が書いた有名な言葉にもあるように、「われわれに同意する人々のためではなく、われわれが嫌悪するような考え方のための自由な思想」なのである。」とされ、「悪しき言論に対抗するには、いっそう活発な言論が必要で、言論によって人々が学び、討論し、選択できる機会が与えられるのだ。この70年以上も前にブランダイス判事が残した教訓が、ここで実を結んだのである」となり、「そして国民は、ホームズ判事の考え方を常に快く感じているわけではないが、合衆国憲法修正第1条は、われわれが同意する言論ではなく、われわれが憎悪する言論を守るために存在する、という同判事の言葉には真実があることを認めている。」として結ばれる。
 果たしてアメリカがこれを実践し得ているかどうかについては、特に9.11以降揺らぎが現れてはいるものの、中途「あるいはある種の言論表現は、言論条項の保護の傘から外れるのだろうか。作家や、芸術家やビジネスマン、偏屈な人やデモ参加者、インターネットの発信者たちは、憲法上の保護を主張して、どんなに攻撃的で人々を動揺させることでも、好きなように発言していいのだろうか。これらの質問に対する簡単な回答はない。国民の合意もなければ、すべての分野の言論における連邦最高裁判所の絶対的な判断もない。国民の感情が変わるにつれて、米国がより多様化し開かれた社会になるにつれて、そしてまた新しい電子技術が米国の生活のすみずみまで行き渡るにつれて、合衆国憲法修正第1条の意味合いも、これまでもしばしばそうであったように、とりわけ政治以外の分野の言論表現をめぐり、再び流動的になっているように思われる。」と書かれているように、原則として、「どの種の表現が自由権から外れるのか」について、簡単な回答はなく、多様化し開かれた社会になる「ほど」にその線引きが問われ、より一進一退はあるにしても、相対的にはより「自由」を大きくする方向で結実してきたことは、概ね事実である。わいせつや性の問題、あるいは反戦・反政府運動に対して、あるいは公民権運動がそうであったように、ホームズ判事の示した引用先にある「民主主義は思想の自由市場で支えられているという考えが提示されたのである。思想によっては、不人気なものも、秩序を揺るがすものも、間違ったものもあるかもしれない。しかし民主主義の下では、これらすべての思想に平等な発言の機会を与えるべきである。間違ったもの、恥ずべきもの、役立たずのものは、民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐されると信じるからである。」という概念は、基本的原則であるべきだと考える。
 根本にまずもって「自由に表明される」ことがあり、その上で線引きの揺らぎがあるべきであり、 「自明に制限されて然るべき思想がある」として制限有りきで考慮することは、原則論として危険である。ベトナム戦争時の元米兵捕虜ジェームズ・H・ウォーナーの件にある「星条旗を焼く人を処罰するために、憲法を修正する必要はない。彼らが旗を焼くのは、米国を憎んでいるから、自由を恐れているからである。自由という破壊的な思想以上に、彼らを苦しめる効果的な方法はあるだろうか。自由を広めよ。・・・自由を恐れるな。それこそ、われわれが持てる最も有効な武器なのである」という言葉は、その象徴的ものと云える。昨今のヘイトスピーチ、ヘイトクライムに対してこそ、この言葉を適用すべきではないだろうか。
 
