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『月曜日のたわわ』知覚する広告としての問題

 なかなか興味深いコメントがいくつか確認できたので、主に「対象を知覚」するという観点から、広告として問題が無かったのかという点を考えてみたい。

■新海誠『すずめの戸締まり』同じなのか?

 『月曜日のたわわ』広告と『すずめの戸締まり』ビジュアルとの間に「ポージングの同一性」を指摘するコメントを拝見した。確かにポージングとしては同じような構図であると見做すことはできるだろうと思う。そして、別のコメントでは『月曜日のたわわ』と『すずめの戸締まり』の差は「背景の有無」であるという意見が出ていることも確認した。

 前者についてはポージングの問題ではあるが、強いて言えば『月曜日のたわわ』のポージングはハフポストの例の記事に書かれているように、意識的に胸を腕で隠すような描写であり、『すずめの戸締まり』ではそのような描写にはなっていない。差異点としてはこのような点を挙げることができるが、今の段階ではこの点には深入りはしないことにする。一方後者の「背景有無」についてはいささか留意が必要であるはずだ。この点を馬鹿にしている意見もいくつか見ているが、ここには人間が対象を知覚する際の縮減プロセスが大いに関係しているので、実は無視できない点なのである。

 縮減とは人間が対象を視覚的知覚を行う際、フォーカスを当てる行為を指す。これは意識せずとも日常的に行われており、主に映像論の分野では写真映像がいかに衝撃的であったかを語る際に避けて通れない問題である。『月曜日のたわわ』広告は背景が描かれておらず、『すずめの戸締まり』では背景が緻密に描かれている。このことは前者は相対的に写真的に見ることができず、後者は相対的に写真的に見ることができることを意味していると考えることができる。人間は「視たい」ものを視るように縮減を行い続けるため、前者は必然的にタイトル、キャッチコピー、身体イラストのみの中で縮減が行われるのに対して、後者はそれに加えて多くの情報量を有する「背景」も縮減の対象となる。つまり、縮減のプロセスにおいて、「透明感のある世界描写」や身体イラストの背景に描かれる「扉」の意味や、その遠景に描かれている「廃墟のような建物群」といった、フォーカスを散らす要素がいくつもあると言えるだろう。つまりこの2つは本質的に「類例として」扱うべき対象では無いことを意味している。これを比較することはどちらかと言えば「見当違い」なのだ。

■『月曜日のたわわ』は背景を描けば良かったのか?

 さて、例示した2つを比較することが見当違いであるとして、では類例とするために『月曜日のたわわ』広告にも背景を描いていれば、比較可能なのだろうか。おそらく比較自体は可能になるだろう。縮減プロセスだけを考慮した場合、そうできるはずだ。しかしここで一つ作品に内在する問題が浮かび上がる。『月曜日のたわわ』広告が月曜日に広告を出す場合に必要となる背景とは何か?答えは作品を読んだ人はわかる通り、「電車内」の描写である。『すずめの戸締まり』ほど緻密な描写にはならないだろう点を差し引いたとしても、電車内である描写を行えば、いっそう「電車内で視覚される対象としてのアイちゃん」という「構図」は引き立ってしまうことは疑う余地もない。

 この先はさらに作品知識が必要となるのだが、果たしてそのような描写を行った場合、対象となる「アイちゃん」を「視ている」のは誰か?というと、作品上の扱いとしては「お兄さん」であり、「お兄さん」=「読者」である(主に男性読者を想定していることは作者自身が二人称視点の作品であり男性読者にお兄さんを重ねて読むことを示唆するようなコメントを過去にしていることからも否定はできないだろう)。

