なかなか興味深いコメントがいくつか確認できたので、主に「対象を知覚」するという観点から、広告として問題が無かったのかという点を考えてみたい。
■新海誠『すずめの戸締まり』同じなのか?
『月曜日のたわわ』広告と『すずめの戸締まり』ビジュアルとの間に「ポージングの同一性」を指摘するコメントを拝見した。確かにポージングとしては同じような構図であると見做すことはできるだろうと思う。そして、別のコメントでは『月曜日のたわわ』と『すずめの戸締まり』の差は「背景の有無」であるという意見が出ていることも確認した。
前者についてはポージングの問題ではあるが、強いて言えば『月曜日のたわわ』のポージングはハフポストの例の記事に書かれているように、意識的に胸を腕で隠すような描写であり、『すずめの戸締まり』ではそのような描写にはなっていない。差異点としてはこのような点を挙げることができるが、今の段階ではこの点には深入りはしないことにする。一方後者の「背景有無」についてはいささか留意が必要であるはずだ。この点を馬鹿にしている意見もいくつか見ているが、ここには人間が対象を知覚する際の縮減プロセスが大いに関係しているので、実は無視できない点なのである。
縮減とは人間が対象を視覚的知覚を行う際、フォーカスを当てる行為を指す。これは意識せずとも日常的に行われており、主に映像論の分野では写真映像がいかに衝撃的であったかを語る際に避けて通れない問題である。『月曜日のたわわ』広告は背景が描かれておらず、『すずめの戸締まり』では背景が緻密に描かれている。このことは前者は相対的に写真的に見ることができず、後者は相対的に写真的に見ることができることを意味していると考えることができる。人間は「視たい」ものを視るように縮減を行い続けるため、前者は必然的にタイトル、キャッチコピー、身体イラストのみの中で縮減が行われるのに対して、後者はそれに加えて多くの情報量を有する「背景」も縮減の対象となる。つまり、縮減のプロセスにおいて、「透明感のある世界描写」や身体イラストの背景に描かれる「扉」の意味や、その遠景に描かれている「廃墟のような建物群」といった、フォーカスを散らす要素がいくつもあると言えるだろう。つまりこの2つは本質的に「類例として」扱うべき対象では無いことを意味している。これを比較することはどちらかと言えば「見当違い」なのだ。
■『月曜日のたわわ』は背景を描けば良かったのか?
さて、例示した2つを比較することが見当違いであるとして、では類例とするために『月曜日のたわわ』広告にも背景を描いていれば、比較可能なのだろうか。おそらく比較自体は可能になるだろう。縮減プロセスだけを考慮した場合、そうできるはずだ。しかしここで一つ作品に内在する問題が浮かび上がる。『月曜日のたわわ』広告が月曜日に広告を出す場合に必要となる背景とは何か?答えは作品を読んだ人はわかる通り、「電車内」の描写である。『すずめの戸締まり』ほど緻密な描写にはならないだろう点を差し引いたとしても、電車内である描写を行えば、いっそう「電車内で視覚される対象としてのアイちゃん」という「構図」は引き立ってしまうことは疑う余地もない。
この先はさらに作品知識が必要となるのだが、果たしてそのような描写を行った場合、対象となる「アイちゃん」を「視ている」のは誰か?というと、作品上の扱いとしては「お兄さん」であり、「お兄さん」=「読者」である(主に男性読者を想定していることは作者自身が二人称視点の作品であり男性読者にお兄さんを重ねて読むことを示唆するようなコメントを過去にしていることからも否定はできないだろう)。
ここからはヘテロセクシャルに限定した書き方になるが、「視覚される対象を知覚する」存在が「お兄さん」=「男性読者」である以上、それは「対象を知覚していることを知覚する存在」に他ならない。そして作品中、「お兄さん」は紛れもなくセクシャルな視点と情念を持ちつつ、それを「自制的に一定程度それを抑制している」存在である。これは作品を「読まなければ絶対に分からない」視点である。ではそのような予備知識がない非読者であり且つ「女性」が「知覚される対象を知覚」した場合、どのように知覚され得るのか。おそらくそれは「知覚される対象としての自身の性」となることは、ほぼ疑い得ないように思える。予備知識があったとしても嫌悪を抱く人は少なくない作品だと思われるが、予備知識が無かった場合、この「知覚される対象としての自身の性」を知覚した女性は大いにその存在に嫌悪を示しても、不思議ではない。それは紛れもなくセクシャルな視線を受ける「自身」の投影としての「知覚される対象」に他ならないからだ。