 既に周知の通り、所謂「行動する保守」と称するそれらは、主として在日韓国・朝鮮人をその対象にして展開されているが、同時に日系ブラジル人やフィリピン人にも敵意を向け、部落差別を煽り、左翼思想を嫌悪している。その行動は常に「それらの自由は制限されるべきである」であり「社会の害悪に自由など不要」である。勿論これは彼等の理路であり、同意するわけでは、決してない。そして同時にそれらが指し示す先にあるものは、そういった被差別対象者の「自由」である。前述のジェームズ元兵士が語った言葉を適用するならば、彼らが時に太極旗に嫌悪を示し、チョゴリや或はキムチを嫌悪し、侮蔑的表現を展開する際、彼らが怖れるのは何よりもそれらが「自由」であることにある。韓国政府の、いわゆる「反日政策」といった形容をされるそれでさえ、それが「自由」に展開されるからこそ嫌悪するのである。
 長らく、そういった差別は、或は部落やアイヌ、時に在日諸民族、時には性別や共産思想(いわゆるアカ)への攻撃として現れてもきた。現在進行形で推移するそれは、それらが「自由になることを怖れた」が故であって、「平等になることを怖れた」からでもある。だからこそ、「もっと自由を」と希求し、「もっと平等を」と請願することが推進されるべきである。自由の名の下に展開されるそれをさらなる自由で包囲するために。それこそが民主主義の進展であり自由の拡大である。その点において「「ヘイトスピーチの再発防止につながれば」李信恵さん、在特会・保守速報を提訴で会見【全文】」という自由に対する自由を以てする請願は支持するし、同時に「Newsweek批判への紫音さんの反論」のように、排除を以てする自由を、本来的に支持はしない。
 「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」が憲法二十一条の結社の自由に抵触するのではないか、との違憲訴訟を起こした例もある。この際に同法が一応の合理性があるとされたのは「直接には指定暴力団の構成員の具体的な暴力的要求行為が規制されることになって」いるからでもあり、指定暴力団の規定を「暴力団のうち、暴力団員が生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得るために暴力団の威力を利用することを容認することを実質上の目的とする団体」と相当に具体的且つ実態的制約を課したこともある。デモやヘイトスピーチ或はその種の集会での突発的トラブルではなく、直接にそれを目的とし、それによって生計を立てている団体の個別具体的それを、最低限指定したものである。この問題はさらに暴力団排除条例と称されるそれに至るにあたって、「さらに、「防止」を理由として、未だ罪を犯していない者の行動を重罰をもって規制し、人権の制限や事実上の団体規制が拡大され、憲法が保障する基本的人権と民主主義の原則を損ないかねないとの懸念も表明されている。」との指摘は参議院において社民党又市氏によって為された提起である。暴力団は一般に「反社会団体」として広く認識が共有されているが、それに対してさえも過剰に抑止されることに対してこのように提起されることそのものは、認められるべきであり、また為されるべきでもあろう。
 
 確かに国連からも種々の指摘は入ってもいる。しかし、それは今に始まったことではない。国連人権理事会の普遍的定期報告(UPR)の第一回UPR結果(日本政府に対するもののみ)にもあるように、それらの指摘は様々な国が様々な物事を指摘しているのであり、それは人種差別は勿論のこと、人身売買や児童虐待、性差別から死刑制度、代用監獄、アイヌ問題まで幅広い。それに対する日本政府の回答が十全とは言い難いのは事実であるし、指摘される点も指摘の通りと言えるものは多いが、個別の問題はそれとして、同報告では「複数の代表団から、ハンセン病患者の人権を促進する日本のイニシアチブを評価し、支持した。また、多数の代表団が公務員の人権教育を推進する日本のイニシアチブを歓迎した。多くの代表団が、社会経済分野を含む様々な分野での日本の国際協力を強調した。」とも記載されるように、一様に押しなべて差別国家だと言及するような内容では無い。これは差別が無いと言っているのでもなく、問題が無いと言っているのでもない。同時に、そこで評価側になっている各国にしても、それぞれにそれぞれの問題を抱えてもいる。
 