 ここからはヘテロセクシャルに限定した書き方になるが、「視覚される対象を知覚する」存在が「お兄さん」=「男性読者」である以上、それは「対象を知覚していることを知覚する存在」に他ならない。そして作品中、「お兄さん」は紛れもなくセクシャルな視点と情念を持ちつつ、それを「自制的に一定程度それを抑制している」存在である。これは作品を「読まなければ絶対に分からない」視点である。ではそのような予備知識がない非読者であり且つ「女性」が「知覚される対象を知覚」した場合、どのように知覚され得るのか。おそらくそれは「知覚される対象としての自身の性」となることは、ほぼ疑い得ないように思える。予備知識があったとしても嫌悪を抱く人は少なくない作品だと思われるが、予備知識が無かった場合、この「知覚される対象としての自身の性」を知覚した女性は大いにその存在に嫌悪を示しても、不思議ではない。それは紛れもなくセクシャルな視線を受ける「自身」の投影としての「知覚される対象」に他ならないからだ。

 つまり、今回の広告に関して言うと、背景を仮に物語りに沿って書き込んだとしても、『すずめの戸締まり』とは相当に異なるイメージになることはおそらく間違いないだろうし、場合によっては「より大きな問題」として扱われた可能性もあるだろう。

■津田大介著『はじめて投票するあなたへ、どうしても伝えておきたいことがあります。』との構図問題

 もう一つ、背景の無い類例ポーズの例として津田大介著『はじめて投票するあなたへ、どうしても伝えておきたいことがあります。』の表紙を引き合いに出しているコメントも見ることができた。こちらも腕で胸を隠すかどうかという仕草の違いはあれど、ポージングの基本の型としては確かに同じようなポージングということはできるだろう。しかし、ここで広告の持つ特性を考慮しなければならない。『月曜日のたわわ』はジャンプ率(タイトルや見出しなどの一番大きな文字サイズとボディコピーのサイズ差の比)は避けられない観点である。津田氏の同著ではジャンプ率はほぼ存在しない。署名と著者名のみでもあり、その差もさほど大きなジャンプ率ではない。つまりテキストで知覚する要素はそれほど印象が強くないだろう。一方『月曜日のたわわ』広告では、書名のジャンプ率が極めて大きいことは一目瞭然である。そしてタイトル自体、胸を想起するワーディングであることもまた、自明であろう。作品自体がセクシャルな視点を交差させていく作品である以上、この点は作品を読み込んだとしても印象は変わらないはずである。

 強いて言うのであれば、津田氏の同著こそ「何故敢えて女子校生をアイキャッチに用いたのか」の説明は、「その方が知覚され易いから」としか言い様がなく、『月曜日のたわわ』広告が主人公を持ち出した「だけ」であることと比較すれば遙かに「女子校生を商業主義に巻き込んでいる」と批判することは容易いとは言えるだろう。しかし、そのことは『月曜日のたわわ』広告のジャンプ率とそれが訴求するワーディングの問題とはいささか性質が異なるものでもある。何故ならば、同著のタイトルからセクシャルな要素を喚起することはおよそ考えられず、従って比較する場合タイトルやコピー文のすべてを取り払って比較される必要があるからだ。そこまでの処理をして比較した場合、江口寿史のイラストは同様に/より高く/より低くセクシャルであるのかという問題になるが、これはほぼ主観の問題に帰結してしまうだろう。少なくともどちらのイラストも露骨な性描写が為されているわけではないため、いたって「感性の問題」に行き着かざるを得ないからだ。ただし、この問題はそもそも作者がそういう視点を意識して描いたものなのかどうかという「イラストが描かれた経緯」を考慮した場合、『月曜日のたわわ』広告の方が「よりセクシャルであるはずだ」という「仮定」は可能である。

■それは広告されるべきものではなかったのか?/立論の問題

 上記のような点を考慮した上で、「広告されることがおかしい」ことであるかどうかについては、また別の問題ではあるだろう。法的に問題があるわけでもなく、またガイドライン上規制に該当しない描写でもあるが、「一方でどの観点で見てもセクシャルである」ことは両立するからだ。十代をセクシャルな視線で知覚すること自体が問題だという仮定を置いた場合、例えば『週刊プレイボーイ/週プレ 週刊プレイボーイ16号 (発売日2022年04月04日発売)』という奇しくも同じ日が発売日である同紙の表紙グラビアは十代の女性であり、着衣上の描写の問題としてはこちらの方が露出は高いだろうし、実写とイラストの違いというリアリティの差もあるそれを比較することもできるだろう。

