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【兼展示会告知】「第一回 枡×アート展」/文化・伝統の現代的問い直し

 「第一回枡×アート展」なる企画イベントが横浜美術大学ギャラリーにて、9月5日より開催されます。
 イベントそのものは「枡」をテーマとした学生によるアートコンペティションで、恐らくは非常に地味な企画展です。枡をテーマとしてアートという視点から問い直す、という試みとしては面白いと思いますが、主催・企画者の意図とは別に以下を考察してみたいと思います。
 
 枡は本来尺貫法の単位である体積を図るための道具でした。尺貫法は距離や重量、容積といったものを「単位」として統一する、云わば文化圏統一と社会構築のための制度であり、その共通性がそのまま支配領域の文化的地理的区域にも繋がる側面があります(現在では基本的にはメートル法等の国際規格が浸透しています)。そして同時に年貢収量にも用いられる、農民(という大多数の存在)と公(朝廷や幕府)を繋ぐ、云わば私と公の接点としての役割も果たしていました(自給自足でその上位に統治体系が無い場合、このような度量衡単位の統一はそれほど必要とされません)。それらの単位が正確性という意味で画一化されるのは実際には近代を待たねばならず、度重なる統一の企図にも関わらず、結果としてそれらは必ずしも実際的統一性が徹底できたわけではありません。しかし、単位として大きな意味を持ち、またその測量の道具が重要な位置づけであったこと自体は事実です。
 
 このような歴史・文化的背景を持ちながら、実用的意味に於いては現代では「枡」そのものはそれほど重要さを持っているわけではありません。展示会を企画している大橋量器には申し訳ないのですが、その点については事実でしょう。従って「枡とアートを掛け合わせたら何が生まれるのか。そんな切り口から枡を見つめ直し、新しい枡を問いたい」という趣旨の提示は、学生によるアートコペティションとしては致し方ない主題設定だと思いますが、そこで生まれる「新しい枡」とは一体何でしょうか。
 本質としてアートが思想や社会背景無しには成り得ないジャンルであることを考慮すると、「枡とアートを掛け合わせ」ることで新しい「何か」が生まれるわけではなく、寧ろ「枡をアートとする」ことそのものが問い直しそのものを意味することになると思います(主催・企画批判ではありません、念為)。大橋量器のウェブサイトの「ますギャラリー」を見ても解るように、枡そのものは極めてシンボライズされた存在となっています。実用性よりも象徴性の意味合いの方が、より大きいと言えます。
 この点に焦点を据えた場合、枡の持つ象徴性は、云わばグローバリズムやエスノセントリズムに対してのサンボリズムのような位相を持ち得る可能性があります。近代国民国家としてのネーションとグローバリズム、或はしばしば神話として持ち出される単一民族・単一文化といった重層性を否定する文脈に於けるエスニックという、本邦が抱えるいくつかの矛盾と相克に対して、それをより超越的包括する共同体(或は共生社会)のシンボルとして、ある種の伝統や文化を同化主義に陥らず高次に昇華するカルチャーシンボルとしての一つのアートの主題にも成り得るとともに、それをアートという芸術家の私的営為で問い直すことでソーシャルに接続し直すという意味で、それを現代にコンシューマリズムでもなくコマーシャリズムでもない価値を再構築することもできるでしょう。
 「日本」のカリカチュアではなく、本来持っているはずの重層性を体現するためのプライベートとパブリックをソーシャルに於いてブリッジするシンボルという意味で、レトロスペクティブではなく、寧ろモダニズムに対して生起したポストモダニズムが結果としてオーソライズされるが故に陥ったイデオローグの陥穽を超えた、一種のレミニセンス・リプロダクトとモダニズムではなく、リアルタイムに現代的意味でのモダンアートとも成り得るように思います。また、消費社会に於いて、プロダクト(工業規格)の意味合いさえ持つ「枡」という存在を、デザイン(非マスプロダクト)として位置づけ直すという作業は、寧ろ必要なことでもあると思います。
 
 最近しきりに「文藝」や「教養」の復興、再構築の必要性に触れることが多い自分ではありますが、是非狭義のアートという点に囚われず、より大きなソーシャルアートとして昇華されることを祈りつつ、勝手に展示会告知とさせて頂きます。
 なお、自分は一切本企画展に関与しておりませんので、本稿に対する批難・抗議等を含めた一切の感想は企画主催者・展示会運営者へ持ち込まぬよう各位にお願いする次第です(自分は日時の都合で会場に行けるかどうか不明ですので、本稿以上の言及は行わないことをご容赦ください)。
 
◆枡×アート展
会期:2014年9月5日(金) – 9月14日(日)
時間:11:00 – 18:30
会場:横浜美術大学大学ギャラリー(3号館B1F)
   オープニングパーティー 9月5日(金) 17:00~

新サイト「日本語一次史料研究会」開設のご案内

 平素より本Blogを閲読頂きありがとうございます。いったんは併設Blogとして開設した「日本語一次史料研究所」を改めて「日本語一次史料研究会」といてリファインして開設した旨をご案内致します。
 開設の趣旨は「教科書では教えてくれない『リットン報告書』」の反応が存外に良かったため、私が所蔵している古書及びオンラインアーカイブから適宜「当時どのような情報がどのように流布していたか」の実態を紐解いていくことにあります。
 本Blogと併せてご愛顧頂ければ幸いです。
 今後とも宜しくお願い申し上げます。

