さて、記事化して欲しい、との要望も頂いたため、以下にまとめ直すとする。
まず基本的前提与件として、対象としたものは大きく分けて二つある。「思想・良心の自由」と「集会・結社・出版の自由」という二つの自由権である。前者と後者は、基本的には不可分であるが、日本国憲法においてはいくつかの条項に個別に記述されている。もっと手前のところに「生存権」といったものが存在するが、いわゆる市民的権利=Civil Rightsと普遍的権利=Human Rightsの間の行き来をした議論になることはある。しかしここでその定義付けの線引きはしない。そういう概念がある、ということだけ念頭に置いておいて貰えれば良い。
プログラム説とプロセス説の違いも無いわけではない。イギリスのいわゆる「権利の章典」では「合法的に,余すところなく,自由な仕方でこの王国の人民のすべての身分を代表する,ウエストミンスターに集まりたる聖俗貴顕ならびに庶民は」との書き出しで始まるように、そこに「身分」が存在することを前提とし、また貴族・王族や聖職者・庶民といった様々な諸集合に対して「聖俗貴顕ならびに庶民はそれぞれの選挙の書状に従い,今余すところなく自由にこの国民を代表するものとして集い,先に述べられた目的を達成するための最善の手段をこの上なく真剣に考慮し,まず(その父祖たちが同様な場合に通例なしたように)古来からの権利と自由を擁護し,主張するために宣言する」とあるように、全ての身分乃至代表が結果として権利と自由を享受することが「それぞれが自由であることで同時に全体の自由である」へと繋げられる。それに対してフランス革命にあるそれは、所謂「天賦人権論」とされるそれで、1791年憲法の前文に「国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすことのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示することを決意した。この宣言が、社会全体のすべての構成員に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるように。」と書かれているように、イギリスの実定法的諸身分のそれぞれの権利と自由ではなく、市民として、或は人としてそれだけで所与にある自然権として、人の権利が規定された。アメリカでは元々がイギリス的法が運用されていたところに独立戦争を展開した経緯もあり、実定法的性格が強いものであるが、同時にフランス的所与の自然権的意味合いも無いわけではない。どちらかといえば実定法的自由権を自然権として規定し直した、と言うべきかもしれない。
しばしば本邦では自由に「権利」ばかりを主張するので社会が乱れる、自由は公の為に制限される「必要」がある、という主張が為されることがある。しかし、日本国憲法に照らせば、そのような議論は現在の憲法の規定とは大きく異なる議論であるように思える。そもそも、憲法十九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という短い表現の中には様々なものが問われるものの、一般には「内心の自由」と呼ばれるものである。どのような思想・良心を抱こうが、それを裁くことはできず、これは絶対的に国家の介入を許さない条項として捉えるべきである。そして、それは特定の思想・良心を「強制されない」自由であると同時に、「表明する」自由が要請される。前者は十九条に規定の通りであるが、後者は別にいくつかの条項に分解されている。二十一条一項の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」及び二項の「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」或は二十三条の「学問の自由は、これを保障する。」等である。