 これこそが、本来社会合意の形成を行っていくべき問題の根本であるはずで、それが為されていないかあるいは一定の結論を得ていない以上、安易な広告自主規制に持ち込むべきではないと考えているが、これは社会合意の問題でもある。「イラストに文句は言っても実在の人間には文句を言わない」というような混ぜっ返しの議論をするのであれば、当然に「イラスト以外にも適用する論理」である必要があるだろうし、それを論理構築する立場はあくまで安易な広告自主規制に反対する立場の人間であるべきだろう(もちろん規制を求める側も立論は可能ではあるだろうが、その労力を費やすとは思えない)。何も問題は無いとして突っぱねることは容易ではあるが、万一このような問題が社会合意の問題として議論されるに至った場合、そのような態度だけでは立論は難しいように思われる。

『月曜日のたわわ』とはどのような作品なのか?

 行き掛かりついでに一応1巻~3巻まで確保してみたので、どのような作品なのかを紐解いてみることにする。なおあくまでコミック版の同巻に限ることとし、アニメ版や同人誌版は考慮しないことを予め述べておく。

 これを進めるにあたって読む前に一番気になっていた点としては右記の点である。「作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのもの」(「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?)。この批評が成立するためには、当然ながら作中において「女子高生への性的な虐待」や「男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのもの」が描かれていなければならない。この点は特に異論は出ないであろうと思う。

■作品のストーリーライン

 本作品のストーリーラインは3巻までを確認した範囲では3つ(+1~2)存在する。一つが作品タイトルにも用いられている月曜日を中心に描かれる「アイちゃん/いいんちょ」と「お兄さん」、もう一つのラインは「後輩ちゃん」と「先輩」、そして残る一つが「前髪ちゃん」と「先生」のラインである。このうち「後輩ちゃん」と「先輩」にまつわるストーリーラインはそもそも社会人であり「女子高生」へのそれを描写するものではないので、ここで除外する(実のところ1巻の11話のうち約半分はこのストーリーラインである)。従って該当するストーリーラインとしては「アイちゃん」と「お兄さん」、「前髪ちゃん」と「先生」の2つのストーリーラインである。2巻及び3巻はそれぞれ約半分は「前髪ちゃん」と「先生」のストーリーラインであり、一見タイトル上主役に見える「アイちゃん」と「お兄さん」を巡るストーリーラインは1巻9話中5話、2巻9話中2話、3巻10話中3話で、3巻28話のうち10話と半分にも満たない。従って、この作品自体は「アイちゃん」「後輩ちゃん」「前髪ちゃん」の3人を巡るオムニバス作品として捉えることが、現時点では妥当であろう。サブラインとしては「アイちゃん」と「バレー部ちゃん」があり、実はセクシャルな描写で絡むことが多いのも「バレー部ちゃん」であり、一番直裁なセクシャル描写が為されるいるのもここであるとも言える。これは「バレー部ちゃん」が「アイちゃん」の同級生且つ同性であることからスキンシップ描写が描き易いという理由はあるだろう(2巻10話、3巻21話、同22話)。

