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【エッセイ】時には親を捨てる

 私の実家は名実ともに崩壊しているが、それは何も今に始まったことではなく、ある程度それとして感じることができるような年齢になる頃には事実そうであった。形が壊れるまでにその後長い時間が必要だったとはいえ、実態としては十代の始めには私でさえ気づいていたのだから、やはり壊れていたのだろう。現在では文字通りバラバラである。

 その壊れ方もまた親同士というものに留まらず、親の相互の親(私からみれば祖父母)との関係や、親族との関係も含めて、到底良好といえるものではなく、そもそも関係が構築できていたのかさえ怪しいものではある。何故私の親は結婚したのだろうか。今でも不思議だ。

 およそ記念日といえるものはなく、私は親の生年月日も知らないし、それを祝ったような記憶さえどこにもない。生家に記念日がないことは珍しいことでもなく、私の生年月日さえ、ただの書類上のものでしかなく、さして祝われたような記憶はない。形だけは、大して味が良いわけでもないケーキのようなものが、申し訳程度に用意された程度でもあり、それでさえ気づいた時には要・不要の確認を私自身に聞いてくるような有様であった。

 どちらかとは言わないまでも、両親の片方は控えめに言って無関心であり、もう片方は控えめに言って世間体と親族や敵対する相手(そう、夫婦であれ敵であった相手)への見返したいという心情が露骨に出る、ろくなものではない育て方であったことは、今思えば疑うこともない。そう自覚するまでに十年単位の歳月が必要であったことを、不幸と言うべきか気づかずにやり過ごすことができた幸いと呼ぶべきか、私は知らない。

 しかし、私は自身の生まれの幸不幸を言いたい訳では無い。それは自分が向き合い解消すれば良いだけのことだ。親の離婚にあたってわざわざ親から便箋何枚もの弁明書を受け取る羽目になったことさえ、滑稽ではあっても不幸だと言うつもりもない(その便箋は複数に渡り、一切開封もしていない)。何故私がこの歳になってまで親の諍いの果ての理由をわざわざ目を通さなければならないのか。馬鹿らしくて開く気にさえならない。

 こんなことを誰が聞きたいと思うだろうか。おそらく大半の人にとってはどうでも良いことでもあろうし興味もないだろう。他人の家の幸不幸など、凡そどうでも良いことでしかないことは自分でもわかる。私も他人の生家がどうであったかなど、さして興味もないし、結果としてあらゆる記念日という記念日を覚えることが苦手であることも、ただの結果でしかない。

 ただ、親の無自覚な自己投影に悩み苦しむ人があれば、その人には伝えたいことがある。あなたの人生はあなたのものだ。親のものではない。たとえ縁が切れないまでも、その他人の都合を最大限無視するだけの権利が、あなたにはある。相続だ血縁だ家系だ家業だ、柵が多いことはいくらでもあると思う。しかし、それに潰されないで欲しい。そして親の無責任な期待という名の押しつけを捨てることができるのは、他ならないあなた自身なのだし、それで殺されるくらいなら、親など捨ててしまえば良い。

 きっと世間様は言うに違いない。親に対して酷い態度はなんだ、育ての親に育てて貰った感謝もないのか、家族はもっとも頼るべきものだ等々。全力で言い返してやれば良い。私にとって、親はそういうことを言う人の思い込みにあるような立派なものでもなければ人生を賭けるものでもないのだと。自分自身の人生を回復するのに、遅すぎるということはない。そして親でもない第三者が好き勝手に妄想を押しつけることに付き合う義理も必要もない。それは紛れもなく、事実であり、生きるために時として必要な選択でもある。

 敢えて過激な言葉を使うならば、親が子を捨てることはその執着でできなかったとしても、子は親を捨てることはできる。面倒な事務手続きやら相続やら、そういった問題はあるとして、人生のあり方として、その顔色を窺い怯え付き合う必要はない、それは現実の選択だ。そう選択する必要がある人は誰に遠慮をする必要はない。自分自身のためにそうすべきだ。毒親かどうかなど考える必要もないし、その時間を費やすくらいならば(そう考える時点で有害でしかない)、親を捨てて自分の人生を掴むことこそ、必要な選択であるはずだ。家族こそ至上、家族あっての子供、そのようなイデオロギーに、柵に、何より親の押しつけに、付き合う義理など、どこにも無いのだから。