実際、法運用上もこの基本原則は平等に保障されていることを前提として、この憲法条項の抽象概念を民法や条例運用に適用させてきている。例えば、集会等の届出制度を見てみよう。東京都の「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」では、第三条に「公安委員会は、前条の規定による申請があつたときは、集会、集団行進又は集団示威運動の実施が公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合の外は、これを許可しなければならない。」と記載されている通り、直接且つ喫緊の危害が予測されない明白にそれと認められない限り、基本的に「許可しなければならない」のであって、それに対して制約を課す場合も、同条の一~六の規定の通り、最大限に必要条件を付す場合でも「場所又は日時」の変更を24時間前までに通告する必要があり、その場合でもその「主張」や「思想」ではなく、あくまで「暴動リスク」や、或は集会所となる場所の「職員の安全への懸念」等が理由とされる。主張・思想ではなく「行為結果が明白に直接危険を及ぼす」と予見される場合のみ、である。もちろんこれは基本原則であって、時にグレーなものが存在することはあるが、あくまでその対象は「直接的喫緊の危害」であり、その状態は明らかに現行法に抵触することをも意味する。そもそもこの集会届自体が問題視されることはあり、憲法訴訟対象にもなったことはあるが、基本的に届出に不備がない限り、そのような具体的喫緊の事態が明瞭にそれとして把握された場合、に限りそれへの制限が認められているものであり、間違っても「思想」そのものではない。都の条例でわざわざ「この条例の各規定は、第一条に定める集会、集団行進又は集団示威運動以外に集会を行う権利を禁止し、若しくは制限し、又は集会、政治運動を監督し若しくはプラカード、出版物その他の文書図画を検閲する権限を公安委員会、警察職員又はその他の都吏員、区、市、町、村の吏員若しくは職員に与えるものと解釈してはならない。」とまで記載されているのは、当該条例が個別の思想等を理由として憲法の保障する十九条や二十一条の原則に抵触しないためである。予め「差別言動が繰り返すことが解っているのだからデモを禁止しろ」というのは、都条例のこの六条の原則を大きく逸脱するものである。
ここで問題になるのは他者の自由権を侵害する自由権は存在し得るのか、という点であるが、この点で唯一の憲法制約は基本的に「公共の福祉」であり、これが意味するところは個別事案の私人間の権利の衝突である。自由権は所与であり内在している、という立場である限りにおいて、そのように解されるべきである。自民党憲法草案なるものが大きな批難を浴びたのは、この権利に「公益や公の秩序」という名目で「制限し得る」という、内在的自由権を外在的自由権へ転換しようとした点であり、大日本帝国憲法の自由権が原則として外在的自由権(国家が承認し得る範囲内においてのみ自由である)であったことを念頭におけば、自明の反発でもあろう。というか、そもそもそれに反発するからこそ、自由権は常にその「線引き」と「衡量」の問題であり続ける。
アメリカ大使館が合衆国憲法の規定する自由権について、いくつかの重要な指摘を掲載している(これを和文で載せているあたり、いかにもアメリカらしい自由の輸出ではある)。権利章典第三章の解説からいくつか引用しよう。「民主主義社会で、何よりも重んじられる権利がひとつあるとすれば、それは言論の自由である。国家から咎められることを恐れることなく、自分の意見を表明し、時の政治的な権威に異議を唱え、政府の政策を批判できることは、自由な国と独裁国家の生活の違いを示す根本的な要素である。」の書き出しで始まり、「「明白かつ現在の危険」を判断基準にしたことは、非常に道理が通っているように見える。確かに言論は自由であるべきだが、それは絶対的な自由ではない。(混雑した劇場で「火事だ!」と叫ぶ人を罰することは当然だという)良識や、戦争という切迫した状況に照らして、言論を制約することが必要になる。この「明白かつ現在の危険」という判断基準は、それから50年近くにわたり、裁判所によって何らかの形で適用されることになる。これは言論の自由の限界を超えたかどうかを判断する上で、便利でわかりやすい基準だったようだ。しかしこの基準をめぐっては、当初から疑問の声があった。米国では言論の自由の伝統は非常に強かったため、政府が反戦派たちを規制しようとしたり、裁判所がそのような措置を容認しようとしたりすることに対して、直ちに批判が噴出した。」と続き「言論の自由の歴史上、偉大な代弁者の1人が、温厚なハーバード大学法学教授ゼカリア・チェイフィー・ジュニアである。裕福で社会的に著名な一門の出である教授は、すべての国民が政府の報復を恐れることなく自分の考えを発言する権利を守るために生涯を捧げた。チェイフィー教授は、たとえ戦時体制下で国民感情が高揚しているときでも、自由な言論は守られるべきだという、多くの人々にとって当時も今も急進的と捉えられる考えを述べた。なぜなら、そういうときにこそ国民は、単に政府が国民に言いたいことだけではなく、賛否両論を聞く必要があるからである。」