■「性的な虐待」や「男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのもの」は描かれているか

 この点については「何をもってそう規定するか」という問題はあるが、本作に当たっては「男性から女子高生(「アイちゃん」「前髪ちゃん」等)への一方的性的行為・言動が為されているか」という比較的ざっくりした規定で見ていこうと思う。確かに第1話にて「「いけないとは思いつつも 誰もが一度は目を奪われるーー」「たわわに実った二つの膨らみが 少女らしく華奢な体をアンバランスに飾り立てる」「男好きする設定が 制服を着て歩いているような少女」という心中独白が書き込まれている。その第1話は、スラングとしては身体接触という意味では「ラッキースケベ」的展開ではあるものの、その第1話の終盤では既に「アイちゃん」の側から「お兄さん」へコミュニケーションが図られている(逆では無い)。これは「後輩ちゃん」の話を挟んで飛んだ第3話においても継続されている。そして再び「後輩ちゃん」の話を挟んで飛んで第5話の最末部において、「アイちゃん」から「お兄さん」へ向けた台詞として「私だって毎週・・・この時間のこと 楽しみにしてるんですよ・・・?」として語られ、重ねて「楽しみに・・・・・・してるのになぁ」という独白が描かれている。これは「お兄さん」の視線に対して無自覚ゆえに発せられたそれではないことは、第9話の「やだなぁ 先生いい大人が教え子女子高生を そんな目でみるなんてあるわけないじゃないですかぁ~」「・・・・・・お兄さんじゃあるまいし」という「アイちゃん」との台詞が描かれていることからも明らかである(ちなみにこの台詞は「前髪ちゃん」と「先生」を巡るストーリーの伏線にもなっている)。「アイちゃん」「お兄さん」のどちらの側もその関係性にセクシャルな側面がつきまとっていることそれ自体は自覚しているが、それは一方的描かれ方をしてはおらず、一定双方向的それであることが描写されている。「お兄さん」の妄想をしばしば「アイちゃん」がツッコミを入れて否定しする展開は第2巻以降比較的定番の展開ともなっている。
 そのような描写がある一方で、第18話で「アイちゃん」が「もうしばらく 子供でいたいんです」「友達はみんな早く大人になりたいって言うんですけど 私の場合は・・・・・・みんなが私を大人扱いしたがるから・・・・・・その反動かもしれません」とも語っているように、セクシャルな雰囲気をまとう「お兄さん」とのコミュニケーションを楽しみつつ、自身の身体的特徴によって周囲の人間が「大人扱い」することへの戸惑いも描かれている。実のところ、直接的セクハラ的身体接触コミュニケーションの頻度が高く描かれているのは、むしろ「アイちゃん」と「バレー部ちゃん」であることは前述した通りである。もちろんだからといって、女子高生と大人という関係においてセクシャルな雰囲気をまとったコミュニケーションが為されること自体を批判することもできるだろうが、このような関係性は日本のみならず海外映画でも比較的よく用いられる題材でもあり、「お兄さん」は妄想はすれど、行動に移すわけでもなく、どちらかと言えば自制的でもある。その妄想は「アイちゃん」にとってもコミュニケーションのツールとして機能しているが、少なくともその言動は性的にも自立した人間のそれであることは各所にちりばめられている。決して無垢な女子高生を大人が一方的に嬲るような描写は為されていない。

 「女子高生」と「大人」という主題で描かれるもう一つのストーリーラインである「前髪ちゃん」と「先生」ではどうか。こちらの関係に至っては、「前髪ちゃん」が一方的に「先生」にアプローチをかけ続け、ひたすら振り回していく展開が描かれている。高校3年間それを繰り返し、時折「先生」の心情を描く描写が挟まれはするものの、先生と生徒という関係を壊すような行為は「前髪ちゃん」の側からの行動として描かれてはいるものの、先生側からのそれとしてはほぼ描かれていない。第3巻27話で「前髪ちゃん」と「先生」は結ばれることになるのだが、それはあくまで「高校卒業後」の描写であることは留意すべき点であろう。