つまり、今回の広告に関して言うと、背景を仮に物語りに沿って書き込んだとしても、『すずめの戸締まり』とは相当に異なるイメージになることはおそらく間違いないだろうし、場合によっては「より大きな問題」として扱われた可能性もあるだろう。
■津田大介著『はじめて投票するあなたへ、どうしても伝えておきたいことがあります。』との構図問題
もう一つ、背景の無い類例ポーズの例として津田大介著『はじめて投票するあなたへ、どうしても伝えておきたいことがあります。』の表紙を引き合いに出しているコメントも見ることができた。こちらも腕で胸を隠すかどうかという仕草の違いはあれど、ポージングの基本の型としては確かに同じようなポージングということはできるだろう。しかし、ここで広告の持つ特性を考慮しなければならない。『月曜日のたわわ』はジャンプ率(タイトルや見出しなどの一番大きな文字サイズとボディコピーのサイズ差の比)は避けられない観点である。津田氏の同著ではジャンプ率はほぼ存在しない。署名と著者名のみでもあり、その差もさほど大きなジャンプ率ではない。つまりテキストで知覚する要素はそれほど印象が強くないだろう。一方『月曜日のたわわ』広告では、書名のジャンプ率が極めて大きいことは一目瞭然である。そしてタイトル自体、胸を想起するワーディングであることもまた、自明であろう。作品自体がセクシャルな視点を交差させていく作品である以上、この点は作品を読み込んだとしても印象は変わらないはずである。
強いて言うのであれば、津田氏の同著こそ「何故敢えて女子校生をアイキャッチに用いたのか」の説明は、「その方が知覚され易いから」としか言い様がなく、『月曜日のたわわ』広告が主人公を持ち出した「だけ」であることと比較すれば遙かに「女子校生を商業主義に巻き込んでいる」と批判することは容易いとは言えるだろう。しかし、そのことは『月曜日のたわわ』広告のジャンプ率とそれが訴求するワーディングの問題とはいささか性質が異なるものでもある。何故ならば、同著のタイトルからセクシャルな要素を喚起することはおよそ考えられず、従って比較する場合タイトルやコピー文のすべてを取り払って比較される必要があるからだ。そこまでの処理をして比較した場合、江口寿史のイラストは同様に/より高く/より低くセクシャルであるのかという問題になるが、これはほぼ主観の問題に帰結してしまうだろう。少なくともどちらのイラストも露骨な性描写が為されているわけではないため、いたって「感性の問題」に行き着かざるを得ないからだ。ただし、この問題はそもそも作者がそういう視点を意識して描いたものなのかどうかという「イラストが描かれた経緯」を考慮した場合、『月曜日のたわわ』広告の方が「よりセクシャルであるはずだ」という「仮定」は可能である。
■それは広告されるべきものではなかったのか?/立論の問題
上記のような点を考慮した上で、「広告されることがおかしい」ことであるかどうかについては、また別の問題ではあるだろう。法的に問題があるわけでもなく、またガイドライン上規制に該当しない描写でもあるが、「一方でどの観点で見てもセクシャルである」ことは両立するからだ。十代をセクシャルな視線で知覚すること自体が問題だという仮定を置いた場合、例えば『週刊プレイボーイ/週プレ 週刊プレイボーイ16号 (発売日2022年04月04日発売)』という奇しくも同じ日が発売日である同紙の表紙グラビアは十代の女性であり、着衣上の描写の問題としてはこちらの方が露出は高いだろうし、実写とイラストの違いというリアリティの差もあるそれを比較することもできるだろう。
これこそが、本来社会合意の形成を行っていくべき問題の根本であるはずで、それが為されていないかあるいは一定の結論を得ていない以上、安易な広告自主規制に持ち込むべきではないと考えているが、これは社会合意の問題でもある。「イラストに文句は言っても実在の人間には文句を言わない」というような混ぜっ返しの議論をするのであれば、当然に「イラスト以外にも適用する論理」である必要があるだろうし、それを論理構築する立場はあくまで安易な広告自主規制に反対する立場の人間であるべきだろう(もちろん規制を求める側も立論は可能ではあるだろうが、その労力を費やすとは思えない)。何も問題は無いとして突っぱねることは容易ではあるが、万一このような問題が社会合意の問題として議論されるに至った場合、そのような態度だけでは立論は難しいように思われる。