 確かに人権救済機関の必要性等は十分に議論されるべきだし、憲法上の抽象規定が実態上民法・刑法其の他によって「侵害時」に十分な救済措置を規定していない部分はある。「思想の自由市場」とされるそれに対して、「その思想はその市場に陳列されるべきではない」とする意見はしばしば述べられるが、それに対して「市場に陳列されるべきかどうかは市場に委ねられるべきである」という「間違ったもの、恥ずべきもの、役立たずのものは、民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐されると信じるからである。」という信念を、些かも揺るがせるべきではないだろう。それが「道徳的悪」であるならば、思想の自由市場がそれを必ず民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐するという信念は、何より日本国憲法前文において政治的自由権を「人類普遍の原理」としてフランス的自然権に近しい形で規定し、最大に配慮すべきものとし、国民がそれを自国のことのみに専念せずに普遍的原理として実践することを要請している。
 日本国憲法の擁護する政治的見解の自由表明の権利(言論・出版・集会・結社・思想・良心の自由)は、日本国憲法の各条項を否定する言動をも許容するものであるべきである。天皇制を廃止して共和制に移行することだって大いに議論すればよいし、或は共産党一党独裁の実践でさえ、大いに議論されれば良い。それらをも「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」という規定に含めるべきであろう。確かに人種差別を禁止する法律は無い。憲法上はそれを抽象的否定に留めている。それは事実である。しかし、反政府言動そのものを違法としたり、或は反戦運動をただその思想のみを以て違法としたり、する国よりはよほど自由である。同時にそれはあくまで「思想の自由市場」に於いてであり、それに私刑を加えたり議場を封鎖することではないはずだ。国会の審議時間や答弁時間でさえ、制限せずに、討議の限りを本来は尽くすべきであり、牛歩戦術などが一寸流行ったが、寧ろカストロが国内で10時間に及び、或は国連の議場で4時間以上に及ぶ演説をやったように、主張の限りを尽くし、議論すべきである。それは所与に自然権として有する「思想・良心の自由」「言論・出版・集会・結社の自由」に於いて為すべきであり、それこそが民主主義と自由権の、本来求められるべき有り様である。現政権が自由を怖れるのであれば、一層自由であらねばならないだろう。禁止法が無いとの指摘に対して、そのような法が無くとも自由はそれを駆逐できるのだ、と言い返すべきであろう。「われわれが同意する言論ではなく、われわれが憎悪する言論を守るために」、その自由は存在し、そのような自由であるからこそ、憎悪する言論は自由に包囲されるのである。日本国憲法十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」の規定が、当初その公共の福祉を人権の上位にある社会全体の利益と解釈する外在制約として解釈されたものが、それではあらゆる人権が社会全体の利益のために制限され得るので相互調整のための衡量原理として内在制約として解釈され直し、再びそれではあまりに調整余地が狭すぎるのではないか、と社会利益や国家利益を含める方向の解釈へと、その揺らぎを見せているが、まずもって優先すべきは自由権を不断の努力によって保持し続けることであり、濫用してはならないのであって、同時に何を濫用とするかをも含めて討議されるべきである。そのためには、己の敵と規定したものの言動そのものをも、いったんは市場に陳列した上で、その市場で淘汰されるべきであり、それは究極的には市民(敢えて国民とは言わない)が、歴史的タイムスパンで見た際、バックラッシュを挟んだとしても、長期的にはより民主的でより自由であることを形成するだろう、という民主主義の本質的根源に依拠するものであり、その市場を制限しろという要請は自由に為されるべきだが、その要請そのものは自由の濫用にも成り得る。況して討議を最初から放棄していれば猶更である。確かに愚劣で聞くに堪えない言動はあるだろう。そういったものをも包含してこそ、自由が所与に自然権として存在するそれであり、特定の何者かから自然権を剥奪することではないはずだ。そうであるからこそ、自由は自由であるが故に自由の監獄に囚われているのであり、その監獄は常に自由であることを要請し続ける。許せないそれを制限することではなく、許せないそれを自由であらしむるためにこそ、思想の自由市場が存在するのであって、統制が進んでいる、自由が失われていると感じるならば、猶更に、徹底して、抵抗的に自由を求め、自由であるべきである。そして自由は常に緊張を生み、個としての市民に負荷を掛け続ける。その負荷に堪えかねて「規制を」と叫ぶとき、それは自由が所与であることを捨てる瞬間である。
 
 
 
■関連まとめ
【呪詛】自由権と基本的人権とグランデの一件と其の他諸々 
果たして危機にあるのは民主主義の「何」なのか
【備忘録】平等と信仰と民主主義的何か

注)記事化要望を頂いたのは上記まとめの一番上のものである。十分にお応えできたかは定かではない。

「反省」というフィルター/一連の朝日新聞社への雑感

 朝日新聞社の一件以来、何かと謝罪やら反省やらの言葉が紙面・記事を問わず飛び交っている。朝日新聞社の問題は組織問題である要素が強く、それはそれで改善されれば良いだろうし、改善されなければそれまで、というだけの話ではある。
 しかし「反省」や「断腸の思い」の用語ばかりが並び、謝罪することばかりに追われているようにも見える。確かに反省や自省は必要だろう。それを伝えることもまた必要であることは疑いようもない。過去の事実問題に対して(関東大震災における風説流布も媒介した人種差別の発露を記事とした神奈川新聞等も含めて)、「反省しなければならない」との趣旨が記載されていたように思う。では「反省」すれば良いのか。それはまた別の問題であろう。
 