【独白】さようなら、保守

さようなら、「保守」
というわけで、一応は保守を自称してきたわけですが、そろそろの名乗りは終わりにしよう、と考えた次第。
保守主義とは元来は近代化に対するアンチテーゼの一翼を担い、また急進的社会変革を求めず時に合理性の上に偏見を配して非合理であれ因習として培ってきた社会制度の中に伝統の存在を肯定をもしてきた、はずであった。
それは郷里・郷土とともにその地に住まい根付いた人々を同胞として共にそれらを実現するものとし、それ故に閉鎖的社会・村社会・排外主義とも隣接する危うい立ち位置でもあった。
これもまた、回顧趣味でもなく反動主義でもなく、漸進改良をも包含しない限り、ただの守旧と頑迷に留まるべきものをも内包するものでもあった。
然るに昨今の「保守」を名乗る界隈の動きや、またそれとは別にいくつかのやりとりを通じての「世間」とやらの因習の弊害が時にあまりに大きさの存在(同時にそれは「普通」とも称される)、それらを見るにつけ、果たして「保守」を名乗ることの意味をどのように持たせるべきか、を何度も自省させるものであった。
別に率先して「保守主義者」と自らを位置づけることやそれをやめることにどれほどの意味があるか、というのはほぼ自分個人以外には「どうでもいい」ことなのであって、わざわざどうこう言う必要があるかどうかは不明だが、敢えてそう言明する言動を少なからず採ってきたのだから、明示しておくことに意味もあろう。

さようなら、「保守」
だからといって保守主義の思想的それを放棄するわけでもないし、言動のそれ自体の中身は別に変わらないだろう。
もちろん、転向する先などあるわけもない(保守からの転向と言うと革新運動系などを想定する向きもあろうが、それらは総じて自分は批判的に見てきているし、今後も変わらないだろう)。
しかし、「保守」を自称していくことは、その文字の本邦での偏った捉えられ方(と同時に、その偏りを当然としてそれを自称する「保守」)に対して、言動のアプローチとして適切さを欠くように感じこそすれ、求める先にあることを見据えた際に負の作用もあろうと感じる。
自らの過去を振り返り、敢えて選び取り直したものであればこそ、それをまたわざわざ宣言して放棄することにいささかの郷愁も無いわけではない。
個人的郷愁にさほどの意味があるかどうかはまったくの個人的問題である。
時に「お前は保守ではないだろう」と言う指摘は頂戴もしてきたが、それは自分が「保守」を自称するそれに対して、それは「保守主義の思想的根源」と相違することを指摘する程度の、「保守」という言葉にどのような側面を見出して指摘するか、という違いであろうし、これもまたどの程度自分にとって意味のある指摘であったかは不明だ。自分の言動が相手に対して、さほど意味がない程度の意味しか持たなかったやもしれないし、そうではなかったかもしれない。

今後、どのように自らを位置付けていくのか、しばらくは模索することになるだろう。
それで良いのだ。
迷い、その先に何を見出すか。
思索を捨てたら前には進まない。
さようなら、「保守」
保守主義足らんためにこそ、その名は捨てるとしよう。
一周したその先に、敢えて再度その名を選び取ることもあろう。
しかし、今はその名を捨てよう。
「普通」を名乗らねば普通ではない、という程度に安っぽいそれではないはずだ。

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移転しました。

皆様、改めまして。
以前「はてなダイアリー」の方で「素人による歴史考」として運営していた私的考察Blogをこちらへ移転することにしました。
その経緯についてはいろいろあるのですが、一言で言えば「はてな」という環境に魅力を感じなくなったから、ということになりましょう。
まぁそんなことはどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、以前同様好き勝手に書き散らしていくことになると思いますので、改めて宜しくお願い致します。
なお、以前上記Blogにて公開していた記事については、加筆・改稿・合一などを行った上で、一部は再公開していく予定です。逆に言えば、現状では公開する必要のないものはそのまま消え去ることになりますし、大幅な改稿により元原稿の形が残らないものは新規掲載という形となります。
リンクやトラックバック、転載等の形で引用等頂いていた皆様には誠に身勝手で申し訳ございませんが、場合によっては元原稿が一切残らない、という形もあり得ることをご了承頂きたく、ご容赦のほど宜しくお願い致します。
カテゴリー区分については従来のものよりは詳細に行っていくつもりではありますので、関連記事の閲覧は容易にはなると思います。
現状では一番充実しているのは「リンク集」ということになります(苦笑)。
一応それなりに網羅的にはリスト化しましたが、随時追加していくつもりではありますので「ここが足りない」と他薦や「自分のところも追加して」といった自薦も受け付けております。
それではゆるゆると再開して参りますので、改めてお付き合いのほど、よろしくお願い致します。

■リンクテスト
下記の書籍は本文とはまったく関係ありませんが、面白い書籍なのでご紹介。
2009年衆院選選挙時の選挙演説から「一体何を意図してそれをその表現で語ったのか」を言語・場所等から読み解いた一冊です。
こちらで使用できるタグ等の関係上、今後はこのようなビジュアルでの記事関連・引用書籍のご紹介になると思いますが、極力補足は加えるつもりでおりますので、ご容赦のほど。