とされ、「ホームズ判事も、ほかの誰も、言論の自由には制限がないとは言わなかった。むしろ、この後すぐに取り上げるが、過去数十年に行われた論争のほとんどが、守られるべき言論と、守られない言論の間の、どこに一線を引くのかという問題に関するものだった。論争の核心には、「この種の言論に、なぜ憲法の保障の傘を差しのべなければならないのか」という疑問があった。意見の一致がほぼ得られている唯一の領域は、合衆国憲法修正第1条の言論の自由条項が、ほかに何を保障するにせよ、少なくとも政治的な発言を保障しているという点である。」と展開し、「憲法の起草者たちが合衆国憲法修正第1条を草案したのは、まさに多数派が、反対派を沈黙させようとするのを防ぐためだった。自由な思想の原則は、ホームズ判事が書いた有名な言葉にもあるように、「われわれに同意する人々のためではなく、われわれが嫌悪するような考え方のための自由な思想」なのである。」とされ、「悪しき言論に対抗するには、いっそう活発な言論が必要で、言論によって人々が学び、討論し、選択できる機会が与えられるのだ。この70年以上も前にブランダイス判事が残した教訓が、ここで実を結んだのである」となり、「そして国民は、ホームズ判事の考え方を常に快く感じているわけではないが、合衆国憲法修正第1条は、われわれが同意する言論ではなく、われわれが憎悪する言論を守るために存在する、という同判事の言葉には真実があることを認めている。」として結ばれる。
果たしてアメリカがこれを実践し得ているかどうかについては、特に9.11以降揺らぎが現れてはいるものの、中途「あるいはある種の言論表現は、言論条項の保護の傘から外れるのだろうか。作家や、芸術家やビジネスマン、偏屈な人やデモ参加者、インターネットの発信者たちは、憲法上の保護を主張して、どんなに攻撃的で人々を動揺させることでも、好きなように発言していいのだろうか。これらの質問に対する簡単な回答はない。国民の合意もなければ、すべての分野の言論における連邦最高裁判所の絶対的な判断もない。国民の感情が変わるにつれて、米国がより多様化し開かれた社会になるにつれて、そしてまた新しい電子技術が米国の生活のすみずみまで行き渡るにつれて、合衆国憲法修正第1条の意味合いも、これまでもしばしばそうであったように、とりわけ政治以外の分野の言論表現をめぐり、再び流動的になっているように思われる。」と書かれているように、原則として、「どの種の表現が自由権から外れるのか」について、簡単な回答はなく、多様化し開かれた社会になる「ほど」にその線引きが問われ、より一進一退はあるにしても、相対的にはより「自由」を大きくする方向で結実してきたことは、概ね事実である。わいせつや性の問題、あるいは反戦・反政府運動に対して、あるいは公民権運動がそうであったように、ホームズ判事の示した引用先にある「民主主義は思想の自由市場で支えられているという考えが提示されたのである。思想によっては、不人気なものも、秩序を揺るがすものも、間違ったものもあるかもしれない。しかし民主主義の下では、これらすべての思想に平等な発言の機会を与えるべきである。間違ったもの、恥ずべきもの、役立たずのものは、民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐されると信じるからである。」という概念は、基本的原則であるべきだと考える。
根本にまずもって「自由に表明される」ことがあり、その上で線引きの揺らぎがあるべきであり、 「自明に制限されて然るべき思想がある」として制限有りきで考慮することは、原則論として危険である。ベトナム戦争時の元米兵捕虜ジェームズ・H・ウォーナーの件にある「星条旗を焼く人を処罰するために、憲法を修正する必要はない。彼らが旗を焼くのは、米国を憎んでいるから、自由を恐れているからである。自由という破壊的な思想以上に、彼らを苦しめる効果的な方法はあるだろうか。自由を広めよ。・・・自由を恐れるな。それこそ、われわれが持てる最も有効な武器なのである」という言葉は、その象徴的ものと云える。昨今のヘイトスピーチ、ヘイトクライムに対してこそ、この言葉を適用すべきではないだろうか。