 全体を通して、例えば15禁や18禁に指定すべきような内容も特に見られず、胸が大きいキャラクターが大半を占め、また胸にフォーカスした描写がそれ故に多いとはいえ、虐待や性暴力にあたる描写は見受けられず、また「アイちゃん」「前髪ちゃん」とも、一定の主体性と人格を備えたキャラクターとして描かれているとは言えるだろう。もちろん全体のトーンとして「セクシャルな要素を多分に含んだコメディタッチの作品」ということはできるだろうから、その点で嫌悪を示す人もいるだろう。しかし、一方で強調しておくべきだろう点は、「この作品を仮に性的虐待や性暴力を描いた作品である」とした場合、おそらくその基準はプラトニックにとどまらない描写を多少でも含む恋愛要素があれば、およそ該当し得るのではないかという広範な規制にならざるを得ないだろうという点である。いささか古い作品を例に挙げてしまうが、ドラマ『高校教師』よりもよほど抑制された描写であるし(女子高生と大人という観点で著名で流行った作品として例に挙げるものであることをご容赦されたい)、これが性加害であれば相当数の作品は実写、漫画を問わず規制の対象になるだろう。なにしろキスシーンの一つもない作品である。心理描写や「そう見える」というだけで規制をかければそうせざるを得ないし、かなり恣意的線引きになるに違いない。本作品の男性はしばしば受動的で受け身な存在として描かれているのだから。「アイちゃん」→「お兄さん」これは手出しNGの大人と子供、「前髪ちゃん」→「先生」こちらも同様。ただし卒業後は別。「後輩ちゃん」→「先輩」こちらは社内の上下関係ゆえにやはり基本的には手出しNGで、おおむね男性側が受け身にならざるを得ない設定が為されており、そのように描写されている(ただし第4巻以降は未確認のため言及を控えたい)。

■「作品が発しているメッセージ」をどう読み取るか

 少なくとも描写を見る限り、またストーリー展開上も、上記のような内容であり、描写の仕方が気に入らない等々はあったとしても、「性的虐待」や「性暴力」を確信犯的にメッセージングしているわけではないと考えるのが妥当ではないだろうか。もちろん「胸が大きい」し「胸が強調されている」という点はあるのだが、その点だけで虐待や暴力と言ってしまうのはかなり問題ではあろう。セクシャルな雰囲気をまとったコミュニケーションが中心である以上、「性」に関する印象や言動というのは不可避ではあるのだが、それがそのまま虐待や暴力につながるわけではないことは、いくつかの恋愛作品やセクシャルな描写のあるコメディを見ればわかるのではないだろうか。この作品においておそらくもっとも無自覚に振る舞っているのは女子高生ではなく社会人である「後輩ちゃん」であるが、その「後輩ちゃん」の振る舞いにしても、作中でそう振る舞うのは「先輩」の前だけであることが言及されており、そこには気を許せる相手としての「先輩」という描写が強調されることで、その無自覚さを際立たせる効果を上げている(全面的に無自覚で主体性の無い存在というわけではない)。

 確かに「アイちゃん」は「見られる」存在として描かれているが、それは何も「お兄さん」からだけではなく、同性同級生の「バレー部ちゃん」からも、身内である「妹」からも「見られる」存在である。そして同時に大人とのセクシャルな要素を含むコミュニケーションを楽しみつつ、時に自身の身体にコンプレックスのようなものを覗かせながらも、その関係は主体性を持って描かれていると言えるだろう。「前髪ちゃん」の「先生」に対する執拗なアプローチも同様である。もちろん「それはファンタジーに過ぎない」と言うことはできるだろうし、そういう批判もあって良いが、決して主体性のない一方的に弄ばれるだけの存在として描かれているわけではないことは重ねて記しておく。

 その上で、この作品から何かメッセージを読み取るとするならば、いくつかを挙げることはできるだろう。一つは確かに各キャラクターの胸が大きく強調もされていることから、「胸が大きい」ことは「視線を集めやすい」ということは挙げることができる。ただしそれはある程度エロ要素を含むコメディとして他作品でも見られる範囲を逸脱しているものではないように思われる。そして「女子高生」という点にフォーカスを当てるのであれば「アイちゃん」も「前髪ちゃん」も決して従順な無垢ではなく、むしろ性に目覚めた/つつある主体的女性として、むしろ大人である「お兄さん」や「先生」を振り回しもする存在として描かれる、自立した存在であり、女子高生であってもそのように自立していて良いのだと解釈する「ことも」できるだろう。たとえそれがメインのテーマではないとはいえ。果たしてこれはステレオタイプなのだろうか。もちろんセクシャルなコメディとしてはこれといって特筆すべき内容ではないようにも感じる。しかしそれは性的虐待や性暴力とは全く別の評価軸である。確かに作品タイトルにあるように、大きい胸を指して「たわわ」と表現するのはどうかといった点はあくまで用語運用上の問題として指摘されても良いだろうし、私としても品もひねりもないタイトルだとは感じる。そのことは否定しない。