 反省しても、問題の根本が改善・解消されない限り同種の問題は形を変えて、或はまったく同じ形で露呈する。本来反省とは事実と向き合った上で、問題の要因を突き止めそれをどのように変革するのかがあった上で、結果として為されるものではないだろうか。反省の気持ちや感情などいくら持ち合わせたところで、それが無い限りは何等問題は解決されないだろう。
 また、事実と向き合い問題の要因を突き止めたところで、それが反省すべきものなのかどうなのかは別問題にもなろう。教育においてそれらが何もないまま反省文を何枚書かせたところで、書かせる側の自己満足に過ぎず、書かされた側は反省などしないだろうし、表面的にそう繕うことで却って問題の根源がより深く意識下・無意識下に蓄積されるに過ぎない。
 
 報道、或はメディア媒体に公正・中立を求めるといったことはおおよそ的外れで、事実記載であってさえ、事実の一部を意図的に欠落させることで、或は修辞を加えることで、言外に価値規範を持ち込むことは容易であり、そもそも何を記載するかという編集作業はある種の優先順位付けも含んだ価値規範の発露でしかない。そこを自覚的にならない限り、発信者側も受容側も、様々なものを見落とすことになろう。事実と向き合う、という行為は価値規範の他者への押し付けでもなく、或は糾弾や扇動でもなく、先ず以て自己へ向けて自己のために為されるべきものであろう。
 
 意識的価値規範処理を有色のフィルターだとしたら、無意識下の価値規範処理はさながら無色のフィルターになろう。有色のフィルターはいくらでも変えることができる。戦前の新聞メディアが戦争を煽った事実はあり、それが戦後一転してあたかも反戦の牙城のような素振りで振る舞うこともできたし、全共闘運動の報道についても自らの記事が煽り過ぎた結果、手に負えなくなったら論調を変更させてみたり、或は共産党が自主武装・自主憲法路線から転換したことでも良い。事例はいくらでもある。
 しかし、意識的・表面的それに対して、事実と向き合った上で問題の根本をどのように処理したのか、は別問題である。一見正反対、或は真逆に見える論調・政策変更であっても、余程自覚的に一連の処理を行わない限り、有色のフィルターは掛け変えることはできても無色のフィルターは無意識下で何も変わっていないままである。それは心理的にはその正反対・真逆な転換に対して無意識下でそれを論理的整合性を付けるべく、「辻褄合わせ」を自覚無いままに行うことでもある。第三者が見た場合にまるで辻褄が合っていなくても筋が通っていなくても、それは当事者の中では無意識下に既に辻褄が合ってしまっているため、本来正当に為された批判・指摘であっても、ただの誹謗中傷としか受け止めることができない。それは結果として、無意識下で変化がない無色のフィルターの部分により整合性を取ってしまっているためでもある。昨今のレイシズム行動からカウンター行動へと転向した人にも、同種のことは当て嵌まるかもしれない。
 
 この無意識下の無色のフィルターは相当に厄介な代物で、無意識下にあるそれを意識的に掘り出す必要があり、またそれは非常に当人にとって見たくない事実を曝露することになる。それは体面やプライドによって容易に回避しようと意識させる代物でもあり、多大な苦痛を伴う行為でもある。更に、無色のフィルターは一枚とは限らないのであるから、前提としてそれは無制限に蓄積されていると考えるべきものであるから、基本的には際限なく続けることにもなる。当然一朝一夕でできるものではなく、日々重ねられていくものでもあるため、不断の努力が求められる行為でさえある。
 いくら言葉や態度を取り繕ったところで、これが無ければ何も変わらないままに繰り返すし、これを繰り返すことで、言葉や態度で取り繕うことをせずとも、第三者はその変化に気付くこともできよう。物事を見る、考える、感じる、視線の奥には必ず無色のフィルターがあり、視線の手前に有色のフィルターが存在する。第三者、他者を批難するのは容易い。しかし、それは有色のフィルターの上に為されるものであり、自己批判・自己総括は、それが自身の手によって為される場合に於いてのみ、無色のフィルターの上に為されるものであろう。無色のフィルターに触れる行為は、至って思想・哲学的自問の類にもなるが、それ無くして有色のフィルターを変えてみても、それは最大に為されたとしてもただの抗弁と転向にしかならず、弁明・詭弁の類としか受け取られまい。
 
 これは何も朝日新聞社のみを批判する訳ではなく、それを批判する側にも同様に適用される内容であるし、何より自分自身に向けて書いている。本稿もまた、無色のフィルターを探るための、一つの行為に過ぎない。本件は以て他山の石とし、自己の糧としたい。