既に周知の通り、所謂「行動する保守」と称するそれらは、主として在日韓国・朝鮮人をその対象にして展開されているが、同時に日系ブラジル人やフィリピン人にも敵意を向け、部落差別を煽り、左翼思想を嫌悪している。その行動は常に「それらの自由は制限されるべきである」であり「社会の害悪に自由など不要」である。勿論これは彼等の理路であり、同意するわけでは、決してない。そして同時にそれらが指し示す先にあるものは、そういった被差別対象者の「自由」である。前述のジェームズ元兵士が語った言葉を適用するならば、彼らが時に太極旗に嫌悪を示し、チョゴリや或はキムチを嫌悪し、侮蔑的表現を展開する際、彼らが怖れるのは何よりもそれらが「自由」であることにある。韓国政府の、いわゆる「反日政策」といった形容をされるそれでさえ、それが「自由」に展開されるからこそ嫌悪するのである。
長らく、そういった差別は、或は部落やアイヌ、時に在日諸民族、時には性別や共産思想(いわゆるアカ)への攻撃として現れてもきた。現在進行形で推移するそれは、それらが「自由になることを怖れた」が故であって、「平等になることを怖れた」からでもある。だからこそ、「もっと自由を」と希求し、「もっと平等を」と請願することが推進されるべきである。自由の名の下に展開されるそれをさらなる自由で包囲するために。それこそが民主主義の進展であり自由の拡大である。その点において「「ヘイトスピーチの再発防止につながれば」李信恵さん、在特会・保守速報を提訴で会見【全文】」という自由に対する自由を以てする請願は支持するし、同時に「Newsweek批判への紫音さんの反論」のように、排除を以てする自由を、本来的に支持はしない。
「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」が憲法二十一条の結社の自由に抵触するのではないか、との違憲訴訟を起こした例もある。この際に同法が一応の合理性があるとされたのは「直接には指定暴力団の構成員の具体的な暴力的要求行為が規制されることになって」いるからでもあり、指定暴力団の規定を「暴力団のうち、暴力団員が生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得るために暴力団の威力を利用することを容認することを実質上の目的とする団体」と相当に具体的且つ実態的制約を課したこともある。デモやヘイトスピーチ或はその種の集会での突発的トラブルではなく、直接にそれを目的とし、それによって生計を立てている団体の個別具体的それを、最低限指定したものである。この問題はさらに暴力団排除条例と称されるそれに至るにあたって、「さらに、「防止」を理由として、未だ罪を犯していない者の行動を重罰をもって規制し、人権の制限や事実上の団体規制が拡大され、憲法が保障する基本的人権と民主主義の原則を損ないかねないとの懸念も表明されている。」との指摘は参議院において社民党又市氏によって為された提起である。暴力団は一般に「反社会団体」として広く認識が共有されているが、それに対してさえも過剰に抑止されることに対してこのように提起されることそのものは、認められるべきであり、また為されるべきでもあろう。
確かに国連からも種々の指摘は入ってもいる。しかし、それは今に始まったことではない。国連人権理事会の普遍的定期報告(UPR)の第一回UPR結果(日本政府に対するもののみ)にもあるように、それらの指摘は様々な国が様々な物事を指摘しているのであり、それは人種差別は勿論のこと、人身売買や児童虐待、性差別から死刑制度、代用監獄、アイヌ問題まで幅広い。それに対する日本政府の回答が十全とは言い難いのは事実であるし、指摘される点も指摘の通りと言えるものは多いが、個別の問題はそれとして、同報告では「複数の代表団から、ハンセン病患者の人権を促進する日本のイニシアチブを評価し、支持した。また、多数の代表団が公務員の人権教育を推進する日本のイニシアチブを歓迎した。多くの代表団が、社会経済分野を含む様々な分野での日本の国際協力を強調した。」とも記載されるように、一様に押しなべて差別国家だと言及するような内容では無い。これは差別が無いと言っているのでもなく、問題が無いと言っているのでもない。同時に、そこで評価側になっている各国にしても、それぞれにそれぞれの問題を抱えてもいる。
確かに人権救済機関の必要性等は十分に議論されるべきだし、憲法上の抽象規定が実態上民法・刑法其の他によって「侵害時」に十分な救済措置を規定していない部分はある。「思想の自由市場」とされるそれに対して、「その思想はその市場に陳列されるべきではない」とする意見はしばしば述べられるが、それに対して「市場に陳列されるべきかどうかは市場に委ねられるべきである」という「間違ったもの、恥ずべきもの、役立たずのものは、民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐されると信じるからである。」という信念を、些かも揺るがせるべきではないだろう。それが「道徳的悪」であるならば、思想の自由市場がそれを必ず民主的な形で進歩を促す正しい思想によって駆逐するという信念は、何より日本国憲法前文において政治的自由権を「人類普遍の原理」としてフランス的自然権に近しい形で規定し、最大に配慮すべきものとし、国民がそれを自国のことのみに専念せずに普遍的原理として実践することを要請している。