■ハフポストは痴漢の問題にも言及しているが・・・・・・

 ハフポストの記事では冒頭のリンク文で引用した箇所を殊更に強調し、その直前のカットをおそらく意図的に拾わないという記事構成になっているのだが、「アイちゃん」に対して「お兄さん」は「痴漢防止のボディーガードをさせていただいている」ことが冒頭に明示されている。これはハフポストで引用されている台詞が絵が描かれるコマのわずか3カット前の、見開き内に収まるコマに書かれている心中台詞である。もちろん「お兄さん」はそれが欺瞞的建前を多分に含むものであることを(これも同じ見開きの中で)吐露してもいるが、少なくとも痴漢や電車内での公衆の、特に男性の好奇の目で見られることそれ自体を「肯定しているわけではない」ことは明示されているのだ(だからこそ「お兄さん」は自身に対して後ろめたさもあり、自身の建前が含む矛盾に自覚的でもある)。明示されていることとは逆のことを、意図的に直前の描写を拾わないことで印象操作的に書き立てて批判するあの記事は、批評としては大いに妥当性を欠いていると判断せざるを得ないだろう。

■最後に

 今回は作品内容を確認しないと記事で言及されている内容が事実かどうか判断しかねたため、3巻までを手に取ることにしたものの、個人的にはあまり手が伸びる類いの作品でもないため、おそらく4巻以降は読まないと思う。ここから先作品がどのように展開していくのか、それを見届けるのはファンの皆様にお任せしたいと思う。

性表現/性視線に対する疑義

というツイートにちょいとばかりちっちゃな反響がありましたので少しばかり。
これ「女性差別」でなく「異性愛者男性」も「同性愛者」もごっちゃにする歴然とした「性差別」ですからね。
このツイートの前にRTしてる某氏のツイートの「女だから」「言えない雰囲気」とかで収斂させちゃいけないんですよ。
(だから繰り返し「女性議員」の抗議という報道にも疑義を呈してきたし、男性議員も反対していたよね、党利党略はそれとして)
「結婚しろ」「結婚してるの?」というそれは、それが経済事由から縁がないからとか主義信条からとかする必然性がないとかそもそも異性愛者でもないとかいろんな理由があり、それは個別個人の自由なんですよ。
で、同時に「子供」の有無は、それとして価値観の問題から病理的理由まで、さらにいろいろあるんですよ。
「だから」女性差別だけにとどまるものではなく「社会全体の問題」ということを繰り返し言ってきたわけです。
同時に「結婚=子供」等の概念も破砕すべき固定概念ではあるし、同時にそう考える人が居ても別にそれは「他者に押し付けない限り」において自由でもあります。この「他者」には配偶者、扶養者だろうがなんだろうが、パートナー全てです。法定婚だろうが事実婚だろうが関係ありません。
そもそも「女性への差別」という命題に収斂することそのものが「異性愛至上主義且つ婚姻=出産至上主義」でしかなく、これは同性愛者や養子縁組者、シングルファザー・マザーへの蔑視も透けて見えるわけです(敢えてファザーを先に書きます)。
そもそも何ら関係のない、もしくは忖度する必要のない私的生活の事情の結果を、公的場に持ちだした挙句にそれそのものが批難に値するかのような言動がクソッタレな代物なのです。
真剣に少子化を懸念するのであれば、同性婚の養子縁組だろうがシングル親だろうが(敢えて性別を指定しませんが)、関係ありません。
今もって「同性愛の親に育てられる子供は不幸に違いない」と決めつけてかかるそれ自体が児童虐待に値するし、同性愛差別にも値するということは、まったくもって理解されておりません。そのあたりは「「同性愛が感染して増える」的言動見てつらつらと思う」にもちらっと触れております。性自認の確立は生まれたその瞬間に意識されるわけではないのですから。
同時に異性愛者の同性愛嫌悪と同様に同性愛者の異性愛嫌悪もまた、このような自認確立前の児童にとっては不幸をもたらすでしょうから、そういった固定概念の偏見化そのものが掣肘されるべき代物であります。