日本国憲法の擁護する政治的見解の自由表明の権利(言論・出版・集会・結社・思想・良心の自由)は、日本国憲法の各条項を否定する言動をも許容するものであるべきである。天皇制を廃止して共和制に移行することだって大いに議論すればよいし、或は共産党一党独裁の実践でさえ、大いに議論されれば良い。それらをも「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」という規定に含めるべきであろう。確かに人種差別を禁止する法律は無い。憲法上はそれを抽象的否定に留めている。それは事実である。しかし、反政府言動そのものを違法としたり、或は反戦運動をただその思想のみを以て違法としたり、する国よりはよほど自由である。同時にそれはあくまで「思想の自由市場」に於いてであり、それに私刑を加えたり議場を封鎖することではないはずだ。国会の審議時間や答弁時間でさえ、制限せずに、討議の限りを本来は尽くすべきであり、牛歩戦術などが一寸流行ったが、寧ろカストロが国内で10時間に及び、或は国連の議場で4時間以上に及ぶ演説をやったように、主張の限りを尽くし、議論すべきである。それは所与に自然権として有する「思想・良心の自由」「言論・出版・集会・結社の自由」に於いて為すべきであり、それこそが民主主義と自由権の、本来求められるべき有り様である。現政権が自由を怖れるのであれば、一層自由であらねばならないだろう。禁止法が無いとの指摘に対して、そのような法が無くとも自由はそれを駆逐できるのだ、と言い返すべきであろう。「われわれが同意する言論ではなく、われわれが憎悪する言論を守るために」、その自由は存在し、そのような自由であるからこそ、憎悪する言論は自由に包囲されるのである。日本国憲法十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」の規定が、当初その公共の福祉を人権の上位にある社会全体の利益と解釈する外在制約として解釈されたものが、それではあらゆる人権が社会全体の利益のために制限され得るので相互調整のための衡量原理として内在制約として解釈され直し、再びそれではあまりに調整余地が狭すぎるのではないか、と社会利益や国家利益を含める方向の解釈へと、その揺らぎを見せているが、まずもって優先すべきは自由権を不断の努力によって保持し続けることであり、濫用してはならないのであって、同時に何を濫用とするかをも含めて討議されるべきである。そのためには、己の敵と規定したものの言動そのものをも、いったんは市場に陳列した上で、その市場で淘汰されるべきであり、それは究極的には市民(敢えて国民とは言わない)が、歴史的タイムスパンで見た際、バックラッシュを挟んだとしても、長期的にはより民主的でより自由であることを形成するだろう、という民主主義の本質的根源に依拠するものであり、その市場を制限しろという要請は自由に為されるべきだが、その要請そのものは自由の濫用にも成り得る。況して討議を最初から放棄していれば猶更である。確かに愚劣で聞くに堪えない言動はあるだろう。そういったものをも包含してこそ、自由が所与に自然権として存在するそれであり、特定の何者かから自然権を剥奪することではないはずだ。そうであるからこそ、自由は自由であるが故に自由の監獄に囚われているのであり、その監獄は常に自由であることを要請し続ける。許せないそれを制限することではなく、許せないそれを自由であらしむるためにこそ、思想の自由市場が存在するのであって、統制が進んでいる、自由が失われていると感じるならば、猶更に、徹底して、抵抗的に自由を求め、自由であるべきである。そして自由は常に緊張を生み、個としての市民に負荷を掛け続ける。その負荷に堪えかねて「規制を」と叫ぶとき、それは自由が所与であることを捨てる瞬間である。
■関連まとめ
【呪詛】自由権と基本的人権とグランデの一件と其の他諸々
果たして危機にあるのは民主主義の「何」なのか
【備忘録】平等と信仰と民主主義的何か
注)記事化要望を頂いたのは上記まとめの一番上のものである。十分にお応えできたかは定かではない。