これは同時に、そういった固定概念的それが批判されるに値することであることを示唆するとともに、そういった価値観が表出されるものそれ自体を否定することを意味するわけではありません。
性愛表現の規制を訴える側はしばしば「性表現」そのものを批判の対象に挙げるわけですが、そこで列挙されるものは少なからず批判されるものがあります。
そして同時に、そういった規制の文脈から「外れた」ところに位置する漫画等のそれが幼少期の同性愛者にとっていかに「救い」として作用してきたかは十分に考慮される必要があるでしょう。少女漫画における同性間性愛暗示・明示(それが女性同士であれ男性同士であれ)が、異性愛表現に溢れる社会において、その存在の救いになってきたことを、自主規制を含めて規制すべきとする論者はいかに考慮してきたでしょうか(この一行については空論ではなく、見聞きした実体験を含めて、そう断言しておきます)。
個人的には「まったく考慮されてきたとは思いません」が回答です。
障碍者性教育を「過激」として断罪してしまった事例は記憶に新しいところですが、社会における「多数者の規範」や「多数者の当然のモラール」は、少数者にとっては等価ではありません。
だからこそ、下記のようなことも言うわけです。

当たり前ですが、少数者の権利のために多数者が犠牲を強いられる「べき」ということではありません。
強いて言えば、解放の文学と規制の文学とでも言いましょうか。
性規範というものが極めて「政治的社会的規範」に直結する道徳律そのものであることを認識した上で、「どうしても伝えたいメッセージなのか否か」を「読者」が恣意的に作家を判断し断罪するのは自由ですが、その自由を行使する故に「自主規制」を促すことそのものに、自分は反対します。
「結婚しろ」「子供をつくれ(敢えて産めとは言いません)」の言動がいかに暴力的言動かを考慮すれば、そういった道徳律そのものが「自由社会」と「任意選択」に対して、自明として「空気としての同調圧力を生む」結果になるのは、例を引くまでもないことです。

個々の表現されるそれそのものには当然に批難されるものもあるでしょうし、批難して然るべきものも決して少ないとは言えないでしょう。同時に、その批難が「自分以外の属性を踏みにじっていないか」については寧ろ批難する側そのものが考慮するべきでしょうし、そうであるからこそ「表現規制に反対する」道理も理論だって武装されることもありましょう。
表現規制反対の声が「しずかちゃんの入浴」あるいは「のび太さんのエッチ」にだけ収斂されて、「のび太のブリーフ/ボクサーパンツ」を指摘し得ないのであるとすれば、それこそセクシズムの再生産に過ぎないのであって、所与の前提条件がまったく異なります。

と書いたのはそういった前提があってこそであって、「平等に性表現を規制する」ということを「自主的」であったとしても現状で求めることは、それが「異性愛者以外」に対して社会において存在が「平等に許される」存在であることの認知回路の一つを遮ることにもなります。
規制する側はそもそも「同性愛表現そのものが不道徳」といった理路でそれの制限を「当然に正当化する」ことは、過去の都条例や国会審議を見ても自明すぎるほど自明であって、いかにヘイトスピーチが溢れようが、特定の思想を以て「自明に断罪する」ことに異議を唱える理由でもあります。気分でつけたり外したりするレインボーアイコンに異議を唱えるのと同程度に。いかにそれが現場で連携していようが、です。同性愛者団体の権利運動に同性愛者自身が批判を出すことは、総連や民団の運動に在日半島出身者の系譜が異議申し立てを行うのと同程度に、当事者の間では普遍的に存在するものです(同時にそれらが権利獲得に寄与した役割を否定するわけではありません、とわざわざ注釈を書かないとそういったことすら読めない人が多数存在することそのものが差別なんですよ)。

その上で、敢えて以下のことを述べたいのです。

【ネタ】2012年5月11日に「風の谷のナウシカ」を放送する意味

日本全国の原発が止まって1週間。
このタイミングで日テレが「風の谷のナウシカ」を放送することの意味合いは非常に大きい。
風の谷のナウシカにおける「腐海」のイメージは放射能汚染された森にイメージが重なるし、「腐海の毒」というのも、放射能による人体への影響を示唆するように思える。
ただし、これには大きなトリックが隠されているといわざるを得ない。
まず「風の谷」自身が腐海のほとりに生きることを選択する、という原発からの避難をする必要がないかのような表現であり、その象徴たるナウシカは、それをあたかも正義のように振りかざす。
また、「腐海の毒」の影響が出ているのは総じて老人であり、これは「ただちに人体に影響はない」という枝野の嘘を、あたかも嘘ではないかのようにイメージさせるものでもある。
森を焼き払うイメージは除染を想起させるが、それも巨神兵のような、徹底したものではなく、あくまでホットスポット的に汚染が目立つ一部を取り除けば良い、という風の谷の最初の行動は、現在のホットスポットだけに対応して糊塗すればよい、という政策にも重なる。
そして、最終的に手遅れとなって森を焼いた後も、再びそこに森を再生しようとし、そこに住み続けようとさえする。これもまた「避難する必要がない」という欺瞞を後押しするものである。
「腐海に飲み込まれた村」という存在が示唆されながらそれでもそこに住むことを選ぶ、ということそれ自体が「原発なくして生きられない。事故があったら諦めろ」という示唆に他ならない。

そもそも、日本では漫画・アニメというのは国策に利用され、国民を欺くために利用されてきた。
戦前はのらくろが戦争賛美に使われ、戦後は鉄腕アトムが原子力賛美に用いられ、ドラえもんは科学技術賛美の刷り込みを担ってきた。
ガンダムも核動力の全面利用を当然のように描いてきたし、SEEDのニュートロンジャマーキャンセラーに至っては核動力の活用こそ勝利の鍵であるかのようにも描いている。日本の右傾化に伴って00のように「正義のためなら武力介入を積極的に行う」というのも、9条改憲派の陰謀と言わざるを得ない。
漫画やアニメはそうやって常に報道されない特権階級と政治家の欲望を表現してきたのだ。
もちろんマスコミがそれらの欲望に沿うように動き、核の欲望を利用してきたのは、そこに膨大なマネーが存在するからだ。だから止めるわけにはいかないのだ。
だいたいナウシカを放送しているのは日テレである。
日テレと言えば当然読売なのであり、読売といえば当たり前に正力松太郎なのだ。
正力と原発の関係は言い尽くされていることであり、その読売がこのタイミングでナウシカを放送するのは自明であるとさえ言える。
彼等は原発マネーに群がり国民を搾取する特権・利権の権化であり、原子力ムラの象徴でもある読売が、原発停止に焦っていることは明らかだ。
だからこそ、全原発停止というこのタイミングでナウシカを放送するのだ。
原発と共に生きていける。むしろ生きていかなければならない。放射能は人体にただちに影響がない(ナウシカだってちょっと肺に入ったけど、ちょっとだけなら平気だったわけで)というメッセージで、それを正力=原発推進の読売=日テレが放送するのだから、これを疑わない方がおかしい。
騙されてはいけない。
ただ漫然と「いいアニメだ」とか「さすが宮崎駿」とか、そのように見ていてはいけない。
常にそれらは政府や特権・利権の都合の良いように使われているのである。

本稿は以下のツイートを元に書いた、全編ネタ記事です。
作品の解釈、製作年代、各種の関連性や企業方針等、一切事実かどうかは関係なく、また曲解とあからさまな誤認、そして論旨に都合の悪い部分の一切の無視を行ったうえで、ネタとして書いております。ご了承ください。